免疫力強化のつもり アムール湿原紀行 1991年その4
当時読んだ本にたびたび出てた病気がウイルスによるロシア春夏脳炎です。日本脳炎に似て、高熱を発して死亡率も高く、治っても脳に後遺症が残ることがある、という恐ろしい病気で、ウイルスを媒介するのは森に棲むダニです。
これは事前準備をしなくっちゃ、と国内の専門家にどんな病気か、ワクチンはあるのか、問い合わせました。
「ワクチンは日本にはない。ダニはユーラシア大陸、ウイーンの森から極東のタイガまで広くいる。とにかくダニに刺されないこと」
そういうわけで、ダニに食われた場合死の危険もある。タイガの自然は厳しい、となると頼みの綱は自身の体力。ところがまるで自信がありませんでした。なにしろ積年の酒毒がメタボリッぽく(当時はこの言葉はありませんしたが)腹部にたまっておりました。
仕方がない。ランニングと柔軟体操、自転車こぎ、それと筋トレをはじめました。近所のジムで時に仕事をサボって。それは出発3ヶ月前のことでした。
初めはランニングというには恥ずかしい、300メートルから初めてついに5km達成、ベンチプレスも筋肉を痛めないよう20キロくらいから初めて90kg程度を挙げられるように一応なりました。
ま、気休めではありましょうが、体力即免疫力、と思いこんでいたからこそ、そこまでこぎつけたのでしょう。
でも本当は、初志貫徹の強い意思が何より必要と思いましたが、それは体力強化でついてくるもの、と言い聞かせてイメージトレーニングの真似事も自分なりにしました。
それが役立ったのは、旅の最終のころでした。マムシにおびえ、熊や猪にあわないことを祈りつつ丸腰でタイガの中を歩くこと20キロ。シベリア鉄道沿いの村にたどり着いたときは一歩も歩けない状態でしたが、途中は「ジムでのトレーニングもこんな感じでつらかったな」と思いつつ前だけを見続けていましたっけ。
「オペもできるね」 アムール湿原紀行 1991年その5
体力づくりと平行して考えたのは荷物です。私は自然の中でまともに過ごしたことは一回もなかったので、一体どんな環境なのか想像もつきませんでした。
荷物の中でもまず考えたのは当時のソ連には期待のできない医療品の持参でした。
そのリストです。
抗生物質(塗り薬、目薬、飲み薬二種) 整腸剤 下痢どめ 胃薬 解毒剤 下剤 総合ビタミン剤 風薬 鎮痛剤 止血剤 かゆみどめ タイガーバーム 包帯 リバテープ 消毒薬 抗ヒスタミン剤 トローチ とげ抜き つめきり 睡眠薬 使い捨て注射器 針 メス ピンセット
青酸カリ(冗談です)
肝炎、破傷風の予防注射もしました。マムシがいるというので毒蛇用血清。使い方も知らないのに。
現地で出会った医師が言いました。
「これだけあればオペができるね」と。私は麻酔薬も絶対いる、と思いました。
ほかに寝袋、頭から被る防虫ネット、軍手、長靴、筆記用具、双眼鏡、みやげ、現金(ドル)、露和・和露辞典、インスタントラーメン30食、味噌、醤油、塩、釣竿等々。
ハバロフスク アムール湿原紀行 1991年その6
かくして1991年6月1日午後、いよいよ新潟空港からアエロフロート機でハバロフスクへと向かいました。
酔った客がいて出発は予定より1時間以上遅れましたが、夕方5時半、ハバロフスク空港へ。ハバロフスクは極東の大都市。治安の乱れは当時の体制下でもすでに始まっていて「殺人事件が年間60数件」という記事も見かけました。
ハバロフスク空港にはロシア人3人が迎えにきていました。通訳と、今回のツアーを組んだ当時できたてほやほやのツアー会社の人。そして運転手。ホテルはインツーリストホテル。大きくて暗くて見張りの女性が廊下にいる、とてもソ連的なホテルでした。
ホテルの窓から豊かな緑越しに川幅3キロのアムール川を眼下にすると、大陸に来たなあ、という実感がわきました。石炭などを積んだ貨物船が船団を組んで上流を目指していきます。
川幅はこの辺で3キロ。対岸はかすんで見えません。夏の増水期は深いところで36メートルもあるとの事でした。冬は歩いて対岸へ渡ることができるそうですが、この時期はみんな船で対岸のダーチャへ行くとのことでした。
通訳の青年はダーチャを「別荘」と言いましたが、泊り込んで農作業をするための山小屋的な感じを受けました。ここで夏の間にせっせとジャガイモやタマネギをつくり、厳しい冬に備えるのです。
子どもたちが釣りをしていました。ナマズ、大ナマズ、コイ、秋はサケ、そして時々チョウザメが釣れることがあり、それも昔は5メートルを越すのもいたそうです。
しかしこの頃ご他聞に漏れず、周辺工場や農地からの排水によりかなり汚染が進んでいる、とのことでした。