前々回、鶴岡八幡宮の舞いの記事の時、 とっちゃんぼうやさまが 平家滅亡の1185年から 鎌倉幕府成立1192年までのことに触れて書いて下さいましたが、今度は その1185年より前、そもそも 源平合戦とは いつ始まったんだろう、
そう思い、先日 手元にある本で調べてみました。
すると 実際の開戦の日としてではないけれど、1180年6月2日、平清盛の要請による福原遷都の日が この合戦の幕開けの日であると書かれていました。
平氏の行ったこの福原遷都は 非常に評判が悪く、にわか作りの宮都は都市としての機能を果たさず、高倉天皇もその不自由な地で病に伏すようになり、やむなく同年11月26日、都を また京都に戻した。
とありました。
この福原遷都は、元々、比叡山延暦寺や、三井寺、南都興福寺などの寺社勢力から逃れるためだったそうですが、これらの寺社は源氏に加担しており、清盛が 京都にまた都を戻すからには南都を攻めるといきまき、それを聞いた南都の荒くれた僧侶たちは、毬を清盛の首に見立てて、踏んだり蹴ったりしていたといいます。
そして ”同年12月28日、南都の大衆は、奈良坂と般若寺の道に盾と逆茂木(さかもぎ)を立て、城郭を構えたが、平氏は徒歩長刀の僧兵を 馬で蹴散らし、夜になり、平重衡は、付近を明るくするために民家に火を放った、火は 瞬く間に燃え広がり、東大寺、興福寺は炎に包まれた。
この時、奈良時代の行基の遺産は すべて灰塵に化した。”と。
そして この翌年2月4日に 清盛永眠。
この後、源平の戦いは、熾烈さを増していきます。
しかし・・
このあたりの出来事で 特に心に残るところは、その翌年1182年の西国の大飢饉。天変に加え、こうした戦争も引き金になった、という大災害の記録です。
前年からの天変、日照り、大風、洪水に加え、疫病が発生、その惨状は目を覆うばかりで、人々は 自分の家まで壊して市に売っていた、とのこと。
鴨長明が、「方丈記」の中で この惨状を書いています。
「売り出された薪の中に、丹や金箔のついた木材が混じっているが、これは 誰かが伽藍や仏像を壊して売ったためである。人間は飢えの前には、信心も黄金への欲望も忘れるかに見える。
だが、極限状態でも、人は人間の顔を見せる。妻と夫の間では、愛情の深い方が先に死ぬ。食物を相手に譲り、自分は餓えて死ぬからだ。親子の愛情が深い場合には、必ず、親の方が先に死ぬ。
だが、子供を死なす親とて多いに違いない。身体の弱い者が先に死ぬことは多い。主人のおろし(食べ残し)でなんとか生き延びた下人たちは、逃亡でもしない限り、主人よりも先に死ぬ運命だ。」
仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)は、死者たちの額に「阿」の字を書いて回ったとありますが、この時の 京都の死体の数が 4万2300人。
今の四川大地震の被害を思い起こすような凄まじい被害で ここまでひどいのも いくつかの記録の中でも稀なのではと思います。
人類の歴史上、干ばつや飢饉が 天災のみに起因する例は少なく、おおむね人災と重なっている、といわれますが、これも 今と変わらないことなのでしょうね。
話は元に戻りますが、この西国の惨状は、平氏の戦力を弱め、内乱の行方に影響を及ぼした、とありました。
天災は もちろん怖いですが、それ以上に 戦争と悪政のこわさを感じる記録でした。
そう思い、先日 手元にある本で調べてみました。
すると 実際の開戦の日としてではないけれど、1180年6月2日、平清盛の要請による福原遷都の日が この合戦の幕開けの日であると書かれていました。
平氏の行ったこの福原遷都は 非常に評判が悪く、にわか作りの宮都は都市としての機能を果たさず、高倉天皇もその不自由な地で病に伏すようになり、やむなく同年11月26日、都を また京都に戻した。
とありました。
この福原遷都は、元々、比叡山延暦寺や、三井寺、南都興福寺などの寺社勢力から逃れるためだったそうですが、これらの寺社は源氏に加担しており、清盛が 京都にまた都を戻すからには南都を攻めるといきまき、それを聞いた南都の荒くれた僧侶たちは、毬を清盛の首に見立てて、踏んだり蹴ったりしていたといいます。
そして ”同年12月28日、南都の大衆は、奈良坂と般若寺の道に盾と逆茂木(さかもぎ)を立て、城郭を構えたが、平氏は徒歩長刀の僧兵を 馬で蹴散らし、夜になり、平重衡は、付近を明るくするために民家に火を放った、火は 瞬く間に燃え広がり、東大寺、興福寺は炎に包まれた。
この時、奈良時代の行基の遺産は すべて灰塵に化した。”と。
そして この翌年2月4日に 清盛永眠。
この後、源平の戦いは、熾烈さを増していきます。
しかし・・
このあたりの出来事で 特に心に残るところは、その翌年1182年の西国の大飢饉。天変に加え、こうした戦争も引き金になった、という大災害の記録です。
前年からの天変、日照り、大風、洪水に加え、疫病が発生、その惨状は目を覆うばかりで、人々は 自分の家まで壊して市に売っていた、とのこと。
鴨長明が、「方丈記」の中で この惨状を書いています。
「売り出された薪の中に、丹や金箔のついた木材が混じっているが、これは 誰かが伽藍や仏像を壊して売ったためである。人間は飢えの前には、信心も黄金への欲望も忘れるかに見える。
だが、極限状態でも、人は人間の顔を見せる。妻と夫の間では、愛情の深い方が先に死ぬ。食物を相手に譲り、自分は餓えて死ぬからだ。親子の愛情が深い場合には、必ず、親の方が先に死ぬ。
だが、子供を死なす親とて多いに違いない。身体の弱い者が先に死ぬことは多い。主人のおろし(食べ残し)でなんとか生き延びた下人たちは、逃亡でもしない限り、主人よりも先に死ぬ運命だ。」
仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)は、死者たちの額に「阿」の字を書いて回ったとありますが、この時の 京都の死体の数が 4万2300人。
今の四川大地震の被害を思い起こすような凄まじい被害で ここまでひどいのも いくつかの記録の中でも稀なのではと思います。
人類の歴史上、干ばつや飢饉が 天災のみに起因する例は少なく、おおむね人災と重なっている、といわれますが、これも 今と変わらないことなのでしょうね。
話は元に戻りますが、この西国の惨状は、平氏の戦力を弱め、内乱の行方に影響を及ぼした、とありました。
天災は もちろん怖いですが、それ以上に 戦争と悪政のこわさを感じる記録でした。
Posted
by 静
at 19:54
| この記事のURL
コメント(2)
| トラックバック(0)





)私の大雑把な記憶では、「平家の知行地は西に偏っている」のですが、当時「平家にあらずんば・・・・」の時代、日本のどこにでも知行地を網羅できたはずなのに、何ゆえ東じゃなかったの?」と素朴にも思ったからです。
コメント、そして以前書いていた「方丈記」のこと、覚えていて下さってありがとうございます。
他にも沢山の素晴らしい古典があり、すべて読まずにこれだけ挙げるのもどうか、と思い、もう書かなくなりましたが、やはりこの本は好きですね。
短いけれど、その短さ、文章の簡潔さも好きな理由のひとつか、と思っています。
その試験問題ですが、問いかけは難しく感じるけれど、答えを考えるのは面白そうと思いました。
確かに 具体的にはどうだったのでしょう。
私ときたら 即浮かんだ答えは ”要するに平氏は嫌われはったんや”でした。
”平家にあらずんば・・”の威圧的勢いは 力のない者たちには通じたかもしれないけれど(押さえられたと言った方がいいですが)、 元々不平不満の多かった武士(当時はまだ兵士でしょうか)たちには、むしろ、反発の材料となった、
つまり、人心掌握に失敗したのでしょうね。特に後に武士となる猛々しい者たちの。
さらに こういう遷都の話を見ていくと この時、もうやること全てが裏目に出たのだ、という気がします。
何でみなが源氏に肩入れしたのか、このあたりもその政治的、経済的、社会的、軍事的、その他(まだあれば)でも、いろいろ調べていくと面白いと思いますし、とても興味深いです。
それから、終わりに書いて下さった 源平の移り変わり〜
まるでオセロみたいで面白いです。
私もある程度は知っていたつもりでしたが、織田信長が平家の筋とは知りませんでした。
感じが なんとなく源氏の雰囲気で。
いろいろ調べていくと また違う歴史が見えてくるような気がします。