ある葬儀にての想い 【2007年04月24日(火) 】
先週、1987年から1996年まで「ポリドールレコード」にて
職場を共にした仲間が逝った。
自分より三歳年下であった。
自分がポリドールを辞めたあと、彼は必死に会社に
食い下がりそこで生きようとした。
2000年ぐらいであったであろうか。
ポリドールを彼が辞めたという通知が一枚の葉書で来た。
若くして脳梗塞であった。
彼には悪いが、通夜であの頃の仲間と会えるのは楽しみだった。
当時、彼とは「CASIOPEA」を制作と販売促進の立場でタッグを組んだ。
彼が逝ったことは年功序列から考えショックではあったが、
こんなこともあるのだと思い、通夜に出向いた。
遺影が大きく見え、親族に挨拶をして焼香をする時に
あの頃の彼の屈託のない笑顔の小さなポートレートが
焼香箱の横に飾られていた。
通夜後に当時の仲間と学芸大で飲み、三々五々で解散した。
すると意味もなくあのポートレートを思い出し、止めどもなく涙があふれ、
一人ガードレールの横で泣いた。
『生き死に』
ずっと昔映画フーテンの寅で渥美清と京マチ子の
ひとつのシーンを思い出した。
「寅さん、人ってなんで死ぬんだろう」
「人がいっぱい生まれてきて、年寄りがおしくら饅頭をするんですよ。
するとあっあぶない落っこちる。それで落ちた人が死んじゃうんです。
死ぬって言うのはそんなもんじゃないですかね。」
幼き頃、母親が死ぬ事や飼い犬が死ぬ事を考えると夜も眠れなく
悲しくなった。
死にたいと思ったこともあった。
友人の保証人をして4年間の地獄の釜の淵を歩いたときである。
そのときは自分の生命保険での受取額を調べ、
何を馬鹿なことをやっているんだと自分を戒めた。
先日、その友人だった男の破産宣告が来て、地裁で行われた債権者会議に出席した。
債権者席に座ったのは自分だけだった。
管財人と弁護士の立会いのもとに会議は始まった。
管財人から自分に何か申し立てはありますかと聞かれた。
「あります」と答えた。
「その男と話しをさせてください。」
「何の件についてですか。」
「いいから話をさせてください。」
「お前、何で消えた。何で逃げた。」
相手はうつむいたままであった。
「俺は今幸せだ。
お前から聞ききたかった言葉は只一言。
『すみませんでした』
『ごめんなさい』
この言葉を聞けたなら俺はどれだけ救われたか分かるか。
お前も幸せになりたいから自己破産を選んだんだろう。」
「すみませんでした。」
泣きながらあいつの言った言葉であった。
債権者会議を出ると外は真っ青な空が霞ヶ関を覆っていた。
今日はおもいっきり飲むぞと意気込み、地下鉄の階段を小走りで下りた。
----------------------------------------
※およそ35年前の萩原本人も登場する単行本「エレックレコードの時代」。
熟割にて絶賛発売中!
≫詳しくはこちら
職場を共にした仲間が逝った。
自分より三歳年下であった。
自分がポリドールを辞めたあと、彼は必死に会社に
食い下がりそこで生きようとした。
2000年ぐらいであったであろうか。
ポリドールを彼が辞めたという通知が一枚の葉書で来た。
若くして脳梗塞であった。
彼には悪いが、通夜であの頃の仲間と会えるのは楽しみだった。
当時、彼とは「CASIOPEA」を制作と販売促進の立場でタッグを組んだ。
彼が逝ったことは年功序列から考えショックではあったが、
こんなこともあるのだと思い、通夜に出向いた。
遺影が大きく見え、親族に挨拶をして焼香をする時に
あの頃の彼の屈託のない笑顔の小さなポートレートが
焼香箱の横に飾られていた。
通夜後に当時の仲間と学芸大で飲み、三々五々で解散した。
すると意味もなくあのポートレートを思い出し、止めどもなく涙があふれ、
一人ガードレールの横で泣いた。
『生き死に』
ずっと昔映画フーテンの寅で渥美清と京マチ子の
ひとつのシーンを思い出した。
「寅さん、人ってなんで死ぬんだろう」
「人がいっぱい生まれてきて、年寄りがおしくら饅頭をするんですよ。
するとあっあぶない落っこちる。それで落ちた人が死んじゃうんです。
死ぬって言うのはそんなもんじゃないですかね。」
幼き頃、母親が死ぬ事や飼い犬が死ぬ事を考えると夜も眠れなく
悲しくなった。
死にたいと思ったこともあった。
友人の保証人をして4年間の地獄の釜の淵を歩いたときである。
そのときは自分の生命保険での受取額を調べ、
何を馬鹿なことをやっているんだと自分を戒めた。
先日、その友人だった男の破産宣告が来て、地裁で行われた債権者会議に出席した。
債権者席に座ったのは自分だけだった。
管財人と弁護士の立会いのもとに会議は始まった。
管財人から自分に何か申し立てはありますかと聞かれた。
「あります」と答えた。
「その男と話しをさせてください。」
「何の件についてですか。」
「いいから話をさせてください。」
「お前、何で消えた。何で逃げた。」
相手はうつむいたままであった。
「俺は今幸せだ。
お前から聞ききたかった言葉は只一言。
『すみませんでした』
『ごめんなさい』
この言葉を聞けたなら俺はどれだけ救われたか分かるか。
お前も幸せになりたいから自己破産を選んだんだろう。」
「すみませんでした。」
泣きながらあいつの言った言葉であった。
債権者会議を出ると外は真っ青な空が霞ヶ関を覆っていた。
今日はおもいっきり飲むぞと意気込み、地下鉄の階段を小走りで下りた。
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中沢厚子さんとの思い出そして、 【2007年04月17日(火) 】
穏やかな日々を短編ながらブログに載せることが
出来ました本当にありがとうございました。
中沢厚子さんと私が出会ったのは私が21歳で
中沢さんが17歳ぐらいのときでした。
旧六本木ソニースタジオにて吉田拓郎の「青春の詩」の
レコーディングで知り合いその後は同じエレックでしたが
中沢さんはフォークの老舗でミュージカルステーションに所属し、
レコーディングでエレックに来る時に会うぐらいでした。
今回のエレックの再興により新たに中沢さんと接点が
持てたことを喜んでおります。
コメントもスラ様/エロス宮澤様/弓の介様/湘南ジョガー様に
頂きありがとうございました。
エレックレコードはかって若き弱者の代弁者を演じて来ました、
今でもその気持ちは変わりません。
今後とも同じ気持ちでブログを書かして頂きます。
=======================================================
思いっきり気分を変えます。
「飛びますより〜気分を変えて〜」
♪憂鬱な毎日をどうしようギターをひても〜
「ドンドンドン萩原いるか」
「これはこれはステージの浜崎さまと佐々木さま
急な立ち寄りで何か私がそそでもしでかしましたか。」
「じつは我々はシニアコミュニケーションを退社することになったのじゃ」
「それはまたどうしてでございますか、
まさかアルコール依存症矯正施設に入るとか、
はたまた全日本女子プロレスに誘われたとか」
「あばれるぞ、それで後任の増田を連れてきた、
どうだ見目麗しいだろう」
「これはこれは北海道で放牧されている
ホルスタインのようでございますな」
「どこ見てんのよ」
「失礼致しましたついつい目線が胸にいってしまいます」
「中沢厚子さんの認知症の文章天晴れじゃ、
ステージの会員で同じ境遇の方もいることだろう
元気付けられたことと思うぞ」
「増田さまそのようなおほめのお言葉
今までは聞いたことはかってありません
嬉しくて涙がチョチョぎれます」
「わしはうわばみ姉妹と違って優しいのじゃ、酒を出せ・・・」
「いま何とおしゃいましたか」
「二度言わせるな酒を出せ」
「あなた様もうわばみ姉妹と同じく酒癖のほうは
いかがのもんでしようか」
「ガハハハ、おぬしするどいなあの二人を足しても
わしの酒量にはかなわぬのじゃ
そしてシニアコミュニケーションの和田アキ子と呼ばれているのだ、
シニアコミュニケーションに入るまえはスポーツ系の会社にいたのだ」
「戸塚ヨットスクールにでもいらしゃいましたか」
「おぬし口は災いの元とうわばみ姉妹でまだ学習しておらんのか」
「めっそうもございませんではここは萩原太っ腹のところを
お見せいたします、近くにめちゃ肉のうまい飲み屋がございます
そこで送別会を兼ねた酒席を設けさせていただきます」
「かわいい奴よのう気が利くではないか」
「そりゃもうステージあっての萩原でございます、いざ参りましょう」
「どこじゃ」
「ここでございます」
「何ここは吉野家ではないか」
「は〜いビールと酒はお一人三本までと決まっております、
生姜も食べ放題、牛丼もお付け致します太っ腹でございます」
「お前は吉野家で好きなだけ飲んで食ってろ
我々は三宿の春秋でも行って天使の誘惑と東京軍鶏で
舌鼓でも打ってくるわ勿論払いはお前じゃサラバじゃ」
「とほほほ、うわばみ姉妹が居なくなったと思ったら
今度はゴット姉ちゃんが来てしまった」
※編集部より注:前後の会話文はフィクションです。
----------------------------------------
※およそ35年前の萩原本人も登場する単行本「エレックレコードの時代」。
熟割にて絶賛発売中!
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出来ました本当にありがとうございました。
中沢厚子さんと私が出会ったのは私が21歳で
中沢さんが17歳ぐらいのときでした。
旧六本木ソニースタジオにて吉田拓郎の「青春の詩」の
レコーディングで知り合いその後は同じエレックでしたが
中沢さんはフォークの老舗でミュージカルステーションに所属し、
レコーディングでエレックに来る時に会うぐらいでした。
今回のエレックの再興により新たに中沢さんと接点が
持てたことを喜んでおります。
コメントもスラ様/エロス宮澤様/弓の介様/湘南ジョガー様に
頂きありがとうございました。
エレックレコードはかって若き弱者の代弁者を演じて来ました、
今でもその気持ちは変わりません。
今後とも同じ気持ちでブログを書かして頂きます。
=======================================================
思いっきり気分を変えます。
「飛びますより〜気分を変えて〜」
♪憂鬱な毎日をどうしようギターをひても〜
「ドンドンドン萩原いるか」
「これはこれはステージの浜崎さまと佐々木さま
急な立ち寄りで何か私がそそでもしでかしましたか。」
「じつは我々はシニアコミュニケーションを退社することになったのじゃ」
「それはまたどうしてでございますか、
まさかアルコール依存症矯正施設に入るとか、
はたまた全日本女子プロレスに誘われたとか」
「あばれるぞ、それで後任の増田を連れてきた、
どうだ見目麗しいだろう」
「これはこれは北海道で放牧されている
ホルスタインのようでございますな」
「どこ見てんのよ」
「失礼致しましたついつい目線が胸にいってしまいます」
「中沢厚子さんの認知症の文章天晴れじゃ、
ステージの会員で同じ境遇の方もいることだろう
元気付けられたことと思うぞ」
「増田さまそのようなおほめのお言葉
今までは聞いたことはかってありません
嬉しくて涙がチョチョぎれます」
「わしはうわばみ姉妹と違って優しいのじゃ、酒を出せ・・・」
「いま何とおしゃいましたか」
「二度言わせるな酒を出せ」
「あなた様もうわばみ姉妹と同じく酒癖のほうは
いかがのもんでしようか」
「ガハハハ、おぬしするどいなあの二人を足しても
わしの酒量にはかなわぬのじゃ
そしてシニアコミュニケーションの和田アキ子と呼ばれているのだ、
シニアコミュニケーションに入るまえはスポーツ系の会社にいたのだ」
「戸塚ヨットスクールにでもいらしゃいましたか」
「おぬし口は災いの元とうわばみ姉妹でまだ学習しておらんのか」
「めっそうもございませんではここは萩原太っ腹のところを
お見せいたします、近くにめちゃ肉のうまい飲み屋がございます
そこで送別会を兼ねた酒席を設けさせていただきます」
「かわいい奴よのう気が利くではないか」
「そりゃもうステージあっての萩原でございます、いざ参りましょう」
「どこじゃ」
「ここでございます」
「何ここは吉野家ではないか」
「は〜いビールと酒はお一人三本までと決まっております、
生姜も食べ放題、牛丼もお付け致します太っ腹でございます」
「お前は吉野家で好きなだけ飲んで食ってろ
我々は三宿の春秋でも行って天使の誘惑と東京軍鶏で
舌鼓でも打ってくるわ勿論払いはお前じゃサラバじゃ」
「とほほほ、うわばみ姉妹が居なくなったと思ったら
今度はゴット姉ちゃんが来てしまった」
※編集部より注:前後の会話文はフィクションです。
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※およそ35年前の萩原本人も登場する単行本「エレックレコードの時代」。
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入院そして施設へ入居 【2007年04月10日(火) 】
このブログ本文は、新生エレックレコード始動に呼応し
音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
----------------------------------------
そんな母がどう言うわけか食べる事があんなに好きだったのに
ごはんを嫌がり何も食べなくなりやがて飲み物さえも
受け付けなくなってしまった。
母を車椅子に乗せ近所の病院に連れて行き点滴をしてもらい
医者に相談をした。
医者には認知症の外来が受けられる病院に行く事を進められた。
病院を出るともう外は真っ暗になっていた。
母が夜道を怖がらないように母の車椅子を押しながら
母の好きな童謡を歌い続けた。
秋の夜風がほほをつたう涙を乾かしてくれる。
ある施設の面談で「お母様の様子をお聞きしていると施設では
難しいのでは」と言われ認知症の専門の科がある病院を
紹介してもらった。
早速に病院を訪ね母を連れて行った。
担当の医師が母の症状を見て直に入院を認めてくれた。
選択としては施設と病院の二つしかない中で
もし母が元気で直ってくれたらと願い病院を選んだ。
一週間後に入院の日が決まった。
入院の前日に姉と電話で入院の手続きや仕度は私がやるから
お姉ちゃんは会社に行ってと言うと姉はありがとうと言いながら
泣いているのが分かった。
「お姉ちゃん大丈夫よ、お母さんまたもとの様に元気になるから」
と元気付け電話を切った。
入院当日、介護タクシーに私と長女が手伝ってくれた。
真っ青に晴れた日だった。母は自分がどこに連れて行かれるのか
不安で何度もここ何処と聞いてくる。
長女が上手く母の相手をしてくれた。
「おばあちゃん、どこか悪いとこありませんか?って
検査してもろおうよね」
ただうなづき、ここ何処と聞いてくる。
病院につき長女は
「お母さんゴメンネここまでしか付き合えないけど」
「いいのここからは私で十分できるから早く会社に行って」
長女は小走りで駅方向に消えていった。
車椅子を押しながら認知症の棟に入ると今までの
病院の感触とは大きく違っていた。
スタッフの動きが認知症の患者を熟知している。
母は落ち着かない様子で何度も車椅子から立ち上がろうとしていた。
病院の方に母をお任せし、母を乗せた車椅子は
病連の奥に消えていった。
やはり専門医とはその道のプロなのかとつくづく感心させられた。
手続きに時間がかかり病院を出たのは夕方になっていた。
肌寒く11月の終りがもうすぐまた冬が来る事を感じさせる。
病室を出るときに帰るといえばまた暴れるのではないかと
ちょっと出てくると言ってきただけであった。
ご飯はちゃんと食べてくれるかしら、夜はちゃんと寝てくれるかしら、
寒くないかしら切なさだけが心を空回りしている。
12月上旬母を見舞いに病院に向かう。
なぜか母に会えると思うと胸がいっぱいになる。
この頃は涙をこらえて笑顔で母に接するのが精一杯であった。
病院の広いフロアーに母が車椅子にちょこんと座っていた。
思わずクスッと笑ってしまった。
担当医から母の様態やどのように生活しているか報告があった。
ご飯もしっかりと食べ元気で落ち着いていますと言われとても嬉しかった。
入院直後は今から家に帰ると言われ看護師も苦労をしてましたが
、と笑いながら言われ私はスミマセンと頭を下げた。
穏やかな日々が続いた。
病院に行く時は実家に寄り父を乗せてから行くようにしているが
私が一人で行くと「お父さん元気」と何度も同じ事を聞く。
同じ言葉を繰り返すのは前のままであった。
しかし顔に笑顔が出てきてここの人はみんな親切で
すごく良くしてくれるお母の口から出たのはびっくりした。
帰るときに「ありがとう、また来てね、気をつけてね」と気遣う言葉も出た。
ここの医師とスタッフに言葉に出来ないほどの感謝を覚えた。
帰りに母の洗濯物を持ち帰りベランダに干していると
子供たちが赤ちゃんの頃オムツを干していたのを思い出す、
母の顔がなぜか洗濯物の上の青空に浮かぶ。
私には姉と兄がいるのだが兄とはずっと会っていない。
よくある話だが兄のお嫁さんと父と母が合わず
ずっと疎遠になってしまった。
父が戦争に行っている時に兄は生まれ、
母は父がニューギニアで死んだものと思っていた。
ひょっこりと父が帰って来たのは兄がもう物心が分かる頃だった。
戦争中に疎開先の宮城県北上川の側で生まれ肩身の狭い思いで
幼少期を過ごしたからだろうか兄は父には幼い頃から慣れなかった。
母のこの様な様態を兄に知らせるべきか悩んだが
連絡だけはしておこうと手紙を書いた。
普通の兄弟なら電話で話せるはずなのにもう10年以上兄とは
会っていない。
手紙の返事はその後何も来なかった。
数日後いつものように日曜日に母の見舞いに行くと病室に兄がいた。
十数年ぶりの兄はかなり太っていた。
父に本当に良く似てきていた。
母は兄に嬉しそうに話しかけている
、しかし母は兄を父と思い込んでいる。
兄は母の変わり果てた姿にじっと黙ってうなずいていた。
母の記憶の中ではもう兄はいないのだろう。
時が経ち今の医療規則では病院を出なければならなかった。
この病院を母はすごく好きなようだここにいると母は落ち着いてくれている。
もしかしたらこのまま家に連れて帰れるのではと思うほど
母は穏やかな日々を過ごしてくれた。
今後の母の対応をソーシャルワーカーに相談をした。
家に連れて帰るのではなかったらこの病院から施設に移すのが
一番良いとの助言であった。
数ヶ月で病院を出なければならない、認知症には環境の変化が
病気を悪化させることもある。
日本の医療規則にもどかしさと落胆を感じた。
実家からそう遠くなく小奇麗な老人介護施設を見つけた。
母に施設に移るとは言えないまま退院する日を向かえた。
病院の玄関まで看護師さんが見送りに出てきてくれた。
母は親切にしてくれた看護師さんとの別れに涙している、
母の涙を見たのは久しぶりであった。
音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
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そんな母がどう言うわけか食べる事があんなに好きだったのに
ごはんを嫌がり何も食べなくなりやがて飲み物さえも
受け付けなくなってしまった。
母を車椅子に乗せ近所の病院に連れて行き点滴をしてもらい
医者に相談をした。
医者には認知症の外来が受けられる病院に行く事を進められた。
病院を出るともう外は真っ暗になっていた。
母が夜道を怖がらないように母の車椅子を押しながら
母の好きな童謡を歌い続けた。
秋の夜風がほほをつたう涙を乾かしてくれる。
ある施設の面談で「お母様の様子をお聞きしていると施設では
難しいのでは」と言われ認知症の専門の科がある病院を
紹介してもらった。
早速に病院を訪ね母を連れて行った。
担当の医師が母の症状を見て直に入院を認めてくれた。
選択としては施設と病院の二つしかない中で
もし母が元気で直ってくれたらと願い病院を選んだ。
一週間後に入院の日が決まった。
入院の前日に姉と電話で入院の手続きや仕度は私がやるから
お姉ちゃんは会社に行ってと言うと姉はありがとうと言いながら
泣いているのが分かった。
「お姉ちゃん大丈夫よ、お母さんまたもとの様に元気になるから」
と元気付け電話を切った。
入院当日、介護タクシーに私と長女が手伝ってくれた。
真っ青に晴れた日だった。母は自分がどこに連れて行かれるのか
不安で何度もここ何処と聞いてくる。
長女が上手く母の相手をしてくれた。
「おばあちゃん、どこか悪いとこありませんか?って
検査してもろおうよね」
ただうなづき、ここ何処と聞いてくる。
病院につき長女は
「お母さんゴメンネここまでしか付き合えないけど」
「いいのここからは私で十分できるから早く会社に行って」
長女は小走りで駅方向に消えていった。
車椅子を押しながら認知症の棟に入ると今までの
病院の感触とは大きく違っていた。
スタッフの動きが認知症の患者を熟知している。
母は落ち着かない様子で何度も車椅子から立ち上がろうとしていた。
病院の方に母をお任せし、母を乗せた車椅子は
病連の奥に消えていった。
やはり専門医とはその道のプロなのかとつくづく感心させられた。
手続きに時間がかかり病院を出たのは夕方になっていた。
肌寒く11月の終りがもうすぐまた冬が来る事を感じさせる。
病室を出るときに帰るといえばまた暴れるのではないかと
ちょっと出てくると言ってきただけであった。
ご飯はちゃんと食べてくれるかしら、夜はちゃんと寝てくれるかしら、
寒くないかしら切なさだけが心を空回りしている。
12月上旬母を見舞いに病院に向かう。
なぜか母に会えると思うと胸がいっぱいになる。
この頃は涙をこらえて笑顔で母に接するのが精一杯であった。
病院の広いフロアーに母が車椅子にちょこんと座っていた。
思わずクスッと笑ってしまった。
担当医から母の様態やどのように生活しているか報告があった。
ご飯もしっかりと食べ元気で落ち着いていますと言われとても嬉しかった。
入院直後は今から家に帰ると言われ看護師も苦労をしてましたが
、と笑いながら言われ私はスミマセンと頭を下げた。
穏やかな日々が続いた。
病院に行く時は実家に寄り父を乗せてから行くようにしているが
私が一人で行くと「お父さん元気」と何度も同じ事を聞く。
同じ言葉を繰り返すのは前のままであった。
しかし顔に笑顔が出てきてここの人はみんな親切で
すごく良くしてくれるお母の口から出たのはびっくりした。
帰るときに「ありがとう、また来てね、気をつけてね」と気遣う言葉も出た。
ここの医師とスタッフに言葉に出来ないほどの感謝を覚えた。
帰りに母の洗濯物を持ち帰りベランダに干していると
子供たちが赤ちゃんの頃オムツを干していたのを思い出す、
母の顔がなぜか洗濯物の上の青空に浮かぶ。
私には姉と兄がいるのだが兄とはずっと会っていない。
よくある話だが兄のお嫁さんと父と母が合わず
ずっと疎遠になってしまった。
父が戦争に行っている時に兄は生まれ、
母は父がニューギニアで死んだものと思っていた。
ひょっこりと父が帰って来たのは兄がもう物心が分かる頃だった。
戦争中に疎開先の宮城県北上川の側で生まれ肩身の狭い思いで
幼少期を過ごしたからだろうか兄は父には幼い頃から慣れなかった。
母のこの様な様態を兄に知らせるべきか悩んだが
連絡だけはしておこうと手紙を書いた。
普通の兄弟なら電話で話せるはずなのにもう10年以上兄とは
会っていない。
手紙の返事はその後何も来なかった。
数日後いつものように日曜日に母の見舞いに行くと病室に兄がいた。
十数年ぶりの兄はかなり太っていた。
父に本当に良く似てきていた。
母は兄に嬉しそうに話しかけている
、しかし母は兄を父と思い込んでいる。
兄は母の変わり果てた姿にじっと黙ってうなずいていた。
母の記憶の中ではもう兄はいないのだろう。
時が経ち今の医療規則では病院を出なければならなかった。
この病院を母はすごく好きなようだここにいると母は落ち着いてくれている。
もしかしたらこのまま家に連れて帰れるのではと思うほど
母は穏やかな日々を過ごしてくれた。
今後の母の対応をソーシャルワーカーに相談をした。
家に連れて帰るのではなかったらこの病院から施設に移すのが
一番良いとの助言であった。
数ヶ月で病院を出なければならない、認知症には環境の変化が
病気を悪化させることもある。
日本の医療規則にもどかしさと落胆を感じた。
実家からそう遠くなく小奇麗な老人介護施設を見つけた。
母に施設に移るとは言えないまま退院する日を向かえた。
病院の玄関まで看護師さんが見送りに出てきてくれた。
母は親切にしてくれた看護師さんとの別れに涙している、
母の涙を見たのは久しぶりであった。
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家族の困惑 【2007年04月03日(火) 】
このブログ本文は、新生エレックレコード始動に呼応し
音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
----------------------------------------
何とか父にも休息を取らせたく、
母をデイサービスに行かせることにした。
しかし母はデイサービスに行くのを嫌がる。
何とか車に乗せようとすると尋常でない抵抗を
するのである。
家にいて今日は母がデイサービスの日なので、
きっと父ものんびりしているだろうと思い、
午後に電話を入れると疲れ果てた父の声が
電話を通して伝わってきた。
「どうかしたのお父さん、今日はデイサービスで
お母さんは帰ってくるのは夕方でしょ」
「もう車にのせる状況じゃなんだよ。
乗せようとしても頑として乗らないので先に
乗っている人に迷惑をかけるので、今日は
休ませたよ」
いつもデイサービスの車から降りた母は、
迎えに出てくる父の顔を見てほっとした顔をする。
実家から近い、病院を嫌がる母を連れて
検査をしてもらった。
結果は脳梗塞で痴呆が進み、父の入院のショックで
一気に痴呆が加速したのだろうとの説明であった。
薬を貰い毎日の飲ませてはいるのだが、一向に
病気が改善されることはなく、
むしろ凶暴さは前にも増してひどくなっていった。
ある日、夜中に母がまた暴れだした。
カーテンレールを引っ張り曲げてしまったり、
テーブルによじ登ろうとしたり、
「田舎に帰る」と無理難題を言い
暴れだすのである。
母が寝たのは夜中の三時であった。
姉は殆ど寝ないで出勤した。
数日後、姉と話をした。
「厚子、私が会社辞めて母の面倒を見ようと思う、
このままだとお父さん倒れちゃうわよ」
「あい子姉ちゃんが会社辞めたら、お姉ちゃんが
倒れちゃうわ。
もっと良い方法が絶対あるわよ」
実家もそんなに裕福な家ではなく、父の稼ぐ
お金では父と母の生活費ぐらいにしか
ならなかった。
答えの出ないまま母の面倒を見ていると、
日によって母の気分は違い、そして一日の
中でも躁鬱は大きく変わるのである。
(以下次週に続く)
このステージにて彼女と同じ悩みを持つ方や
我々がいつかかってもおかしくない認知症を
親身に受け取る為に掲載させていただいた事を
ステージ編集部の皆様に感謝致します。
※次回4/10更新予定
----------------------------------------
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音楽活動を再開されたアーティスト・中沢厚子さんと
その家族が直面した認知症を患った母親との日々を、
より多くの方に今日的な話題として発信する為
エレックレコード社長・萩原氏が共同執筆したものです。
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何とか父にも休息を取らせたく、
母をデイサービスに行かせることにした。
しかし母はデイサービスに行くのを嫌がる。
何とか車に乗せようとすると尋常でない抵抗を
するのである。
家にいて今日は母がデイサービスの日なので、
きっと父ものんびりしているだろうと思い、
午後に電話を入れると疲れ果てた父の声が
電話を通して伝わってきた。
「どうかしたのお父さん、今日はデイサービスで
お母さんは帰ってくるのは夕方でしょ」
「もう車にのせる状況じゃなんだよ。
乗せようとしても頑として乗らないので先に
乗っている人に迷惑をかけるので、今日は
休ませたよ」
いつもデイサービスの車から降りた母は、
迎えに出てくる父の顔を見てほっとした顔をする。
実家から近い、病院を嫌がる母を連れて
検査をしてもらった。
結果は脳梗塞で痴呆が進み、父の入院のショックで
一気に痴呆が加速したのだろうとの説明であった。
薬を貰い毎日の飲ませてはいるのだが、一向に
病気が改善されることはなく、
むしろ凶暴さは前にも増してひどくなっていった。
ある日、夜中に母がまた暴れだした。
カーテンレールを引っ張り曲げてしまったり、
テーブルによじ登ろうとしたり、
「田舎に帰る」と無理難題を言い
暴れだすのである。
母が寝たのは夜中の三時であった。
姉は殆ど寝ないで出勤した。
数日後、姉と話をした。
「厚子、私が会社辞めて母の面倒を見ようと思う、
このままだとお父さん倒れちゃうわよ」
「あい子姉ちゃんが会社辞めたら、お姉ちゃんが
倒れちゃうわ。
もっと良い方法が絶対あるわよ」
実家もそんなに裕福な家ではなく、父の稼ぐ
お金では父と母の生活費ぐらいにしか
ならなかった。
答えの出ないまま母の面倒を見ていると、
日によって母の気分は違い、そして一日の
中でも躁鬱は大きく変わるのである。
(以下次週に続く)
このステージにて彼女と同じ悩みを持つ方や
我々がいつかかってもおかしくない認知症を
親身に受け取る為に掲載させていただいた事を
ステージ編集部の皆様に感謝致します。
※次回4/10更新予定
----------------------------------------
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