プロフィール
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身につまされて [2008年05月30日(金) ]
驚いた(惚)ホれると(惚)ボけるは同じ文字

 第7回シルバー川柳(2007年)入選作です。作者は静岡県在住の82歳の男性。さすがは川柳子。いくつになっても新鮮な驚きを見る人生って楽しいでしょうね。

 たまたま見ていた社団法人全国有料老人ホーム協会のホームページに「第8回 シルバー川柳」募集のトピックスのバナーがありました。 内容は
 「9月15日(月)の敬老の日にむけてシルバー川柳を募集いたします!2008年7月31日(木)必着」とありました。
詳しくはホームページをご覧いただくとして、過去の入選作は、シルバーでもだれでも必見であります。人生の参考になります。思い当たる節が多々あります。たとえば

 とって見てやっぱり解らん年の功(福岡県91歳男性)

 その昔惚れた顔かと?目をこすり(北海道76歳主婦)

 チョイワルもチョイヨボですネと妻が言う(京都府59歳紳士服仕立男性)

 定年で働き蜂からおじゃま虫(愛媛県60歳自営業女性)
 

 身につまされます。そこで愚生も

 死にそうと 何度言っても みんな無視
 (二日酔いのひどい日)

 ○○が言う しぬまで一緒 墓は別
  (優しいことばなのかなあ。○○と伏字にしたのはいろいろありまして・・・楽しくない)

  駄句をば失礼しました。

 ※「ほれる」という言葉は、精選版日本国語大辞典によると
1 茫然となる、放心する
2 年老いて知覚や感覚がにぶくなる、もうろくする。ぼける
3 人、特に異性に心をうばわれて夢中になる
  などとあります。

 「語誌」として、中古から中世にかけては1や2の意味。室町以降に3の意味に限定されるようになった、とあります。だから字が同じなのでしょう。

                             

 昨日の昼、また銀座ファイブのベトナム料理店にいきました。4回目です。食べたのは鶏とレモングラスの土鍋ごはんセット。味もボリュームもお値段も納得しました。


Posted at 12:12 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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日比谷と湘南 [2008年05月22日(木) ]


 東京・日比谷公園のバラと日比谷花壇を、この時期例年とおり眺めてから、故あって湘南・葉山にいきましたそれも二日連続で。
 一昨日は富士山がめずらしく見えました。昨日は夕日がとてもきれいでありました。






 途中、逗子銀座で寄ったのが豆腐専門店。ごらんの豆乳うどんとひじきご飯のセットで980円。うどんだけほしかったのですがセットしかありませんでした。豆乳の味って、けっこう深いものがあるのですね。


 
 

Posted at 00:24 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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侍、戯作者、猫・・・谷中の徘徊その2 かな? [2008年02月11日(月) ]
 谷中の永久寺というお寺を目指して地下鉄千代田線は千駄木駅から三崎坂を登り始めました。先週金曜日の昼下がりのことで、振り向けば団子坂です。
 上り始めてすぐ左に菊見せんべい、右には江戸千代紙のいせ辰、その上には喫茶店の「乱ぽ」(ぽは歩の右上に半濁点です)。江戸川乱歩の大ファンのご主人がやっている、とても魅力あふれる店で、ジャンバラヤを食べたことがあります。

 さらに続々と現れるのが400年から350年以上の歴史を誇る由緒ある古刹です。江戸の三美人の一人(だそうです)、笠森お仙と彼女を錦絵で描いた絵師、鈴木春信の碑があるのは大円寺。お仙の碑に刻まれた撰は永井家風が書きました。お寺の二つの大きな屋根は見るからに重みがあり、修理中であります。



 その先には怪談「牡丹灯篭」で知られる落語家、三遊亭円朝のお墓がある全生庵。牡丹灯篭、東北の小さな町に一人赴任していて読んだのですが、夜中にカランコロンと下駄の音が・・・怖かったー。

 白梅が咲き始めた全生庵では剣の達人、山岡鉄舟、円朝、作曲家の弘田龍太郎の墓参りをしました。それぞれ語れば尽きない話題があるはずですが、浅学の身、矢田挿雲著 定本 江戸から東京へ第一巻(芳賀書店 昭和39年)からひとつだけご紹介させていただきます。

 鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ戻った徳川慶喜に対して山岡鉄舟が、
「貴方は恭順とみせかけて、なにか行(や)ろう、というんでしょう」
と、無遠慮な質問を発し、
「いや、そうではない。神明に誓って恭順するのじゃ」
と聞くと、その足で軍事総裁、勝安房を訪い(原文のまま)
「将軍の誠意を官軍に申達してくる」
といいだした。

 最後の侍、ともいわれる山岡鉄舟をして、西郷・勝会談を実現させて江戸無血開城への道を開いた、と。
 鉄舟の墓です。



 いせ辰でショーウインドウをのぞいたり寄り道をしながら坂をさらに上ると右手に白い線の入った黒いコンクリートの塀がひと際異彩を放つお寺。それが永久寺でした。仮名垣魯文が建てた猫塚と山猫の碑がある、との新聞記事を見て「見たい」と足を運んだ次第です。




 たどりつくまでに時間がかかるのは、200メートル足らずのこの坂に、江戸の、明治の、男も、女も、そして猫も、居心地が良いのでしょう、みんな勝手にいまなお徘徊しているとしか思えない、街だからであります。

 三門をはいるとすぐ、目指す猫関係の碑と塚がありました。左に「山猫めおと塚」。魯文が飼っていた夫婦の猫の塚で、その右に「猫々道人記念碑」。猫々道人とはもちろん魯文です。
 さらにその右にも碑があって猫の顔が。しかもよく見ると、猫の顔の目や髭は「魯」の字です。いたずら心いっぱいの、戯作者、魯文。お友達になりたかったなあと、ふと思いました。



 仮名垣魯文は、幕末から明治初期の戯作者、新聞記者で「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」など当時の世相や事件を題材にした滑稽小説などがあることを、教科書で習いました。谷中霊園の入り口、公衆トイレの脇に高橋お伝の碑がありますが、その世話役も仮名垣魯文。お伝をテーマにした戯作、芝居でもうけさせてもらったのでそのお礼と供養でしょう。役者も名を連ねています。

 が、魯文で愚生が注目しているのは

 「今古実録 延命院実記」(国立国会図書館のデジタルアーカイブより) 




 江戸城大奥を巻き込んだ大スキャンダルの、実録はいかに・・・ということで気になるところであり、延命院は今も谷中にあります。本は国会図書館のデジタルアーカイブにあるので、いずれご報告させていただきたいと。はい。

 三崎坂をほぼ上がったところに、左に入る細い道があります。この道こそ、界隈の常識である、出会い、ふれあい、老いも若きもおいしく、楽しい道ということを再発見しました。次回行きます。

Posted at 00:44 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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雪の二重橋へ [2008年02月03日(日) ]
 雪が降ったら、写真を撮りに二重橋へ行くことに決めていました。したがって今朝は家事手伝いをおろそかにして、迷うことなく、かく宣言しました。
 「すぐに出掛ける」
 家人かくこたえました。
 「あなたは犬で私は猫ね」
 
 きゃいいいん

 まさに、心の深奥をのぞかれた思いでした(いつものぞかれているかも)。確かに雪が降ると、喜びかけずりまわりたいという、どうにもならない性というか、業というか。家人はこたつでミカンを前に丸くなる・・・ま、そんなことどうでもいいですが、皇居へ、二重橋へ、と地下鉄を乗り継ぎ、千代田線二重橋駅で降りて歩みを進めました。

 雪とはいえど、東京一の観光スポット、皇居前広場。「シャッター押してください」と同年輩の男性に頼まれました。記念写真を撮りたい気持ち、よくわかります。

 それから濡れながら、ふるえながら、とにかく二重橋を10枚くらい撮りました。その一枚がこの写真です。期待していたほどにはよく撮れませんでした。ひとえにウデのせいです。





 谷中・夜店通りマミーズの手作りアップルパイを食べたくなって、再び千代田線で千駄木へ。昼食はマミーズ斜め前の洋食屋「マロ」でオムライス600円。ここは初めての店でしたが、わたくし好みのオムライスでありました。下町の洋食は、奥深いものがあります。店名は、昭和47年の調理師免許証を見て察しがつきました。



 二重橋から谷中・千駄木。半日ではありましたが、旅する気分の寒くも楽しい一日でした。
ワン。

Posted at 22:46 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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いかに生き、いかに死ぬか・・・映画「明日への遺言」 [2008年01月20日(日) ]
 縁あって試写会を見ました。
 名古屋を無差別爆撃して撃墜され、降下した米軍B29搭乗員38人の処刑の責任を問われ、B級戦犯として絞首刑の判決を受けて、昭和24年9月17日、巣鴨の13階段を上った東海軍管区司令官、岡田資・元陸軍中将の、戦犯裁判を闘う「法戦」の話です。

 明日への遺言

 監督小泉堯史、主演藤田まこと。映画の岡田中将に魅せられて、原作の「ながい旅」(大岡昇平著、角川文庫)と「私の中の日本人――岡田資」(大岡昇平全集21 評論[ 筑摩書房)も読みました。映像と、原作とが入り混じってさまざまな思いが今も続いています。

 映画を見ている最中に、30数年前、事に臨んでの心構えー岡田中将の法戦のケースと比べると、重みはまるで違うでしょうがーを、職場の先輩から、かく教えてもらったのを、思い出しました。

 逃げるな、騒ぐな、あわてるな

 映画「明日への遺言」、その原作「ながい旅」で
「国破れて上将が求めて責任を取るのは、当然すぎることではありませんか」とありました。
 すなわち司令官として、米軍B29搭乗員処刑のすべての責任を負う。また処刑をした理由として米軍の無差別爆撃の違法性を訴えてそれを立証する。「ながい旅」にこうあります。

 「スガモ・プリズンはこんな不撓不屈の囚人はみたことがなかった」と。
 
 たった一人の、その法戦の結果、岡田中将は死刑となったが、部下は死刑を免れました。
 上将の中にも責任逃れに汲々とする輩がいるなかで、岡田中将は、法戦を通して人はいかに生き、いかに死ぬか、を突き付けてその答えを、私にとっては明らかにしています。

 映画は、責任の取り方と、法廷での傍聴という場を通して描かれる家族との深い絆、愛を両輪に、戦争裁判が抱える矛盾、責任逃れに汲々とする下劣な精神などが織りなされて、展開しています。
 原作はさらに国のこれからを思う心、宗教の力など、世界を、人生を構成する大小の、いくつもの要素がより深く盛り込まれて、あきることがありません。

 岡田資を書くにあたって大岡昇平はこう書いています。
 「戦後一般の虚脱状態の中で、判断力と気力に衰えを見せず、主張すべき点を堂々と主張したところに、私は日本人を認めたい。少なくとも、そういう日本人のほか私には興味がない」(「私の中の日本人――岡田資」)。

 その「興味ある」日本人、岡田中将は「処刑当日というのに、終日平常と何の変わりもなく、監視兵らと冗談を飛ばしあい」、処刑場へ向かうにいささかも乱れず、部下の一人は「閣下の顔はホンノリ紅らんで、まるで内部から光を発しているようでした。私はも早や元東海軍司令官も岡田資と云う人感ぜず、仏を全身的に感じたのです」(「ながい旅」)。

 若い時から日蓮宗の信者だった岡田中将は時に修羅となって戦い抜き、獄舎では菩薩として部下を導き、最後は仏になった、という証言の一つです。
 享年60歳。仏縁あってか、現在の私の年です。
 映画は3月1日、封切りです。

Posted at 02:15 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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○○○クッキングへ招待されること [2007年12月16日(日) ]
銀座ソニービルです。

拡大写真です。



 街にジングルベルが響いていたのはもう何年前のことだろうか。ふとそう思ったのは、街のクリスマスの飾りがとても洗練され、しかも増えているからです。クリスマスツリーをごてごてと飾り立ててジングルベルを歌ったあのころが、懐かしいいいいい。とはいっても洗練されたイルミネーションは、それはそれできれいではあります。日本人って、本当に器用というか、すごいのかなあ、と電飾にもそう感じいる今日この頃です。



 イルミネーションの通りに面した大きなビルの地下の○○○クッキングで時折修行している子丼たちから「食べに来て」と昨晩招待されました。
 メニューはブイヤベースとタラモプレート。材料もよかったのでしょう。おいしかったです。一人でワイン5杯も飲んじゃったし。ごちそうさまでした。また招待されたい。



 でも、イルミネーションを日本人がデザインしているとは限りませんよね。神戸ルミナリエはイタリア人だし。
 それと、地球温暖化って、激しく進んでいるようですね。イルミネーションは楽しいけど、その一灯一灯が回りまわって飢饉や洪水に結びつかないとは限らないし。そう思いながら見ると楽しさも半減するし・・・やはり街にジングルベルが鳴り響いたころ程度でいかったのかも、と電飾にそうも感じいる今日この頃です。

Posted at 14:08 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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小石川植物園に紅葉を見に行くこと [2007年12月09日(日) ]
 植物園、好きです。植物園は「遺伝子資源」、すなわち金になる木や草の保管場所という役目、視点もあって、そう見ると世界遺産に登録されたロンドンの王立キューガーデンなどは、プラントハンターたちが世界中から集めた植物=資源の大いなる格納庫として、テイコク主義的なきな臭さの残り香が漂うイギリスの戦略基地という見方もできましょう。でも、というかそれだけにとてもすばらしい植物園です。
 植物園はその一方で絶滅危惧種の保存やバイオテクノロジーによる医薬品の開発に携わるなど、一国家の枠を超えた地球規模的な役割を担っている、と見ております。



 というわけで一昨日、東京大学大学院理学系研究科附属植物園、すなわち小石川植物園に、紅葉を見に行きました。写真のイロハモミジの並木では、心は乱れ瞳は開きっぱなし、まさにあの世、極楽浄土もかくやと思うほどの目くるめく錦秋に、生きる喜びをしこたまかみしめました。今更ながら食物、いや、植物って、すんばらしい。
 
 でも、自然はなぜかくも人間に感動を与えてくれるのか、とたまにテツガクったりします。ワレワレも小さな宇宙だから、生きていること、魂と宇宙との振動は感動という波長で同期するのかな、と勝手に想っていますが。



 小石川植物園の歴史は古く、1684年(貞享元年)、「将軍職に就く前の徳川綱吉の白山御殿の跡地に徳川幕府が作った小石川御薬園がこの植物園の遠い前身」とホームページにありまず。1722年(享保7年)には「小石川薬園内に養生所を開設」しました。

 「増補 武江年表1」(斉藤月岑著、金子光晴校訂 平凡社)にはこうあります。
 「小石川御薬園に養生所建つ。十二月より、貧困の病者を停めて薬餌を与え給う(此の所の坂を鍋割坂といひしが、これより後土俗病人坂といふ。起立人伝通院前住居の医師小川笙船と云ふ人なり)」。

 小川笙船は、療養所の初代肝煎(所長)に命じられ、以後、笙船の子孫が肝煎を世襲しました。養生所は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」の舞台(だそう)であり、小川笙船こそそのモデル(だそう)です。赤ひげ診療譚、読まなくては。
 
 帰り際に見たメタセコイアの黄葉?もすんばらしく、池を鏡に映るカエデやイチョウは「陽が射すとすごくきれい」(庭師の方)とのことでした。



 かくも由緒ある植物園ですから、ニュートンのリンゴの木とか初めて精子が発見されたイチョウやソテツ、小石川療養所の井戸、国の重要文化財に指定された東京大学現存最古の学校建築〈旧東京医学校本館〉=総合研究博物館分館など、目玉と脳味噌に刺激ビリビリ、オッパッーピー(初出 小島よしお)のものが散らばっているのです。日光にある分園も四季折々これまたすんばらしいのですが、冬は休園です。

 ところで、小島よしおの豪華衣装=海パンが、売り切れだそうです。フランスのブランド物で、ブーメランパンツというデザインだそうです。
 えっ?そんなのカンケーね

 かえりに行ったノスタルジー満載、本郷菊坂「野本食堂」は次回ご紹介します。

Posted at 00:28 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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一葉ゆかりの伊勢屋質店にいくこと [2007年11月28日(水) ]
 一葉忌の23日、東京・本郷菊坂の旧伊勢屋質店が公開されました。所有者(株)伊勢屋スタジオの方は今も住んでいらっしゃいますがご好意で年に一度の一葉忌に公開してくれています。地元のボランティアの方々にもお世話になりました。



 桜田門外の変が起きたのは安政7年(1860年)3月3日。3月18日には万延と改元されてお店はその年の創業。昭和57年まで営業していました。

 拝見できるのは、店と蔵、奥の庭に面した座敷です。一番新しい座敷が明治40年。蔵は明治20年の移築、座敷は明治23年に建てられましたから、蔵はかつて一葉が通っていた時代のものです。



 店には丸いちゃぶ台、質物台帳、「質紙でつくったはたき」など、どれもこれも時の質草、とでもいえましょうか、往時を今に伝えて気持ちがなごむのは、プラスチックのかけらもないから、と思います。



 蔵の入り口は分厚く、半間ごとに太い柱があり、火事になると蔵の入り口の隙間を塗りこめるための土を亀に入れて床下に準備するなど、客の品を大切にあずかる仕掛けが随所にほどこされていました。

 庭で奥様でしょうか。「普段はお見せしないのですが」と開けてくれた中を見ると昔の木のお風呂。
 「懐かしいですね」
 「今も使っています」
 こうして一巡りした跡、菊坂を下って白山通りをすぎると突き当たりに「こんにゃくえんま」の源覚寺。ここも一葉ゆかりだそうです。塩地蔵もありました。


 遅いお昼は後楽園への通りに面したラーメン屋の「生野菜ラーメン」700円。「とんこつ味が合います」というので注文しました。スープもおいしく、いけました。



Posted at 09:15 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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初めて藪下の道へいくこと(追記) [2007年11月26日(月) ]
 鴎外記念室には遺品、資料がたくさんあります。家族の写真に小さな女の子が写っていました。鴎外の長女、森茉莉さんです。森茉莉さんの著作を読みたくなって図書館で借りた全集のなかの「気違ひマリア」にこんなことが書いてありました。



  「マリアは生まれ故郷の本郷、そこにつながる追分から湯島、広小路、下谷、マリアの第二の故郷の下車坂一帯、浅草・・・日本橋、銀座へかけての、芝や神田も含む、たしかに東京と言へる一円以外の土地を東京とは認めないので、それ以外の土地にはろくなもの人間はすんでいないだろうと定めているのだ」と。で、「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのだ。彼らは世田谷、阿佐ヶ谷、杉並、等々の(もと市外)に、あたかも天に満ち、地に満てるが如くに充満して・・・」

 前回ご紹介した鰻の「山ぎし」ではなじみ客が昼の宴会を開き、赤ちゃんと来たなじみの外国人の若い母親がご飯の大盛りを注文していました。普通盛りでも十分大盛り並みですが、大盛りはサービス。10円団子もあったりしていろいろな人がいろいろな売り方をしてみんなが普段着の顔で買い物を楽しんで、マリアの言う「東京」の名残がそこここに顔を出しているようでした。

 父、鴎外について彼女はこんなことも書いてました。
 「飯を食った後の箸は茶碗の茶で濯(すす)いで、先を二つ截りの半紙で包んで、箸箱のなかにコトリと入れる」
年配の人のこのしぐさは見たことがありますが、
 「小水の後は、箸と同様、体の先を半紙で包んで、その上から下帯をするのである」
 鴎外がいかに医者といえどもこのしぐさはかなり「異(かは)った清潔(きれい)ずき」(上掲書)ではあります。ごわごわしたりすれたりしないのでしょうか。上質の軟らかい半紙なのかな。

 この親にしてこの娘が暮らしていた藪下通り。愚生はマリアのいう「充満している田舎者」の1人でありますから、藪下通りはますます遠くなりにけり、という気がしないでもありません。
 でも自由奔放、かってきままの森茉莉さんに、ふと明治28年、木場に生まれて「若いころ姑と髷をつかんで取っ組み合いをした」気の強い母方の祖母を思い出しました。祖母の実家の名前はよみせ通りの鰻屋と同じでした。

                          

 下の写真は昨日散歩した葉山の海岸の夕景です。遠くに富士山が、右手に江ノ島が見えました。

Posted at 09:04 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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初めて藪下の道へいくこと [2007年11月24日(土) ]
 地下鉄千代田線千駄木駅で降りて団子坂、というおいしい名前の坂を上がり、交差点を左へ入るなにげない道。それが実は「藪下の道」というブンガク的な、あまりにブンガク的な道であることを、つい先日まで知りませんでしたっ。
 今月某日の東京情緒散策で足を向けたのは文京区立本郷図書館鴎外記念室。
 長くてお堅い名前ですが、明治の文豪、森鴎外が「観潮楼」と名づけて亡くなるまでの30年間を過ごした旧居跡であります。



 藪下の道は、その記念館、すなわち「観潮楼」の前を通って根津権現の裏へ続く道で、明治、大正の文豪や彫刻家が行き交った、由緒ある道なのでした。

 永井荷風が「日和下駄」の「第九 崖」の章で書いてます。
 「根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばこゝもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の道がある。私は東京の往来の中(うち)で、この道ほど興味のある道はないと思っている」

 荷風は観潮楼をしばしば訪れています。ある初秋の夕暮れには「忘れられぬ程音色の深い上野の鐘を聴いたことがあった」
 「一際高く漂ひ来る木犀の匂いと共に、上野の鐘声は残暑を払う涼しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間の私を驚かしたのである」と。

 下の写真は藪下通りの崖です。



 絶壁、とあだ名された友達がいたっけ。そんなことどうでもいい、ですね。世が世なら、愚生ごときが気軽に通れる絶壁ではなかった「藪下の道」を後に団子坂を下り、谷中はよみせ通りへ。鰻の「山ぎし」という店に「鯉定食」とありました。

 鯉料理は、私が暮らしてきた東京・西郊の食堂では見たことがありません。家でも食べたことはありません。「鯉は泥臭い」などといわれたことがふと浮かびましたが、なぜか無性に食べたくなって注文しました。

 あらいに鯉こく、茶碗蒸し、お新香、ご飯は普通盛りですが大盛りのよう。これで1000円ですって。



 鯉こくを一口・・・んっ?もう一口、二口・・・すまねえ、鯉さん。泥臭いなどと勝手に思い込んでいたオイラが間違っていた、悪い夢を見ていたんだ、と心の中で手を合わせて思わずわびるほど、おいしかったのであります。
 鯉との運命的な出会い、とでもいうのでしょうか。とすればいずれ別れも。どこか勘違いしているかな。

 鯉に目覚めて幸せになった後は、行きつけの谷中の墓地を一回りしてこの界隈での馴染みの場、和みの場セレンディピティでお茶して鐘の音ならぬ笑顔に送られて帰途に着いた、楽しかりし晩秋の徘徊でありました。
 でも、セレンディピティ、来年2月で辞めちゃうそうです。残念。

 鐘の音の響きも消えて店じまい 
    谷中の墓地の秋の夕暮れ
 
 駄句のお粗末でした。


 谷中の墓地の晩秋の夕暮れです。


Posted at 16:19 | 日記 徘徊 | この記事のURL
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