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世界の中心、デルフィへその1・・・ギリシャ団体旅行記20 [2008年09月28日(日) ]
 旅の5日目の3月30日、われわれはペロポネソス半島を後にしてヨーロッパ大陸はデルフィへ。恥ずかしながら、デルフィという名前すらしらなかった私は、ただついていくだけでした。ところがぎっちょん、デルフィこそ古代ギリシャ世界の中心だったそうな。

 遺跡で証拠を示されました。
「これが世界の中心のへそ石です」と。ここまで来て、そういわれて信じないわけにはいきません。記念写真を撮りました。でべそですね。
 でもこれ「偽物だよ。本物は博物館にあったじゃない」と子丼。そうでした。



古い喫茶店に入ること

 デルフィについたのは夕方だったので、初日はホテルの近くの町のお散歩。雨足が強まったので、古い喫茶店に入りました。



 「いらっしゃい」
 ギリシャコーヒーを頼むと、コップが汚れています。子丼がしきりに気にしていましたが、何をいまさら、と無視。味も無視。柱に古い写真が飾ってありました。無視できないじゃないですかー。



 「誰ですか」
 「父と祖父。トルコとの戦争で戦死しました。詳しくは母に聞いてください」
ご主人は、愚生とほぼ同じ年。トルコは許せない、という口調です。でも、トルコからの独立戦争は1821年から29年ですから、年代があいません。
 しかしその後もキプロス紛争などがありますから、ギリシャの人々の苦難の歴史が現れている、悲しい写真でありました。
 
 店内には、ギリシャ正教関係の土産物もあり、「うちは安いですから買ってください」。確かにほかの土産物店よりかなり安く「作っている人から直接買っているから」とのことでした。
 イコンなどを買って表に出ると、雨は小ぶり。ホテルでは老犬が迎えてくれました。



 夕食はホテルでホウレンソウのパイ、白身魚のグリルなど。小さいが、気持ちの良い歴史を感じさせるホテルでした。

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古代オリンピックの地、オリンピアへ・・・ギリシャ団体旅行記19 [2008年08月20日(水) ]
 ミストラを後にした我々一行の、ペロポネソス半島の旅の最終地はオリンピア。ごぞんじ古代オリンピック発祥の地であります。



 4月初旬のギリシャは、山々の頂付近には雪がたっぷりと残っていましたが、麓は春爛漫。オリンピアの遺跡もまるでお花畑。赤い花はアネモネ。白い野菊のような花は遺跡の一面を覆い尽くして素人カメラマンにとって絶好の被写体でした。

 ここで古代オリンピックが開かれたのは、この地がギリシャ神話の最高神ゼウス信仰の中心地だったから、とモノの本にありました。

 「古代オリンピアでは、紀元前800年ごろから信仰に結びついた競技が定期的に神に奉納され、汎ギリシャ世界から多くの参加者を集めた」(ユネスコ世界遺産 9 東南ヨーロッパ、講談社1997年)
 「ゼウスに奉納するスポーツの祭典で有名な聖地として、古代ギリシャ統一の象徴となるのは、紀元前480年」(上掲書)



 400年ころまで続いた古代オリンピックは、なぜか途絶えて6世紀には大地震にも見舞われました。遺跡にはその時に崩れたゼウスの神殿の石柱がそのまま残っていて、その時の地震の凄まじさ、恐ろしさを見せてくれています。



 遺跡のほかの建物もほとんど柱や土台を残すのみですが、「ここは宿泊施設、こちらは練習用の中庭、ここが浴室・・・」「これは月桂樹です。こうして月桂冠を作ります」「ここが競技場。ここがスタートラインです」とガイドのK下さん。
 本当に何でもご存知の方でしたね。こうした名ガイドの名解説もあって、2千数百年前にここに集った若者たちの息吹が漂っている。そんな感じがする遺跡でありました。
 遺跡の近くにあるオリンピア美術館も、ギリシャ芸術の白眉を集めて見逃せません。

 勝利の女神ニケ像。地上に降りた瞬間。
 


 ヘルメス像

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ミストラでボトムになること・・・ギリシャ団体旅行記17 [2008年08月07日(木) ]



 ミストラの散歩道は壁も建物もなにもかも石、石、石。
 「石ばかりの街をよくも作ったものだ」と思わずにはいられません。が、建材となりそうな林も木も見当たらない国土ですから、石しか選択の余地がなかったのでしょう。

 「木をふんだんに使った家を見ると、なんというぜいたく、と思います」と現地のガイド、K下さんもおっしゃっていました。
 愚生、一行の最後について石の坂道を上り下りしながら斜面に建てられた朽ちた協会などをきょろきょろとみているうちに、唯一今も修道女が祈りの日々を送っているというパンダナサ修道院にやって来ました。
 バスに乗る時もいつも最後かその前ときまっておりましたが、遅刻迷子にはなっておりませんでした。



 修道院は、学生の団体でごったがえしていました。回廊に出ると柱の間からエヴロタス平野の緑が広がっています。ここでゲーテに登場してもらいましょう。せっかく調べたのですから。

   タウゲトンの山を背にしたあの谷あいの地方は、
   永い間、無人の境でございましたが、この谷あいから流れ出る元気のいい小川は、
   エウロータース河となって、この谷間の、
   蘆を茂らせた岸辺を滔々と流れ、御殿の白鳥を養っております。
   あの山奥の谷間に、暗い北方の国から、
   大胆な一族が侵入してまいり、そこに住みつき、
   難攻不落の城を高々と築き
   ・・・
   (高橋義孝訳 新潮文庫「ファウスト」第2部第3幕より抜粋)

 その難攻攻不落の城も朽ちた今、観光客がいなければ風に揺れる梢のざわめきと小鳥のさえずりが聞こえてくるだけのミストラの、修道院の窓から景色を眺めつつ、「中世と同じ景色かな」などと感慨にふけったのでありました。

 が、それもほんの一瞬。学生の一団が去った回廊の先を見ると、黒衣の修道女が愚生と子丼ぶりにおいでおいでをしています。
この手招きが「ボトム」になるきっかけとなるとは、もちろん知る由もありませんでした。


 
 異国の、それも無人と化した廃墟の街の修道女に手招きを受けるとは思いもよりませんでしたので、興味津津、子丼と2人で後についていきました。修道院で飼っている子猫たちも可愛かったし。
 回廊のはずれの部屋に案内されると、そこは手縫いの刺繍がほどこされたみやげ物売り場でした。客は我ら2人だけ。買わずには帰れない不思議な力を感じました。実際きれいでもあったったのです。



 外に出るとわが団体の姿は見えず、ツアーガイドのGさんだけが少し困った顔をして先の方で待っていてくれました。またも最後になったので、急いで帰りの集合場所へと山を降り始めましたが、途中道を間違えたのでしょう。追いつけないまま、集合場所まで来てしまいました。

 わが団体の皆さんは、後ほど降りてきました。エンちゃんと家人は手分けして山道を探しまわってくれたそうですが、愚生、かく言ってしまったのです。
 「みんなようやく降りて来たね」と。

 その時です。
 「あなたってボトムね」と家人に言われたのは。
 ボトムって????
 「みんなが揃っているところに後からやってきて、やあみんなそろったかね、という輩」。

 シェイクスピアの「真夏の夜の夢」の登場人物の1人、とのことでした。
 たまに?教養の差を見せつけられるぐらいでは動揺はありませんが、迷惑をかけたことはわかっております。昼食時にみなさんにごめんなさいしました。
 お昼のメインはナスとひき肉とポテトの重ね焼き、ムサカです。



 素直に謝った後の食事は、とてもおいしかったです。「真夏の夜の夢」も読み終えました。
 禍転じて福となす。ちょっと違いますか。

Posted at 17:35 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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花と緑に包まれたミストラは中世の刺激がいっぱい・・・ギリシャ団体旅行記16 [2008年08月01日(金) ]
 ワレワレ一行は(テレビの安っぽいナレーション風です)スパルタを後にして、ミストラへとむかいました。といってもバスで20分。その間に晴れました。ラッキー。
 しかし、まだ旅の3日目。正味7日間の団体旅行記がかくも遅々として進まないのは、時間はたっぷりあるものの知識、教養、能力そのたもろもろが不足しているため、と言い訳させていただきます。



 その不足分を、ミストラについて書く前に少しでも補おうと、いくつか資料に当たったところ、何とゲーテが出てきました。さらに愚生の不徳のいたすところから、シェイクスピアも読まなくては。サワリだけの付け焼刃ではありますが。
 
 スパルタとミストラは距離的には指呼の間ですが、あのギリシャ最強の陸軍国だったスパルタ時代とは時の隔たりは大きくざっと1700−2000年。愚生は初めてミストラなる遺跡を知りましたが、「14世紀から15世紀にかけてのミストラは、ビザンチン帝国の中心の一つであり・・・ルネサンスに大きな影響を与え、ヨーロッパ精神の形成に重要な役割を果たした」(「ユネスコ世界遺産 9 東南ヨーロッパ p.254」 監修=ユネスコ世界遺産センター 講談社)という歴史的に重要な位置づけがなされている遺跡であります。
 
 ツアー会社からもらった旅の記録によりますと、ミストラは「上の町入り口―アギア・ソフィア教会―パンタナサ協会―聖ディミトリアス協会―下の町出口」という順番に見たことになっております。が、ほとんど崩れた城壁や建物を上り下りしながら廻った、というと、がれきの山を歩いたというイメージですが、実はとても感動的な中世の旅でありました。

 フランク族が、オスマントルコが、そして列強の手が、700年にわたって伸びたかつての栄光の都市は今、旅人を緑と花で迎える静寂の世界遺産の地となっているのです。石畳を上ると眼前にまた石の壁、それを曲がると教会、そして花畑の向こうに屋根のない石の建物、雪をいただいたタケゲトス山脈、そして眼下に広がるのはエヴロタス平野。

 写真は「下の町」で子丼が撮影したもので、薄紫の花が満開になっているのはハナズオウの木です。灰色や茶褐色の石の遺構と、生にあふれた木々草花とのコントラストが、かつての栄光への思いを募らせて、何と調和のとれた風景となっていることか、と思わずにはいられません。


 
 時空間にかくも複雑な広がりを持つミストラは、我々の五感に様々な刺激を与え、それゆえ愚生にとってここが旅の白眉の一つとなりました。
 ゲーテやシェイクスピアは次回、何らかの形で。はい

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スパルタからミストラへ・・・ギリシャ団体旅行記15 [2008年07月21日(月) ]
 スパルタの英雄、レオニダス王。王の楯にはメドゥーサの顔のレリーフ、像の台座にはモロン・ラベ。ペルシャが降伏するようよこした使者への返事で、「欲しければ取りに来い」だそうです。以下、前回と少しダブります。





 紀元前480年。権威あるデルフィの神託も降伏を勧めるなかで、レオニダス麾下300人のスパルタ重装歩兵支隊は、神託に従わず「雲霞のごときペルシャ軍を北方テルモピュライに食い止めようとして全滅」(中公文庫 世界史上)したが、続くサラミスの海戦ではギリシャ軍が決定的な勝利を得た、とのことです。

 しかしペルシャを追い返したものの、ペロポネソス戦争(紀元前431-404)でギリシャのポリスはひとつ、またひとつとその結合力を失っていった(上掲書)のです。

 我々一行は、そうした話に触れつつ、オリーブの林を通り抜けて遺跡へと向かいました。遺跡はオリーブ林の間にもありました。
 オリーブは、雨の少ないギリシャでは古代からの特産品で、今も「イタリアに輸出したものが日本に行っています」(ガイドのK下さん談)。
オリーブの葉は柳のように細く、しかしみずみずしくないのですが、木は大木が目立ちました。2000年の寿命がある、と聞きました。



 遺跡はほとんど土台や壁の一部など、多くはありません。「尚武第一」のスパルタ人は、華美な神殿や建物をほとんど作らなかったことと、遺跡の石材はこれから向かうミストラなどの建築材として持ち去られたためだそうです。


 ミストラは、13世紀の寺院や城砦が残るタイエトス山脈の山肌にある無人の街。1989年、世界遺産に登録されて“中世のポンペイ”とも呼ばれるそのミストラまでは約4.5km。指呼の間です。


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スパルタへの道・・・ギリシャ団体旅行記14 [2008年07月10日(木) ]
 風光明媚な港町ナフプリオン郊外のホテルで一泊した翌朝、我々一行は一路スパルタへと向かいました。が、その前にホテルの夕食をご紹介します。上はパスティシオ(マカロニのラザニア風)、下はチキンとサフランライスです。





 ギリシャの国土は日本の約3分の1、人口は約11分の1、人口密度は1平方kmあたりわずか86人弱ですから、街を抜けると人影はなく人家もまばらですが、きれいな教会をいくつも見かけました。この写真はスパルタへの途中、バスの窓から撮りました。



 ギリシャの宗教は、ギリシャ正教ですが、ものの本(※1)によると「ギリシャ正教」という総称は、ギリシャの国教としてのギリシャ正教ではなく、初代教会から連綿とつづく伝統的、かつ正統的なキリスト教であることを意味している、とあります。
 正教会の本山はそれぞれの国の首府にあり、日本では東京・神田のニコライ堂が日本正教の本山となるそうです。なるほど、日本では日本正教、ロシアではロシア正教となるわけですね。
 
 さて、スパルタへはナフプリオンから105km。休憩をはさんで約2時間のドライブでした。出迎えてくれたのが西洋の武人の鑑(精選版日本国語大辞典)とまで崇められている英雄、レオニダス王の像=写真=です。



 でもレオニダス王のことは、恥ずかしながらこの旅で初めて知りました。スパルタにしても「スパルタ式」という言葉しか知りませんでしたが、ものの本(※2)で、想像を絶する厳しい「式」、ということを知りました。それによると、スパルタには、被征服民農奴に土地を耕作させている「平等者」たちがいて、兵士になるために生れ、教育されました。8歳から20歳まで厳しい訓練を受け、30歳まで兵営で生活、古代ギリシャ最強の陸軍を維持していたそうです。

 レオニダス王を西洋の武人の鑑たらしめたのは、紀元前480年の、ペルシャとの戦いでした。昨年公開された映画「300」(スリーハンドレッド)はこの伝説的な戦いを描いた娯楽大作で100万人のペルシャ軍を相手に、レオニダス王はわずか300人のスパルタ重装歩兵を率いてテルモピュライという峡地で奮戦、全員玉砕するというストーリーです。
 元の話はヘロドトスの「歴史」にあるそうです。

 映画は「自由」のために戦う男たちの話ですが、アメリカ映画で「自由」を強調すると、アメリカの尺度によるアメリカ人のための自由、という風に受け止めてします傾向は、私だけでしょうか。しかも兵士たちは「平等者」でしたが、農奴もいたわけですし。
 スパルタ、続きます。

※ 1 「神と悪魔 ギリシャ正教の人間観」高橋保行著 角川選書
※ 2 「ギリシャ・ローマ神話物語」コレット・エスタン、エレーヌ・ラポルト著、多田智満子監修、田辺希久子訳



<基本データ> 在ギリシャ日本大使館ホームページをもとに作成
首都 :アテネ
面積 : 13万平方キロメートル(日本の約3分の1)
人口 :約 1,113 万人 (2007年) (日本の約11分の1)
人口密度:約86人/平方キロメートル(日本の約4分の1)

公用語:現代ギリシャ語
宗教 :ギリシャ正教
政体 :共和制(パプーリアス大統領、カラマンリス首相)

実質GDP : 1828 億ユーロ(2007年IMF推定)
1 人当たり 実質GDP : 1643ユーロ(2007年IMF推定)
在留邦人:667 人( 2007 年 10 月)

Posted at 13:32 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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マリア・カラスも歌ったエピダウロスの円形劇場・・・ギリシャ団体旅行記13 [2008年06月30日(月) ]
 エピダウロスは、「元来アポロン崇拝の地だったが、前6世紀以降医神アスクレピオスが祭られ、前4世紀がその最盛期で、その医療施設と演劇・運動競技によって汎ギリシャ的な聖地となった」(※1)ところで、残っている遺構は25を数えます。
 しかしそのほとんどが「土台部分まで裸にされた無残な姿を曝している」中で、私たち一行が訪れた円形の劇場のみ保存状態抜群です。



 「劇場は、キュノルティオン山の斜面を利用して作られていて、山土に深く埋没したために石材の剥奪から免れた」(※2)からです。
 劇場の収容観客数は14000人以上。今も音楽祭に使われるほど音響効果もよく、20世紀最高のソプラノ歌姫といわれたマリア・カラスも一度ならず劇場の底の丸い舞台「オルケストラ」に立ちました。オルケストラはお察しの通り、現在管弦楽の意味で使用されるオーケストラの名称のもととなったとのことです。
 
 30年前にマリア・カラスが亡くなった時、イヴ・サンローランが「神々は退屈し、自身の声を呼び戻したのだ」と語った、とネットにありました。そのサンローランも今月1日、亡くなりました。思い出があります。就職のために買った最初の背広がイヴ・サンローランのブランドでした。ウェストが75センチだったころです。

 劇場では、ガイドのK下さんが「せっかくですから真ん中で歌ったらいかがですか」としきりに勧めてくれましたが、皆さんシャイで、歌いませんでした。K下さんは一人、美声を響かせていました。天気が良ければせめて劇場の上まで登ったのでしょうが、雨に負けてそのまま博物館へ向かいました。一人、エンちゃんだけが上まで登っていました。

 博物館には古代の医療用具=写真=がありました。


 さらに首のない像がたくさん。生きているうちに、下の体の像を選んでおいて、死後その人の頭の像を付けるためだそうです。そうする意味がおおいにあったのでしょう。合理的ではありますね。



 氷雨の中を三度バスに乗って向かったのは美しい港町ナフプリオン。




雨も上がった夕方、この土産物店に入るととてもかわいいお嬢さんが英語で話しかけてきました。
 「日本人ですか。サスケを見ています」
 サスケ???
 我が一家は、その時彼女が何の事を話しているのかわかりませんでした。でも大変にこやかに応対してくれたので、気持ちよくお菓子を幾つか買いました。サスケってTBS系の筋肉番付のスペシャル版で放送されているテレビ番組だったのですね。アメリカでも人気、とその後新聞に出ていましたが、ギリシャで話題になるとは思いもよりませんでした。
 でも遠いようで近いギリシャを実感したひと時でした。
 明日はいよいよスパルタです。そういえば筋肉と大いに関係ありそうですね。
 
(※1 「世界の大遺跡5 エーゲとギリシャの文明」 三浦一郎編著 講談社1987年)
(※2 「ギリシャ案内記 下」パウサニアス著、馬場恵二訳 岩波文庫訳注127)

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エピダウロスへ・・・ギリシャ団体旅行記12 [2008年06月27日(金) ]
 エレクトラを思い浮かべながらミケーネを後にした我々一行は、再び車中の人となりました。向かうはペロポネソス半島西武の聖地エピダウロス。
「前6世紀以降医神アスクレピオスが祭られ、前4世紀がその最盛期で、その医療施設と演劇・運動競技により汎ギリシャ的な聖地となった」とものの本にありました。

 しかし、腹が減っては聖地といえど歩けません。途中KOLYZERASという大きな白いレストランに寄りました。壁にはここを訪れた世界の著名人の写真が貼ってありました。

 お昼ごはんはサグナキ(チーズパイ)、ズッキーニのコロッケ風、サラダ、ポーク・スブラキ(串焼き)、果物。
ズッキーニのコロッケ風です。



 大きな皿に大きな串に刺したスブラキが乗っています。かぶりつくのかな、と思っていたら、店の方がその上にお皿をかぶせてスブラキを挟み、串だけ抜きました。二枚の皿が閉じた貝のようでした。

お皿をこうかぶせて



左手で串を抜くと



デザートです。ギリシャ国旗がへんぽんと翻り、ギリシャ的な食事の〆、という意思を強く伝えていますね。



 どれもおいしくいただいて、再びバスに乗り込むと、われらが名ガイド、K下さんが神話はもちろん、ギリシャのいろいろを、話してくれました。

 「結婚するときに、私は旦那様に『毎朝いちいちあなたにお金を下さいと言うのは嫌ですよ』と言いました」
 ギリシャ人のご主人は「日本の女性はしっかりしているから大丈夫」とおっしゃったそうです。
 その根拠は知る由もありませんが、ギリシャでは今でも多くの女性が毎朝「今日は○○でお金がいるからください」と言うそうです。働く女性も多く見かけたのはそのせいもあるのでしょうか。

 昔、ギリシャでは、というかギリシでもというべきか、女性に対して相当ひどいことを言ってます。
 たとえばホメロスとならぶギリシア神話の2大作家、ヘシオドスは「彼女たち(人をまどわせる女たちの種族)は 死すべき身の人間どもに 大きな過ちの因をなし 男たちといっしょに暮らすにも忌まわしい貧乏には連合いとならず 裕福とだけ連合うのだ。(廣川洋一訳『神統記』)」(ギリシャ神話と英米文化 大修館書店 p.51「ギリシア神話とギリシア・ローマ神話」から)。

 よくわからないところもありますが、周りを見るに、男の方にそういうやからが目につくような気もしますが・・・
 一方、日本はどうか。愚生の好きな本、「逝きし世の面影」(渡辺京二 平凡社ライブラリー)には、長岡藩の元家老の家に育った女性の話として、「日本では妻は夫の『銀行家』として一切の家計を任せられ、夫のほうが金がいる時は妻から受け取っていたのである」(同書p.364)。
 我が家の”銀行家”も査定が厳しくて。
 いろいろいろいろ思うところはありますが、 そろそろエピダウロスです。

Posted at 15:10 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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黄金のミケーネ2 その血塗られた歴史の陰に・・・ギリシャ団体旅行記11 [2008年06月15日(日) ]
  アテネ・国立考古学博物館にある黄金の出土品です。



 10年に及んだトロイ戦争から凱旋したギリシャ軍の総大将アガメムノンが、留守を守っていた王妃クリュタイムネストラとその不義の相手のアイギストスに、すぐに殺されたのは、それなりの理由があった、ということを、21年前発行の雑誌ダカーポの書評で知りました。書評子は「清貧の思想」、愚生の好きな「実朝考」のなどの著者、故中野孝次氏。

 「連休中にすばらしい一冊の本を読んだ」
 氏がそう書きだした本は、星川清香著「エピタフ」(築地書館)。今、取り寄せ中なので読んでいませんが、「なぜミュケーナイは滅んだのか?」という見出しの話はこうです。

 「英雄アガメムノンは、トロイ遠征の出発時に、母親たる彼女(クリュタイムネーストラ)に最もひどい仕打ちをした。全ギリシャ軍の無事渡航のため、神託に従い、わが娘、美しきイピゲネイアーをその手で殺害し犠牲に捧げたのである。著者はまずこの事件がクリュタイムネーストラに与えた言語を絶する苦痛を描くことから始める」
 しかも、アガメムノンは戦える男のすべてと糧秣や金銀財宝の大部分まで持ち去り、「軍が出発したあとのミュケナイ(ミケーネ)は、津波に襲われたように見えた」。

 「ものを裏側から見る癖」を持つ戦いに行かなかった男と、残された女たち。アガメムノン不在の10年の間に「働くことを通じて女たちは自らの力を自覚し、変わったのである」。
 こうした中での英雄アガメムノン殺害は、「新しいモラルの古い掟に対する否定であった」と中野氏は結んでいます。
 本の副題は「英雄たちの墓標」です。

 写真はミケーネのアトレウスの宝庫(上)と南門(斥候を出す場合などに使われた、とみられているそうです)。


 
 生き延びたアガメムノンの娘エレクトラは、父を殺した母に対して激しく憤り、弟に殺害させます。その悲劇を描いたギリシャ映画「エレクトラ」を、高校生のころ、新宿文化で見ました。照りつける太陽のもと、イレーネ・パパス演じるエレクトラの、意志の強い女性という印象のみ残っています。エレクトラコンプレックスなる言葉もそのころ覚えました。もう一度見たい映画の一つです。
 イレーネ・パパスは、「その男ゾルバ」、「ナバロンの要塞」など数々の大作に出演していますね。

 ところでトロイ戦争はいつごろあったのでしょうか。ウイリアム・H・マクニールという世界史研究者の「世界史 上」(増田四郎、佐々木昭夫訳 中公文庫)では前1400年ころから「200年間というもの、ミュケナイの船は、連続的に海の略奪を行い・・・」とあります。この間が、ミケーネ文明最盛期で、トロイ戦争は「前1184年にあったと伝えられる」、他の本では「前1182年ころ伝説のトロイ戦争起こる」とあります。
 そしてまもなく前1100年ころ、鉄の武器で身を固めた「ドーリス人という新しい侵入者の波が北からやってきて、ミュケナイの中心勢力を踏みにじったのである」(同書164ページ)。
 それはアテネにパルテノン神殿が建設される約550年前のことでした。

Posted at 10:47 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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黄金のミケーネ1 獅子王の門・・・ギリシャ団体旅行記10 [2008年06月09日(月) ]
 何かに似ているな、と写真を何度かみているうちにふと思い当りました。
「ヨーロッパの王家の紋章に」と。



 獅子王の門のことです。アガメムノンの暗殺、エレクトラの復讐など血塗られた伝説を持つミケーネの王城の門です。氷雨に煙る遺跡には、戦車の轍の跡、籠城用の地下水槽、堅固な城壁など、紀元前16世紀ごろからの伝説の時代の大要塞の名残をとどめてそこに生きたつわもの達の心を今に伝えておりました。
 写真は獅子王の門の内側です。



 我が団体は、コリントスを足早に見てバスで約30-40分。トロイの発掘で知られるかのシュリーマンが発見したミケーネに着いたのは、現地時間正午ごろ。2頭の獅子が我々を待ち受けていました。頭がないのは残念ですが、それがかえって廃墟と化した時のエネルギーの強いメッセージとなってハートにびんびんがんがんきます。

 門をくぐると右手に王家の墓とされる円形の墳墓。直径約28メートル。ギリシャ案内記の著者、パウサニアスが紀元170年にこの地を訪れたころには4-5メートルの地下にすでに埋もれていました。



 そこを発掘したシュリーマンが見たものは、「おとぎばなしのようにおびただしい黄金の装身具をつけたといってよいほどの十五個の屍体が伸展されて横たわっていた」(シュリーマン著、村田数之亮訳岩波文庫「古代への情熱―シュリーマン自伝」p.90)。



 死者の顔に置かれていた黄金の仮面がアガメムノンたちのもの、とシュリーマンはギリシャ国王に打電しています。写真の仮面はアガメムノンとされていましたが、今はアガメムノンかどうか、疑問符が付けられています。
 人間のことを古代ギリシャ語では「死すべき者」と言ったそうです。確かに神々は生き続け「お化けは死なない」(ゲゲゲの鬼太郎の水木しげる先生)のかもしれません。
 黄金の仮面の主がだれであろうと、「死すべき者」の一人だったことに同類として無常を感じつつ、酒とバラの日々も否定しません。いや、できない体です。

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