入院そして施設へ入居 【2007年04月10日(火) 】
このブログ本文は、新生エレックレコード始動に呼応し
音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
----------------------------------------
そんな母がどう言うわけか食べる事があんなに好きだったのに
ごはんを嫌がり何も食べなくなりやがて飲み物さえも
受け付けなくなってしまった。
母を車椅子に乗せ近所の病院に連れて行き点滴をしてもらい
医者に相談をした。
医者には認知症の外来が受けられる病院に行く事を進められた。
病院を出るともう外は真っ暗になっていた。
母が夜道を怖がらないように母の車椅子を押しながら
母の好きな童謡を歌い続けた。
秋の夜風がほほをつたう涙を乾かしてくれる。
ある施設の面談で「お母様の様子をお聞きしていると施設では
難しいのでは」と言われ認知症の専門の科がある病院を
紹介してもらった。
早速に病院を訪ね母を連れて行った。
担当の医師が母の症状を見て直に入院を認めてくれた。
選択としては施設と病院の二つしかない中で
もし母が元気で直ってくれたらと願い病院を選んだ。
一週間後に入院の日が決まった。
入院の前日に姉と電話で入院の手続きや仕度は私がやるから
お姉ちゃんは会社に行ってと言うと姉はありがとうと言いながら
泣いているのが分かった。
「お姉ちゃん大丈夫よ、お母さんまたもとの様に元気になるから」
と元気付け電話を切った。
入院当日、介護タクシーに私と長女が手伝ってくれた。
真っ青に晴れた日だった。母は自分がどこに連れて行かれるのか
不安で何度もここ何処と聞いてくる。
長女が上手く母の相手をしてくれた。
「おばあちゃん、どこか悪いとこありませんか?って
検査してもろおうよね」
ただうなづき、ここ何処と聞いてくる。
病院につき長女は
「お母さんゴメンネここまでしか付き合えないけど」
「いいのここからは私で十分できるから早く会社に行って」
長女は小走りで駅方向に消えていった。
車椅子を押しながら認知症の棟に入ると今までの
病院の感触とは大きく違っていた。
スタッフの動きが認知症の患者を熟知している。
母は落ち着かない様子で何度も車椅子から立ち上がろうとしていた。
病院の方に母をお任せし、母を乗せた車椅子は
病連の奥に消えていった。
やはり専門医とはその道のプロなのかとつくづく感心させられた。
手続きに時間がかかり病院を出たのは夕方になっていた。
肌寒く11月の終りがもうすぐまた冬が来る事を感じさせる。
病室を出るときに帰るといえばまた暴れるのではないかと
ちょっと出てくると言ってきただけであった。
ご飯はちゃんと食べてくれるかしら、夜はちゃんと寝てくれるかしら、
寒くないかしら切なさだけが心を空回りしている。
12月上旬母を見舞いに病院に向かう。
なぜか母に会えると思うと胸がいっぱいになる。
この頃は涙をこらえて笑顔で母に接するのが精一杯であった。
病院の広いフロアーに母が車椅子にちょこんと座っていた。
思わずクスッと笑ってしまった。
担当医から母の様態やどのように生活しているか報告があった。
ご飯もしっかりと食べ元気で落ち着いていますと言われとても嬉しかった。
入院直後は今から家に帰ると言われ看護師も苦労をしてましたが
、と笑いながら言われ私はスミマセンと頭を下げた。
穏やかな日々が続いた。
病院に行く時は実家に寄り父を乗せてから行くようにしているが
私が一人で行くと「お父さん元気」と何度も同じ事を聞く。
同じ言葉を繰り返すのは前のままであった。
しかし顔に笑顔が出てきてここの人はみんな親切で
すごく良くしてくれるお母の口から出たのはびっくりした。
帰るときに「ありがとう、また来てね、気をつけてね」と気遣う言葉も出た。
ここの医師とスタッフに言葉に出来ないほどの感謝を覚えた。
帰りに母の洗濯物を持ち帰りベランダに干していると
子供たちが赤ちゃんの頃オムツを干していたのを思い出す、
母の顔がなぜか洗濯物の上の青空に浮かぶ。
私には姉と兄がいるのだが兄とはずっと会っていない。
よくある話だが兄のお嫁さんと父と母が合わず
ずっと疎遠になってしまった。
父が戦争に行っている時に兄は生まれ、
母は父がニューギニアで死んだものと思っていた。
ひょっこりと父が帰って来たのは兄がもう物心が分かる頃だった。
戦争中に疎開先の宮城県北上川の側で生まれ肩身の狭い思いで
幼少期を過ごしたからだろうか兄は父には幼い頃から慣れなかった。
母のこの様な様態を兄に知らせるべきか悩んだが
連絡だけはしておこうと手紙を書いた。
普通の兄弟なら電話で話せるはずなのにもう10年以上兄とは
会っていない。
手紙の返事はその後何も来なかった。
数日後いつものように日曜日に母の見舞いに行くと病室に兄がいた。
十数年ぶりの兄はかなり太っていた。
父に本当に良く似てきていた。
母は兄に嬉しそうに話しかけている
、しかし母は兄を父と思い込んでいる。
兄は母の変わり果てた姿にじっと黙ってうなずいていた。
母の記憶の中ではもう兄はいないのだろう。
時が経ち今の医療規則では病院を出なければならなかった。
この病院を母はすごく好きなようだここにいると母は落ち着いてくれている。
もしかしたらこのまま家に連れて帰れるのではと思うほど
母は穏やかな日々を過ごしてくれた。
今後の母の対応をソーシャルワーカーに相談をした。
家に連れて帰るのではなかったらこの病院から施設に移すのが
一番良いとの助言であった。
数ヶ月で病院を出なければならない、認知症には環境の変化が
病気を悪化させることもある。
日本の医療規則にもどかしさと落胆を感じた。
実家からそう遠くなく小奇麗な老人介護施設を見つけた。
母に施設に移るとは言えないまま退院する日を向かえた。
病院の玄関まで看護師さんが見送りに出てきてくれた。
母は親切にしてくれた看護師さんとの別れに涙している、
母の涙を見たのは久しぶりであった。
音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
----------------------------------------
そんな母がどう言うわけか食べる事があんなに好きだったのに
ごはんを嫌がり何も食べなくなりやがて飲み物さえも
受け付けなくなってしまった。
母を車椅子に乗せ近所の病院に連れて行き点滴をしてもらい
医者に相談をした。
医者には認知症の外来が受けられる病院に行く事を進められた。
病院を出るともう外は真っ暗になっていた。
母が夜道を怖がらないように母の車椅子を押しながら
母の好きな童謡を歌い続けた。
秋の夜風がほほをつたう涙を乾かしてくれる。
ある施設の面談で「お母様の様子をお聞きしていると施設では
難しいのでは」と言われ認知症の専門の科がある病院を
紹介してもらった。
早速に病院を訪ね母を連れて行った。
担当の医師が母の症状を見て直に入院を認めてくれた。
選択としては施設と病院の二つしかない中で
もし母が元気で直ってくれたらと願い病院を選んだ。
一週間後に入院の日が決まった。
入院の前日に姉と電話で入院の手続きや仕度は私がやるから
お姉ちゃんは会社に行ってと言うと姉はありがとうと言いながら
泣いているのが分かった。
「お姉ちゃん大丈夫よ、お母さんまたもとの様に元気になるから」
と元気付け電話を切った。
入院当日、介護タクシーに私と長女が手伝ってくれた。
真っ青に晴れた日だった。母は自分がどこに連れて行かれるのか
不安で何度もここ何処と聞いてくる。
長女が上手く母の相手をしてくれた。
「おばあちゃん、どこか悪いとこありませんか?って
検査してもろおうよね」
ただうなづき、ここ何処と聞いてくる。
病院につき長女は
「お母さんゴメンネここまでしか付き合えないけど」
「いいのここからは私で十分できるから早く会社に行って」
長女は小走りで駅方向に消えていった。
車椅子を押しながら認知症の棟に入ると今までの
病院の感触とは大きく違っていた。
スタッフの動きが認知症の患者を熟知している。
母は落ち着かない様子で何度も車椅子から立ち上がろうとしていた。
病院の方に母をお任せし、母を乗せた車椅子は
病連の奥に消えていった。
やはり専門医とはその道のプロなのかとつくづく感心させられた。
手続きに時間がかかり病院を出たのは夕方になっていた。
肌寒く11月の終りがもうすぐまた冬が来る事を感じさせる。
病室を出るときに帰るといえばまた暴れるのではないかと
ちょっと出てくると言ってきただけであった。
ご飯はちゃんと食べてくれるかしら、夜はちゃんと寝てくれるかしら、
寒くないかしら切なさだけが心を空回りしている。
12月上旬母を見舞いに病院に向かう。
なぜか母に会えると思うと胸がいっぱいになる。
この頃は涙をこらえて笑顔で母に接するのが精一杯であった。
病院の広いフロアーに母が車椅子にちょこんと座っていた。
思わずクスッと笑ってしまった。
担当医から母の様態やどのように生活しているか報告があった。
ご飯もしっかりと食べ元気で落ち着いていますと言われとても嬉しかった。
入院直後は今から家に帰ると言われ看護師も苦労をしてましたが
、と笑いながら言われ私はスミマセンと頭を下げた。
穏やかな日々が続いた。
病院に行く時は実家に寄り父を乗せてから行くようにしているが
私が一人で行くと「お父さん元気」と何度も同じ事を聞く。
同じ言葉を繰り返すのは前のままであった。
しかし顔に笑顔が出てきてここの人はみんな親切で
すごく良くしてくれるお母の口から出たのはびっくりした。
帰るときに「ありがとう、また来てね、気をつけてね」と気遣う言葉も出た。
ここの医師とスタッフに言葉に出来ないほどの感謝を覚えた。
帰りに母の洗濯物を持ち帰りベランダに干していると
子供たちが赤ちゃんの頃オムツを干していたのを思い出す、
母の顔がなぜか洗濯物の上の青空に浮かぶ。
私には姉と兄がいるのだが兄とはずっと会っていない。
よくある話だが兄のお嫁さんと父と母が合わず
ずっと疎遠になってしまった。
父が戦争に行っている時に兄は生まれ、
母は父がニューギニアで死んだものと思っていた。
ひょっこりと父が帰って来たのは兄がもう物心が分かる頃だった。
戦争中に疎開先の宮城県北上川の側で生まれ肩身の狭い思いで
幼少期を過ごしたからだろうか兄は父には幼い頃から慣れなかった。
母のこの様な様態を兄に知らせるべきか悩んだが
連絡だけはしておこうと手紙を書いた。
普通の兄弟なら電話で話せるはずなのにもう10年以上兄とは
会っていない。
手紙の返事はその後何も来なかった。
数日後いつものように日曜日に母の見舞いに行くと病室に兄がいた。
十数年ぶりの兄はかなり太っていた。
父に本当に良く似てきていた。
母は兄に嬉しそうに話しかけている
、しかし母は兄を父と思い込んでいる。
兄は母の変わり果てた姿にじっと黙ってうなずいていた。
母の記憶の中ではもう兄はいないのだろう。
時が経ち今の医療規則では病院を出なければならなかった。
この病院を母はすごく好きなようだここにいると母は落ち着いてくれている。
もしかしたらこのまま家に連れて帰れるのではと思うほど
母は穏やかな日々を過ごしてくれた。
今後の母の対応をソーシャルワーカーに相談をした。
家に連れて帰るのではなかったらこの病院から施設に移すのが
一番良いとの助言であった。
数ヶ月で病院を出なければならない、認知症には環境の変化が
病気を悪化させることもある。
日本の医療規則にもどかしさと落胆を感じた。
実家からそう遠くなく小奇麗な老人介護施設を見つけた。
母に施設に移るとは言えないまま退院する日を向かえた。
病院の玄関まで看護師さんが見送りに出てきてくれた。
母は親切にしてくれた看護師さんとの別れに涙している、
母の涙を見たのは久しぶりであった。
Posted
at 17:21
| この記事のURL
コメント(2)
| トラックバック(0)

