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ロシア春夏脳炎のこと・・・アムール湿原紀行 その21(1991年6月10日) [2010年04月12日(月) ]
 ごあいさつ
 時々、唐突に本シリーズが入ります。20年ほど前のソ連・ロシアエコツアーの思い出です。忘れがたくて自身の備忘録のつもりで書いてます。でも機会があればまた行きたい極東の大自然への思いは今も持ってます。
 初回は下記のURLです。もしご興味があればご照覧ください。

http://salon.stage007.com/hakkei/archive/52/0



 それでは今回はロシア春夏脳炎の話題を中心に

 大河アムールの大湿地帯に広がるソ連(当時)ヒンガンスキー自然保護区で、研究所が育てたタンチョウ夫婦のヒナが自然環境で初めて孵った翌日も明け方までは雨が激しく降っていた。

 午前7時半 雨は上がった。湖の水位がまた数センチ上がっている。我々が来てから10センチ以上上がった。澄んでいるように見えるが「生で飲んではいけない」水だ。

<水位の上がった湖>



 朝食は我々持参のインスタント味噌汁と硬く酸味のあるパン。さらに、キビをスキムミルクで炊き、バターで味付けした料理をオーリャさんがごちそうしてくれた。

 わりとさっぱりしておいしい。日本じゃ白米一辺倒になっているが、ここではほかにヒマワリの種も炒って食べた。色々な穀物を食べるべきではなかろうか、と思ったきっかけである。

 みんなタンチョウのヒナ「アラシコ」のことが気にかかっている。雨や湿度などこの一週間が心配なのだが、もっとも危険なのはカラスとのこと。

正午過ぎ、恐ろしいダニの話

 ところで、研究所の人たちは常に長そで、長靴、長ズボン、森に入る時はあたまからすっぽりと頭巾をかぶる。われわれが出発前から聞いていたダニ除けのためだ。

 ロシア春夏脳炎を知ったのは、出発前に読んだ「ビキン川にシマフクロウを追って アムールの自然誌」(ユーリー・B・ブランスキー著、千村裕子訳 平凡社1989年)という本にでていたから。
 同書では、「ロシア春夏脳炎にかかっていると言われた。この病気はカやブヨで感染するものだ。真正脳炎との違いは、めったに余病が出ないということである」となっている。

 念のために国立感染症研究所に問い合わせると「ダニのウイルスが媒介する脳炎。日本ワにクチンはない。ウイーンの森からシベリアの森に広く分布する」。

 カやブヨで感染するのではないことはわかったが、ワクチンが入手できないとなると、体力=免疫力に頼るしかないの、とダニに食われないようにするしかない。でももし食われたら???

 そこで保護区に一緒にいたウラジオストックのナチュラリストであるビエスラス医師にいろいろと聞いてみたけっかところ、次のことがわかった。

発症22人中6人死亡

 ウラジオストックで去年ダニによる脳炎を発症したのは22人。6人が死亡した。治っても手とか首のマヒが残ることがある。タイガで働く人は普通予防注射をする。

 ダニがいるのは木の上の葉の裏。下を人が通ると落ちてくる。脇の下とか下腹部、首の回りなど柔らかいところまで来て血を吸う。血を吸うと2-3ミリの体が小豆くらいに膨らむ。お腹一杯になったところで離れていくが、その際にゲップをしてウイルスを人の体に移していくのだ、とのこと。

 しかし、2時間くらいかけて移動するのでタイガに入ったら2時間おきに体中を点検する。見つけたらもちろん取るのだが、「もしすでに食いつかれていたら?」。

 「髪の毛を一本抜くんだ」とドクター。それをダニの口にくるくるとしばりつけて引っ張る。ダニは口を結わえられてるからゲップができない。ウイルスを体内に入れずに離すことができるはず、
という。いいことを教えてもらったが、食われたくない。 
 
 後日、ダニに食われた人に会い、傷口を見せてもらった。小さな虫なのに大きく紫色の傷跡になっていた。ダニの口が銛のように逆さにギザギザになっているせいだ。

 かくして、森の中を歩いた時は2時間おきにお互いに点検しあった。幸い1人だけ身体の上を這っていたのがみつかっただけだった。

もし熊に出遭ったら

 保護区にはヒグマとツキノワグマが棲んでいた。クマに会ったらどうすればいいのか聞くと「決して逃げるな。体をうんと大きく見せることだ。それと大きなナイフを持っていれば懐に入って刺す」。

<ハバロフスクの極東博物館で>



 確かに「ビキン川にシマフクロウを追って アムールの自然誌」には、ナイフ一丁でヒグマを倒した男の話がる。でも彼は腕のいい猟師だ。我々は大きなナイフもないし、ナイフがあっても懐に飛びこめるかどうか、また大きく見せてもたかが知れているし・・・遭ったらその時はその時、としか考えなかったっけ。

 蚊に慣れたのか、この日ころからほとんど気にならなくなった。トイレのハエの蛆にも「頑張れよ」と声をかけたくなってきた。自然はいい。

Posted at 18:15 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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アラシコ誕生の夜・・・アムール湿原紀行 その20(1991年6月9日)[2010年03月2日(火) ] [2010年03月02日(火) ]

左に研究小屋。タンチョウの巣は右下の先の湿原にある)

 タンチョウの巣のそばのテントに白旗が上がり、アンドロノフ博士が6年間待っていた日がきた。嵐が通ったり雨模様の不安定な日だったが、静かな興奮が湖のほとりの研究小屋に満ちている。

 「卵にヒョウの害があるかどうか気になる。なければ明日朝からヒナが卵から出始める」と博士。「アラシコ」「アラシコ」と誰かが言う。日本語の嵐の子、と名付けるそうだ。

前祝はラーメンで

 午後5時30分、女性研究者がタンポポの葉をナイフで刻む。サラダの材料はほかに菜園のホースラディッシュとニンニク。マヨネーズで和えただけだが、シャキシャキとおいしい。

 メインディッシュは、我々が日本から持ち込んだインスタントラーメン。アラシコ誕生の前祝である。この日のインスタントラーメンは、久しぶりのせいか「こんなにもおいしいものか」と感激した。ロシア人たちの評判もよく「もっとスープを」とイワノビッチ監督。

 午後6時30分、ラーメンディナー終了。アンドロノフ博士とカメラマンのペトロフ氏が巣への出発の準備を始めた。ペトロフ氏は300ミリのキャノンの望遠レンズを持っていく。時に腰までつかる湿地を真っ暗の夜に歩かなければならないのだからそれだけでも危険だが、まして重いカメラを担いでいくのはかなり危険だ。


(こんな湿原を夜中に歩くのは危険だ)

仕事とは

 午後9時、また雷雨。風も強い大嵐だ。稲妻が走る。窓越しに室内が瞬間明るくなる。20秒後に雷鳴が轟いた。

 出発準備を整えた2人がラジオの天気予報を真剣に聞いて今夜のスケジュールを調整している。それにしてもまっ黒な雲がちぎれるように飛んでいく。マクベスの嵐もかくや、というくらいの風と雨と雷と。

 午後10時
 「少しおさまった。行こうか」と博士。
 「よし」とペトロフ氏。
 懐中電灯のチェックをする。みんな口が重い。

 「本当に行くのか」と聞くと「ダー」。
 仕事とは こういうものだ。彼らはやることは少し雑だが意思が強い。

 午後10時15分、「カモン」とリュックサック3つに機材を入れて二人が出発した。暗い湖面からボートを漕ぐ音が聞こえてくる。たばこの火が赤く輝いた。

 風が冷たい。「寒い」とイワノビッチ監督が室内に入ってきた。ロマン青年は疲れたのか午後8時ころから寝ている。通訳がきついのだろう。
 ボロージャ氏は何事もないかのように、ロウソクの灯の下で分厚い本を読んでいる。
 ローソクは小屋の目印でもある。手慣れたものだ。風は相変わらず強いが星が出ている。

誕生記念日

 午後11時30分、ペトロフ氏と交代したドクターの元気な声が聞こえる。アンドロノフ博士も巣のそばのテントから帰って来た。以下ドクターの話。

 「嵐が来る1時間前からオスが懸命に巣を高くし、ヒョウが降っているあいだは眼を閉じて懸命に卵を守っていた。午後5時ちょうどにヒナの声が聞こえ、親がクルクルクルーと何かを教えていた。その声がだんだん大きくなった」

 チックはその22時間前に始まっていたのだろう。大嵐の日は、無事アラシコが誕生した記念すべき日となった。1991年6月9日のことだった。

Posted at 16:42 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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白旗がついに・・・アムール湿原紀行 その19(1991年6月9日)[2010年02月18日(木) ] [2010年02月18日(木) ]
 午前4時、蚊の猛攻で目が覚める。諦めるしかない。起きてもすることがないが、寝ることもできない。
 研究小屋の前の湖はクリョシンスカヤ湖というそうだ。船乗りのズボン(ラッパズボン)の形という意味とか。
 朝食はパン一切れと日本から持っていったインスタント味噌汁だけ。

 午前9時、アンドロノフ博士がタンチョウの巣の方を見ている。巣の近くにもテントがあり、ビエスラス医師が寝ずの番で見張っている。チック(孵化の前触れ)が始まるとテントに白旗が上がることになっている。
「仕事だから夜通しでも疲れない」とみんな口をそろえる。本物のナチュラリストは大変だ。

 風が強い。晴れ間がのぞく。井戸の水温は9度。茶色く濁っているのでバケツの上澄みをすくい、沸かして飲む。きれいに見える前の湖も「ウイルスやバイ菌だらけ」だ。

野草のサラダに舌鼓

 午前11時10分、イワノビッチ監督がガス台を拭いている。女性研究者のオーリャさんは食事の支度を始め、他のメンバーは部屋の片づけをしている。
 規則はないが、みんなできれいにし、みんなで炊事をするのが暗黙の決まりごとになっている。


          (ある日の食事)

 正午、ボロージャ氏がタンポポの葉を塩水に浸し、押してアクを抜いている。合間に日本語の勉強会。「こんにちは」「ナイフ」などを教えたが、いつチックが始まるのかが気になっているのだろう。落ち着かない。

 オーリャさんがアリがはいった蜂蜜をなめている。おおらかな生活に慣れると、その方が当たり前に思えてくる。ヤナバラ?のお茶を飲む。
 昼食は大根の葉のスープと野草のサラダ、揚げた固いパン―――これがおいしい。ビールにも合いそうだ。

 午後1時15分、「親鳥の動きがいつもと違う」とペトロフ氏。一時間まえに抱卵役を交代したばかりなのに、もう代わったのだ。彼によると、暗い間はメスが巣を守る。昨日は午前5時にオスが巣に入り、9時半、正午、午後1時半、午後4時半、そして午後7時の交代以後メスが巣に入っていた。

大嵐が襲来




 午後1時40分、風が強まる。雷鳴が聞こえる。前の菩提樹が揺れ始めた。南の空が真っ暗になってきた。バタバタと窓を閉める。

 午後2時05分、ヒョウが降ってきた。直径0.5センチから2センチくらいのもあり、真っ暗な空からものすごい勢いで激しい雨と一緒に降ってくる。地面がみるみるヒョウで覆われていく。



 午後2時12分、もう明るくなり始めた。南に青空がのぞく。双眼鏡をのぞいていたロマン青年が「でたよ。白いのが」というのでみんなで確かめるが、旗ではなくて雨にぬれたテントが日を浴びて光っているのだった。

 午後2時20分、嵐が通り過ぎた。
 ペトロフ氏によるとチックは24時間続き、ヒナは濡れて出てくる。親は卵の殻の小さな破片を5‐6個与えてクルルルルと鳴く。ヒナは数時間で立ち上がり、親がいろいろと教えていく。殻は大切な骨になる、という。

 「この日を6年間待っていた」

 午後4時12分、ふと望遠鏡を覗くとテントの左に白旗が上がっている。隣のペトロフ氏を見ると緊張した面持ちで「ダー」とうなずき「卵に穴が開いてからひながでてくるまで22時間かかる」。ということは翌日の午後、ということだ。

 「この日を6年間待っていた」
 アンドロノフ博士がつぶやいた。




     巣の近くのテントとイワノビッチ監督

Posted at 15:44 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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長い1日(後半)  アムール湿原紀行 その18(1991年6月8日) [2010年02月04日(木) ]
シマリス哀れ

午後1時、晴れ間がのぞいた。散歩を続ける。
 林の中に穴があった。



 「シマリスが越冬して春に食べる食料のストックが埋めてあった。それを熊が掘って食べてしまった」

 かわいそうなシマリスたち。去年この辺で5‐7匹見かけたのが、今年は我々が目撃した1匹だけになってしまった。

 サクラソウがあった。
 「冬用にとっておく。葉はサラダ、花はお茶。ビタミンAが多い」
午後1時50分、植物観察散歩終了。

ボロージャ氏へのインタビュー



 ― 仕事はなんですか?

 建築家。植物は趣味だがシベリアを横断するにはその土地土地の薬草、食草を知らなければならない。今200種以上を知っていて、すぐにわかる。
 学者になろうというのではない。多くの野生植物、薬草の中から人々の役に立つ植物を見つけたい。


 ― ここは何もないが、不便ではないのか?

 ここの生活を不便と思うのは、ここに来るまでのことだった。来たら不便とは思わない。自然に長くいると自然と一緒になる。薬草は体にいいしシャワーは前の湖。太陽は電気、野草はインスタントラーメン・・・全部きれいだ。忙しくもない。

 彼は夜、月の光で本を読んでいた。哲学書だという。

午後4時30分、2回目の昼食。そこらで採ってきたゼンマイの煮物と菜園のゴボウや野草のサラダ、ご飯(長粒米)。



午後5時半、今日見聞きしたことを手帳と大学ノートにメモする。2度と来れないので同じものを二つ作っておかないと、ということだ。

午後9時、夕食は冷蔵庫代わりの前の湖(クリョシンスカヤ湖)に漬けて保存していたウサギを解体した肉のスープとパン。スープが少しにおうのは、ウサギの肉が古くなったのか、血抜きがうまくいかなかったのか。

 テーブルでドクター・ビエスラスとカメラマンT氏の話がはずむ。
 「カニカマは知っているか」
 「アーティフィシャルカニ?」
 「yes」

 ドクターによると、医大の授業は英語だという。この年はソ連最後の年といっても冷戦時代。なのにペトロフもドクターも英語が我々よりはるかに得意だ。そういえばその前の年に中国に行ったとき、通訳から「8年間も英語教育を受けてなぜしゃべれない。日本語じゃなくて英語で話そう」と言われたっけ。

 2人の会話に戻る。

 「ところで、1ドルは何円か」とドクター。
 「137円」
 「1ルーブルは?」
 「5円」

 「たったそれだけ」とドクターががっくりと肩を落とした。リトアニア人として当時のゴルバチョフソ連大統領には猛反発していた彼も、自分たちの通貨だけに複雑な思いがあるのだろう。

午後10時、不貞寝していた通訳のロマン青年を起こしてドクターが説教する。
 うなだれている。我々の通訳という荷が重いのだろう、となった。後日彼はふてくされたことを素直に謝った。

午後10時15分、湿原のタンチョウの様子を見に行っていたアンドロノフ博士たちが帰って来た。24時間ぶりだ。一日中ほとんど雨で湿原の水位が上がり、みんな腰まで水につかって真っ暗な中を帰ってきた。チックは始まってないという。
 彼ら研究者、カメラマンの忍耐力、タフさには本当に感心した。

午前0時、カメラマン・ペトロフ氏とボロージャ氏との間で環境論議が始まったが、わからないので2階の狭いベッドにT氏と潜りこむ。
 長い一日が終わった。

Posted at 15:18 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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長い1日(前半) アムール湿原紀行 その17(1991年6月8日) [2010年02月03日(水) ]
蚊の猛攻が目覚まし時計代わり

 朝4時半、ブーンという羽音が耳元で続く。蚊の猛攻で目が覚める。防蚊網をかぶって寝ているのに容赦なく襲ってくる。敵もめったにないごちそうを前に必死なのだ。

 ベッドに入ったのは昨夜11時半ころ。カメラマンのT氏と肩が重なり合うほど狭いのに、すぐに寝られるのは昼間、目いっぱい動いていたせいだろう。それにしてももっと寝たいのに、毎朝こうだ。

 だから日本を出る前に「蚊取り線香も持っていこう」って言ったのに、と愚痴っても始まらなかった。
 防蚊網はニューギニア戦線などでも配られた。しかし地獄の戦場で「邪魔だから捨てた」とネットに。今、アウトドア用品店では防虫ヘッドネットと一部カタカナになっている。

 階下へ降りるとルボフ・ペトロフ氏が双眼鏡で1キロ先のタンチョウの巣を観察していた。巣には孵化寸前の卵がある。

ナチュラリストたちとの出会い

 「チックが始まると親鳥が鳴き声を交わすはず」とペトロフ氏。彼はイギリスBBCの委託でタンチョウの孵化の瞬間を撮影するために、ウラジオストックからきたネイチャーカメラマンだ。友人でナショナリストの医師、リトアニア人のビエスラス氏と2人で、1か月もテント暮らしをしてその瞬間を逃すまいと見張っていた。

 チックというのは卵の中のひなが鳴きはじめる、あるいは殻をつつき出すことで、孵化が始まる合図、とのことだった。産卵後いつチックが始まってもおかしくない日数に達していた昨夜は「目覚ましがないので一晩中起きていた」。

 午前4時50分、ユーリ・イワノビッチ監督も起きてきた。
 「動物の映画では有名な監督と聞いているが?」
 「ダー。研究施設の長、アンドロノフ博士から「タンチョウの巣を見つけた。映画を撮りに来てください、と電報をもらった」



 ペトロフ氏(左)とイワノビッチ監督

 監督は、丸いパンを1つ勧めてくれ、朝食の準備を始めた。ここではそれ
ぞれが分担して食事を作ったり後片付けをしている。

 「我々は何をすればいいのか」と尋ねると「お客だからしなくていい」。
 監督はパンを3枚に切ってニンニクの皮をむき始めたが大部分腐っていたのだろう。2つしかパンにはさまなかった。チョウザメの燻製のスライスにはカビが生えていたが、せっかくだから1枚食べる。しょっぱい。

 私たちも持ち込んだインスタントみそ汁をふるまう。実はワケギとワカメ。
「ウラジオストックでもワカメはよく食べる」とペトロフ氏。

 午前5時35分、「クークー」とダンシングの声が聞こえてきた。
 「親の交代の時間だ」
 ペトロフ氏とユーリ監督が外に飛び出して双眼鏡を構えた。
 それまで一晩中卵を抱えていたメスに代わってオスが抱卵にきたのだ。双眼鏡で眺めると2羽が首を巣に突っ込んでいる。巣を直しているのだろうか。

 「チックが始まっているといいのだが・・・」
 夜の間中、オスは巣から5‐10bの範囲でシカや野豚に巣を荒らされないように警戒しているのだという。

タンチョウはヒグマよりも強し

 巣に突然4頭のシカが近づいて来た。オスがきっと鹿の方を見た。
 「私の妻がね」とペトロフ氏が切り出した。
 「やはりヒンガンスキーの別の場所で大学生の実習としてタンチョウの観察に来ていたら、ヒグマが巣を襲おうとしているのを見た」

 すると、タンチョウのオスがヒグマの鼻を嘴で突いて、追い返したという。タンチョウの大きくて鋭い嘴はまるでナイフのようだ。湿原の王者はヒグマではなくてタンチョウだった。

小鳥の楽園



 写真は木の洞のヤツガシラの巣。雛のくちばしや羽が見える。目の高さ程度に巣を作っていた。

 午前6時25分、若い女性研究者のオーリャさんが来た。研究所で育てたタンチョウのグンガルがグルルルルとオーリャさんに朝の挨拶をする。手には小鳥が。ヨシキリだ。標識を付けてまた放す。標識にはモスクワの研究センターの住所があり、もし見つけたり死体を発見した場合、そこに手紙で知らせるのだという。

 午前7時、オーリャさんに連れられてバードウォッチングに出かける。グンガルも付いてくる。
 まずハシブトオオヨシキリの声、ついでムシクイの仲間、シジューカラ、カワラヒワ…この辺は東京でも珍しくはない。

 セキレイ、サンショウクイ、マキノセンリュー、エゾセンリュー、アカモズ、シマゴズ、ノゴマ、ノビタキ、マミジロキビタキ、コサメビタキ、ハスブトガラ、コガラ、エナガ、ゴジューカラ、キバシリ、ツリスガラ(巣が木からぶら下がっている)、ホオジロ、カシラダカ、アオジ、シマアオジ、オージュリン、マヒワ、ベニヒワ、アトリ・・・。

 さえずりや目撃した鳥を、後で日本の野鳥図鑑で指摘してもらった。メモ帳にはもっと書いてあるが、きたなくて判読できず。

 午前10時45分、タイガ料理の昼食。チェレムシャというエシャーレットそっくりで辛いネギとヤナギランのサラダを食べた。

 滞在中のサラダの多くは施設の補修などを担当しているボロージャ氏がその辺の草地やタイガの中から食べられる山野草を見つけて採取してきたものだった。



 ボロージャ氏とサモワールとタンチョウ


 彼は「数年後に沿海州からウラルまでシベリア大陸を植物だけ食べて横断する」というだけあって、どの道にどんな植物があり、その名前と毒性も熟知していた。

 午前11時、ボロージャ氏と植物観察。
 スミレ、アヤメ(3種)、ハクセン属、ウスリースカヤとダウリースカヤというシュロソウ属、シャクヤク、ニガヨモギ(薬草)、オランダイチゴ(昨日食べた。ジャムやお茶にする)、シダ、お茶(若葉を採り、紙のようによく丸めて組織を破壊し、日陰で乾かしてグリーンティーに。黒いお茶がいるときはポリ袋に入れて日光にさらして乾かす)、タンポポ(葉を塩水に漬けて苦みをとり、サラダに。根はコーヒーに使える)、クサノオウ(薬草)、ゴボウ、ヤグルマギク、ボダイジュ、シラカバ、ハシバミ、ハマアカザ(サラダ、スープ、刻んでパンに使う)、ノゲシ(スープ、サラダ)ニレ、ヤハズエンドウ、ヤナギ(10種類以上)、シャクヤク、スズラン、ウマノアシガタ、キンバイソウ・・・

 「手前にアネモネ、次にヤグルマギク、アヤメ、遠くに黄色のキンバイソウ・・・ここはスペシャルプレイス」とボロージャ氏。
 アツモリソウの仲間は紫と白がそろって咲いていた。



Posted at 23:12 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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探鳥を楽しむ   アムール湿原紀行 1991年その16(1991年6月7日) [2009年09月24日(木) ]
足の下は氷

 午前6時起床。気温13度。少し肌寒い。朝食は目玉焼きとバターこってりのパン、蜂蜜たっぷりのチャイ。
 「今日は鳥の巣を見せよう」



 研究者らとボートに乗って500メートルほど先の湿地へ。途中湖に入ってみる。水深は腰まで。足の下は氷だった。
 水は透き通ってきれいに見えたが「ウイルスだらけだから生で飲んではいけない」と言われていた。

 そういえば、最近聴いた新型インフルエンザの講演会で「インフルエンザはもともとは鳥の体内にいて、それが豚へ、そしてヒトへと感染する。シベリアの湖の底には鳥の糞にいたインフルエンザウイルスがいる」と演者が話していたっけ。
 
 湿原を歩く。5‐600メートル先の白樺の木のてっぺんにコウノトリの巣がある。
 「静かに」
 灌木に隠れながら腰をかがめて近づく。親鳥がじっと見ている。あと150メートル。親鳥が飛び立った。子供たちは巣の下に隠れたが、我々が声を上げると首を伸ばした。4羽だ。



野火で黒焦げの木々

 さらにキジバトの卵、キビタキの巣、高い木の上にクマタカの巣もあった。登って調べると、灰色のヒナが6羽。周囲の白樺の木が焼け焦げてい折るのは、野火で、密猟者の仕業という。

 この日の探鳥会の成果。
 1 トラフズク
 2 シマアオジ
 3 チョウゲンポウ
 4 カラス
 5 トンビ
 6 キジバト
 7 コウノトリ
 8 マダラチュウヒ
 9 キビタキ
 10 アオサギ
 11 シマゴマ
 12 マガモ
 13 ムクドリ


 いろいろいますね。



 我々が泊まった小屋の周囲だけで 50−60種、湖周辺で120種、保護区全体で304種の鳥がいるとのことだった。
 
 夕食の支度を、我々を受け入れたできたてほやほやのツアー会社の社長が始めた。元鉄道マンで、激務すぎてやめたとのこと。
 大きなナイフで固い茶色のパンをザクザクと切る。湖に沈めておいたバターをたっぷりと皿に盛る。

 井戸水の水は茶色く濁っている。上澄みを大きな鍋に入れてマカロニを放り込み、塩を手づかみで入れる。
 タンパク質はウサギ。これも湖に沈めておいたのを解体した。しかし、血抜きがうまくいかなかったのか、とても臭かった。でもぜいたくは言えまい。ほかにないのだから。

 北の大地は午後9時半ころまで明るい。向こう岸からは鹿の鳴き声、背後はタンチョウ、わんわん唸るのは蚊の大群だ。

 食後、流れ星をながめながらドクターらと深夜まで話し込む。ドクターが天の川を仰いでふと黙り込んだ。
 「リトアニアの家族のことを思い出しているのか?」
 静かにうなずいた。
 明日はタンチョウの卵が孵るはずだ。

Posted at 12:00 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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怒りのタンチョウ   アムール湿原紀行 1991年その15(1991年6月6日午後) [2009年09月11日(金) ]
 この日は午後も湿原の散歩。といってもやみくもに歩くのではなく、タンチョウの卵の調査に同行しました。
 小屋から約850メートル。湖の向こう側の湿原にタンチョウ夫婦が巣を構え、5月4日から5日にかけて卵を産んだのです。もう孵化してもいいころですがまだなので研究者や愛鳥家たちが心配しているのでした。

 行く前に、ドクターが部屋の中で四角い板をプロテクターのように構え、そこにBBCのカメラマンが両手の人差し指を牛に角のようにして突っ込んでいき、「マタドール」とおどけていました。

 何をしているのか尋ねると「研究者はタンチョウの巣に行って卵を取り出して生きているかどうかを調べる。当然怒った親鳥が攻撃してくる。そこでこのプロテクターで親鳥の注意をこちらに向けるのだ」。

 タンチョウの嘴は長くてナイフのように鋭いのです。「狐はおろか、熊が卵を狙ってきても鼻先を突いて追い返すのを見た」と誰かが話してました。

 研究所には、卵から育てた幼鳥が一羽グンガルと名付けられて放し飼いにされていました。研究者たちが近づいても何もしないのですが、私がたまたまわきを通り過ぎようとしたら、太ももを嘴で突かれました。かなり痛かったです。このガキャー(おっとワタクシとしたことが)。幼鳥のテリトリー内に入ったのでしょう。

 巣までの距離は850メートル。ボートで湖を渡り、最後の50メートルくらいはまた湿原歩き。浮き根のようなものがあり、ときどきずぼっと沈み込みます。大きな足指のツルがうらやましい。



 巣から3−40メートルのところに擬装したテントがあり、中からBBCの契約カメラマンたちが出てきた。一週間もこうしてわずか2分間の誕生の瞬間を待っているのでした。
 研究者が近づいていきます。この後は、当時のメモです。


 タンチョウの巣まであと、6−7メートル。と、緊張しきっていたメスがクワーと一声高く鳴いた。「お父さーん」と呼んでいるようだ。すると、カメラマンの背後に「お父さん」ツルが。

 メスが「クワー、クワー」と一声高く鳴き、首を真っすぐに伸ばす。と、それに応えるようにオスが「クワー、クワー」。メスが「クワー」、オスが「クワー」と交互に鳴き交わす。羽を大きく広げ、近くの人間を盛んに突きまくる。怒りの気迫が激しく伝わってくる。



 “マタドール”が防いでいる間に研究者が卵をつかむ。用意したお湯の中に卵を入れる。動く。生きている証拠だという。
この間、往復1時間。かわいそうだったが「今日は歴史的な日になる」という。タンチョウ夫婦は、研究者たちが育てた第一号の夫婦で、その卵がかえりそうだからだった。

 この年、長雨が続いて湿原の水位が上がり、タンチョウは一日で7センチほど巣を高くした日もあったとか。


 というわけで、いろいろ楽しめた一日の夕食は、細長い硬いパンとジャガイモのスープ、そしてビールで乾杯でした。

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緑の魔境で蚊とアブの猛攻撃を受けること  アムール湿原紀行 1991年その14(1991年6月6日) [2009年09月06日(日) ]
 ホッ ホケキョウ
 二日目の早朝、狭いベッドの中で蚊の大群が頭の周りや耳元を唸りを上げて飛び回る音でまず覚め、ぐずぐずしているうちにハバロフスクでもきいたコウライウグイスのさえずりやいろいろな小鳥の声が聞こえてきて起きました。

 メモを見ると、この日は午前中、湿原横断をまず試みています。行く前に研究者やカメラマンから再三注意を受けました。
「湿原は急に深くなる。くれぐれも気をつけて」
「昼間までに帰らなかったら探しに行く」


 
 湿原横断、ちっとも行きたくなかったのに、先輩は「行けるところまで行ってみよう」。ま、行ったからここにご報告できるのですが。
以下、当時のメモから。

 Am9:25 BBCカメラマンと通訳の青年に見送られて昨晩トラフズクを見たところから対岸へ歩きだす。
 まず、湿原の真ん中に立っている細い杭を目指す。距離は7−800メートルほどか。股の付け根までの長靴。ここでは必需品だ。胸までのもあるが、水深は胸以上あるところもあるから「胸までの長靴は、水が入ると脱げなくなってあぶない。股までのがいい」。

 先輩はカメラ機材で26キロの荷物。こちとらカメラ一つだから、先を歩く。林の切れ目からすぐ湿地になっている。林の近くにはガマが、その先はスゲが一面に生えている。昨日、ヘリコプターからはシカやオオカミが水しぶきをあげて走っていくのが見えたが、一面、平らな草原のように見えていた。

 ところが入ってみて驚いた。スゲの根は水面前後にまで盛り上がっているが、株と株の間は水中に沈んでいる。逆にいえば、数十センチの水浸しの中に、スゲの株だけが盛り上がっている。谷地ぼうずというやつだ。日本にもあるのだろうが、こんな風とはしらなかった。

 一歩一歩体重を後ろ脚にかけておいて、沈まないかどうか確かめてから体重を前足に移す。軟らかいクッションのようで沈まないが、歩きにくい。時々ゆっくりと沈む根もあり、あわてて足早に行くと今度はずぼっと泥にはまり、なかなか抜けないほど重く感じる。

 そうこうしているうちに雨も降ってきた。もう少し行こう、と進んだものの深い流れが見えてきたので引き返す。ほぼ1時間。汗びっしょりで喉が無性にかわく。


 以上が当時のメモです。ライフジャケットも水筒も持たない、かなり無謀な散歩でした。遭難しなくてよかった。


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狭いベッド


 私たちが滞在した「ツルの研究所」というのは、研究者たちのフィールドの拠点で、1階が食事やミーティングスペースと一部寝室、2階が寝室となっていました。
 私たちは2階の寝室でした。ここです。



 2段ベッドがあります。一人が上、一人が下、ではないのです。上下それぞれ二人ずつ寝たのです。シーツもまくらもなんかべったり湿っているし。でも寝ないと体力を維持できないし、酒はないし、辛い。

 私と先輩は下、通訳の青年とエコツアー会社の人が上のベッド。私たちでさえ、肩が重なり合って寝たくらいですから、身長180センチをゆうに超えるロシア人ふたりはつらかったろうと思います。

 旅が終わって先輩が言いました。
 「お互い間違いがなくてよかったね」

  あってたまるか 



朝晩は蚊、昼はアブの猛攻

 狭いだけでも大変だったうえ、朝晩は蚊の猛攻撃を受けました。防虫ネットをかぶって寝たのですが、午前4時ころになるとネットの上から容赦なく刺してきます。

 そして、日が高くなると体が温まったアブがこれまたところかまわずかじってきます。ガリッ、ガリッと。傷口に薄く血がにじみます。もちろん痛いのですが、いちいち気にしていたら気が狂いそうになるので、刺されたら追い払います。研究者たちはそっとつまんで窓の外へ出していました。一匹叩き潰したところでどうにもなりませんから。



 窓枠に点々とある黒いのはみんなアブです。窓外のテントはBBCのカメラマンたちのテントです。

 家に帰ると家人たちの目が点になりました。頭の中、手足、顔・・・色が変わるほど彼らにくわれていたからです。仕方がないでしょう。彼らの土地に入ったのですから。

Posted at 12:55 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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夜の狩人   アムール湿原紀行 1991年その13(6月5日) [2009年09月03日(木) ]
 本ブログを読んでいただいている方々が、お前たちはいったいどこら辺に行ったのか、ちっともわからん、とお思いであろうことに、やっと気付きました。すみません。
 ハバロフスクから直線で約400キロ西、シベリア鉄道で約8時間。Googleマップで「アルハラ」と入れて検索するとアルハラが示されます。そこからまっすぐ西(左)へ30キロ、アムール河と支流のブレヤ川が合流する付近の一部がヒンガンスキー自然保護区になっていました。
 タイガ(森林)30%、湿地帯70%、面積合わせて約9万7836ヘクタール。1963年に制定された国の第一級自然保護区、と聞きました。
 
              

カメラマン、ドクター、研究者、ツルも



 私たちの宿泊施設は湖のほとりに立つ2階建ての「ツルの研究所」でした。付近の湿地帯には多くの野鳥がいましたが、なかでもここはタンチョウの営巣地として研究者やナチュラリストにとって魅力的な地域だったのです。

 電気、ガス、水道、電話もなく外部との連絡は無線のみの研究所に、いろいろな人がきていました。

 イギリスBBCの委嘱を受けたウラジオストックのカメラマンとその友人で極東の自然に魅せられたというリトアニア出身の外科医、モスクワからはベテランの動物カメラマン、そして日本人は私たちが初めてでした。

 女性の若い野鳥研究者と、研究所の修理や畑作りなどいろいろなことをしていた若い男性職員。
 「野草だけを食べてシベリア大陸を横断する」のが夢といっていたひげぼうぼうの彼は、夜、月明かりの下で難しい哲学書を読んでいました。どうなったのかなあ。

彼とのツーショットです。湿地帯なので、太ももまでの長靴をはいています。



夜のショーを演じたのはトラフズク

 「面白いショーを見に行こう」
 その夜、私たちをさっそく誘ってくれたのはリトアニア出身のドクターでした。
 まだ薄明るい白樺や菩提樹の森の中を300メートルほど歩くと、視界が開けました。その先は翌日横断を断念した湿地が広がっています。
 「1キロほど先にまばらな樹林がありそこにフクロウの巣がある。しばらく静かに」

 待つこと10分、20分・・・黒い大きな影が突然視界を横切りました。
 羽が大きく開いているのが、ほんの数秒ですが薄明るい夜空に影絵のようにくっきりと浮かび上がりました。

 「トラフズクだよ」とドクター。
 フクロウの一種です。ネズミ狩りでもしたのでしょう。フクロウは、少年時代家の近くでも鳴いていましたが、この半世紀、自然のフクロウは見たことがありませんでした。しかも夜の狩りを見るなんてなんというぜいたく。井上ひさし氏がいう「長期記憶」として残っています。

 ドクターの、自然に対する関心、行動力、知識、愛情が並外れているのを目の当たりにした第一回目でした。

こんな虫がいたり



こんな花(アツモリソウでしょうか)が咲いていました。

Posted at 12:07 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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特急ロシア号の食堂車  アムール湿原紀行 1991年その10‐12 [2009年08月30日(日) ]
はじめに

 このブログは、愚丼が1991年、1992年に、仕事ででかけた今でいえばエコツアー的な旅の記録です。しかし、当時のメモの読みづらさとか気力の衰えにより、2年以上中断していました。

 でも最後まで書きとめておきたい、という気持ちは今も強く、再開しました。なにぶん昔の話なので、間違いもあることと思います。ご指摘いただければありがたいです。
  それではご興味のある方はぜひおこしください。
 本連載は、1991年6月初旬、アムール州ヒンガンスキー自然保護区での滞在記録です。



特急ロシア号の食堂車  アムール湿原紀行 1991年その10

 6月4日、ハバロフスクを出発して約10分、アムール川の鉄橋をわたります。この辺の川幅は約3キロ、と通訳の青年が言いましたが、ロシアの旅行社のホームページには「1.5−2キロ」とあります。
 渡ると畑や小さな家が散在していました。ダーチャです。ここでジャガイモなど必要な野菜を市民が夏の間にせっせとつくっていたのです。

 鉄道の旅の楽しみの食堂車へ。当時の旅の本に「シベリア鉄道の車両移動は命がけ」などと書いてありました。確かに車両の間の鉄板が丸く高く盛り上げっているのです。でも「命がけ」というほどのことはありません。

 最初にでてきたのは白樺水。ほんのり甘く、「体を浄化する」とのこと。サラダは大きなキューリ、鶏肉のスープ。出汁はよく取れているが、脂が少し臭うので胡椒をたっぷりと入れる。牛タンのボルシチ、ジャガイモ、黒っぽく固いパン。



 隣のテーブルの老人と孫はステーキ。「お金がいる時はいる」などと孫に話していたそうです。歴史の変わり目の年でしたから、生活も大変だったのでしょう。

 8時間ほどで、目指す自然保護区、ヒンガンスキーへの玄関口、アルハラ駅到着。枕木をまたいですぐ近くのホテルへ。雨が上がり、西の空は真っ赤。梅雨の終わりでした。


アルハラで   アムール湿原紀行11

 6月5日の朝食はホテル前の食堂で。ガラスケースにはほんの少ししかありません。小麦粉を薄く焼いたナンのようなもの、塩気が強いゼンマイの炒めもの、こってりした甘くないヨーグルト、そしてチャイ。



 午前9時、食事を終えると契約条件や金額で昨夜に続き、またもひと悶着。何で最初から決めておかないのか、というと「ロシアですからー」と通訳の青年が手をひろげました。

 午後になってようやく目的地へ出発。小型のジープに荷物を積めるだけ積みました。目的地の自然保護区で鳥の調査をしている研究者らと合流、彼らは死んだウサギと卵とパンを抱えていました。
 「野菜は」と聞くと「心配ない」。でも八百屋があるわけじゃないし、心配。



 ジープが止まったのはヘリコプター基地。アルハラから保護区までは30キロとのことなので「車で行けないの?」
 「昨日までの雨で、道路は車が通れる状態じゃない」
 舗装もなく、赤土むき出しの道は、昔の日本の田舎にも、いえ愚丼の家の前の道も昭和20年代半ばまでは戦前の舗装が修復されず、穴だらけの田舎道でした。



 飛び上がると眼下には緑の大地が果てしなく続いていました。20分ほど保護区の研究小屋前に降りました。



いよいよヒンガンスキー自然保護区へ   アムール湿原紀行 1991年その12 



 荷物を下ろすとすぐにこの日2回目のフライト。ヘリコプターは古そうでしたが、パイロットはベテラン。右に左に自在に操りながら、研究者が「アイスト(コウノトリ)」と叫ぶとそちらに急旋回。同行の先輩でカメラマンの背中にも緊張が走ります。

 つぎもコウノトリ、そして小さな鹿、ノロジカでしょうか。水しぶきをあげながら飛び跳ねて逃げていきます。

 冬はマイナス40度、夏は時に40度にもなる過酷な自然の中で、彼らが食べているのは夏は草、冬は枯れ木の小枝だそうです。

 「ヴォルク、ヴォルク」とパイロットが叫びました。右下を見ると、オオカミが一頭、湿原を駈けていました。ヘリとの距離は100メートルなかったでしょう。ときどきこちらを見上げるので、大きな口、赤い大きな舌が見えます。

 同じ方向に逃げても無駄と気付いたのか前につんのめるように止まると、逆方向に一目散に逃げていきました。怖いイメージも形無しですが群れは二つあり、合わせて15頭のオオカミがいるとのことでした。

 一人で放りだされたら、何時間生きていられるのか、と考えると、人間とはなんと弱い生き物か、と思わずにはいられません。
 大河アムール流域の、目に優しい緑一色の眼下の大湿原。しかしそこは人間にとっては緑の魔境でもあることを、翌日身にしみたのでした。

Posted at 18:28 | 旅 ソ連・ロシア | この記事のURL
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