デルスーとの出会い アムール湿原紀行 1991年その7
食事はホテルのゼロ階(日本の1階)のレストラン。当時のメモにこんなメニューが書かれていました。
朝=黒っぽいパン、ジャム、バターはなし。目玉焼き二つ、小さなテリーヌのようなもの、甘い赤い水
昼=黒っぽいパン、キューリとトマトのサラダ、チョウザメの燻製、コーヒー、ミネラルウォーター
夜=ビール3本、ウオッカ1本、塩ッぱいサケのザクースカ、バターライス、グリーンピース、ミニステーキ、ワケギのようなネギ、アイスクリーム。
以上を3人分で59.6ルーブルでした。
3日目の朝、通訳の青年が若い女性を連れてきて「彼女です。一緒に食事をさせて欲しい」と言いました。戸惑っていると同行が断りました。二人はとても悲しそうに思えました。案の定、この件もあって(と思っています)後日、通訳の青年はやる気をなくしたのです。
レストランには毎晩バンドが入ってドレスアップした若い男女が踊っていました。しかし、目的地はアムール川中流域のヒンガンスキー自然保護区。ハバロフスクからはるか上流でどんな場所か見当がつきませんが、ホテルで無駄に時間をすごしている気がしました。
時間がありすぎてホテルの前の極東博物館に何度も足を運びました。極東の生物が剥製になって展示されていました。虎、熊、アムールヒョウ、子牛ほどもある大きな猪、日本では絶滅したトキ・・・博物好きの方なら終日眺めて飽きないでしょう。私も嫌いではありません。
入り口近くの写真は、どこかで見た顔つき・・・そう、デルスー・ウザーラの著者、アルセーニエフの写真でした。彼は博物館の初代館長だったのです。
そして銃を杖のようにして立てたデルスーの肖像も飾ってありました。
シベリア鉄道-権力を乗せて アムール湿原紀行 1991年その8
ハバロフスクに滞在3日目の1991年6月4日昼過ぎ、ハバロフスク駅へ。いよいよ出発です。改札もなく、線路を何本もまたいでプラットフォームに。日本の駅に比べて低く、ほとんどないくらいの高さでしょうか。土を盛るのはかなりお金がかかるだろうから、低いのでしょうか。
でも列車は大きく、高いのです。ゲージも確か広軌、それも5フィート、とものの本にありました。だから、女性や子供はホームから列車に重い荷物を持ち上げるのはかなり大変です。
シベリア鉄道はロシアの極東制覇のため、というのが大きな目的だったでしょうから、屈強な兵士向きに仕様ができていても当然かもしれません。
「鉄道ゲージが変えた現代史」(井上勇一著、中公新書)をご覧になれば、そのへんのことが詳しくわかります。
同書の副題に「列車は国家権力を乗せて走る」とあります。鉄道一本で9000キロのかなたから東アジアに軍事的影響力を強く行使できるシベリア鉄道は、シベリア抑留者のこともあり、日本人としてはとても複雑な気持ちで乗らざるを得ない鉄道のひとつなのです。
たまたま見ていたNHKのニュース特集で、ウラジオストクの意味は「東方を征服せよ」と言ってました。やはり・・・
またシベリア鉄道と、旧満鉄の軌道が違うことも納得がいきます。旧満鉄についても複雑な気持ちになりますが。
特急ロシア号 アムール湿原紀行 1991年その9
ハバロフスク駅では、今回のエコツアーの受け入れ会社の責任者、V氏とその息子M氏が乗ってきました。V氏は人のよさそうな50歳ぐらいでしょうか。
ソ連の最後の時代、彼らは生き方でいろいろ模索していたようです。V氏も鉄道大学出身で、前年までハバロフスクで保線補修部門の局長をしていたそうです。
管轄はハバロフスクから、これから向かうアルハラという町の駅までで部下は3000人。今回の目的地、ヒンガンスキー自然保護区はアルハラから30キロのところです。
V氏は、局長時代、土日もなく働き尽くめだったため、今回私たちを受け入れる一切の準備をした、できたての“会社”、「極東対外経済協力協会」に一年前にトラバーユした、と聞きました。
その息子のM氏は21歳。モスクワの国際大学に行きたいのだが、授業料が高いので働いてためる、とのことでした。軍隊帰りのしっかりしている青年でした。
列車はモスクワ行き特急ロシア号。午後1時25分出発。コンパートメントは8号車1号室。二人部屋で天井は2本の蛍光灯。出発してすぐに女性の車掌がシーツと枕カバー、薄いタオルを持ってきました。
破れていたら言ってくれ、とのことでした。破れていました。でも言いませんでした。強そうな女性でしたので。はい。隣のコンパートメントはフランス人でした。