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K園の人(完)[2008年05月03日(土) ]
 
 次の日、いつものように学校に行き、みながワイワイ騒ぐ中にいたお昼休みの頃、何がきっかけだったかは もう忘れましたが、急にこの話が思い出されてきました。

 それは、いがくり頭の男の子や おかっぱ頭の女の子たちのはしゃぐ姿に囲まれる中で まるで別世界の話のように。

”一体、おばあさんのしてくれた昨日の話は何だったんだろう・・・”

そんなことを思いながら、校庭に目をやった時、おかしなことに その眩しい土の上に 馬に乗った真っ赤な乗馬服姿の娘さんと その馬の手綱を引きながら横に立つ爽やかな青年とが、仲良く話している姿がぼんやり浮かんできたのです。

そして、実は今も この話を思い出す度、この二人の姿が浮かんでくるのです。



 おばあさんの聞かせてくれたこの話は、世の中を建設的に 少しでも明るい光ある方向に導いていこうとする社会の中では、口にするのも憚られるような闇の中の話、と受けとめられることだろうと思います。
 けれど、それでも 私の中に一抹、これはほんとうに全て”闇”なのだろうか、と問いかける気持ちがあるのも確かです。
 
 子供の頃のあの時、このおばあさんの話がもし、
「あのね、昔、家の近くに こんなわるいお母さんがいてね・・・」
というような話しかけ方だったなら 私の受けとめ方も違っていたかもしれず、そもそも 今ここにこうして書き入れる気持ちすらおきていなかったかもしれないと思います。

近くの人の噂の話をした時も ただのひと言も批判するようなことは言わなかったおばあさん。
この時、批判するかわりに言った言葉は、
「あの人(母親)と あの青年なら 私はわかる・・。」
のひと言でした。
その言葉から、どんなことも 生のその人たちを知らなければ、わからないことがあるのだろう・・・
そんなことも思ったその時。


K園の人。

おそらく 今はもう皆、この世の人ではないだろうけれど、
もし、もう一度、生まれ変わることができるのなら、どうぞ 娘さんは素晴らしい恋人にめぐり会えますように、
そして 母親と青年は 誰からも祝福される間柄としてめぐり逢えますように、と祈ります。



私の 古い思い出の中の昔話、長い間、読んで下さり、ありがとうございました。

Posted by at 01:31 | 小夜話〜K園の人〜 | この記事のURL
コメント(14)

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コメント


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Posted by:  at 2008年07月07日(月) 20:26

あきさま

読んで頂き、感想も頂いて ありがとうございます。

愛とは一体何なのでしょうね。

そう言えば、あきさんとは、このステージに入会した当初にも 愛について色々とお話したことがありましたね。

書いて頂いた言葉の中で
>愛?を貫き通せるのは、本当の愛かもしれません。
そのとおりのような気がします。
言葉でそう言っても 人はなかなかそうはできないものだから。

そう考えると
愛とは 貫き通せる意志の強さなのかな。
色々と考えさせられます。
Posted by:  at 2008年05月26日(月) 23:58

静様

全部読ませていただきました。

愛とは、いったい何なのでしょうか?
考えさせられましたが、よく解りません。

昔読んだ本に、「愛とは人間の作った概念にすぎない」と書いている人がいました。たしか「わがままな遺伝子」という本でしたね。
なぜ覚えているのかと言うと、人間にも動物にも愛は存在しないというものでした。
母性は、子に対して、ただ見返りを求めているだけ、というのです。
それは、遺伝子がそうさせているのだと。

ただ、お母さんと、青年の気持ちは解るような気がします。
通常は周囲の常識だとか、家族関係に拘束されますが、
愛?を貫き通せるのは、本当の愛かもしれません。
Posted by:あき  at 2008年05月26日(月) 19:15

夢様 静さま こんばんは

子供を愛せない親
悲しいけれどいるのですよね

だれもが愛し愛される喜びを知ることは人生に与えられた平等の宝物
たくさん経験することが(たくさんの色々な愛を知ることが)
大切なのかもしれませんね
Posted by:Miruba  at 2008年05月11日(日) 21:23

夢さま

こちらこそありがとうございます。
「愛を乞う人」、知りませんでしたが、興味深いです。今 このテーマに惹かれない人がいるかしら、と思うほど、虐待事件が後を絶ちませんものね。
>世の中には我が子を愛せない人がいる
悲しいことですが、それは私も真実だと思っています。

その理由、原因は それこそ千差万別で 何が、とひと言で言えるものではないでしょうけれど、
悲劇は そうした親を持つ子供と思います。
愛されていようとなかろうと 子供はその親を慕うものですから。
最悪 その親の単なる気分に 一生振り回されるのですから。
その小説は、まさにそういう姿を書き表しているのでしょうね。

私は 愛さない理由の中にも”愛”の別の姿が潜んでいるような気がしています。
それは、愛、というより 生命の神秘、というものなのかもしれませんが。
ですから、その子育て放棄の動物のお話も けして話がそれているとも思えません。

極端な言い方かもしれませんが・・
昔 何人もの妃を持つ皇帝がいました。その妃たちの競争といったらそれこそ凄まじいものでしたよね。
でも それもそのはず、愛を一番勝ち得た妃の子供、王子が 結局皇帝から一番愛される場合が多いのですもの。そして 愛を失った妃の生んだ王子など、愛妃の悪だくみで陥れられていても 一番守るべき、皇帝が気付かなかったり、もう関心すらなくなっていたり。
権力のための戦いと言われますが、あれは、自らの種を守る命の戦いなのですよね。

現代はそんな大層なことがないけれど、今度は自由な恋愛がひきおこした 子供側から見た悲劇が多く、その意味で 時代は変わっても こうした命の戦いは消えない、そんなことを最近感じています。先の話の男女逆の場合とかも増えていたりで。

もちろん すべてがこういう場合というのではなく、あくまでも たとえば、のお話ですが。

>K園のお母さんも〜
多分、娘さんの話以前に 彼女は ”夫”を愛していなかったのだろうと感じています。もちろん頭では、”愛している”つもりで。私はそんな風に感じていました。

また 長くなってしまいました。余計なことをいっぱい書いてしまったようで いつも申し訳ないです。^^
Posted by:  at 2008年05月05日(月) 22:25

静さま
親子の愛について色々考える機会を与えてくださいましてありがとうございました。

 静さまの優しい目線でお書きになられたお話は登場人物に悪者がなく皆の幸せを願って終わっていますね。
さぞかしお優しいお母様にお育てになられたのでしょうね。

 子供に取りまして母親は良きに付け悪しきにつけ子供の一生を支配するのです。
「愛を乞う人」下田治美さんの小説、同名の映画もありましたが、観ていませんが、主人公の中年女性が幼い頃母親から壮絶な幼児虐待に遭い50年経っても脱しきれないひとりの女性を通して親子の絆を考えさせられるお話ですが。
 
 静さまも母親は子供の幸せを願い、子の為に一生懸命尽くして絶対的に子供を愛してやまないとお考えでしょうね、今の私もそう思います。子供の為なら命も差し出しても厭わない、なんて思ったりしたものでしたが、

 しかし世の中には我が子を愛せない人がいるのです。原因は色々ありますが、子供の父親との確執が子供を愛せないまた、愛されたことがない母親はどう子供に接して良いのか分らないのです。
最近動物園でも子育て放棄する動物が多いと聞きますが〜〜〜〜〜、話がそれてゴメンナサイね。

K園のお母さんも本当は娘さんを愛してなかったのではないかしらとふっと思いました、いくら娘さんの婚約者から言い寄られても、駆け落ちする行為は考えられないのです。 
Posted by:  at 2008年05月05日(月) 13:08

夢さま

いつもありがとうございます。
私のとんでもない言葉が目に入ってしまったようで・・
「出家とその弟子」はもちろん素晴らしい作品なのですが、私はとても単純で コメントに書かせて頂いたような場面でひっかかり、そこで一旦、本を閉じてしまったような記憶があるんですよ。
前後のつながりから そんなことをふと思い出して書かせて頂きました〜
>母のような生き方はしたくないと〜
母親、という存在は不思議ですね。どういう形であれ、(反面教師としてであろうと)お手本、として 子供は見るようになるのでしょうね。
うまく言えていなくて 申し訳ないですが・・
そんな気がしています。

夢さまのお話も できればたくさんお聞きしたいです。

それから、トルストイの「アンナ・カレーニナ」、悲劇ですが、女性として素敵ですね。
私の持っている本の挿絵の”アンナ”が とてもきれいなせいか、憧れです。(また単純!)

また、「稲妻」を私は知りませんでした。
Kの人も 元々そういう母親だったなら 娘さんのショックももっと違っていただろうと思いますね。
林芙美子の作品のことですが そういう人もいるのですね。

”愛”については、書き始めると ほんとにたくさんのことがありますね。
だって みんな違うのですものね。

またまた長くなってしまいました。
飛ばないうちに ここで一旦おえますね。
Posted by:  at 2008年05月05日(月) 00:02

静さま、Miruba様 こんにちわ

お二人のとても素敵な愛についての会話に惹き込まれて拝見していました。
倉田百三の、『出家とその弟子』自分は悪人である”(命ある生き物を食べる)けれど、“仏さまは、私を悪人のままで、救ってくださる”という親鸞独特の信仰観が描かれていますが。
 キリスト教の原罪もアダムとエバが神に背き(禁断の果実)人は生まれながらに罪人として背負った原罪を神の子キリストが全ての人の罪を背負って十字架に〜〜〜   人間は罪を犯すものだと言うことなのです。
愛についてはいつの時代にでも、人類がこの世に生まれた時からのテ−マでもあり、愛と言う行為が子孫繁栄してきたのだと思います。
 源氏物語でも光源氏は幼くして母と死別して母の似た義理の母に当たる藤壺に子供を産ませるといういつの時代でも男と女は変わらぬものですね。

 しかし静様のK園が家庭崩壊してお嬢さんが憔悴しきって新宿の街で歩いていたとのこと、裏切られた免疫のない生きながら死んだような生き方しかできなかったのでしょうね。

 林芙美子の「稲妻」映画にもなりましたが、詳しくは覚えていませんが、母親が奔放で娘の父親がそれぞれ違うのです。そのような育ち方をすれば男と女はいろいろありと
思ったでしょうに、私も母とは確執があり、母のような生き方はしたくないと生きてきました。
そのお嬢さんも母親を憎んで見返すくらいの気持ちで生きてくれば良かったのにと思います。

 愛のために死ぬ、トルストイの雪の降る列車に飛び込んで死んだアンナ、カレ−ニナを思い出しました。


静様、Miruba様 楽しませていただきました。
本当にありがとうございました。    

Posted by:  at 2008年05月04日(日) 13:19

Mirubaさま

こんばんは。
私はまだ「塩狩峠」を読んでいませんでしたが、(あまりにも有名なのに)今 少しそのお話を読ませて頂いて、受けられた感じが私といっしょ!と思いました。
私が修行僧から感じたのと 状況、人の関係は違うけれど同じ、
いいえ、そちらの方がもっと深い。行きずりの他人じゃないもの。
仰りたいこと、すごくよくわかります!(それがわからない人はむしろ冷たいんじゃ、なんて思うくらいに)

個人的な愛か、人類への博愛か、
いや、ただ一人の愛するものへの愛か、その一人以外の 万人への愛か・・・

このテーマって深いですよね。

Kの話もそうですが、人は何をもって”愛”というのか、ほんとうに考えさせられます。

でも こういうテーマって 自分はこう思う、と書くと、異論ありの人も多くいそうで つい書くのがこわくなってしまうんですよね。

だから 今は 自分の経験や 実際見聞きしたことの中から探っていくしかない、
そんな風に思っています。 

私もMrubaさまのお話、楽しみです。
いつもありがとうございます!
Posted by:  at 2008年05月04日(日) 02:15

こんばんは


>倉田百三の「出家とその弟子」・・・
>・・・目の前の人間を救わず、何が”修行”だろうってね。

出家とその弟子、読みましたね。ですが、私もあまり覚えていませんね。
あなたのような印象も持っていないので、よくちゃんと読まなかったと思われます。いつかまた読んでみましょう。

そういえば、同じ宗教ではなく、それでも宗教家のお話で、三浦綾子著の「塩狩峠」を、静さまのような印象を持って読みました。

個人的な愛と、博愛との間で、宗教家の取った行動が素晴らしくのちに沢山の信者を入信させた素晴らしい行為であったと絶賛するお話です。
ですが、私は、読後大変嫌な気持ちになりました。

その宗教家はブレーキの壊れた列車の車輪の前に身を投げて列車を止め乗客を救った英雄と言う話です。宗教者として博愛に満ちた素晴らしい行いで、だからこの宗教は素晴らしいものだ、という宣伝にさえ使われているようです。

ばかばかしい。その宗教家は、その日それまで数々の不幸にあい悲しい人生を送ってきた女性と婚約する日でした。
可哀相な彼女が、やっと春を迎えることの出来る日だったのです。

たった一人の可哀想な女性を不幸のどん底に落として、何が宗教だ、何が博愛だ!私は彼女のために泣きました。

そして、その崇高な死を迎えたとされる宗教家の身代わりの死をどうしても素晴らしとはいえない。褒めてあげたいけれど、見方を変えればその自分勝手な行動を許せない。と思いました。

個人的な愛 と 人類への博愛 

どちらが崇高かなど、いったい誰がきめられるでしょうか。

うふ そんな風にね、思ったものでした。
作品と言うものは、自分の思ったとおりに人が考えてくれるかどうかわかりませんね。ですから静様も悩まれたと思いますが、私は大変有意義に、拝見させていただきました。

静様

また お話してくださいね。

本当にありがとうございました。
Posted by:Miruba  at 2008年05月04日(日) 01:25

Mirubaさま

こちらこそありがとうございました。
前のコメントにも書かせて頂きましたが、続きが書けたのはMirubaさまのコメントのおかげです。

内容が内容なだけに書き入れること自体、随分迷ったんです。

でもMirubaさまからコメント頂いて、書き始めると 今度は終わるまで 何をしていても ここに気持ちが飛んでいました。

まとめて文章を書くのって ”古代の恋歌”以来で(STAGEの過去ブログにあります) たったこれだけでも終わりまで書けるかどうかと心配でした。

ほんとにありがとうございます。

コメントのこと、
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」 もちろん覚えていますよ。彼の小説、好きでしたから。
でも もう主人公の名前も忘れていました。

でもね、同じようなことで 疑問に思ったこともあるんですよ。
倉田百三の「出家とその弟子」の中に ちょっと今すぐ正確には思い出せないのだけれど、目の前にいる女性を救わずに 女人禁制の山へと修行に行く場面。
その後の展開ももう忘れてしまって どうなったのか言えないのだけれど、その部分がやたら心に残ったんです。
目の前の人間を救わず、何が”修行”だろうってね。
で、続けて思いました。
山や川で水をかぶって修行する前に 路傍で行倒れになっている人や 真冬にに凍えそうに道で寝ている人を 探し出してでも助けてあげたらって。
でも まぁ、いいや、その修業って結局自分のためなんでしょうから、意味不明だけどね、という皮肉も込めて。

いやですね、こんな見方。自分でもいやだけど、それくらい考えたんです。

ちょっと書いてくださったコメントからずれてしまいましたが。

「カテリーナ」のこと、教えてくださってありがとうございます。
私は今まで知りませんでした。
続きを書いて下さるのを楽しみにしています。

もっと書きたいけれど、長くなりすぎて飛んじゃったらいけないので一旦ここでおえますね。では、また。
Posted by:  at 2008年05月03日(土) 23:11

静さまへ

神の存在を信じていた時期がありました。清く正しく美しく生きていけば天国にいけるのだ。
まさに、「信じるものは救われる」の世界でした。

ですが人間です。喧嘩もするし、人をうらやんだりもする。神の教えに背くことになるため、
懺悔の日々でした。己の無力さに苦悩が続きます、自信は常に喪失するのです。

神は天国と地獄に行くものを煉獄で選別するという。犯罪者は当然地獄に行くし、
良いことをすれば天国にいける。だから、悪いことは絶対しない、と誓うのです。

ですが、人の良い善良な信者や檀家が、犯罪の加担になることや(ねずみ講・村八分・人種差別)
愛してはいけない人を愛してしまったり、安楽死をさせたりもする。

また神を恐れるイタリアのマフィアも、戦争に行くひとも、犯罪や殺人を犯す。
そして、いけシャーシャーと、もう二度と悪いことはしません、罪をお許し下さい。などと
嘘をつく。嘘を付いた時点で、もう神や仏にそむいているのに!

人生を重ねるに従い、神を信じ日々懺悔する者の中に犯罪者がおり、倫理道徳に反する者さえ
いることを知ります。神の存在は、人間社会で生きていくうえに大切な決まり事さえ守らない
者の、歯止めにすらならないのか?

神でない人間は、天国にいけないとわかっても、神の教えに背き、清く正しく美しく生きる事など
時に困難で、「人生はもうちょいと複雑なんだよ」と知るのです。
そして自分も神の怒りが怖いゆえの、清く正しく美しくでしかなかった事に気が付くのです。

続く
Posted by:Miruba  at 2008年05月03日(土) 19:27

では、神も仏も要らないじゃないか。何のために崇高な存在として、そこにあるのだ。

7年前イタリアのシエナに行きました。子供の頃聞いたシエナのカテリーナを Pinacoteca Nazionale
ピナコテーカナィオナーレ(国立絵画館)にてようやく見ることが出来ました。

カテリーナは聖人ですが、彼女の母親は地獄にいました。母親を天国に引き上げるべく、神に頼みます。天使に引き上げられようとした母親に他の地獄にいた者が母親にすがり付こうとしますが「助かりたければ、私のように聖女の子供をもつのだね」と言い放ちます。その言葉で母親は再び地獄に落ちます。
カテリーナは再度神に母親を天国にと頼みますが聞き入れてもらえず、最後は母親のいる地獄に自分が落ちていくのです。

芥川龍之介の蜘蛛の糸をご存知でしょう。

釈迦は地獄をふと覗き、罪人のカンダタ(&#29325;陀多)を見つける。カンダタは生前様々な悪事を行ったが一度小さな蜘蛛を助けた事があった。そこで釈迦は地獄の底のカンダタを極楽への道へと案内するために、一本の蜘蛛の糸をカンダタに下ろす。

カンダタは蜘蛛の糸をつたって、極楽へと上り始めた。ところが糸をつたって数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸は重さによって切れて落ちてしまう。カンタダは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚く。

自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心、次の瞬間蜘蛛の糸が、皮肉にもカンダタのぶら下がっている所から切れてしまう。愚かなカンダタは再びに地獄に堕ちてしまった。
続く
Posted by:Miruba  at 2008年05月03日(土) 19:26

カンダタはまさにカテリーナの母親です。

神も仏もその存在が人間の心の中にあることにようやく気が付きました。
19世紀末期の象徴派の画家ギュスターヴ・モローの言ったという言葉、
「苦しみや魂の寂寥がなかったなら、神は知られないままだったであろう」

まさに、心の中の良心が神であり、悪心が悪魔であり、天国と地獄を分ける煉獄でどちらに行くべきか
選別するのは神にあらず人間である自分自身であると、思い至りました。
聖女といわれたカテリーナさえ、神の選択を選ばなかったのですから。

そして思います。天国と地獄は、神や仏が心の中にあるように、必ずその存在はあるのだ。

神様ではない私は伴侶でもない、よそ様のカッコイイダンスを踊るあの方に恋しちゃうの〜おほ
これは地獄に落ちるわ〜それでも絶対蜘蛛の糸をみつけるんだ〜〜〜あは

信じるものは、救われる
信じるものは、足元すくわれる  ともいうらしいが・・・


静様
とても深題材でした
ありがとうございました
Posted by:Miruba  at 2008年05月03日(土) 19:24