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マリア・カラスも歌ったエピダウロスの円形劇場・・・ギリシャ団体旅行記13 [2008年06月30日(月) ]
 エピダウロスは、「元来アポロン崇拝の地だったが、前6世紀以降医神アスクレピオスが祭られ、前4世紀がその最盛期で、その医療施設と演劇・運動競技によって汎ギリシャ的な聖地となった」(※1)ところで、残っている遺構は25を数えます。
 しかしそのほとんどが「土台部分まで裸にされた無残な姿を曝している」中で、私たち一行が訪れた円形の劇場のみ保存状態抜群です。



 「劇場は、キュノルティオン山の斜面を利用して作られていて、山土に深く埋没したために石材の剥奪から免れた」(※2)からです。
 劇場の収容観客数は14000人以上。今も音楽祭に使われるほど音響効果もよく、20世紀最高のソプラノ歌姫といわれたマリア・カラスも一度ならず劇場の底の丸い舞台「オルケストラ」に立ちました。オルケストラはお察しの通り、現在管弦楽の意味で使用されるオーケストラの名称のもととなったとのことです。
 
 30年前にマリア・カラスが亡くなった時、イヴ・サンローランが「神々は退屈し、自身の声を呼び戻したのだ」と語った、とネットにありました。そのサンローランも今月1日、亡くなりました。思い出があります。就職のために買った最初の背広がイヴ・サンローランのブランドでした。ウェストが75センチだったころです。

 劇場では、ガイドのK下さんが「せっかくですから真ん中で歌ったらいかがですか」としきりに勧めてくれましたが、皆さんシャイで、歌いませんでした。K下さんは一人、美声を響かせていました。天気が良ければせめて劇場の上まで登ったのでしょうが、雨に負けてそのまま博物館へ向かいました。一人、エンちゃんだけが上まで登っていました。

 博物館には古代の医療用具=写真=がありました。


 さらに首のない像がたくさん。生きているうちに、下の体の像を選んでおいて、死後その人の頭の像を付けるためだそうです。そうする意味がおおいにあったのでしょう。合理的ではありますね。



 氷雨の中を三度バスに乗って向かったのは美しい港町ナフプリオン。




雨も上がった夕方、この土産物店に入るととてもかわいいお嬢さんが英語で話しかけてきました。
 「日本人ですか。サスケを見ています」
 サスケ???
 我が一家は、その時彼女が何の事を話しているのかわかりませんでした。でも大変にこやかに応対してくれたので、気持ちよくお菓子を幾つか買いました。サスケってTBS系の筋肉番付のスペシャル版で放送されているテレビ番組だったのですね。アメリカでも人気、とその後新聞に出ていましたが、ギリシャで話題になるとは思いもよりませんでした。
 でも遠いようで近いギリシャを実感したひと時でした。
 明日はいよいよスパルタです。そういえば筋肉と大いに関係ありそうですね。
 
(※1 「世界の大遺跡5 エーゲとギリシャの文明」 三浦一郎編著 講談社1987年)
(※2 「ギリシャ案内記 下」パウサニアス著、馬場恵二訳 岩波文庫訳注127)

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エピダウロスへ・・・ギリシャ団体旅行記12 [2008年06月27日(金) ]
 エレクトラを思い浮かべながらミケーネを後にした我々一行は、再び車中の人となりました。向かうはペロポネソス半島西武の聖地エピダウロス。
「前6世紀以降医神アスクレピオスが祭られ、前4世紀がその最盛期で、その医療施設と演劇・運動競技により汎ギリシャ的な聖地となった」とものの本にありました。

 しかし、腹が減っては聖地といえど歩けません。途中KOLYZERASという大きな白いレストランに寄りました。壁にはここを訪れた世界の著名人の写真が貼ってありました。

 お昼ごはんはサグナキ(チーズパイ)、ズッキーニのコロッケ風、サラダ、ポーク・スブラキ(串焼き)、果物。
ズッキーニのコロッケ風です。



 大きな皿に大きな串に刺したスブラキが乗っています。かぶりつくのかな、と思っていたら、店の方がその上にお皿をかぶせてスブラキを挟み、串だけ抜きました。二枚の皿が閉じた貝のようでした。

お皿をこうかぶせて



左手で串を抜くと



デザートです。ギリシャ国旗がへんぽんと翻り、ギリシャ的な食事の〆、という意思を強く伝えていますね。



 どれもおいしくいただいて、再びバスに乗り込むと、われらが名ガイド、K下さんが神話はもちろん、ギリシャのいろいろを、話してくれました。

 「結婚するときに、私は旦那様に『毎朝いちいちあなたにお金を下さいと言うのは嫌ですよ』と言いました」
 ギリシャ人のご主人は「日本の女性はしっかりしているから大丈夫」とおっしゃったそうです。
 その根拠は知る由もありませんが、ギリシャでは今でも多くの女性が毎朝「今日は○○でお金がいるからください」と言うそうです。働く女性も多く見かけたのはそのせいもあるのでしょうか。

 昔、ギリシャでは、というかギリシでもというべきか、女性に対して相当ひどいことを言ってます。
 たとえばホメロスとならぶギリシア神話の2大作家、ヘシオドスは「彼女たち(人をまどわせる女たちの種族)は 死すべき身の人間どもに 大きな過ちの因をなし 男たちといっしょに暮らすにも忌まわしい貧乏には連合いとならず 裕福とだけ連合うのだ。(廣川洋一訳『神統記』)」(ギリシャ神話と英米文化 大修館書店 p.51「ギリシア神話とギリシア・ローマ神話」から)。

 よくわからないところもありますが、周りを見るに、男の方にそういうやからが目につくような気もしますが・・・
 一方、日本はどうか。愚生の好きな本、「逝きし世の面影」(渡辺京二 平凡社ライブラリー)には、長岡藩の元家老の家に育った女性の話として、「日本では妻は夫の『銀行家』として一切の家計を任せられ、夫のほうが金がいる時は妻から受け取っていたのである」(同書p.364)。
 我が家の”銀行家”も査定が厳しくて。
 いろいろいろいろ思うところはありますが、 そろそろエピダウロスです。

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黄金のミケーネ2 その血塗られた歴史の陰に・・・ギリシャ団体旅行記11 [2008年06月15日(日) ]
  アテネ・国立考古学博物館にある黄金の出土品です。



 10年に及んだトロイ戦争から凱旋したギリシャ軍の総大将アガメムノンが、留守を守っていた王妃クリュタイムネストラとその不義の相手のアイギストスに、すぐに殺されたのは、それなりの理由があった、ということを、21年前発行の雑誌ダカーポの書評で知りました。書評子は「清貧の思想」、愚生の好きな「実朝考」のなどの著者、故中野孝次氏。

 「連休中にすばらしい一冊の本を読んだ」
 氏がそう書きだした本は、星川清香著「エピタフ」(築地書館)。今、取り寄せ中なので読んでいませんが、「なぜミュケーナイは滅んだのか?」という見出しの話はこうです。

 「英雄アガメムノンは、トロイ遠征の出発時に、母親たる彼女(クリュタイムネーストラ)に最もひどい仕打ちをした。全ギリシャ軍の無事渡航のため、神託に従い、わが娘、美しきイピゲネイアーをその手で殺害し犠牲に捧げたのである。著者はまずこの事件がクリュタイムネーストラに与えた言語を絶する苦痛を描くことから始める」
 しかも、アガメムノンは戦える男のすべてと糧秣や金銀財宝の大部分まで持ち去り、「軍が出発したあとのミュケナイ(ミケーネ)は、津波に襲われたように見えた」。

 「ものを裏側から見る癖」を持つ戦いに行かなかった男と、残された女たち。アガメムノン不在の10年の間に「働くことを通じて女たちは自らの力を自覚し、変わったのである」。
 こうした中での英雄アガメムノン殺害は、「新しいモラルの古い掟に対する否定であった」と中野氏は結んでいます。
 本の副題は「英雄たちの墓標」です。

 写真はミケーネのアトレウスの宝庫(上)と南門(斥候を出す場合などに使われた、とみられているそうです)。


 
 生き延びたアガメムノンの娘エレクトラは、父を殺した母に対して激しく憤り、弟に殺害させます。その悲劇を描いたギリシャ映画「エレクトラ」を、高校生のころ、新宿文化で見ました。照りつける太陽のもと、イレーネ・パパス演じるエレクトラの、意志の強い女性という印象のみ残っています。エレクトラコンプレックスなる言葉もそのころ覚えました。もう一度見たい映画の一つです。
 イレーネ・パパスは、「その男ゾルバ」、「ナバロンの要塞」など数々の大作に出演していますね。

 ところでトロイ戦争はいつごろあったのでしょうか。ウイリアム・H・マクニールという世界史研究者の「世界史 上」(増田四郎、佐々木昭夫訳 中公文庫)では前1400年ころから「200年間というもの、ミュケナイの船は、連続的に海の略奪を行い・・・」とあります。この間が、ミケーネ文明最盛期で、トロイ戦争は「前1184年にあったと伝えられる」、他の本では「前1182年ころ伝説のトロイ戦争起こる」とあります。
 そしてまもなく前1100年ころ、鉄の武器で身を固めた「ドーリス人という新しい侵入者の波が北からやってきて、ミュケナイの中心勢力を踏みにじったのである」(同書164ページ)。
 それはアテネにパルテノン神殿が建設される約550年前のことでした。

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黄金のミケーネ1 獅子王の門・・・ギリシャ団体旅行記10 [2008年06月09日(月) ]
 何かに似ているな、と写真を何度かみているうちにふと思い当りました。
「ヨーロッパの王家の紋章に」と。



 獅子王の門のことです。アガメムノンの暗殺、エレクトラの復讐など血塗られた伝説を持つミケーネの王城の門です。氷雨に煙る遺跡には、戦車の轍の跡、籠城用の地下水槽、堅固な城壁など、紀元前16世紀ごろからの伝説の時代の大要塞の名残をとどめてそこに生きたつわもの達の心を今に伝えておりました。
 写真は獅子王の門の内側です。



 我が団体は、コリントスを足早に見てバスで約30-40分。トロイの発掘で知られるかのシュリーマンが発見したミケーネに着いたのは、現地時間正午ごろ。2頭の獅子が我々を待ち受けていました。頭がないのは残念ですが、それがかえって廃墟と化した時のエネルギーの強いメッセージとなってハートにびんびんがんがんきます。

 門をくぐると右手に王家の墓とされる円形の墳墓。直径約28メートル。ギリシャ案内記の著者、パウサニアスが紀元170年にこの地を訪れたころには4-5メートルの地下にすでに埋もれていました。



 そこを発掘したシュリーマンが見たものは、「おとぎばなしのようにおびただしい黄金の装身具をつけたといってよいほどの十五個の屍体が伸展されて横たわっていた」(シュリーマン著、村田数之亮訳岩波文庫「古代への情熱―シュリーマン自伝」p.90)。



 死者の顔に置かれていた黄金の仮面がアガメムノンたちのもの、とシュリーマンはギリシャ国王に打電しています。写真の仮面はアガメムノンとされていましたが、今はアガメムノンかどうか、疑問符が付けられています。
 人間のことを古代ギリシャ語では「死すべき者」と言ったそうです。確かに神々は生き続け「お化けは死なない」(ゲゲゲの鬼太郎の水木しげる先生)のかもしれません。
 黄金の仮面の主がだれであろうと、「死すべき者」の一人だったことに同類として無常を感じつつ、酒とバラの日々も否定しません。いや、できない体です。

Posted at 01:05 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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コリントス遺跡・・・ギリシャ団体旅行記9 [2008年06月01日(日) ]
アポロン神殿

 旅の二日目は、あいにくの氷雨でしたが「雨の少ないギリシャにとっては恵みの雨です」とガイドのK下さん。バスは、コリントス運河から曲がりくねった細い道をゆっくりと走って、30分ほどでコリントス遺跡へ。
 私たちをまず出迎えたのは、犬の群れ。そしてBC6世紀(BC540年ころ)のアポロンの神殿。太い柱が7本、暗い空にむかって建っています。その昔は東西に6本づつ、南北に15本ずつ計38本あったそうです。他の神殿の柱の多くが輪切りにした医師を積み重ねているのに対してこのアポロン神殿の柱は、一つの石でできていて、高さは約7.2m、下の法の直径は1.8mです。





 晴れの日も雨の日も風の日も、そして前からも横からも下からもいつでもどこからでもギリシャ神殿は見ごたえがあり、風雪に、戦乱に耐えたその存在感は長い時間とともに増すばかりではないか、と思います。
 「存在と時間」の著者、ハイデガーがギリシャ神殿についてこう書いています。

 「そこに立つその建築作品は岩盤の上にやすらっている。この作品がこのようにやすらうことによって、岩からその武骨な、だがやはりなにものに向けられているのでもない支える力の暗さが取り出される。そこに立つ建築作品は、その上に荒れ狂う嵐に耐えそのようにしてはじめて嵐の荒々しい力に気づかせる。・・・神殿という作品は、そこに立つことによってひとつの世界を開き、同時にその世界を大地へと送りかえす」(木田元著「ハイデガーの思想」岩波新書p.214-215)


 難しいです。なにしろハイデガーですからー。
 で、「確かに、そこに神殿が立つことによって、それまで無定形な混沌(カオス)であったところに一つの世界が開かれ、そこで初めて山が山になり、谷が谷になる。・・・大地が初めて大地として見えてくるという事態がみごとに言い表されている」と木田さんが同書で解説してくれています。ご興味のある方はご一読を。1993年の発行です。

 愚生は哲学にも、もちろん無縁であります。ですが、ギリシャ神殿はなぜ人を魅せるのか、時はいつ美となるのか、という疑問は疑問として答えが気になります。
 ですからハイデガーがわからなくても愚生的には、太くて重くて風雪に耐える立派な神殿があるから周りの山が、大地が、風が、そして空と海も意味を持ち、見えてくる、というようなことなのかな、と思索ってみたりしますが、無理を重ねるとパニッ パニッ パニパニッと、土曜夜のエンタメのフランチェンのようにパニクリますのでこの辺で次、いきます。

 コリントスはギリシャ有数のポリスでしたが、BC146年、ローマに征服されました。「このときコリントスの男は皆殺しにされ、女は奴隷にされました」とK下さん。ですからコリントス遺跡は、アポロン神殿もローマ時代の再建で、ほかはほとんどローマ時代ものです。泉や大通り、商店街、公衆トイレなどが残っていて、古代人が立ち現われてくるような、生々しい感じのする遺跡でありました。
 
 下はレカイオン通り。左に商店が軒を並べていました。新約聖書の「コリント人の信徒への手紙」のパウロもコリントスに第二次宣教旅行できました。「説教をアゴラ」でしたとのことです。



 上の写真はコリントスにある二つの悲劇の泉の一つ、ぺイレネの泉です。右手奥の山はアクロコリントス(標高575m)です。


スフィンクス

 翼は鷲、牝ライオンの体、そして顔は女性。なまめかしくも不気味な彼女、というかかの獣の姿は、エジプトからフェニキアを経てギリシャに入ったといわれるご存じスフィンクス。下の写真は遺跡にある考古学博物館に展示されているBC6世紀のものです。ちなみにギリシャ語のSphinxには「絞め殺すも者」の意味があるとのことです。(参考図書 「日本の美術481 人面を持つ鳥―迦陵頻伽の世界」 勝木言一郎 p.95)
 

Posted at 18:59 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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ペロポネソス半島・コリントス運河・・・ギリシャ団体旅行記8 [2008年05月18日(日) ]
 ギリシャの実質的な旅2日目の3月28日(金)は、あいにくの氷雨。ギリシャって、南欧的なイメージですが、この時期かなり寒いのです。
 午前8時のホテル出発。我が一家は、遅刻こそしませんでしたが、バスに乗り込んだ最後でした。この傾向は、ずっと続き、愚生はがらにもなく、アテネとその郊外の森で繰り広げられるシェイクスピアの喜劇、「真夏の夜の夢」のボトムなる登場人物を知ることになったのです。
 が、その話は改めてご報告。今回はまずペロポネソス半島への入口、コリントス運河の見物に、一路向かいましょう。



 アテネからバスで約90キロ。ペロポネソス半島とバルカン半島との境目がコリントス地峡。往時、陸路で行くならここを通るしかありませんでした。ペロポネソス戦争(BC431年−同404年 )で、当時ギリシャ世界最強の陸軍国、スパルタを中心としたスパルタ連合の重装歩兵がアテナイ帝国へ攻め込み、後にアレキサンドロス大王の精鋭が駆け抜けたであろう、その地峡にスパッと切りこんでいるのがコリントス運河です。

 上から見ると、まるで鋭利な刃物でそぎ落としたように見えます。地層がずれているのは断層でしょう。としたら大地震が何回も起きている地域ですね。

 運河は全長6,343m、幅23m。コリントス地峡は中央部の標高90メートル。
「この距離なら、この高さなら掘れそう」、と紀元前7世紀から地峡を切断しようという試みがあったそうですが、実際に着手したのは、かのローマ皇帝ネロだけ。
 「多数の兵士やユダヤ人捕虜6000名を含む囚人を投入して工事を始めたが、途中で挫折」とギリシャ案内記(下)(パウサニアス著、馬場恵二訳 岩波文庫)の訳注にあります。

 運河が開通したのはそれから1800余年後の1893年。アドリア海からアテネまでの航路は300キロも短くなりました、と手持ちの電子版「○○○○○国際大百科事典」。

 ところで、同事典でコリントス運河を調べていたら「コリント運河 全長6.4m、幅22m、深さ8m」になっていました。短すぎませんか。kが抜けているのです。コリントという地名もコリントスだったりコリンソスになっていたり。電子版をつくるのは大変でしょうが、辞書や事典、辞典は正確さが命です。

 結局ギリシャ政府観光局のホームページの表記「コリントス運河」としました。ネットからの引用もなるべくしないことにしているのですが、政府のサイトなど一部利用しています。

 この日から、現地ガイドはK下さん。
 「ギリシャの観光業者は、日本人観光客は丁寧で静かできれい好き。ゴミを捨てない。すばらしいと言ってます。修道院の人たちも、日本人はクリスチャン以上に丁寧に見ていく、と感激しています。そういうみんながいい気分でいられるような旅行をこの旅でもしていただきましょう」

 こそばゆい思いですが、確かにこの旅でご一緒させていただいた方々は、落ち着いた常識も人生経験も豊かな方々。本当に楽しく旅をさせていただきました。



 写真は運河脇の土産物店のトイレの前の風景です。オレンジに見えますが、ネレンジというのもあるとかで、どちらかわかりません。ここのトイレは便座がなかったり鍵がかからなかったりだったとか。男性用は、どこもそうでしたが脚の短い愚生には、子供用があるとほっとしました。

Posted at 01:51 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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スニオン岬・・・ギリシャ団体旅行記7 [2008年05月15日(木) ]


 エーゲ海は青いもの、とばかり思っていたら、そうとは限らないのですね。沈む夕日に感激して「ワイン色に染まる海」とかのホメロスがうたったのは、スニオン岬の海。19世紀のイギリスの詩人でギリシャ独立戦争にも従軍したというバイロンも、大好きな場所だったというスニオン岬のポセイドン神殿。柱にはバイロンの落書きというかサインがある、とのことでしたがどこかわかりませんでした。ガイドのJさんは「本当にバイロンがかいたのかは、わかりません」。


 
 神殿が建てられたのは紀元前444年ころ。紀元2世紀後半の「ギリシャ案内記」(岩波文庫、馬場恵二訳)では著者アウサニアスがその冒頭でこう紹介しています。



 「ギリシャ本土からキュクラデス諸島とエーゲ海に向かって突き出しているのがアッティカ地方のスニオン岬である・・・その岬の頂のアテナ・スニアスの神殿が見えてくる」と。

 しかしこれは間違いで、アテナ・スニアスの神殿はすぐ近くにあり、岬の神殿はポセイドン神殿だったことが、19世紀になってわかったそうです(同書) 聖域は紀元1世紀には放棄されて柱だけの廃墟と化していったらしく、したがって後世の船乗りたちからは「柱岬」と呼ばれていた、と。無粋な呼び名ではありますが、確かに分かりやすいですね。

 しかし、もちろんただの柱ではありません。何といっても築後2450余年。「ラウレイオンのアグリレザの大理石で作られており、溝は強風による風化を避けるため普通の20本より少ない16本となっている」(世界の大遺跡5 エーゲとギリシアの文明 講談社)。

 溝の数を減らしている、とは、設計者は一体何年間もたそうと思っていたのでしょうか。神様の社ですから永遠にかもしれませんね。

 アテネにもどって、夕食はギリシャ風前菜(タラモサラダ、ザジキ=キューリのヨーグルト和え、ナスのペースト)、
 


サラダ、スズキのオーブン焼きとライス。おいしかったです。

 

Posted at 20:13 | 旅 ギリシャ | この記事のURL
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スニオン岬へ・・・ギリシャ団体旅行記6 [2008年05月07日(水) ]
 この旅の楽しみは、7か所の世界遺産を八日間かけてバスでくるくると回ることです。ということは、みなさん遺跡ファン、ということです。エンちゃんもそうでした。

 「遺跡はいいですね。ギリシャは3回目です」
 エンちゃん。
 初日の昼食で同じテーブルになった、一人参加の方ですが、その明るい人柄と真摯な生き方、いたずら小僧的なやんちゃぶりを時々発揮して、私たち一家の旅の味わいを一層深いものにしてくれました。

 のみならず、大変な専門知識、技術をお持ちになり、愚生の体調を整えてくれたありがたい同行者でもありました。しかも愚生と同じ大学出身かつ生年は丸1年若い同月同日生まれ。奇遇であります。
 その節もその後もお世話になり、ありがとうございました。エンちゃんとこの場で呼ばせていただくのも、心からの親しみを込めてのことであります。
 
 
 昼食は、繁華街プラカ地区の「TO HANI」というレストランでファソラキア(インゲン豆のトマト煮)、ギリシャサラダ、牛肉とパスタ、ケーキ。
 エジプト旅行の際の生野菜でお腹を壊したことがある、というエンちゃんは「サラダはミネラルウォーターでしゃぶしゃぶと洗ったほうがいいですよ」と。家人はそうしましたが、愚生はその時もそれからもしませんでした。

 結果としてどうということはありませんでしたが、そのほかにも健康に関する豊富な知識を折にふれて教えていただきました。
 エンちゃんのひとり旅にはそれなりのわけがあるのですが、男親として、彼のこの気持はよーくわかりました。

 話が弾んだ初めての昼食を終えてみやげ物などを見て一行はみたび車上の人となりました。



 上の写真の目玉のアクセサリーは、みやげ物店によくありました。イビル・アイ(邪視)の呪術から生まれたであろうアクセサリーで、「悪魔たちをしりぞけるために、眼をかたどった文様のあるものを身につけたりすることは、各地の文化でひろく行われること」(吉田光邦著、文様の博物誌 同朋社1985年)だそうです。

 ところで、この地域、みやげ物店や風情あるレストランが軒を並べていて旅行者にとってはとても楽しい街なのですが、外務省海外安全ホームページにはかくあります。

 「中でもアクロポリス(パルテノン神殿)一帯を指すプラカ地区やシンタグマ広場(エルムー通り)などでは、スリ、置き引き、ひったくりなどの盗難被害が多発しています。」
 詳しくは同ホームページをご覧ください。

 さて、満腹した一行が目指すは、アテネの東方約70`。エーゲ海に突き出たスニオン岬であります。
 車窓の右手にはやがて見たこともないのに「青い」という形容詞しか浮かばない憧れのエーゲ海。しかし、多島海の絶景のその前に、何か深い意味のあると思える、ギリシャ正教会のミニチュア。旅の途中、随所の道路わきでで見かけました。
 それは「ここで事故で亡くなった家族の慰霊ために遺族が建てたものです」。

 説明を聞いて再び目を転じると、いっそう青みが増したように見えた海と空の間に割って入るスニオン岬。もうすぐです。



 

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パルテノンへ・・・ギリシャ団体旅行記5 [2008年05月06日(火) ]
 駆け足でギリシャ国立考古学博物館を見た私たち一行は、アテネ観光、というよりもギリシャ観光の白眉、アクロポリス(高い都市)にそびえ建つ、パルテノン(乙女の間)へと向かいました。

 みなさんの後ろに並んでいそいそと貸し切りバスに乗り込みながら、ふと思いま出しました。40年以上前の中学時代の修学旅行を。まくら投げしか記憶にない修学旅行でしたが。

 しかし愚生も還暦を過ぎて晩期中年者というか“初期高齢者”。冥土へ旅立つまでの新たなジンセイの出発点として、この旅は、ギリシャ文明の始学旅行、とさせていただきました。(事前に何も勉強していかなかったのは、学生時代と同じです。情けない)

 「いよいよだな」(なにがいよいよだかわかりませんが)
 ポセイドンとの競争に打ち勝ってアテネの守護神となった女神アテナの社、世界一有名な神殿への期待に気合いが入り、胸がはずんだのですが、それにしても後期高齢者とかいいう言い方、って、ヤロウども、何考えてつけたんだか、いや、何も考えてないのだろう・・・いかん。興奮してきます。



 駐車場近くには、いかにも観光地らしい馬車があり、カメラを向けると御者のおじさんがポーズをとってくれました。乗らないでごめんなさい。行動予定になくて時間がありません。



 眼前のアテネのアクロポリスは岩山で東西270m、南北156m、高さ150メートル。プロピエラ城門というのが入口、と百科辞典にありましたがついていっただけなので、よくわからないまま、世界遺産をのぼり始めました。

 世界中から観光客が来ているのでしょう。登る途中も神殿周りも人でいっぱいです。人波をかきわけるように2400余年の時を超えて青い天空にそびえ建つドリス式エンタシスの白い円柱の周りをまわってワン、とばかりに感心の声をささげたりして、わが一家も、はいポーズ。

 アクロポリス周辺に人がすみついたのは6000年前から。3300年ほど前のミケーネ時代の宮殿跡も見つかっているそうです。アテネの主神、アテナ女神に捧げられた神殿としてのパルテノンが建てられたのは紀元前447-同438年のことでした。

 それは、縦69.5m、横30.88mの床に高さ10.4mの円柱が縦17本ずつ、横8本ずつ立てられ、円柱の底面の直径は1.9m。ビザンチン時代はギリシャ正教の教会、トルコの占領時代はモスク、1687年、ベネチア軍による屋根、内陣の壁、円柱の破壊、という歴史が刻みこまれた壮大な神殿であります。


 アテナはゼウスの娘で、ゼウスの頭から鎧兜に身を包んで生まれた、と伝えられています。ですから戦争の女神でもありますが、彼女がつかさどるのは防御的な戦ばかり、と伝えられ、また知恵、技術万般の女神でもありました。

 パルテノンの北側にはイオニア式柱頭と6体のカリュアティドで知られる(そうです)エレクティオンと呼ばれる複雑な形の神殿がありました。カリュアティドとは古代ギリシャ神殿の支柱に使われた女性の像の柱。ここエレクティオンのそれはすべて複製だそうです。



 眺めているうちに、はや集合時間。さりがたき場、アクロポリスを去ったのであります。


     ※          ※          ※

 今回参考にした主な図書
 「ギリシャ案内記 上」(パウサニアス著、馬場恵二訳 岩波文庫)
 「世界史(上)」(ウィリアム・H・マクニール著 増田義郎、佐々木昭夫訳  中公文庫)
 「ギリシア・ローマ神話 ブルフィンチ作 野上弥栄子訳 岩波文庫」
 「ANCIENT ATHENS」(Eleniu Svoronou)
 「ブリタニカ国際大百科事典」(電子版)

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金に託した永遠の命・・・ギリシャ団体旅行記4 [2008年04月29日(火) ]
 アテネのギリシャ国立考古学博物館、駆け足で見た中で、もう一つ、これはご紹介しなければ、と思ったのが、まだありました。かのシュリーマンが発掘した、ミケーネ遺跡(世界遺産です)の円形墓地から出土した黄金のマスクです。

 金といえば、成り金とか金ぴか、とか、金○○、とか縁のない我ら(我だけかな)は多少でも縁のある衆生を攻撃いたしますが、なに、本音は・・・
 黄金のマスク。本当にあったのです。ここに。許せなーい。しかも周りの装飾品も金、金、金のオンパレード。そこで思いました。デスマスクの主たちは金に何を託したのか、を。




 金は腐りません。王水にしか溶けません。地上で一番重い元素でもあります。そうした希少価値とあの輝き、このきらめき。
そこで思うに、マスクの主は、支配者としての力を誇示すべく、デスマスクや装飾品という形で、それも富と権力の象徴たる金に託して、永遠に伝えるメッセージとしたのではないか、と。

 もとよりど素人の、とっさの思い付き。根拠は何もありませんが、こうして、かたや膨れ上がり、かたや細面の生前そのままに目を閉じて永遠の眠りについたかに見える黄金のマスクを見ていると、三千数百年前の彼らのメッセージが、シュリーマンにまさに伝わった、との思いがふと横切ったのでありました。
 
 日本だって、金閣寺や桃山時代の障壁画には金がふんだんに使われていましたよね。自宅の庭にアポロン像を置いていた作家の三島由紀夫が「わが室内装飾」にこう書いているそうです。

 日本人の美学は、金ぴか趣味を失ってから衰弱してきた、といふのが私の考へである。
            (鶴岡真弓 「装飾する魂」平凡社より)

 なるほど金ぴかに憧れて何が悪い、と時と場合によってははっきりいう一つのよりどころをいただいた思いです。


                     

 先週末、かつてのご同輩、Y上さん、M戸君、T橋K子さんと4人で銀座は泰明庵で旧交を温めました。アルトサックスに夢中のY上さんは「吹き方が強すぎるんだって」と相変わらず攻めの人生。M戸君は「あこがれの泰明庵で飲める幸せ」を4杯のコップ酒で決意表明、グルメのT橋さんは、手作りアップルパイをお土産に我らに持たせてくれました。



 金色に輝いてかつみごとにシンプルな外観はてだれの業。しかもおいしさ充満。お忙しいのにわざわざつくっていただきすみません。一家3人でごちそうさまでしたー
 
 わが人生、黄金に託さなくてもそこそこ幸せで満たされる時があります。

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