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デルスーとの出会い アムール湿原紀行 1991年その6 [2007年07月02日(月) ]


デルスーとの出会い アムール湿原紀行 1991年その7


 食事はホテルのゼロ階(日本の1階)のレストラン。当時のメモにこんなメニューが書かれていました。
 
 朝=黒っぽいパン、ジャム、バターはなし。目玉焼き二つ、小さなテリーヌのようなもの、甘い赤い水

 昼=黒っぽいパン、キューリとトマトのサラダ、チョウザメの燻製、コーヒー、ミネラルウォーター

 夜=ビール3本、ウオッカ1本、塩ッぱいサケのザクースカ、バターライス、グリーンピース、ミニステーキ、ワケギのようなネギ、アイスクリーム。
以上を3人分で59.6ルーブルでした。

 3日目の朝、通訳の青年が若い女性を連れてきて「彼女です。一緒に食事をさせて欲しい」と言いました。戸惑っていると同行が断りました。二人はとても悲しそうに思えました。案の定、この件もあって(と思っています)後日、通訳の青年はやる気をなくしたのです。

 レストランには毎晩バンドが入ってドレスアップした若い男女が踊っていました。しかし、目的地はアムール川中流域のヒンガンスキー自然保護区。ハバロフスクからはるか上流でどんな場所か見当がつきませんが、ホテルで無駄に時間をすごしている気がしました。



 時間がありすぎてホテルの前の極東博物館に何度も足を運びました。極東の生物が剥製になって展示されていました。虎、熊、アムールヒョウ、子牛ほどもある大きな猪、日本では絶滅したトキ・・・博物好きの方なら終日眺めて飽きないでしょう。私も嫌いではありません。

 入り口近くの写真は、どこかで見た顔つき・・・そう、デルスー・ウザーラの著者、アルセーニエフの写真でした。彼は博物館の初代館長だったのです。
 そして銃を杖のようにして立てたデルスーの肖像も飾ってありました。


シベリア鉄道-権力を乗せて  アムール湿原紀行 1991年その8
 
 ハバロフスクに滞在3日目の1991年6月4日昼過ぎ、ハバロフスク駅へ。いよいよ出発です。改札もなく、線路を何本もまたいでプラットフォームに。日本の駅に比べて低く、ほとんどないくらいの高さでしょうか。土を盛るのはかなりお金がかかるだろうから、低いのでしょうか。

 でも列車は大きく、高いのです。ゲージも確か広軌、それも5フィート、とものの本にありました。だから、女性や子供はホームから列車に重い荷物を持ち上げるのはかなり大変です。



 シベリア鉄道はロシアの極東制覇のため、というのが大きな目的だったでしょうから、屈強な兵士向きに仕様ができていても当然かもしれません。
「鉄道ゲージが変えた現代史」(井上勇一著、中公新書)をご覧になれば、そのへんのことが詳しくわかります。


 同書の副題に「列車は国家権力を乗せて走る」とあります。鉄道一本で9000キロのかなたから東アジアに軍事的影響力を強く行使できるシベリア鉄道は、シベリア抑留者のこともあり、日本人としてはとても複雑な気持ちで乗らざるを得ない鉄道のひとつなのです。

 たまたま見ていたNHKのニュース特集で、ウラジオストクの意味は「東方を征服せよ」と言ってました。やはり・・・
 またシベリア鉄道と、旧満鉄の軌道が違うことも納得がいきます。旧満鉄についても複雑な気持ちになりますが。



特急ロシア号  アムール湿原紀行 1991年その9
 ハバロフスク駅では、今回のエコツアーの受け入れ会社の責任者、V氏とその息子M氏が乗ってきました。V氏は人のよさそうな50歳ぐらいでしょうか。
 ソ連の最後の時代、彼らは生き方でいろいろ模索していたようです。V氏も鉄道大学出身で、前年までハバロフスクで保線補修部門の局長をしていたそうです。
 管轄はハバロフスクから、これから向かうアルハラという町の駅までで部下は3000人。今回の目的地、ヒンガンスキー自然保護区はアルハラから30キロのところです。

 V氏は、局長時代、土日もなく働き尽くめだったため、今回私たちを受け入れる一切の準備をした、できたての“会社”、「極東対外経済協力協会」に一年前にトラバーユした、と聞きました。
 
 その息子のM氏は21歳。モスクワの国際大学に行きたいのだが、授業料が高いので働いてためる、とのことでした。軍隊帰りのしっかりしている青年でした。

 列車はモスクワ行き特急ロシア号。午後1時25分出発。コンパートメントは8号車1号室。二人部屋で天井は2本の蛍光灯。出発してすぐに女性の車掌がシーツと枕カバー、薄いタオルを持ってきました。

  破れていたら言ってくれ、とのことでした。破れていました。でも言いませんでした。強そうな女性でしたので。はい。隣のコンパートメントはフランス人でした。

Posted at 18:07 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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アムール湿原紀行 1991年その4-6 [2007年06月24日(日) ]
免疫力強化のつもり アムール湿原紀行 1991年その4

 当時読んだ本にたびたび出てた病気がウイルスによるロシア春夏脳炎です。日本脳炎に似て、高熱を発して死亡率も高く、治っても脳に後遺症が残ることがある、という恐ろしい病気で、ウイルスを媒介するのは森に棲むダニです。

 これは事前準備をしなくっちゃ、と国内の専門家にどんな病気か、ワクチンはあるのか、問い合わせました。
 「ワクチンは日本にはない。ダニはユーラシア大陸、ウイーンの森から極東のタイガまで広くいる。とにかくダニに刺されないこと」

 そういうわけで、ダニに食われた場合死の危険もある。タイガの自然は厳しい、となると頼みの綱は自身の体力。ところがまるで自信がありませんでした。なにしろ積年の酒毒がメタボリッぽく(当時はこの言葉はありませんしたが)腹部にたまっておりました。

 仕方がない。ランニングと柔軟体操、自転車こぎ、それと筋トレをはじめました。近所のジムで時に仕事をサボって。それは出発3ヶ月前のことでした。

 初めはランニングというには恥ずかしい、300メートルから初めてついに5km達成、ベンチプレスも筋肉を痛めないよう20キロくらいから初めて90kg程度を挙げられるように一応なりました。
 
 ま、気休めではありましょうが、体力即免疫力、と思いこんでいたからこそ、そこまでこぎつけたのでしょう。
 でも本当は、初志貫徹の強い意思が何より必要と思いましたが、それは体力強化でついてくるもの、と言い聞かせてイメージトレーニングの真似事も自分なりにしました。

 それが役立ったのは、旅の最終のころでした。マムシにおびえ、熊や猪にあわないことを祈りつつ丸腰でタイガの中を歩くこと20キロ。シベリア鉄道沿いの村にたどり着いたときは一歩も歩けない状態でしたが、途中は「ジムでのトレーニングもこんな感じでつらかったな」と思いつつ前だけを見続けていましたっけ。




「オペもできるね」 アムール湿原紀行 1991年その5

 体力づくりと平行して考えたのは荷物です。私は自然の中でまともに過ごしたことは一回もなかったので、一体どんな環境なのか想像もつきませんでした。
 荷物の中でもまず考えたのは当時のソ連には期待のできない医療品の持参でした。
 
そのリストです。
 抗生物質(塗り薬、目薬、飲み薬二種) 整腸剤 下痢どめ 胃薬 解毒剤 下剤 総合ビタミン剤 風薬 鎮痛剤 止血剤 かゆみどめ タイガーバーム 包帯 リバテープ 消毒薬 抗ヒスタミン剤 トローチ とげ抜き つめきり 睡眠薬 使い捨て注射器 針 メス ピンセット
青酸カリ(冗談です)

 肝炎、破傷風の予防注射もしました。マムシがいるというので毒蛇用血清。使い方も知らないのに。

 現地で出会った医師が言いました。
 「これだけあればオペができるね」と。私は麻酔薬も絶対いる、と思いました。

 ほかに寝袋、頭から被る防虫ネット、軍手、長靴、筆記用具、双眼鏡、みやげ、現金(ドル)、露和・和露辞典、インスタントラーメン30食、味噌、醤油、塩、釣竿等々。



ハバロフスク  アムール湿原紀行 1991年その6

 かくして1991年6月1日午後、いよいよ新潟空港からアエロフロート機でハバロフスクへと向かいました。
 酔った客がいて出発は予定より1時間以上遅れましたが、夕方5時半、ハバロフスク空港へ。ハバロフスクは極東の大都市。治安の乱れは当時の体制下でもすでに始まっていて「殺人事件が年間60数件」という記事も見かけました。

 ハバロフスク空港にはロシア人3人が迎えにきていました。通訳と、今回のツアーを組んだ当時できたてほやほやのツアー会社の人。そして運転手。ホテルはインツーリストホテル。大きくて暗くて見張りの女性が廊下にいる、とてもソ連的なホテルでした。

 ホテルの窓から豊かな緑越しに川幅3キロのアムール川を眼下にすると、大陸に来たなあ、という実感がわきました。石炭などを積んだ貨物船が船団を組んで上流を目指していきます。




 川幅はこの辺で3キロ。対岸はかすんで見えません。夏の増水期は深いところで36メートルもあるとの事でした。冬は歩いて対岸へ渡ることができるそうですが、この時期はみんな船で対岸のダーチャへ行くとのことでした。

 通訳の青年はダーチャを「別荘」と言いましたが、泊り込んで農作業をするための山小屋的な感じを受けました。ここで夏の間にせっせとジャガイモやタマネギをつくり、厳しい冬に備えるのです。

 子どもたちが釣りをしていました。ナマズ、大ナマズ、コイ、秋はサケ、そして時々チョウザメが釣れることがあり、それも昔は5メートルを越すのもいたそうです。
 しかしこの頃ご他聞に漏れず、周辺工場や農地からの排水によりかなり汚染が進んでいる、とのことでした。

Posted at 18:18 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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アムール湿原紀行 1991年その1-3   [2007年06月24日(日) ]
はじめに

 この記事は、前にお読みいただいた方には申し訳ありませんが、すでにここで「ソ連」のカテゴリーでご紹介したものを、再構成したものです。再掲出するにあたり「ソ連」のカテゴリーでの掲出記事は近く消去します。

 毎回3話分くらいをまとめて掲出していくつもりで、多分15-20話位に膨らみそうです。
 しかしなにぶん昔の話なので、間違いもあることと思います。ご指摘いただければありがたいです。
 また写真は私が写したものですが、著作権は私にはありません。しかし時々、短時間だけ見ていただきたいな、と思っています。 
 それではご興味のある方はぜひおこしください。




「えーっつ」  アムール湿原紀行 1991年その1  

 タンチョウの子育てを見に行こう。
 動物園ですか。
 いや、遠くだ。
 じゃ釧路湿原?いいですね。
 もっと遠く、ソ連だよ。
 えーっつ

 ちょっと待ってください。ソ連といってもめちゃ広うござんすが?
 アムール州の大湿地帯。もう決めたから。君と行くことを。

 えーっつ  
 君と行くったって、男同士なのにー
 かねがね人事と仕事を断るのは辞表を出すときのみ、と思っていた(かな?)手前、叫び声は心のうちです。しかし普通の体力、気力、意欲、容姿?の中年(当時44歳)が、なんでー なんでー。

 だいいちタンチョウなら北海道で見られるし、政情不穏の中、行きたいわけがありません。でも拒否する理由も浮かばず、行ったっち。
 
 同行というか、私を誘った方は54歳。年齢は問題ではありません。タフさにおいては圧倒的な実績をお持ちの先輩でありんす。だからこそ余計しりごみするのです。



動植物のオンパレード地帯  アムール湿原紀行 1991年その2 

 時に1991年6月。その年の暮れにゴルバチョフ大統領が辞任して1922年以来のソビエト連邦は崩壊し、ロシアなどの国々になりました。

 目的地はアムール川中流域のヒンガンスキー自然保護区。当時の第一級国の自然保護区、とのことでした。熊、イノシシ、鹿、狼、山猫もいる地域で、熊は日本のツキノワグマとヒグマの両方がいて、昔は虎もいたそうです。
 でも、大きいゆえに怖い、というわけでもないことを、この旅は教えてくれました。

 旅の期間は3週間。現地滞在は2週間。決めたら前向きにしなきゃ損損−阿波踊りと同じ(どこが?)−です。二度と訪れる機会はない、と当時流行った京セラのサムライというズームレンズ付きハーフサイズカメラで、メモ代わりに手当たりしだい写しました。

 あまりにも非日常の世界の体験だけに、いつかどこかに書いて残しておきたい、と思っていました。





デルスーとの出会い アムール湿原紀行 1991年その3

 旅は体力があれば楽しいですが、なぜ楽しいのか、と考えるとなかなか難しいものがありますよね。私なんぞは新しいこと、もの、人に出会い、知らない料理と酒と酒場が何より楽しいのですが、哲学者の土屋恵一郎氏はこう書いています。

 「旅行は、異なる場所の体験であり、異なるコスモスの間を往還することで、世界の多様性と私が帰属する世界の意味を知ることである」(宗教とは何か 中村雄二郎著 岩波現代文庫解説 旅する者の宗教論より)
 難しく考えなくても、とも思いますが「なら紹介するなよ」と自問自答。

 今回の旅先は何しろソ連。言葉もできないし、現地の信頼できる情報はほとんど、というよりまったくありませんでした。図書館などには「今日のソ連邦」という国のPR誌がありましたが、きれいな写真を見る程度。

 そこで数十冊、ソ連極東の出版物、小説などを読みました。気候風土、環境、湿地のこと・・・中でも面白かったのがデルスー・ウザーラ(アルセーニエフ著)でした。

 北海道の対面、沿海州の大山脈、シホテアリニ山脈を舞台に老猟師デルスーとインテリ軍人、アルセーニエフとが極東の探検を通して交わした心の記録です。

 虎か狼か、猪かアムール豹かあるいは鹿か・・・テントの周りに近づく獣の気配に一人緊張して過ごす夜を日常としていた当時の猟師の一人だったデルスーは、虎にあとをつけられたとき、話しかけました。

「なに、おまえ、ほしい、アンバ(虎)よ・・・」
彼は虎をはずかしめて、逃げ出さしたのである。
(「デルスー・ウザーラ 上」ウラジーミル・アルセーニエフ 長谷川四郎訳 河出文庫)

 獣も鳥も虫も魚も、そして流れる水さえもヒトとして見る、語りかけるデルスー。山の神、道祖神、竈の神などに祈り、感謝してきたかつての日本人と重なる部分があり、目から鱗の大自然記として、以後何度も読み直しました。結末は悲しいのですが。

Posted at 16:03 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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