平安時代を美術史的に分けますと、3つになります。
前期ー貞観美術(平安遷都〜遣唐使廃止 794〜894)
中期ー藤原美術(〜白河院による院政開始 〜1086)
後期ー院政美術(〜源頼朝が征夷大将軍に任じられる 〜1192)
この三つの時代区分のなかで、魅力的な仏像が多いのが貞観時代です。
800年初頭、空海と最澄が唐から持ち帰った密教により、仏教の奥儀が日本にも入ってきました。
それまでの仏教の世界は、海の上に蓮華があり、その四方に東西南北が島の形で存在し、(人は南の島に住んでいる)蓮華の中央から空高く須弥山が広がり、一番高いところに仏陀が鎮座しているという、縦に延びた世界でした。(蓮華蔵世界観)
ところが密教の世界は球体で、東西南北と天地にそれぞれ仏が位置し、球体の中にいるわれわれを見守り、仏さまそれぞれの法力を発揮しながら功徳を施してくださるのです。
(超簡単すぎる説明ですみません)
その球体の世界を、二次元で表現したのが「両界曼荼羅図」です。これですと、仏の世界が系統的に表現されていて、誰がみても一目瞭然で分かりやすいです。しかも仏像と違って、持ち運びにも便利ですよね。人々は、この図を見て、如来とか、四天王とか、菩薩とかの意味や、姿などを改めて認識できたのです。それまでは、日本人は仏の姿かたちの示す意味が分からなかったのですから。
'''両界曼荼羅(manda=本質、円輪をla=得る)図'''
'''胎像界と金剛界'''前者は、物質的な生成の原理を説く感性的、女性的な理の表現で、後者は、精神的な存在の理法を説く理性的、男性的な智の表現です。
しかし、密教の発祥地であるインドでは、修行が終わると曼荼羅図を焼却したために残っていません。インドから密教が伝わった中国では、唐武帝の仏教弾圧により衰退し、結局最後に伝わった日本で栄えることになりました。
さて、貞観時代の仏像は、天平時代までとどのように変わったでしょうか。
代表的な仏像「薬師如来立像}神護寺(京都)
広い胸幅、堂々たる量感、大きな丸顔の見張った眼が印象的です。動きを孕んだ力強い衣文の刻み、仏像全体から発する呪術めいた気分、やはりこの仏像にも秘められた言い伝えがあるのです。聖武天皇の娘である称徳天皇の寵愛を受けた道鏡の野望を阻止しようとする和気清麻呂の思いが、この仏像に込められているのです。女帝の死により、失脚した道鏡を永遠に埋没せしめたのは、ほかならぬこの仏像の力なのです。
貞観仏の特徴は、「木彫り」です。天平時代までの造形を踏襲しながらも、乾漆像や塑像に変わり、木造物が増えました。それも素木(しらき)のままの美しさを生かす無彩色像です。
何故、木が流行したのでしょうか。その理由は、良質の木材が豊富にあったことです。しかし、勿論、理由はそれだけではありません。
「木から仏像を彫り出す」という行為は、日本人の古くからの信仰に関係があります。
つまり、日本には仏の前に「神」がいたからです。「木」は「気」です。木は霊木であり、神はその中に宿っているのです。木に仏を彫るということは、木に宿っていた精霊が、彫刻することにより仏像として化現したと解釈されました。
これが、日本特有の「神仏習合」の証です。
「神と仏を合体させる」これは、西洋では考えられませんね。
だって、西洋では宗教の違いは戦争になりますもの。キリスト教の中でも、カトリックとプロテスタントに分かれて戦うぐらいですから。
日本人は、宗教に関しては鷹揚なのかもしれませんね。良くいえば頭が柔軟でなんでも受け入れやすく、悪くいえば節操もポリシーもない、ということでしょうか。
でも、こうして仏像の歴史を表面だけさら〜とおさらいしているだけでも、仏教の精神世界にちょっと触れたように感じるのは、調子が良過ぎますかしら(*^_^*
そりゃあ、宗教観までは到達できませんが、仏像は、美術的立場から観てもオーラをビシビシ感じますよ。それも呪縛のような強烈な個性です。特に生木に彫刻した仏さまの荒々しいお姿は、霊威そのものです。

貞観時代の仏像のもうひとつの魅力は、観音像にあります。
これは、次回のお楽しみ(^_-)-☆
Posted
by blanc
at 01:18
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静さま


こんばんは〜
とっちゃんぼうやさまには、早速のコメントありがとうございます
宗教観云々がなくて良かったですぅ〜(^_-)-☆
清涼寺の「生釈迦」は、釈迦38才のときの姿を模したお姿です。さすが、涼しいお顔ですよね。エキゾチックなのはあたりまえですが、やはり、この時代は極楽浄土の世界ですから、耽美という印象です。
わたしも今年は、京都で意識的に仏像拝観しますよ〜〜
清涼寺知らなかったので、虎の巻で調べました(笑)ひとつ知識が増えました。重ねて感謝いたしますm(__)m