池尻の飲み屋そてつにて 【2007年10月30日(火) 】
先日、旧知の友人中川君と酒を三ヶ月ぶりぐらいに酌み交わした。
「萩さん、いつもブログ読んでいるけど、リーンカーネイションじゃなくてリインカーネイションだよ。早く訂正したほうが良い」と教えてくれた。
しかし、自分では二度ぐらいこの言葉はチェックしたが、どちらでも出てくる。
まあ、いいやと生まれながらのアバウト精神でほったらかしてしまった。
中川君は、ユニバーサルレコードの今は社長会長付プロデューサーだが、少し前まで常務を務めていた。
本来なら、彼がここまでユニバーサルで出世することはありえない企業構造である。
彼は工場出身のブルーカラーであった。
高校を卒業して川崎の工場で汗まみれになり、本社の制作部に配属されることを望んでいたのである。
しかし、本社勤務でさえ難しい配属なのに、制作部となるとよほどの運を持ったシンデレラボーイにならなければ無理である。
彼は、はたと考え、本社とイーブンで話し合える立ち位置はどうすれば良いのだろうかと思案した。
答えは組合の上層部に入ることだと考え、ポリドールの組合にて書記長を務めるとこまで這い上がったのである。
紅いハチマキをしっかりと頭に締め「俺たちはここで会社の言うことを聞いたら、組合は会社の犬になる。なんとしても我々の要求は通さなければならない。」こんなことを組合員にアジっていたのだ。
役員を前にしても一歩も引かぬ姿勢を、役員たちは何かの飴をしゃぶらせなければと考えたのか、制作部に配属したのだと思う。
約30年前、彼とポリドールの三階の制作本部にて初めて彼とあった。
制作三課の課長から紹介されたときである、彼はなにを勘違いしたのか「中川と言います、今まで工場にいましたのでまだ新参者です。宜しくお願いします。」と俺に名刺を出すのである。
おい、誰か言ってやれよ、俺もポリドールのディレクターだって、同じ会社内で名刺交換するわけないだろ。
それから彼は俺のアシスタントについた。
元々がバンド上がりでボーカル担当をしていただけに、音楽は飯より好きである。
俺の一番天狗の時期に、彼は俺をずっと見てきた。
今から考えると、俺を俺が今見えたら殴りたくなるほど、生意気だったと思う。
その彼と四年後に離れる時期が来た。
本部長がお家騒動の末、独立してレコード会社を作ったのである。
もちろん三分の一のスタッフを引き連れての話である、トーラスレコードが発足した。
原宿のポールスチュワートのビルの上に構えたお洒落な会社であった。
本部長との関係から、自分もトーラスのプロデューサーとして移って行った。
37歳の時に、ポリドールレコードの社長水田さんと出会うことになった。
水田さんに何かカリスマ的な人柄を感じ、就いていきたい気持ちからポリドールにまた席を置くことになったのである。
そこでまた中川君と再会し、新たな道を歩み始めることになった。
ちょうど、中川君にとって一番つらいポリドール時代である。
1987年に武田鉄矢と芦川よしみのCMでヒットした「男と女のラブゲーム」を、中川君が事務所の要望を聞きレコード化しなかったことが発端になったのである。
他社がレコード化して大ヒットしたことに水田社長が激怒したことから、中川君への逆風が強くなっていったのである。
「中川君、何でレコード化しなかったの」
「面と向かってそんなことを俺に言えるのは萩さんだけですよ」と言いながら苦笑した。
やはり、経営者側から見れば事務所のポリシーなんて分かるわけがない、平社員にとって外資系利益市場主義は心の支えを崩していった。
あるとき水田さんに社長室に呼ばれた。
「萩原君、海援隊、君が担当してもらえないか。中川は営業所でも行ってもらおうと思っている」
「水田社長、ちょっと待ってください。今、彼はカシオペアとか京本政樹のアシスタントで頑張ってもらっていますので、外されたら僕が困ります。それに今自分の仕事は一杯ですし無理ですよ」
そんな感じでのらりくらりと逃げた。
世の中はまだまだバブルで浮かれていた。
そんな時に武田鉄矢の事務所で、ゴルフコンペが主催された。
もちろん、レコード会社社長の水田さんは招待されている。
中川君がそのときの幹事と司会進行を任されていた。
偶然にそのコンペで水田さんがホールインワンを出してしまったのだ。
中川君は水田さんのバックを持ち、司会で優勝者より賛美し、帰りには車まで送り、献身の限りをつくしたのである。
そのことが水田さんの考えをかえたとは思えないが、それから水田さんの中川君に対しての態度が柔和になっていったのである。
時が経ち1996年に水田社長が退任した後任に、東芝EMIから石坂さんがその席についた。
自分も翌年ポリドールを去ることになる送別会は、彼が音頭をとってくれた。
あれから彼はトントン拍子に出世していった。
あるとき彼が制作本部長に就任したときに最初の名刺を貰った。
もちろん、この名刺が初めて使う一枚目ですと書かれているものだ。
工場出身のブルーカラーが本社の常務にまで登りつめたのは、ジャンボ宝くじで三億円を当てるよりも難しいことである。
誰よりも勤勉で誰よりも会社を愛し、誰よりも仕事をする男である。
だから、ここまで来たのだろう。
彼が常務から社長付になったときに、奥さんと海外旅行に行ったと聞いた、
我々が若き日に、上司がハワイでオフを取るなんてほざいた時には、そのまま鮫に喰われちまえと罵ったものだ。
彼にはもっと上に行って欲しいと思うが、今まで歩いた足跡を日本を離れ夫婦で語り合いたかったのだろう。
彼のことを書いていると、思わず涙腺が緩んでしまう。
中川くんは僕のことを音楽業界に入ってからの師匠と言ってくれる。
今ではこちらが教わることの方が多い。

生きている限り酒を酌み交わす友人 中川孝一へ
長生きしような。
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しかし、自分では二度ぐらいこの言葉はチェックしたが、どちらでも出てくる。
まあ、いいやと生まれながらのアバウト精神でほったらかしてしまった。
中川君は、ユニバーサルレコードの今は社長会長付プロデューサーだが、少し前まで常務を務めていた。
本来なら、彼がここまでユニバーサルで出世することはありえない企業構造である。
彼は工場出身のブルーカラーであった。
高校を卒業して川崎の工場で汗まみれになり、本社の制作部に配属されることを望んでいたのである。
しかし、本社勤務でさえ難しい配属なのに、制作部となるとよほどの運を持ったシンデレラボーイにならなければ無理である。
彼は、はたと考え、本社とイーブンで話し合える立ち位置はどうすれば良いのだろうかと思案した。
答えは組合の上層部に入ることだと考え、ポリドールの組合にて書記長を務めるとこまで這い上がったのである。
紅いハチマキをしっかりと頭に締め「俺たちはここで会社の言うことを聞いたら、組合は会社の犬になる。なんとしても我々の要求は通さなければならない。」こんなことを組合員にアジっていたのだ。
役員を前にしても一歩も引かぬ姿勢を、役員たちは何かの飴をしゃぶらせなければと考えたのか、制作部に配属したのだと思う。
約30年前、彼とポリドールの三階の制作本部にて初めて彼とあった。
制作三課の課長から紹介されたときである、彼はなにを勘違いしたのか「中川と言います、今まで工場にいましたのでまだ新参者です。宜しくお願いします。」と俺に名刺を出すのである。
おい、誰か言ってやれよ、俺もポリドールのディレクターだって、同じ会社内で名刺交換するわけないだろ。
それから彼は俺のアシスタントについた。
元々がバンド上がりでボーカル担当をしていただけに、音楽は飯より好きである。
俺の一番天狗の時期に、彼は俺をずっと見てきた。
今から考えると、俺を俺が今見えたら殴りたくなるほど、生意気だったと思う。
その彼と四年後に離れる時期が来た。
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もちろん三分の一のスタッフを引き連れての話である、トーラスレコードが発足した。
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本部長との関係から、自分もトーラスのプロデューサーとして移って行った。
37歳の時に、ポリドールレコードの社長水田さんと出会うことになった。
水田さんに何かカリスマ的な人柄を感じ、就いていきたい気持ちからポリドールにまた席を置くことになったのである。
そこでまた中川君と再会し、新たな道を歩み始めることになった。
ちょうど、中川君にとって一番つらいポリドール時代である。
1987年に武田鉄矢と芦川よしみのCMでヒットした「男と女のラブゲーム」を、中川君が事務所の要望を聞きレコード化しなかったことが発端になったのである。
他社がレコード化して大ヒットしたことに水田社長が激怒したことから、中川君への逆風が強くなっていったのである。
「中川君、何でレコード化しなかったの」
「面と向かってそんなことを俺に言えるのは萩さんだけですよ」と言いながら苦笑した。
やはり、経営者側から見れば事務所のポリシーなんて分かるわけがない、平社員にとって外資系利益市場主義は心の支えを崩していった。
あるとき水田さんに社長室に呼ばれた。
「萩原君、海援隊、君が担当してもらえないか。中川は営業所でも行ってもらおうと思っている」
「水田社長、ちょっと待ってください。今、彼はカシオペアとか京本政樹のアシスタントで頑張ってもらっていますので、外されたら僕が困ります。それに今自分の仕事は一杯ですし無理ですよ」
そんな感じでのらりくらりと逃げた。
世の中はまだまだバブルで浮かれていた。
そんな時に武田鉄矢の事務所で、ゴルフコンペが主催された。
もちろん、レコード会社社長の水田さんは招待されている。
中川君がそのときの幹事と司会進行を任されていた。
偶然にそのコンペで水田さんがホールインワンを出してしまったのだ。
中川君は水田さんのバックを持ち、司会で優勝者より賛美し、帰りには車まで送り、献身の限りをつくしたのである。
そのことが水田さんの考えをかえたとは思えないが、それから水田さんの中川君に対しての態度が柔和になっていったのである。
時が経ち1996年に水田社長が退任した後任に、東芝EMIから石坂さんがその席についた。
自分も翌年ポリドールを去ることになる送別会は、彼が音頭をとってくれた。
あれから彼はトントン拍子に出世していった。
あるとき彼が制作本部長に就任したときに最初の名刺を貰った。
もちろん、この名刺が初めて使う一枚目ですと書かれているものだ。
工場出身のブルーカラーが本社の常務にまで登りつめたのは、ジャンボ宝くじで三億円を当てるよりも難しいことである。
誰よりも勤勉で誰よりも会社を愛し、誰よりも仕事をする男である。
だから、ここまで来たのだろう。
彼が常務から社長付になったときに、奥さんと海外旅行に行ったと聞いた、
我々が若き日に、上司がハワイでオフを取るなんてほざいた時には、そのまま鮫に喰われちまえと罵ったものだ。
彼にはもっと上に行って欲しいと思うが、今まで歩いた足跡を日本を離れ夫婦で語り合いたかったのだろう。
彼のことを書いていると、思わず涙腺が緩んでしまう。
中川くんは僕のことを音楽業界に入ってからの師匠と言ってくれる。
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長生きしような。
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