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★★★ 『なにわ夢便り』(大阪の歴史や新旧名所・旧跡のご案内ブログ) ★★★
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56・なにわの夏祭り  [2009年06月23日(火) ]
さ〜てお立会い,
今月から始まります≪なにわの夏祭り≫のご案内でございィ〜。
ご用とお急ぎでないお人は、ゆるりと巡っておくれやす〜。

国の始まりは大和の国大阪府と奈良県に跨る)島の始まり淡路島、
橋の始まりは鶴の橋日本書紀に、『仁徳天皇14年(323年)橋を猪甘津に造り…』
      とあります、現・大阪市生野区鶴橋)

盗人の始まり石川五右衛門、博打の始まり熊坂長範、
相撲の始まりが野見宿彌(のみのすくね)どこまで行くねん〜
で、夏祭りの始まりが愛染祭りィ〜。

愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)の愛染祭りは、推古天皇元年(593年)に聖徳太子がされた日本最古の夏祭りと言われています。

太子は四天王寺を建立した際、悲田院・敬田院・療病院・施薬院の4院を造営されました。勝鬘院はその中の施薬院で、この地に多種の薬草を植え病気に苦しむ民に調合しました。よって社会福祉事業発祥の場所とも言われております。

太子がここで勝鬘経を講讃されたという故事から勝鬘院と称し、お堂の御本尊が愛染明王であることから愛染堂と言われます(地元では親しみをこめて愛染さんと呼んでいます)。祭りの日には御本尊が御開帳され、大法要がとり行われます。

又、愛染祭りの日は色街の大紋日にあたりますので、昔は遊女達が駕籠に乗って艶やかに参詣しました。これが「宝恵駕籠(ほえかご)」の起源となっています(その様子は近松や西鶴も書いていますが、現在は北新地・今里新地の芸奴さん、公募で選ばれた愛染娘達を乗せてねり歩きます)。
私達なにわっ子は、夏のさきがけ愛染祭りの日に浴衣をおろしますので、別名「浴衣祭り」とも言います。又、この時に降る雨を「愛染パラパラ」と呼び、この雨に濡れた男女は結ばれると言われています。若い人に人気のあるお祭りで、沿道に300余の露店が出て賑わいます(娘達も中学からはお友達と行き出しました・私はPTA巡視班でした)。

写真左←金堂
593年、四天王寺と同時期に聖徳太子によって創建。
織田信長の大坂(石山)本願寺攻めの際に焼失しましたが、
徳川秀忠によって再建。大阪府の指定文化財です。
写真右→多宝塔
聖徳太子創建後、信長の本願寺攻めで焼かれ、豊臣秀吉が再建。
大阪市内で現存する最古の建築物で国の重要文化財です。

映画・『愛染かつら』で有名になった樹齢数百年の縁結びの霊木
関東大震災後、大阪在住の作家・直木三十五氏を頼りこの近くに移り住んでいた川口松太郎氏が、この木をヒントに書いたそうです。松竹映画撮影記念立て札もあります。 右の細い桂の木は、映画の好評を祈って主演の吉田輝男氏が植樹されたものです。
愛染かつら主題歌「旅の夜風」ご一緒に歌いましょう〜♪(音が出るのに3秒程掛かります)
老人ホームのボランティアで覚えました、入所者の方々に人気のある歌です。
愛染堂勝鬘院ついでに、長い歴史の境内各所にもお立ち寄り下さいませ〜。

西は西京、東は東京、中のなにわの 夏祭り。
あいぜんさん愛染祭り6/30〜)が 火蓋を切って、
てんじんさん日本三大祭りの1つ・天神祭り7/24〜)で 最高潮〜!
すみよっさん日本中の住吉神社の総本山・住吉大社祭り7/30〜)の お開きまで、
100ヶ所以上も あるという。

このひと月の なにわの町は、路地裏からも コンチキチン〜♪、
仕事もおかんも ほったらかしで、次は何処や と待ち焦がれ。
「あんたはアホかぁ、ええ加減にしぃや!」と言われながらも、
「あい(愛染)すみ(住吉)ません。」とご満悦〜。

華のなにわの 八百八橋を、縦横無尽に 駆け巡り、
1つ1つを 順番に、網羅するのがぁ、
チョーン! なにわ町衆の ヨッ! 心意ィ気ィィ〜!

ナァンテ大見得を切っておき乍ら…本人は喪中で大好きなお祭りも返上です。
下に日程を書かせて頂きます、ご都合の付くお人は是非お越し下さいませ〜

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
≪夏祭り予定表≫
(大阪の夏祭り全部は書き切れませんので、我が家から徒歩又は自転車圏内の、大阪市内でもごく中心部のだけを書いています。其々の歴史や薀蓄を書きたくてウズウズしていますが、又の機会に。)

・6/30〜7/2 勝鬘院(愛染堂)       天王寺区夕陽ヶ丘町5-36
・7/7     天満宮・星愛七夕祭      北区天神橋2丁目1-8
・7/7     安倍晴明神社・七夕祭    阿倍野区阿倍野元町5街区
・7/11〜12 生國魂神社           天王寺区生玉町13-9
・7/11〜14 杭全神社            平野区平野宮町2-1-67
・7/12〜14 難波八坂神社         浪速区元町2-9-19
・7/13〜15 堀越神社            天王寺区茶臼山町1-8
・7/15〜16 大江神社            天王寺区夕陽丘町5-40.
・7/15〜16 久保神社            天王寺区勝山25-14
・7/15〜16 五條宮              天王寺区真法院町24−9
・7/15〜16 玉造稲荷神社         中央区玉造2丁目3-8
・7/16〜17 敷津松之宮(大黒神社)     浪速区敷津西1-2-12
・7/17〜18 高津宮              中央区高津1丁目1-29
・7/18〜19 河堀稲生神社         天王寺区大道3丁目7-3
・7/19〜20 東高津宮            天王寺区東高津町4-8
・7/20〜21 露天神社(お初天神)       北区曽根崎2丁目5-4
・7/21〜22 三光神社            天王寺区玉造本町14-90
・7/21〜22 難波神社・氷室祭       中央区博労町4丁目1-3
・7/21〜22 浪速神社            浪速区浪速西3-10-23
・7/21〜23 坐摩神社            中央区久太郎町4丁目渡辺3号
・7/22〜23 今宮戎神社           浪速区恵美須西1-6-10
・7/22〜23 廣田神社            浪速区日本橋西2-4-14
・7/24〜25 大阪天満宮・天神祭り    北区天神橋2丁目1-8
・7/24〜25 生根神社・だいがく祭     西成区玉出西2-1-10
・7/27〜28 安倍晴明神社・夏祭      阿倍野区阿倍野元町5街区
・7/30〜8/1 住吉大社             住吉区住吉 2丁目 9-89

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なにわのアホボン  [2009年05月17日(日) ]
ボンとは大阪弁でオボッチャマの事です。
恵まれた環境で育った苦労知らず、
その分人一倍素直・お人好し・馬鹿正直と3拍子揃いいつも利用されている…
そんな男性を、大阪では愛を込めて「アホボン」と呼びます。

そのアホボンは、若い頃は野球チームのエースでスポーツ万能でした。
お座敷では仕舞・謡いをやり、多方面の友人に恵まれ異性にもモテて幾つかの艶聞も流しました。情に篤く人の難儀に骨身を惜しまぬが騙されても笑顔の浮世離れしたアホ振り…。

こんなヤサオトコが戦争に向くはずはありません。
余談ですが…大阪の軍隊は日本一弱く、当時『またも負けたか八連隊〜♪』という流行り歌がありました。前線で『人を殺すのも殺されるのも嫌や〜』と逃げた人、敵と友達になった人等々、大本営に言われないマル秘エピソードが沢山あります。又それを茶化して堂々と歌えたのも、大阪ならではのユーモアと反骨精神でしょう。
なにわの晶子姐さん(与謝野)も「乱れ髪」で言うてはりますね〜、『弟よ。戦争は武士の仕事や、商人のあんたに刃物の使い方は教えてまへん。まして死んだりして、お嫁さんを泣かすような事をしたらあかんで〜!』と。

さてアホボンに話をもどして…
戦争中、彼は暗号解析の通信士をしていました。
その部署は、『あんな時でもお茶とお菓子が出たんや〜。』という不思議な所ですが、命を晒す日々の中での彼の楽しみは馬との会話でした。

『ブラシをかけてると嬉しそうに目ェ細めてなぁ…話も分かり合えるんや。
それに、馬は陛下からの預かり物や、言うて人間より大事にされてた。
兵隊の替わりはいくらでもおるから、やと。殺生な話やで〜。』
その理不尽は別として…
彼の優しさは動物にも通じ、戦友に加え多くの馬友達も出来たそうです。
(これが後の趣味の1つである乗馬になっていきます。)

そんなある日、日本は敗戦を迎えます。
玉音放送の前で死んだ友の無念に涙した時、彼は確かに聞きました。
『嬉しい事や〜。お陰でご禁令も消えて皆自由になるんや。
俺達の好きなジャズも堂々と聴けようになるぜ〜♪』

傍には愛馬が居るだけです、が、その目が潤んで光ったように見えました。
もしかしてお前は?!…愛馬は彼を見詰めて優しく微笑みました。

終戦後の大阪・御堂筋
戦後まず彼は、米軍基地に行って最高のステレオを仕入れます。
彼のジャズコレクションは戦前の分も含めて壁面一杯になり、知る人ぞ知るところとなりました。国も身分も老若男女も関係なく固定観念を持たない彼は、諸外国の方々とも親交が広まり、多くの友人が出来ました。

敵国であったアメリカ人と親しくなる彼を腹立たしく思っていた人もいましたが、彼を通じて知るアメリカの大きさ・豊かさに、人々は徐々に気持ちが解けていきました。『アメリカさんは凄いなぁ〜、これでは日本が負けるのは当然や。』

進駐軍テーラー仕立てのスーツやドレス・帽子、輸入家電・テレビ・カメラ・楽器・お菓子に囲まれ、ジャズが流れる彼の家は、大人も子供も集うサロンのようになりました。
アメ車の子供用電気自動車と米製玩具やゲーム機・沢山のお人形・部屋いっぱいに張り巡らせたレールを走る鉄道模型などは、人気のあまり何度も壊れその修理の都度に品数も増やし必要な人や場所に差し出します。ディズニーの8ミリ映写会と玄関脇の私設図書館にも人が集まりました。

貸した本も雑貨もその半分は戻って来ませんでしたが、そんな時代でもありそれも取るに足りぬ事でした。尤も欧米に偏っていた訳ではなく…日舞、能楽、琴、茶道の出稽古もここで皆に開放し、西陣の帯屋さんも「戦後最初の商品も届けさせてもろた大のお得意さんや。」と笑顔で話しています。
そしてその傍らには…
愛馬に乗り移った友を始め、亡き戦友達も遊びに来ていました。
『俺らも知りたい、平和時の豊かさ楽しさにいっぱい触れさせてくれ。』
アホボンの新し物好きや馬鹿げた消費は、只の贅沢ではなかったようです。

多くの人が集う場所は、何処で聞いたのか?戦後の困窮者や孤児も集って来ました。中には詐欺師や泥棒のような人もいましたが、敷居のない彼は何方も公平に受け入れ、そのお世話に妻とお手伝いさんも毎日笑顔で動きました。
そのまま長年居付いて…嫁仕度を整えて貰ってここから嫁いだ人、身寄りが無くここで一生を終えた人…なども数人居ます。

しかし、
『杜子春』のお話のように…車いっぱいの黄金にもいつか際限があります。
何十年も与える事と騙される事を繰り返しているうち…気付けば先祖からの土地も家も財産も無くし、肝心の自分達が使うお金や物が無くなってきました。
それでもやっぱり笑っているアホボン。彼から愚痴の1つさえ聞いたことが無い人々は「この人の思考回路はどうなってんのや?」「生き仏様かも?」と、好意ともあきれたとも分からぬ噂をしました。

…あれから歳月が経ち…
平和が続く日本は…大多数が文化的な暮らしを得ました。
他人様の為に、時間とお金を使える余裕も少し出来たようです。
それなのに何を急ぐのか?
多くのお人がまだ 《少しでも人より前に、上に…》 と走っています。

人に騙されないように用心し日々節約して自分や家族を守る事が美徳となり、
身ぐるみはがされた事を笑うおおらかさや無駄使いの粋さも受け入れられなくなったような気もします。
街も人もすっかり変わったように見え、アホボンは着いて行けなくなりました。
もしかしたら…彼が無用の世の中になったのかも知れません…。

片隅のほんの些細な福祉に、戦後の生涯をかけたアホボン、
今もあの底抜けの笑顔と腰の低さで、「遅うなってすんまへん〜」と頭を下げ、
彼の岸辺で戦友や旧友達と一緒に 好きなジャズでも聴いているのでしょう…。

米寿まで残る桜も散りおさめ 貴様と俺との花弁重ねる  徳豊院明心

Posted at 03:17  | 雑感  | この記事のURL
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今年の初ブログ  [2009年03月29日(日) ]
今年初のブログが今頃になり(4ヶ月近くのご無沙汰?!)、
しかもこんな内容になりましたが…、
父逝去に関してのブログやコメントを書いて下さったお方々、
個人メールやお電話を下さったお方々に心よりお礼申し上げます。
本来ならばお1人お1人にお礼を申し上げるべき処でございますが、
纏めて書かせて頂く失礼をお許し下さいませ。
  ・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・ー・−・−・
 今年1月に父が急逝し、妹と試行錯誤しながら…葬儀〜満中陰法要(関西ではお逮夜)、お彼岸の施餓鬼法会までを何とか済ませましたが、今だに事実を受け入れる事が出来ないまま…百か日法要の準備をしております。

 何よりも!「賀状もお年賀の品も、ほったらかしになっている家(実家)の雑事も、退院したら全部自分でやるから置いといてくれてええよ〜」と微笑んでいた父自身が、まさか半日で急変して三途の川を渡ってしまったとは思っていないでしょう…。「何でこんな所に居るんや??」と、彼岸で迷っているはず…。
《実家の菩提寺》 創建は古く難波宮(大化元年・645年)の祈祷所として建てられた。
『曽根崎心中』の「大坂三十三番観音廻り」にも出てきます。

   この年まで乳母日傘で物心ともに実家に頼っていた私、
   つい去年の秋までは、いつもと変わらず皆で笑い合いながら、
   大好きな両親に何もかも守られスネを齧って甘えていたのに…。
   父が死に、後の采配を振るうはずの母が認知症になった現在は、
   荒野にオイテケボリにされた心細さと、渡る風の大きさに驚いています。

「長い間幸せ過ぎると、その分不幸も纏めて来る」と誰かに言われた通り、
今迄温室でほんわか過ごしていた分…失意が一度にやって来ました。

 父の死・母のアルツハイマー発症に加え、
こんな時は必ず飛んで来てくれる父方の叔父が一昨年の春に鬼籍に入り、
日舞の家元で私達の為なら身命を惜しまない母方の叔父が足を痛めて「寝たきり」に…それがキッカケで母と同時期に健忘症が始まり会話もチグハグになりました。
加えて妹の義母がクリスマスに亡くなり、夫達も去年末から脳出血や感染症で入退院の繰り返し。父母の介護の忙しさにかまけて見る事もなく営業マン任せにしていた株の信用取引で○億円の損金・追証が発生し金策に。こんな時の為にと、長年置きっぱなしだった外国の銀行にある実家の債権までも不況でデフォルトの知らせ、等々と…泣き面に蜂が大群で襲って来ましたぁ〜

 又、父と叔父達の城壁が崩れると…
知らない人達が侵入して僅かに残った兵糧を取って行くも…何も出来ない状態…。ただ救いは、姉妹の仲が良くお互いに全く欲のない事で、猫さんが私達のお膳のお魚を上手に取って行く様子に感心しながら…他人事のような気持ちで眺めています。
他にも思わぬ難事が降り掛かり…泣きとも怒りとも分からない感情で、
「パパ、早く戻ってきてよぉ〜」と、在りし日の姿に叫び続けています。
【いつも笑顔で元気なルル】で居られたのは両親他のこんな支えがあったからだ…と今回初めて気付きました(遅い!)。馬齢を重ね、シワ・シミ・白髪・の年寄り3大要素も身に付けているのに、何という不甲斐の無さでしょう…
お寺の境内の1部  信心の浅い私が今だけ頻繁に通っています〜(笑)

 友人達も、世間知らずのアホの行く末を心配してくれながら…、
「真綿に包まれていたお嬢も、やっと裸で独り立ちする時が来たと言う事や〜」
と背中を押してくれます。
え〜っ!こんな私に出来るのかなぁ??…と躊躇しフワフワしていている間にも…諸手続きや諸問題は次から次へとやってきます…。
残された母の為にも、今度こそしっかりしなければ…。
1人歩きに慣れぬ弱々しい足取りなれど…少しづつでも前に行ければ…。

 上、取り急ぎお礼と、長期引き篭りの近況報告をさせて頂きます。
せめて年度末迄にはケジメのアップを、と思っていました(ふ〜何とか間に合った
それにリニューアルすると又混乱するかも?と急ぎ書かせて頂きました。
つまらない個人的な愚痴を長々と読んで頂き、恐縮です。
ありがとうございました。                   ルル拝
  ・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
恐れ入りますが…
現在諸事に多忙の為返信コメントも遅れると思いますので、
コメントを頂けますならば「見た」だけでも結構ですよ、
ご覧下さったお言葉を嬉しくいただきます〜

Posted at 03:39  | 雑感  | この記事のURL
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全盲の落語家  [2008年12月11日(木) ]
関西のお方はご存知のように、
『12月1日午後11時過ぎ、阪急宝塚線三国駅ホームで、
梅田発雲雀丘花屋敷行きの電車に接触して意識不明の重体になった
全盲の落語家・笑福亭伯鶴(はっかく)さん(51)』

の事が、新聞・TV他で大きく報道されました。

12月8日の天満天神繁昌亭で行われる『お笑い人権寄席』の打ち合わせをして、その帰宅途中の大事故でした。

生死の狭間を彷徨う伯鶴さんの心配は勿論の事、1週間後の本番に穴を空ける事はお客様に申し訳が立たず、出演者・スタッフ共大混乱になったと思います。

私の所にも、『当日はどうなるの?』と、チケットを買った知人から電話がありました。

今回の構成も担当した落語作家S氏が急遽芸人さん達に頼んだ所、何人かが『伯鶴さんの為なら!』と、予定を変更して来て下さる事になりました。奥様も、夫の見舞いよりも高座のほうが大事、と言われたそうです。

『力を合わせ、多くの笑い声で伯鶴さんの無事を祈ろう!』という事になり、両親の介護の為に不参加としていた私も再度頼まれ、チケットを買って行きました。
上→事前のチラシ、下→急遽変えた当日のチラシ(写真は拡大できます)


この日の客席は気のせいか…いつもよりも温かく、笑いも拍手も大きいように感じました。又、反戦・反差別・人権蹂躪の実体を訴えた、メディアには流せない?リベラルで濃い内容でもありました。  
≪伯鶴さんのHPです≫

その後の打ち上げでも、出演者全員とお弟子さん達がこぞって集まり、飲むほどに広がる温かい笑いの渦に目頭が熱くなりました。

(同席の露の新治師匠によりますと、『年を取って涙腺がゆるむのは、人生経験を積んで人の気持ちが分かるようになったからや〜なんて知ったような事を言うけど…ほんまは単に医学的な加齢現象で、目から段々下へ下がって行く過程やで。ほんで、おシモまでゆるんだらそこでオシマイや〜。』との事だそうですが〜(笑))


桂文福師匠の弟子・ぼんぼ娘(ポンポコ)さん。
期待度1の若手上方落語家。機転の利きが抜群!彼女の奮闘振りがNHKの密着ドキュメンタリーにもなりました。『大阪の女性落語家は10人しかいてませんから、なんと〜!この私も女噺家ベストテンに入ってますわ〜!』と。


伯鶴さんの事故は相当酷く、『車両に大きな傷が付いていた』という報道がありましたが、それは接触した時に骨折した骨が皮膚を飛び出して、引きずられた際にその骨が付けた傷だそうです。

事故日に三国駅で最後まで一緒に居たのは、私の友人でもある落語作家・S氏ですが、『伯鶴さんはいつも通りしっかり歩いていて、挨拶をして別れた直後や…』との事です。が、1部の報道では泥酔していたとかフラフラ歩いていたとか言われています。全盲のお方は、白杖を這わしながら慎重にゆっくり歩かれますので、知らない方々にはそう見えたのかも分かりません。私も普段の伯鶴さんを知っていますので彼の歩き方は分かります。

又、阪急三国駅にはホームの内側を示す凸型の「内方線」を敷設しておらず、当時はホームに駅員もおらず、車掌も運転士も事故に気付かず、電車はそのまま走り去ったという事です。

現在、S氏が警察や阪急電鉄と事故の事情聴取及び検証中ですので、ここには多くを書けませんが…阪急電鉄が非を認めずに、彼がフラフラして自ら越えたと済ます懸念もあり、S氏は真実を訴えて交渉中です。大企業相手の、事故などの交渉は大変だそうですね…(私的には小林一三氏が好きで阪急グループのファンですが)。
伯鶴師匠に笑いのパワーが届きますように〜!
繁昌亭の前で桂文福師匠と
尚今日もお見舞いに行かれたS氏のお話では、皆様の声が届いたのか…意識不明状態ながら少し反応も見え、お陰様で命の峠は何とか越えたとの事です。

人権落語に出演予定だった伯鶴さんが1番言われたくないのは、『全盲だから事故に遭ったのだろう。』です。目が見えないお方は健常者以上に慎重で敏感ですから、却って事故は少ないものです。中学生で素人名人会に出て「名人賞」を取った時も、人間国宝の桂米朝師匠が『カミ・シモの使い方から話術まで、全盲の子やいうのを忘れてた。うちらの弟子よりホンマに上手い!』と絶賛されたそうです。

伯鶴師匠、皆で1日も早いご回復をお祈りしてますさかい〜、
又いつものように、『全盲はハンデキャップやない〜』と高らかに言い、
高座で仰山のお人を楽しませておくれやす〜\(^▽^)/

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お久し振りです  [2008年11月15日(土) ]
      長らくご無沙汰しておりましたm(__)m
  ブログアップも、お友達のブログを拝読する事も出来ず、
   ふと気付くと…階前の梧葉すでに秋声(冬声?)…で、
 STAGE休眠中にカレンダーを3ヶ月分もめくってしまいました。
      決して、辞めた訳でも、他で浮気していた訳でも、ございません(^‐^)
             遅くなりましたが…近況を報告させて頂きます。


・・・9月に、前日まで元気だった父(87)が急遽入院し(癌・他…)、残された母(82)は、父への心配と支えを失った不安から、急に健忘症になりました。
それからは日毎に症状が進んでいるような感じです。

自分の事よりも人様の事を第一に考え、又礼や義にも厳しかった母が、
同じ事を何度も聞き返し、お料理はおろか食した事も忘れてしまうなんて…
医師の話によりますと、『年を取ってからの環境急変や心配事は、
それをきっかけに一転して認知症になるケースが多い。』との事です。

この年まで夢見がちの儘、物心共ノホホンと両親に甘えていた私の環境も激変し、…夜遊び・朝寝も止めて(笑)…日々実家と父の入院先の往復に明け暮れています…。

現在大きな問題になっています認知症は、ある意味癌よりも厄介な病気だと実感しています。記憶力が減退してきても、心や感情は健常時の儘ですので、出来た事が出来なくなったり物忘れが進んで行く様子が自分で分っています。
周りの大変さはご周知の通りですが、実は1番苦しみ葛藤しているのは本人であり、「この先何もかも分らなくなっていくのではないか…」と昼夜焦燥と不安に包まれています。

65歳以上の6人に1人・80歳以上の3人に1人とも言われる認知症…何かのきっかけで、いつ・誰が・なってもおかしくありません…どなたかのご参考になれば…又介護日記なども書いてみようかと思っております。

〜ここで1度休憩させて頂きます お飲み物でもどうぞ〜 
3ヶ月振りのブログ掲載に、気後れと緊張の息切れがしています


〜ご休憩中に・・手前味噌ながら、嬉しい事を1つ書かせて下さいね〜
介護疲れで不調でしたが、奈良のホテルのラウンジで朗読をいたしました。
芥川の『蜘蛛の糸』に合わせ、インドで買って来たサリーを着ました
箪笥の肥やしになっていたインド製品達も日の目を見て喜んでいるようです
お陰で1枚布のサリー着付けが素早くなりました、着物よりもずっと簡単!
額のビンディも見えるように顔アップとビンディのアップも入れました。
(写真は画面一杯まで拡大出来ます。cocoちゃん〜これで見えますかぁ?(^▽^)
STAGEの素敵なお友達も駆け付けて下さり嬉しいひと時を持てました、謝々!
(其々のお人のHNは?・・・それはご想像にお任せいたします〜
画面右外にかけて滝のある美しいお庭、左ドア奥がロビーになります。
・・・・・♪・・・・・♪・・・・・♪・・・・・♪・・・・・♪・・・・・♪・・・・・

・・・硬い話ですが…「ともだち登録」は、どう捉えれば良いのでしょうか?
私は「ともだち登録」の申請をして下さったお方、お1人お1人を大切に感じています。それを無言で一方的に消されますと…連絡が出来なくなりますので理由を聞かせて頂く事も出来ず、こちらが気付かない落ち度や誤解でご立腹されていても、反省やお詫びすら出来ません(STAGEを辞めて全て解消される場合は別ですが)。

実生活では、誤解や行き違いがあっても話し合って解決し合えますのに、ブログの中ではそれが通じないのでしょうか?それとも、「たかがブログ友」と軽く考えておられるのを、私が気にし過ぎなのでしょうか?

又、ここには色々な個性のお方がおられ…心を通わせ合いながらも、時には意見の交戦もあります。其々のお方が、半世紀以上も歩まれた道で確立されたお考えがあるのですもの、当然ですね。むしろご経験深い方々の意見交換は、差し障りのない内容より有意義でもあるかと思います。

異見は、自分の知らない部分や異なる見方を知る良い機会であり、字面の奥にあるものを読み取り、自分の幅を広げる良い勉強だと思っています。
まして、自分と環境や見方が違うからと言って…その人自体を否定したり排除するものではないと思っております。
しかしこれは…無邪気に心を開いてきた私の鈍感さだったのかも知れません…(抽象的な書き方になりましたが、同様のお方もいらっしゃるのでは…)。 

・・・・・☆・・・・・☆・・・・・☆・・・・・☆・・・・・☆・・・・・☆・・・・・
上記の通りの介護中ですので、コメントのお返事はすぐに出来ないかも分りません。  恐れ入りますが…ご了承の程 宜しくお願い申し上げます

Posted at 03:56  | その他  | この記事のURL
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夏の総括  [2008年08月28日(木) ]
1ヶ月振りにブログを書いたら、もう秋やて?!
そんな無茶なァ〜!

私の1番好きな季節! 身も心もギラギラと騒ぐ夏!
今年も、陽炎の炎天下を、熱帯夜の星空を、
真夏の太陽と流れる汗に力を貰い、熱い思いに背中を押され、
家庭の事も 自分の事も 忘れて駆け抜けました

今夏も20以上のボランティア行事に携わりましたが、絞って4つをアップさせて頂きます。其々に課題が残り、未熟な私は今も自問自答しています。今後のために、ご教示・ご意見を下されば嬉しいです(本来は別々にブログに書くべきなのですが時間が無く、纏めてアップさせて頂きました)。

今夏某日 
障害者作業所

平和教育の依頼を受け、長崎の原爆を題材にした『嘉代子桜』の紙芝居をしました。偶然にも、以前娘が教育実習に行った所でした。電車を乗り継いで日差しの強い郊外の長い道を歩きながら不安を抱え訪問した私…、でも終わると沢山のお友達が出来、新しいご縁も生まれました。

新聞切り抜き。個人名や私の事が書かれている部分に、
  上から作業中のパン工房の写真を貼り付けました

ここは養護学校を卒業しても就職できない若者達が、手漉き紙やパンを作って収入を得ています(色々買いました、どれも美味しかったです〜)。彼等の平均月収は数千円! STAGEの皆様方の何十分の1でしょうか?この格差にはいたたまれない気持ちになりました。

・2006年に施行された悪法?「障害者自立支援法」に対し、今年5月、その出直しを訴える請願団が署名を国会に提出しましたが、衆・参両方で不採択となりました。私達はこれからも粘り強く訴え続けますが…実のところ自信がありません…もっと良い方法があるのでしょうか?

某日 イラク市長・医師講演
広島の原爆慰霊祭に、今年初めて、イラクの市長とクルド人医師が訪れました。式典参加後TV・新聞の取材を受け翌日大阪入り、現地の実情を聞く講演・勉強会をしました。
イラクからのコーディネーター・西谷氏、司会進行・ルル
アップはイラク北部ハラブジャのファッド・サレ・ラダ市長、37歳
ハラブジャは『イラクの広島』と言われ…フセイン政権時代から現在に至るまで、化学兵器で多くの人が死にましたが…現在、健康な人に次々後遺症が出ています。特に子供達はその影響が大きく、原因不明の病気で死ぬ子が増え、又性器の無い異常児なども生まれています(それらの医療費の為に、当日参加の多数でカンパをし、その場で彼等に手渡しました)。
原爆と同じように、生き残っても後からじわじわと忍び寄る死の恐ろしさ。この症状はイラク人だけでなく米兵にも多数現れ、帰国してからも癌患者が増え続けています。敵味方と言えど同じ空気を吸っているのですから当然です。

・市長曰く、『サマワの自衛隊駐留地周辺でも同様の事が起こっている』。しかし日本政府はそれを発表しません。自衛隊の人々に、本当に後遺症は出ていないのでしょうか? これ以外にも現在の日本は規制が強化され、報道されない真実があまりにも多過ぎ、それを明確にしようとする人々があまりにも少な過ぎるように思います…。又多数の人々が、物事の上面だけを見て同じ意見に流れるさまも恐いように感じております。この日もTV局のカメラが入っていましたが、どのように報道されるやら?

某日 
平和演劇祭

教育委員会(あまり好きではありませんが・笑)後援の平和演劇祭があり、その中で戦争体験者の手記を朗読いたしました。
空襲で家を焼かれ命を焼かれた普通の人々の悲しみと憤り…途中涙で声が途切れ…演者として大いに反省しています。
ブログのお友達・我太郎さま撮影分
・体験者の親に育てられた私達は、次世代との橋渡しになる大きな宿題があるように感じております。これからも、年々風化され消え去ろうとしている記憶を語り、平和を願い続けていきたいと思っています。皆様方の貴重なご体験や聞かれたお話も教えて頂けたら嬉しいです。

某日 盆踊り
子供の頃はどの町でもやっていた盆踊りが、消えたり縮小されたりしています。
責任の一端は私達世代にもあるのではないでしょうか?
STAGEの中でも、盆踊りをしない・手伝わない・お人が多いように感じます。私達の子供や孫の時代、そして私達が死んだ百年後が心配です。

・風習を継承する為には、誰かがやってくれるだろうではなく、まず私達が盛り上げ協力しないといけないのではないか?と感じております。町内会や盆踊りから離れておられたお人も、浴衣を着て踊る阿呆になってみませんか?

…と、お誘いした責任上、恥を忍んでアホ踊りをお見せします
夜も更け人も減った時間…3時間以上踊り続け、手元も足元もかなり怪しくなっています(笑)。大阪音頭・河内音頭・他…約10種類踊りますが、まずは、1番簡単で 誰でも 即踊れます ≪江州音頭≫を〜←クリックして下さい・40秒

尚、同時期の『沖縄慰霊の日』『黒田清さん追悼ライヴ』は、
  既にブログにさせて頂いております。

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7・26追悼ライヴ  [2008年07月29日(火) ]
 『本日は お忙しい処をご来場下さいまして 
   誠にありがとうございます。
 ジャーナリストの黒田清さん(*)
 を覚えていらっしゃいますか?
 TVやマスメディアを通じ、一度は名前
 を聞かれたのではないでしょうか?
 温かく庶民的なキャラクターで
 多くの人々に親しまれる一方、反戦、反 差別を訴え続けた反骨の人でした。   
 その黒田さんが亡くなって、
 この7月で8年が経ちました。

あれからも、年々荒廃していくように感じる世の中…、
今、黒田さんが生きておられたら、
私たちに何を説かれ、どのように行動されたでしょうか?
それを考えますと、今更ながら悔しい思いがいたします。
今日は黒田さんや同志の筑紫哲也さんとも親交のあった新井英一さんを迎え、皆様と一緒に 平和への思いや生きる意味をかみしめたいと思います。』

新井英一さんのライヴと花束贈呈
レコード大賞作品賞を取り、
カーネギーホールにも出ている実力派ですが、
露出を好まず、自分のペースでライヴのみをされています。
魂の歌声は人生の喜怒哀楽を絞り出し…
聴いている内に涙が溢れてきます
ご来場下さったタンゴさまの感想はとても的を射た表現です。
新井英一をご存知のお人も知らないお人も是非クリックしてご覧下さい
全体の感想はこちらに書いて下さっています

 『私達は、黒田さんから直接受けた多くの教えと遺志を引き継ぎ、これからも戦争や差別の無い社会を目指して頑張っていきたいと思います。
今後ともご指導・ご支援の程、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました!』


♪この日の為に半年間一緒に苦労した仲間達
左半分の若い子達は、代表の矢野さん(遺影の向って左)が教えているゼミの学生達(関西大学)です。当日朝からお手伝いに来てくれました、おおきに〜。
♪右写真は打ち上げのお座敷にて
戦い済んで日が暮れて…出演者もスタッフも同じ思いを分かち合い…深夜迄大いに語り合い、気持ち良く酔いよく食べました。


≪黒田 清≫
1931年大阪市生まれ。大阪府立高津高校、京大経済学部を卒業して読売新聞大阪本社入社。社会部一筋で、76年社会部長、79年編集局次長を経て87年に退社。数々のスクープをものにし「黒田軍団」の名を全国にとどろかせた。
84年の著書「警官汚職」で日本ノンフィクション賞、85年の長期連載「戦争」で菊池寛賞を受賞。読者参加形式のコラム「窓」の筆者としても知られた。退社後に「黒田ジャーナル」を創設しTVや雑誌などで幅広く活躍。「窓友会」を主宰し月刊『窓友新聞』を発行するとともに、弱者の立場で言動し続けた。
大阪をこよなく愛した。2000年7月23日永眠。


(ご心配頂きましたヘルペス、26日までには何としても治すぞ〜!と、薬と休養に気を付けましたら、お陰様で朝には殆ど良くなっていました。
お気遣い・ご助言に感謝申し上げます、ありがとうございました
しかし本番日の17時間奉仕?で又ぶり返し、日曜日は撃沈して月曜に病院に行きました。が、前回よりは軽いようです。
皆様のお陰で無事終わりました事を、取り急ぎ報告させて頂きます。)

Posted at 02:59  | その他  | この記事のURL
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大事な時期にィ〜  [2008年07月21日(月) ]
 暑中お見舞い申し上げます 
いつも稚拙なブログにお付き合い下さいまして
誠にありがとうございます

大阪では、6/30の愛染祭の火蓋切りから、今、各地域で夏祭りの真っ最中であります 夏女・お祭り女の私は、愛染さん、生玉さん、高津さんと、なにわ三大夏祭りにお客様をご案内し(何処も徒歩10分以内)、今週は日本三大祭りの1つ・天神さんの船渡御に乗船予定でございました

ところが…各種行事の企画・制作・運営に繁忙の日々を過ごす内に、日頃の不摂生がたたり、とうとう体が悲鳴を上げてしまいました〜
最初、なんもせえへんのにしつこい頭痛やなァ、なんて思いながら…予定が詰まっていて病院に行く間もなく…それに、こんなもん一晩寝たら治るわ〜!と高をくくっていました。

その内に瞼も腫れ、頭だけでなく顔面に痛さが走るようになりました。やっと時間を取り診察を受けますと、初めて体験するヘルペスという病気でした。
(よう聞く病気ですけど、何やはっきりせえへん病気ですなァ)
昔は、ヘルペスが目にも来たら失明する、という恐い物だったそうですが、今は良いお薬があるので必ず治るそうです。
そんな訳で現在は、頭痛持ちのお岩さん状態どすゥ〜(笑)

で、ブログ掲載はおろか、お友達のブログにもコメント出来ずにいますが…、皆々様もそういう事のありませんよう…
『若いつもりでおいでやしても体は年に正直だす。私も、原因は過労とストレス・オマケに加齢(こんなオマケはいらんわァ〜)で抵抗力が弱い、と言われましたので、ご同輩方もお気を付けておくれやすゥ。』…という警告?と自省を兼ねて、取り急ぎ暑中お見舞いのブログを書かせて頂いた次第でございます

夏はつい冷たい物を摂り過ぎたり、夜更かしや不摂生になりますので(私だけ?)、知らぬ間に抵抗力が低下しているものでございます。
くれぐれもご過信なさらず 
ご自愛下さいますよう お願い申し上げます

暑い夏の結婚式は、お母様も留袖をやめてお洋服で〜
(クリック後右下クリックで最大に)

どれがお好みでしょうか? (京都高島屋フォーマルサロンの今夏PR)
ヘルペス前のまだ目が腫れていない時の撮影です(笑)。
もっとも普段の私はこんな格好ではなく、汚いジーンズで本や紙芝居を抱えて走り回っています〜

今週末には舞台監督他をするイヴェント(←タンゴさまがブログにして下さっています、クリックして是非ご覧下さいませ〜)がありますし、8月は教育委員会の平和演劇祭他があり、秋にかけても大小のイヴェントが控えています。どれも自由気儘なボランティアですが…そうは申しましても…其々に大事な役割を頼まれていますので、実生活では、病気でも休めません。
体調が戻りましたら、又暇を見付けて皆様方のブログに少しづつコメントさせて頂きます。勝手な事ですが…イヴェント案内も含め、どうぞよろしゅうに おたのもうします〜

Posted at 03:21  | その他  | この記事のURL
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くいだおれ顛末記  [2008年07月11日(金) ]
前略 
 くいだおれ太郎さん、
まずは還暦までの60年間ご苦労はんどした。
戦後から今まで、赤い灯〜青い灯〜の道頓堀を行き交う ぎょうさんのお人に育てて貰いはって、あんな盛大なお別れ会までして貰いはって、今頃は左団扇でエエ夢 見てはる事やと存じます。

 世間さんは、『大阪のシンボルがなくなる』、いうて姦しい事でおましたが、あれ、誰が言うてはったんやろねェ?
多分、市外のお人や他府県から来たお人が騒ぎ出しはって、それにマスコミが乗りはって、いつの間にか皆さんがたのお題目みたいになったんですやろなァ。
Wikipediaには『くいだおれ太郎は大阪城、通天閣、太陽の塔と並ぶ大阪を代表するシンボルの一つであり…』なんて書いてありますんやでェ。なんも知らんと勝手な事や、あほらしィ。

 私ら”根ェからのなにわっ子”に取りましては、様々なお店が工夫しておいでのキャラの1つ、江戸時代の文楽人形や芝居小屋の幟とおんなじ 道頓堀独特の風景の1つで、なんでこうも大騒ぎしやはるんか分りませんわァ。
そんなに言わはるんやったら、そのお人らも、もっとお店へ食べに行きはったらよろしかったんやァ。なら、閉めることもあらしまへんかったのになァ。
左→普段は太郎さん1人。 右→最終日は 弟・次郎くんも応援の珍しいツーショット
 私も、子供の頃は両親や祖父母に連れられて行きましたけど…昔はともかく、今日びの大阪人にしたら、『食堂ビルくいだおれ』は古うてダサい感じがしたのも正直な処だすゥ。
口の肥えた大阪人を相手にするのに、目ェをむくほど美味しい事も これと言う特徴もなく、なんや中途半端でしたなァ。
そこがアカンかった理由とちゃいますやろかァ? 後に出来た食堂ビルでも、もっと美味しいのんやお洒落なんが、そこいらじゅうにおましたさかいにィ。
道頓堀はうちの庭ですよってェ、しょっちゅうあんさんの前も通らせてもろてましたけど、近年は地元客より観光客で持ってはって…それも青息吐息やったと感じてましたえ…。

 それより!今回の事で、あんさんの商魂と才覚を見せて貰いましたでェ。
3ヶ月前に大々的に閉店報道をしやはったんは、ほんまに賢い戦略でおましたな。それまで何とも思うてへんかった地元っ子までが、外からの渦に巻き込まれて残念がり、ぎょうさんのお人が来やはって、お店の売り上げを驚異的に伸ばしはったんやもん。
ほんで、会見の時の女将の機転の利く会話とはんなりした大阪弁まで評判になって、芸能プロが狙うてはるとか?
同じ大阪でも、船場吉兆はんとはエライ違いや〜。
太郎さんの値打ちもうなぎ登りに騰がり、入札どころか著作権貸しのお話まで出て…。TVでも特集を組んで貰いはって 全国に放送されるらしいですなァ。
閉店時間の1時間前。見回した範囲だけでも…4大新聞・地方紙と、NHK、朝日放送、読売TV、毎日放送、関西TV、TV東京、TBS、フジTV等々…
アナウンサーやレポーターも来ていました。
「他に報道すべきもっと大事な事は?…なかったんですやろか?」
 もしあのまんまやったら…お店は尻すぼみで遠からず倒産、太郎さんも破棄か倉庫入り…という処を逆手に取り、大フィーバーで有終の美を飾りやはった。
やられる前に愛嬌と洒落で逃げる…戦時中一番弱かった大阪の兵隊さんと一緒や〜。お陰で、町内の蟹さんや海老さんや河豚さんらが くすんでしもうて ワヤや。

 最後は三枝師匠・浜村純さん始め著名人に『大阪締め』で収めて貰いはって、女将さんも『くいだおれは日本一幸せなお店でございました、おおきにィ!』て満面の笑みで言うてはりましたわなァ。こりゃ〜役者が1枚ウワテどした。
石を宝石にする錬金術で、自分も周りのお人も 皆喜ばせはった。さすが なにわのあきんどや。ほんまにお上手で…おめでとうさんでござりました。

 後はどないしやはるんか 知りまへんけど…、世間様ちゅ〜のは、一時は熱うなってもすぐ忘れはるもんから 気ィ付けなはれや。『去るものは日々に疎し』、『人の噂も75日』って言いますやろ(今は噂も、1割の1週間で消えますなァ…私ら古い人間は着いて行かれしませんわ)。
けど、あんさんの事やから、これからも才覚と浪花節で、しぶとう生きていきはると思うてます。ま、安心して見させてもらいますゥ。
ほな、ひとまず さいなら〜、ごきげんよろしゅに〜。              

その後の『くいだおれ』。 ビルに≪長年のご愛顧ありがとうございました≫等の垂れ幕
右→入口の太鼓の横に、『わて、旅に出まんねん くいだおれ太郎 』 との伝言と絵
【くいだおれ人形の動画 (1分)】
↑写真で見ても、動く様をご存知ないお方に(周りの混雑でテーマソングが聞こえにくいですが…)

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お知らせとご報告  [2008年06月26日(木) ]
1ヶ月のご無沙汰でございます。
最近は地域や社会の大小活動とボランティアが増え、ブログはおろか家事も自分の事をする時間も持てず、人様に頼まれた各スケジュールをこなすだけで精一杯…それらに伴う夜のお付き合いも増え、断れない私(笑)は、深夜帰宅が続きお肌も体もボロボロ(泣)…お友達のブログ訪問も儘ならず…申し訳ない事でございます
   ・−・−・−・ ≪西谷氏のスーダン報告≫ ・ー・−・−・ 
イラク取材を続けている友人の西谷氏が、5月に、20年以上内戦が続いているスーダンに行き、先日帰国しました。その放映お知らせを書かせて頂きたく、取り急ぎブログを掲載させて頂いた次第です(急な事件などがあれば、放送は延期又は削除される可能性もあります)。
・6月27日(金)午後4時過ぎ〜  
 朝日放送「ムーブ!」(関西地方のみ)
              (話題の新社屋・新スタジオからの生放送です)

『自衛隊がスーダンに派兵されようとしているが、本当に必要なのは、軍隊ではなく、民間の人道支援だと感じた。』と、彼は言っていました。
   ・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
又、新聞や各メディアでご存知のように、
6月23日は沖縄慰霊の日でした。

1945年3/26、米軍が慶良間諸島に上陸開始、4/1には読谷・北谷に上陸し、北部と南部に進攻。組織的な戦闘は6月22日に終わり、20万人を越す戦死者がありました。沖縄県では6月23日を『慰霊の日』と定めています。

同日、友人の主宰する『沖縄戦を忘れない、6・23市民集会』のお手伝いをしてきました。今回の議題は「集団自決」に軍の強制や関与がどの程度あったか、でした。数年前から沖縄で取材している友人のジャーナリストの報告と、大江・岩波裁判の検証などを話し合いました。中でも、沖縄戦を体験した方々のお話は生々しく印象的でした。
渡嘉敷島 集団自決跡地
読谷村郷友会会長の平安名(ヘンナ)氏は、小さな頃は泣き虫で、集団避難壕に入った時も不安で泣いていました。日本軍の兵隊が「泣く子は殺す!」と軍刀を抜き、同じ壕にいた近所の人々までが冷たい視線を向けるのに堪らず、彼の母親は「自分で殺します!」と言ったそうです。子供を抱いたまま、その子の頭を岩にぶつけ血が流れた時、横に居た彼のオバアが体を張って止め、「みんな、どうかしてる。目を覚ませ!」と怒鳴り、皆も一緒にそこから逃げ出し助かりました。が、オバアはその後軍に咎められ、軍刀で首を切られて道端に死んでいるのを発見されました。

平安名氏の頭には63年後の今も、その時の傷があります。又今も、近所の老人達は言います、「あの時お前が泣かなかったら、お前のオバアの言葉がなかったら、わしらはあの壕で自決を強いられていただろう。お前とオバアは命の恩人だ。」と。そのオバアは、一昨年、やっと慰霊碑に名が入ったそうです。
沖縄タイムスの記事
本土では考えられない事ですが…沖縄の人達は、今でも、あの時の真実を喋ると殺されるかも知れない恐怖と戦っているそうです。最近高齢になり、「このまま死んでは真実が葬られる」と、やっとボツボツ語り始めた方が多いそうです。他の方々の話も総合しますと…沖縄の人に取って恐かったのは、実は米軍よりも日本兵だったようです。


「沖縄人には日本人の血も流れていなけりゃ大和魂もない。胸に日の丸を付けてやる」と言って軍刀で胸を突かれ理不尽な死に方をした島民。
島の絶壁に村人を集め、「天皇陛下万歳」を叫ばせながら集団で飛び込みをさせた日本兵。壕に入ると日本兵から手榴弾を渡され、自決を強要された。しかし当時の手榴弾は粗悪品も多く、不発の人達が何とかして死のうとする必死な形相が、今も頭に焼き付いている。生き残った人達は日本兵に助けられたのではなく、たまたま粗悪な手榴弾を配られただけ…等々。
反対に、米兵に捕まり捕虜になった人達はベッドと食事が与えられ、「こんな事ならもっと早く捕まっておけば良かった」と思ったそうです。
琉球新報の記事 模様に見えるのは集まった人々
米軍が島民の焼き払いをする前に、日本兵によって直接殺され、或いは自決を強いられた沖縄の人達。私が習った教科書の「米に攻撃された沖縄の悲劇」と生の声とは…少し違いました…。

重ねて皆さんは訴えます、「歴史問題と基地の問題を同時に考えて欲しい」と。演習中の飛行機から落ちた燃料タンクで死んだ友。基地の狩り遊びの散弾銃で誤って撃たれた島民達。レイプされて村に居られなくなった娘達…本土の新聞に載らない事が日常的にあり、今も沖縄は日本の捨石である…だから伝えて欲しい、沖縄はリゾート地ではないと…。
♪安里屋ユンタ若い子も三線(サンシン)を持って参加(普通の会議室でマイクなし、音が悪いです)

(もしコメントを頂けますならば、「見た」、「了解」などで結構ですよ〜。明日も朝から夜まで出掛けますし、今月締め切りの原稿も2、3頼まれていますので、お返事は遅れる可能性もあります

Posted at 01:28  | 社会の片隅で  | この記事のURL
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