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源平合戦の幕開け 福原遷都[2008年06月03日(火) ]
 前々回、鶴岡八幡宮の舞いの記事の時、 とっちゃんぼうやさまが 平家滅亡の1185年から 鎌倉幕府成立1192年までのことに触れて書いて下さいましたが、今度は その1185年より前、そもそも 源平合戦とは いつ始まったんだろう、
そう思い、先日 手元にある本で調べてみました。

 すると 実際の開戦の日としてではないけれど、1180年6月2日、平清盛の要請による福原遷都の日が この合戦の幕開けの日であると書かれていました。

 平氏の行ったこの福原遷都は 非常に評判が悪く、にわか作りの宮都は都市としての機能を果たさず、高倉天皇もその不自由な地で病に伏すようになり、やむなく同年11月26日、都を また京都に戻した。
 とありました。
 
 この福原遷都は、元々、比叡山延暦寺や、三井寺、南都興福寺などの寺社勢力から逃れるためだったそうですが、これらの寺社は源氏に加担しており、清盛が 京都にまた都を戻すからには南都を攻めるといきまき、それを聞いた南都の荒くれた僧侶たちは、毬を清盛の首に見立てて、踏んだり蹴ったりしていたといいます。

 そして ”同年12月28日、南都の大衆は、奈良坂と般若寺の道に盾と逆茂木(さかもぎ)を立て、城郭を構えたが、平氏は徒歩長刀の僧兵を 馬で蹴散らし、夜になり、平重衡は、付近を明るくするために民家に火を放った、火は 瞬く間に燃え広がり、東大寺、興福寺は炎に包まれた。
この時、奈良時代の行基の遺産は すべて灰塵に化した。”と。

 そして この翌年2月4日に 清盛永眠。
 この後、源平の戦いは、熾烈さを増していきます。

しかし・・
このあたりの出来事で 特に心に残るところは、その翌年1182年の西国の大飢饉。天変に加え、こうした戦争も引き金になった、という大災害の記録です。

前年からの天変、日照り、大風、洪水に加え、疫病が発生、その惨状は目を覆うばかりで、人々は 自分の家まで壊して市に売っていた、とのこと。
鴨長明が、「方丈記」の中で この惨状を書いています。

「売り出された薪の中に、丹や金箔のついた木材が混じっているが、これは 誰かが伽藍や仏像を壊して売ったためである。人間は飢えの前には、信心も黄金への欲望も忘れるかに見える。
 だが、極限状態でも、人は人間の顔を見せる。妻と夫の間では、愛情の深い方が先に死ぬ。食物を相手に譲り、自分は餓えて死ぬからだ。親子の愛情が深い場合には、必ず、親の方が先に死ぬ。
 だが、子供を死なす親とて多いに違いない。身体の弱い者が先に死ぬことは多い。主人のおろし(食べ残し)でなんとか生き延びた下人たちは、逃亡でもしない限り、主人よりも先に死ぬ運命だ。」

 仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)は、死者たちの額に「阿」の字を書いて回ったとありますが、この時の 京都の死体の数が 4万2300人。

 今の四川大地震の被害を思い起こすような凄まじい被害で ここまでひどいのも いくつかの記録の中でも稀なのではと思います。
 人類の歴史上、干ばつや飢饉が 天災のみに起因する例は少なく、おおむね人災と重なっている、といわれますが、これも 今と変わらないことなのでしょうね。

 話は元に戻りますが、この西国の惨状は、平氏の戦力を弱め、内乱の行方に影響を及ぼした、とありました。

天災は もちろん怖いですが、それ以上に 戦争と悪政のこわさを感じる記録でした。

Posted by at 19:54 | この記事のURL
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コメント


とっちゃんぼうやさま

コメント、そして以前書いていた「方丈記」のこと、覚えていて下さってありがとうございます。
他にも沢山の素晴らしい古典があり、すべて読まずにこれだけ挙げるのもどうか、と思い、もう書かなくなりましたが、やはりこの本は好きですね。
短いけれど、その短さ、文章の簡潔さも好きな理由のひとつか、と思っています。 

その試験問題ですが、問いかけは難しく感じるけれど、答えを考えるのは面白そうと思いました。
確かに 具体的にはどうだったのでしょう。
私ときたら 即浮かんだ答えは ”要するに平氏は嫌われはったんや”でした。

”平家にあらずんば・・”の威圧的勢いは 力のない者たちには通じたかもしれないけれど(押さえられたと言った方がいいですが)、 元々不平不満の多かった武士(当時はまだ兵士でしょうか)たちには、むしろ、反発の材料となった、
つまり、人心掌握に失敗したのでしょうね。特に後に武士となる猛々しい者たちの。
さらに こういう遷都の話を見ていくと この時、もうやること全てが裏目に出たのだ、という気がします。

何でみなが源氏に肩入れしたのか、このあたりもその政治的、経済的、社会的、軍事的、その他(まだあれば)でも、いろいろ調べていくと面白いと思いますし、とても興味深いです。

それから、終わりに書いて下さった 源平の移り変わり〜
まるでオセロみたいで面白いです。

私もある程度は知っていたつもりでしたが、織田信長が平家の筋とは知りませんでした。
感じが なんとなく源氏の雰囲気で。

いろいろ調べていくと また違う歴史が見えてくるような気がします。
Posted by:  at 2008年06月05日(木) 00:58

静さん、こんばんは〜 

とうとう、と、言うかようやくと言うか、貴女のお好きな方丈記のさわりがでましたね。

平安末期は、大飢饉、竜巻、そして放火を含めて都での火災などの災害が続発する中、政治的には天皇・貴族中心から武士社会へと大変革の胎動期、それにともない精神的には末法思想の時代到来で、まさに日本史上有数の激動期になりますね。

 あの1182年の西国の大飢饉は余りのも有名ですね。 ところで

<西国の惨状は、平氏の戦力を弱め、内乱の行方に影響を及ぼした、とありました。>
 
そうですが、「その政治的、経済的、社会的そして軍事的観点から具体的な例を挙げて論証せよ」
 
って、かつての大学の文学部史学科の試験に出題されたならば、文学部の優秀な学生(ちがうかな?)に戻ったつもりで模範解答をお願いします。

 なあ〜んて、うそうそ。貴女を困らせようと意地悪したわけではなく、
(いやいや、全然困らないかもね)私の大雑把な記憶では、「平家の知行地は西に偏っている」のですが、当時「平家にあらずんば・・・・」の時代、日本のどこにでも知行地を網羅できたはずなのに、何ゆえ東じゃなかったの?」と素朴にも思ったからです。
 まあ、常識的には「東国は源氏系だから」になるんでしょうが。

 ともかく、その後武家政権が江戸幕府まで続きますが、平氏、源氏、北条氏(平氏)足利氏(源氏)、織田信長(平氏)、豊臣秀吉(藤原氏、これは金でとってつけたもの、信長や家康もちょっと怪しいけど)そして徳川家康(源氏)と、政権が源平相互に入れ替わるのを見るにつけ、清盛と頼朝がその嚆矢となったのは興味深いですね。

 それにしても私の周囲にも家の主が次々と代わるのをみるにつけ、受験期のにが〜い思い出を払拭して方丈記を読み返してみたいと思うようになったのは、やはり年の功なのでしょうね。

 どうもありがとうございました。
Posted by:とっちゃんぼうや  at 2008年06月04日(水) 22:35