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名前を変えて新規一心[2007年11月29日(木) ]
お越し頂いている皆様に・・・・

立ち挙げた儘で当の本人が忙しく書き込みもせず・・・ゴメン

此処で新規一心

たろうの記憶の中昭和24〜25年位からの神戸を書き殴りたいと

思います。

たろうの尻に火を点けたのは、誰在ろう?

von Jagfeld さんでした

24年当時国鉄三宮駅のプラットホームから南を見ると

税関の時計台が見えた・・・手始めで〜す。

Posted by あしがらたろう at 17:34 | この記事のURL
コメント(9)

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http://salon.stage007.com/252/archive/15/0

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コメント


Posted by:wow gold  at 2008年08月25日(月) 13:46

Posted by:wow gold  at 2008年08月09日(土) 01:52

Posted by:wow gold  at 2008年07月24日(木) 21:48

Posted by:ijbtgc  at 2008年07月05日(土) 07:44

つれずれなるままに(本当は忙しいのにようそんな
法螺吹けるなあ!)前回申しました阪神・阪急戦
(野球の話じゃないよ!)の昭和一桁の想い出を
無駄話させてもらいます。
その時代、阪急は、三宮まで来てなくて、上筒井が
終点。その後、原田、将軍通り、石屋川と伸びていく
布引線の神戸市電の当時の終点とくっついていました。阪神は、三宮まで、半分軌道線のような形で、
地上を来ていました。その頃、今の三ノ宮駅が
できるまで、国鉄(省線電車)は今の元町駅の
あるところを三ノ宮駅としていた時代です。これは
高架線を作るために一時駅を移していたのかなあ?
浜側の神戸市電は春日野道が終点で、阪神電車と
そこで連絡していました。黒褐色の色の阪神電車が、
三宮駅の南側で折り返していた姿を今も覚えています。今のJR三宮高架駅ができ、阪神が西灘から
地下鉄となって三宮まで乗り入れてきたのは、
昭和8年だったかなあ?昭和12年には地下線が
元町まで延長されました。阪神会館というレストランや映画館の入ったビルが出来たのはその時でしょう。その頃対抗上、阪急も高架で三宮に乗り入れてきて、終点は阪急会館なる映画館の入ったビルとなりました。上筒井と西灘の間はしばらく支線ということで生き延びましたが、昭和16年頃廃止されました。
当時(今もちとその嫌いがあるかな?)阪急の方が
ちとお高く、いわゆる阪神間のブルジョワ的色彩を持ち、阪神の方は、どちらかというとやや庶民的イメイジで、電車の車体も何となくそんな感じを帯びていたようです。ただ神戸の人たちには阪神の方が親しみのあるようで、阪急は少しよそ者的な気分がしていたでしょうか?国鉄省線電車も阪神阪急に雄雄しく立ち向かい、神戸ー大阪間に、当時関東で見られないような流線型の急行電車を30分間隔で運転していました。
複々線ですから三宮・大阪間は所要時間28分くらいで走っていたのでしょう。ただ人々はフリークエンシーサービスといいましょうか運転間隔で頻繁な阪急に
乗ることが多かったのではなかったかと思います。
元町・三宮間の阪神地下線はあの戦争末期の頃は休止し、地下工場になっていました。大した生産活動は無かったかと思います。いずれにせよ戦争が激化するまでは、私ども神戸の住人たちは、東京を、こと電車に関しては蔑んでいました。ではまたこの次の機会に!
Posted by:von Jagfeld  at 2008年01月14日(月) 17:32

プロフィール写真が変わりましたねぇ

 街がユッタリ、空が広い、税関の建物が近い。

私は昭和40年頃以降しか知りません。
こんな時もあったんですね。
Posted by:うら茄子  at 2008年01月05日(土) 17:02

またつまらない老いの繰言を!?
そう、あれは残念でした。私たちの夢はもう実現ができないのです。私たち、旧制中学の仲間たちは依然集まると、野球の日本リーグ戦が「阪神対阪急」で行われることを願っておりました。そうです、パシフィックでは阪急が優勝し、セントラルでは阪神が優勝し!
  もうこれはありえないことです。残念だなあ! その阪神電鉄が阪急と一緒になってしまいました。アズマ夷の町に今は住む私は現状がよくわかりませんが、電車には変わりは無いのでしょうね。 昭和10年代には「待たずに乗れる阪神電車」
対「「神戸大阪間24分!」の阪急のスローガンとで激甚な競争をしていました。 当時の東京で比較すれば東横電鉄対京浜電鉄ですが、今東急東横線と京浜急行とで対抗し合う事が無いのと同様に、当時もこの東京の二大電鉄の張り合いは無かったと思います。
その沿線の特質をも反映して、あの頃の阪急と阪神の勝負はかなりなものだったのです。
ではまたこの次の機会に昭和一ケタ台の両電鉄の有様を語らせもらいましょう。


  
Posted by:von Jagfeld  at 2007年12月09日(日) 13:13

たろうさん
今しがたNHKTVを眺めましたら、ちょうど
海上保安官養成学校か何かで、舞鶴湾が映し出され、
湾の向こうに富士山を小型にしたような山が
見えていました。あれは確か先日たろうさんが
ブログに示された写真に写っていたあの山ですね。
おかげで舞鶴湾が懐かしい風景に思えました。

さてこれから時々昔の神戸のことをこのサークル
に書かせて頂ければと思います。ルルさんも見て
戴けないかなあ?
といっても昭和24年に東京に来て、それ以来
ずっとこちらにいる私ですから、昔の神戸と
言うのはせいぜい昭和10年代のことです。
フン今の還暦過ぎの人たちもまだ生まれていな
かった時代か!
まあたろうさんもご存じなかった話でしょうが、
昭和20年の7月頃、新しい鉄道が神戸に敷かれ
ました。終戦間際の話です。港に沿って走っていた
臨港貨物線(貨物線と言っても戦前は欧州や北米
航路の客船が神戸港に入りますと、第4突堤
あたりから臨時列車が1等2等だけの編成で、
大阪、京都に向けて運転されました。)の終点の
湊川貨物駅(神戸駅の海側です)から線路を延長し、
焼け跡の焦土の上に、兵庫駅までレールが置かれ
たのでした。東海道線/山陽線がもう1本できた
のです。実際に通して列車が運転されることは
無かったと思いますが、この線路は今で言えば
JRの高架線が空襲で崩壊してしまった場合に備え、
大動脈の東海道山陽線を確保するために
設けられたと思います。終戦直後には撤去された
と思いますが。
なおその頃には阪神電車も地下線の元町ー三宮間が
休止され、地下を利用して飛行機の部品工場に
使われていたと記憶します。
どうもつまらない話でごめんなさい。
次は元「てっチャン」として戦前の阪急・阪神の競争の話しを書かせてください。
Posted by:von Jagfeld  at 2007年12月03日(月) 13:04

たろうさん
ありがとう!
後を期待しています。
昭和24年頃はまだ戦災跡が残り、ところどころ、そう三ノ宮駅の南はまだ進駐軍のバラック兵舎が残っていたかな。 その頃生まれた人ももう還暦近くになっているのですね!
ではでは!
Posted by:von Jagfeld  at 2007年12月02日(日) 10:03

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