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★★★ 夢ブログ『なにわ夢便り』(歴史や新旧名所・旧跡のご案内ブログ) ★★★
     ライフワークのつもりで随時更新しています、是非お読み下さいませm(__)m
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お知らせとご報告 [2008年06月26日(木) ]
1ヶ月のご無沙汰でございます。
最近は地域や社会の大小活動とボランティアが増え、ブログはおろか家事も自分の事をする時間も持てず、人様に頼まれた各スケジュールをこなすだけで精一杯…それらに伴う夜のお付き合いも増え、断れない私(笑)は、深夜帰宅が続きお肌も体もボロボロ(泣)…お友達のブログ訪問も儘ならず…申し訳ない事でございます
   ・−・−・−・−・−・  ≪西谷氏のスーダン報告≫  ・ー・−・−・−・−・ 
イラク取材を続けている友人の西谷氏が、5月に、20年以上内戦が続いているスーダンに行き、先日帰国しました。その放映お知らせを書かせて頂きたく、取り急ぎブログを掲載させて頂いた次第です。

(急な事件などがあれば、放送は延期又は削除される可能性もあります)

・6月27日(金)午後4時過ぎ〜  ・朝日放送「ムーブ!」(関西地方のみ)
                 (話題の新社屋・新スタジオからの生放送です)


『自衛隊がスーダンに派兵されようとしているが、本当に必要なのは、軍隊ではなく、民間の人道支援だと感じた。』と、彼は言っていました。
   ・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
アップついでに(笑)…
新聞や各メディアでご存知のように、6月23日は沖縄慰霊の日でした。

1945年3/26、米軍が慶良間諸島に上陸開始、4/1には読谷・北谷に上陸し、北部と南部に進攻。組織的な戦闘は6月22日に終わり、20万人を越す戦死者がありました。沖縄県では6月23日を『慰霊の日』と定めています。

同日、友人の主宰する『沖縄戦を忘れない、6・23市民集会』のお手伝いをしてきました。今回の議題は「集団自決」に軍の強制や関与がどの程度あったか、でした。数年前から沖縄で取材している友人のジャーナリストの報告と、大江・岩波裁判の検証などを話し合いました。中でも、沖縄戦を体験した方々のお話は生々しく印象的でした。
渡嘉敷島 集団自決跡地
読谷村郷友会会長の平安名(ヘンナ)氏は、小さな頃は泣き虫で、集団避難壕に入った時も不安で泣いていました。日本軍の兵隊が「泣く子は殺す!」と軍刀を抜き、同じ壕にいた近所の人々までが冷たい視線を向けるのに堪らず、彼の母親は「自分で殺します!」と言ったそうです。子供を抱いたまま、その子の頭を岩にぶつけ血が流れた時、横に居た彼のオバアが体を張って止め、「みんな、どうかしてる。目を覚ませ!」と怒鳴り、皆も一緒にそこから逃げ出し助かりました。が、オバアはその後軍に咎められ、軍刀で首を切られて道端に死んでいるのを発見されました。

平安名氏の頭には63年後の今も、その時の傷があります。又今も、近所の老人達は言います、「あの時お前が泣かなかったら、お前のオバアの言葉がなかったら、わしらはあの壕で自決を強いられていただろう。お前とオバアは命の恩人だ。」と。そのオバアは、一昨年、やっと慰霊碑に名が入ったそうです。
沖縄タイムスの記事
本土では考えられない事ですが…沖縄の人達は、今でも、あの時の真実を喋ると殺されるかも知れない恐怖と戦っているそうです。最近高齢になり、「このまま死んでは真実が葬られる」と、やっとボツボツ語り始めた方が多いそうです。他の方々の話も総合しますと…沖縄の人に取って恐かったのは、実は米軍よりも日本兵だったようです。


「沖縄人には日本人の血も流れていなけりゃ大和魂もない。胸に日の丸を付けてやる」と言って軍刀で胸を突かれ理不尽な死に方をした島民。
島の絶壁に村人を集め、「天皇陛下万歳」を叫ばせながら集団で飛び込みをさせた日本兵。壕に入ると日本兵から手榴弾を渡され、自決を強要された。しかし当時の手榴弾は粗悪品も多く、不発の人達が何とかして死のうとする必死な形相が、今も頭に焼き付いている。生き残った人達は日本兵に助けられたのではなく、たまたま粗悪な手榴弾を配られただけ…等々。
反対に、米兵に捕まり捕虜になった人達はベッドと食事が与えられ、「こんな事ならもっと早く捕まっておけば良かった」と思ったそうです。
琉球新報の記事 模様に見えるのは集まった人々
米軍が島民の焼き払いをする前に、日本兵によって直接殺され、或いは自決を強いられた沖縄の人達。私が習った教科書の「米に攻撃された沖縄の悲劇」と生の声とは…少し違いました…。

重ねて皆さんは訴えます、「歴史問題と基地の問題を同時に考えて欲しい」と。
演習中の飛行機から落ちた燃料タンクで死んだ友。基地の狩り遊びの散弾銃で誤って撃たれた島民達。レイプされて村に居られなくなった娘達…本土の新聞に載らない事が日常的にあり、今も沖縄は日本の捨石である…だから伝えて欲しい、沖縄はリゾート地ではないと…。
♪安里屋ユンタ若い子も三線(サンシン)を持って参加(普通の会議室でマイクなし、音が悪いです)

(もしコメントを頂けますならば、「見た」、「了解」などで結構ですよ〜 
明日も朝から夜まで出掛けますし、今月締め切りの原稿も2、3頼まれていますので、お返事は遅れる可能性もあります

Posted at 01:28 | 社会の片隅で | この記事のURL
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映画『靖国』 [2008年05月31日(土) ]
 映画評論家の佐藤忠雄氏の言葉を借りれば、
『日本及び日本人についての優れたドキュメンタリーである。これは一知半解の日本理解ではない、よく研究しているな、と思わずうなった。真剣勝負の気迫のこもった作品である。』
の通り、館内は、観客達の真剣な眼差しと息遣いで張り詰めていました。

8月15日の靖国神社に集う人々と、
靖国刀鋳造の90歳の刀匠の姿との、
動と静の2極を絡ませながら進んで行きます…。

始めに、『昭和8年から敗戦までの12年間 
“靖国刀”と呼ばれる8100振りの軍刀が神社の境内において作られた』
との文が出ます。又、『靖国神社のご神体は刀である(*)』と。

【*註…この記述に対し、靖国神社から、『ご神体は“神剣及び神鏡”である。』と訂正があったそうです(いずれにしても私は、靖国神社のご神体が刀剣である事を知りませんでした…又、靖国神社のご紋が、菊の上に桜の重なっている事も…)。
10年をかけて取材して来た李監督は、
『色んな人が登場して色んな現象が起こる。
それらは何を意味し何を象徴しているのか、その裏には何があるのか、
その問いかけに其々の心で考えて貰いたい。』と書いています。

まさに“1つの大きな舞台”と言える8月15日の靖国神社には、
シリアスな人物から滑稽と思える人物まで…
実に様々な役を持った人々が登場いたします。

旭日旗を掲げて参道を進み英霊の御霊に頭を下げる老人。捧げ銃の敬礼をする陸軍姿の一団。七つ釦の海軍の白服軍団は拝殿に向って軍隊ラッパを吹き「天皇陛下万歳!」を。小泉・元首相や石原都知事が英霊を讃え、それに対して賛否を述べる人達。南京大虐殺は捏造だと叫ぶ署名運動。片手に「小泉総理を支持します」のテロップを掲げ片手に星条旗を掲げるアメリカ人、その彼を巡って対立する日本人達。高砂義勇兵の魂を靖国神社から取り戻すべく訪れた台湾人遺族。御霊追悼集会の場に乱入する若者等々…、

カメラは、この日この場で起こった生の姿だけを凝視していきます。
この種の映画にありがちな批判や思想は全く入れず、ナレーションも一切無く…。

年代的にも地域的にも遠い存在であった靖国神社が、私の中の日本人の血に迫って来ます。机上で靖国問題を論じ合いながら、靖国神社そのものの実態を知らない事に愕然とし…そんな自分が恥ずかしくなる…そういう内にも映像はどんどん迫り…遠慮のない問いかけを残していきます…。    ≪靖国のHP≫
 クリックして下さい(予告編も、著名人のコメントも、上映映画館一覧もこの中にあります)


…靖国神社という場所は、これら様々の思いがうごめき長年それらを呑み込んで来た所だったのだ…、友人達に、全ての日本人に是非観て欲しい、そして一緒に考え合いたい、と思いました。
≪第七藝術劇場(通称・ななげい)≫と気骨の館主(大阪・十三駅すぐ)。
彼は当初から、『日本中が中止してもうちはやる。』と言い切り、話題になりました。元々が社会派やアングラの場です。現在は近畿2府4県でここが唯一の上映館ですが、6/7からは京都市下京区の≪京都シネマ≫でも上映しますので2館で観られます。尚、≪第七藝術劇場≫は5/10〜6月も引き続き上映します。

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(55)夕霧太夫 [2008年05月20日(火) ]
江戸時代の結婚は、
恋愛感情を無視して親や親戚の意向で決めていましたので、
遊郭の中こそが純粋な恋を夢見る事の出来る場でありました。

ここ大坂の新町(現・大阪市西区新町)は、
江戸の吉原、京都の島原と共に幕府公認の三大遊郭の一つで、
これら一流所の遊女達は、体を提供するだけでなく、琴・三味線・踊り・和歌・茶道・香道・書画等様々な事にも優れた才色兼備の女性だったそうでございます。
(拡大して下さい)

中でも『太夫(別称・こったい)』は最上級の遊女で、吉原では、仙台藩の当主・伊達綱宗との交情があった高尾太夫さん、島原では、灰屋紹益に身請けされなはった吉野太夫さん、大坂では、このあちき、「扇屋」の夕霧を入れて三大太夫やとか言うてくれておざんすが、西鶴はんは、その中でもわちきが最高でありんしたと書いておくれでおざんす〜。
『…神代こなたのかた 又類しなき 御傾城の鏡 姿をみるまでもなし 地顔 素足の尋常 はづれゆたかに ほそく なり恰好 しとやかに しゝのつて 眼ざしぬからず 物ごしよく はだへ雪を争し 床上手にして 名誉の好にて 命をとる所あって あかず酒飲みて 哥に声よく 琴の弾手 三味線は得もの 一座のこなし 文づらけ高く 長ぶんの書て 物をもらはず 物を惜まず 情ふかくて 手くだの名人 是はどなたが事と 申せば 五人いちどに 夕霧より外に 本朝廣しと申せ共 此君此君と 口を揃えて誉ける…(「好色一代男」より)』


(…類稀なる美しさで傾城の鏡、ほっそりとした淑やかな体、素顔も美しく雪のように白い肌、目力があり、床上手は勿論、歌も上手く、琴、三味線も得意。客の上下に拘らずどんな人にも優しい気配りができ、文章も上手く、物をねだらないばかりか惜しみなく与え、情が深くて品格もあり人間が出来ている、しかも手練手管の恋の名人、皆が夕霧こそ日本一の太夫と絶賛した…)(夕霧作の「稚(ちご)の親 手傘いとはぬ 時雨かな」等、数々の名句も残っています) 

畠山其山(きざん)はんの『色道大鏡』には『…目の内おらんだの如く澱み 顔立ちすぐれ押立よかりければ…』とあり、西洋的な美人と書いておざんすわいなぁ。

さらに西鶴はんは、『…命を捨つる程になれば 道理を詰めて遠ざかり 名の立かゝれば 了簡してやめさせ つのれば 義理をつめて見ばなし 身おもふ人には 世の事を異見し 女房ある男には うらむべきほど程を合点させ・・・』 


(…命を捨てるほど思いつめた男には道理を説いて遠ざかり、噂が立ちかけると上手に止めさせ、女房持ちには妻の嫉妬心をも教え…、彼女を愛する男達と、常に一定の距離を保つようにしていた…)

わちきら太夫は分刻みのスケジュールでありんしたので、お大名様と言えどほんの数分しかお相手が出来ず、たくさんの男はんの愛を頂いておざしたから、特定の男はんと親密になることは職業意識に反する事でおざんした。

近松(門左衛門)はんの『夕霧阿波鳴渡』には、『…四国西国隠れのない夕霧といふ太夫に近付きになりたいとて、わざ/\大坂で御越年。…』(…四国から、あの有名な夕霧太夫に一目会いたいと、わざわざ年越しの旅をした…)三百余年後の言葉で言うたら”スターの追っかけ”とやら、ほんに有り難い事でありんしたわいな。

世間様は、郭に身を沈めた生立ちを哀れに思い同情してくんなましんすが、定めを恨んでも他人様を羨ましゅう思うても何もなりんせん。与えられた中で誠実に精一杯生きる事が大事やと思うていんす。わっちは…哀れとも恥ともちごうて…人様の情と真心をいっぱい頂き…胸を張って正直に生きた幸せな一生でありんした。

浄国寺ご住職の手による夕霧太夫墓誌があり、
延宝6年(1678年)正月、27歳の若さで没した、とあります。

右写真→墓碑正面の戒名は『花岳芳春信女』、
左面に『此の塚は 柳なくても あはれ也』の鬼貫の句が刻まれています。
(上島鬼貫・かみじまおにつら…万治四年(1661)〜元文三年(1738))
墓碑裏面には、『延宝6年亥年正月六日 俗名 あふぎや夕ぎり(扇屋・夕霧)
とあり、ここは元々扇屋の墓地で、
大勢のファンに惜しまれながら、扇屋主人が丁寧に埋葬されたそうです。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっております。
尚、京都嵯峨野・清涼寺墓地にも夕霧の墓碑があります
(謎の多い女性で出生は不明ですがあの辺りが生誕地だったらしいとの事です)。
浄国寺山門と前の通り。
右端→ここの弥勒菩薩様は両手を掛けておられる珍しいお姿。
室町時代の円仁作、重要文化財に指定されています。

又境内の3m程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、
”マンが悪い(運の流れが悪い)”時に、流れを変えて下さいます。

≪浄国寺≫
大阪市天王寺区(地下鉄・谷町9丁目駅の西、又は各線・日本橋駅の東)
1560年開創の風格ある古刹。ご住職も奥様も気さくで良いお方(大阪のお寺は観光化されず長年地元民と共に生きていますので、拝観料なしでいつでも入れます。勿論お参りの際にはお声を掛け、写真を撮る場合は了解を取って下さいね)。
門外不出の夕霧さんの書も保管されていますが、紙が弱っている為一般には公開出来ず、檀家さんや私に申し付けて下されば予定を立てて下さいます(何しろ奥の奥に仕舞われていますので)。

Posted at 03:45 | なにわ夢便り | この記事のURL
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(54)真田幸村戦死の地 [2008年05月09日(金) ]
元和元年(慶長20年・1615年)5月7日、
ここ安居神社の松の根元で傷の手当てをしていた真田幸村
(本名・信繁。幸村は諱(いみな)…死後その人を尊んで贈る名)は、
松平忠直の家臣・西尾宗次らに不意を付かれて落命しました。

翌5月8日、
豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害(生き残り説もあり)、お城が炎上し、
天下が新しい地・江戸へと移るのでございます。
同23日、秀頼の子・国松が、
僅か8歳のいたいけな身を市中引き回し六条河原で斬首されます。
これによって豊臣家は全て滅亡いたしました。
左→真田幸村戦死の地の碑  右→傷の手当をした真田の松
(写真はどれも拡大できます)
大坂の陣(冬:1614年、夏:1615年)は、
戦歴60年・48回に及ぶ家康の合戦の中で、一番困難な戦いでありました。
冬の陣で和解をしたかに見せた家康は、約束を破り夏の陣に突入します。
(元々彼が、豊臣家の血を絶つ為にイチャモンを付けて仕掛けた戦さですものね…長くなりますのでこの事は又の機会に…

徳川勢約20万に迎え討つ豊臣勢は5万、その内真田勢は3千5百〜。
少数精鋭の真田隊は大坂城や真田丸(陣)から各所に抜け穴を作り、神出鬼没の猛攻で家康の本陣にまで迫ります。ついに家康の金扇や大馬印が倒され、本陣は大混乱に〜。逃げる家康が「これまでか…」と覚悟を決め腹を切ろうとした処、側近に止められ、何とか思いとどまります。

嗚呼〜、その寸前の一瞬の休息が〜!
幸村様を死に至らせ日本の歴史を変えたのであります。
命日の慰霊式典…宮司さんは弊サークルのお仲間で普段はひょうきんなお方〜♪

実は家康は、前年の冬の陣の時、陰で彼をヘッドハンティングしています。
伊達政宗の誇る騎馬鉄砲隊との戦いで一時撤収するも、その堂々とした態度に彼を追う徳川方の武士は一人も無く、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と言わせた男・幸村に畏敬をいだき喉から手が出るほど欲しかったのであります。

「10万石で徳川方に付かないか?」
「いいえ、お断り申し上げます!」
「では、信濃一国ではどうじゃ?」
「私は10万石はおろか信濃一国なども欲しくはない。
それよりも、自分を助けてくれた豊臣殿の不忠者にはなりたくない!」 
左から…真田幸村の子孫の方、長野県上田市市長、上田城甲冑隊代表(皆様ご来阪お疲れ様です)、
右2つは、大阪城甲冑隊代表、大阪真田鉄砲隊・隊長、


さてさて、首実検の会場では、「総大将・家康殿が最も恐れる男・真田幸村の首を取ったら大出世間違いなし!」と絶賛の中、松平忠直と部下の西尾宗次が得意げに座っています。が、それを見た家康は、褒めるどころか「普通ならお前などの相手になるようなお方ではない!」と不快感を示し何の恩賞も与えません(この不満から、松平忠直らは後に騒動を起こす事になります)。
又、武将達は、幸村にあやかろうと、競ってその毛髪を抜き取りお守りにしました。

ガラシャさんの夫・細川忠興も、「さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と書き、
島津家の『薩摩日記』には、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由。徳川方半分敗北。」と書いています。
大阪城・上田城・両甲冑隊の、ご存知!真田の赤備え(上)と、真田鉄砲隊(下)
(信州上田城と大阪城は友好提携を結んでいます)


六文銭は六道銭をあらわし、三途の川の渡し賃。
「旗印の六文銭が三途の川へ渡してくれよう!」と、死を恐れない証であり
「不惜身命」(ふしゃくしんみょう→仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味します。
因みに、死後に赴く六道とは、
地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六世界で、其々に一文の計六文が必要です。

彼の性格は『ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし(「先公実録」)』、『性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。(「翁草」)』、『異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり(「山下秘録」)』 等とあり、敵からも慕われた戦国のスパースターで、あの家康が、「来世で一緒に酒を飲み交わしたい人じゃ…」と言ったそうでございます。
司馬遼太郎、池波正太郎、柴田錬三郎、他も多くの本を書いていますね。

友人も入っている大阪城甲冑隊は、安居神社の式典の後、その南側の茶臼山(徳川の本陣があった場所)で400年前と同じ陣を張る合戦パフォーマンスをし、その後一心寺での豊臣方・徳川方・両兵への慰霊祭に出席、そこから天王寺駅に向い駅付近の清掃をして帰ります(脇差の鞘の中身はゴミハサミと清掃用具です〜

Posted at 03:39 | なにわ夢便り | この記事のURL
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(53)天王寺舞楽 [2008年04月28日(月) ]
今年も、年に一度の聖霊会(しょうりょうえ)にお参りいたしました。
聖霊会とは、日本仏法最初の寺院・四天王寺において、聖徳太子のご命日に行われる舞楽法要です(重要無形文化財に指定されています)。
六時堂と石舞台。池の手前に見える石は亀の休憩所(右がアップの写真です)
を浴びて気持ち良さそう〜これが本当の甲羅干し。 親亀の上に小亀が乗って〜♪

四天王寺の六時堂には聖徳太子摂政像と金堂の仏舎利が祀られ、
前の石舞台の四隅には曼珠沙華の飾りが立てられ華やかな雰囲気です。
そこで、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)の声明を唱える四箇法要と、古式を厳重に守られた舞楽が、交互に行われます。
天王寺舞楽は、左方楽舎、右方楽舎に別れて演奏します
左方(さほう)中国・中央アジア、インドから伝わったもので、「唐楽(とうがく)」。
     楽器は、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛、鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、太鼓。
     舞は、主に赤系統の装束。
右方(うほう)朝鮮・満州から伝わったもので、「高麗楽(こまがく)」。
     楽器は、篳篥、高麗笛、三ノ鼓、太鼓。
     舞は、主に緑系統の装束。
また、舞には、優雅な所作の平舞、武具を持つ武の舞、1人で活発に舞う走舞(はしりまい)、子供の童舞(わらべまい)などがあります。

装束は、左方・右方とも、元々は唐風の物でありましたが、平安時代頃から少し和様化し、唐風を受け継ぐ平舞装束、衛府の官人の制服であった蛮絵装束、各曲固有の別装束、童舞に用いる童装束などがあります。

一緒に行った韓国人のお友達の話によりますと、「韓国の古典舞踊とも共通している。」との事でした。彼は3時間以上になる舞楽を最後まで熱心にメモを取り、翌日も関連本を調べたそうです。お互いの文化を分かち合う…嬉しいですね〜

迦陵頻(かりょうびん)の動画クリックして下さい(最後の40秒のみです)
≪説明≫ インドの祇園精舎供養の日に、伽陵頻伽(かりょうびんが)という鳥が飛来してさえずり舞った姿を、妙音天女が舞曲にして、阿難尊者に伝えたという伝説の歌。
背に鳥の羽を着け、天冠(てんがん)に桜の花を挿し、手の銅拍子を打ちながら舞台上を飛び回る姿は、軽快可憐で浄土の様子を見る思い。天王寺舞楽では、童舞(わらべまい)の伝統に従って、今でも『迦陵頻』や『胡蝶』は男の子のみで舞います。

聖霊会←聖霊会の歴史などはここに書いています

Posted at 04:52 | なにわ夢便り | この記事のURL
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画期的な判決 [2008年04月18日(金) ]
4月17日、名古屋高裁(民事第3部・青山邦夫裁判長)は、
『自衛隊の活動、特に航空自衛隊がイラクで行っている米兵等の輸送活動は、
他国による武力行使と一体化したものであり、イラク措置法2条2項、同3項、
かつ憲法9条1項に違反する』との判決を下しました。


1990年の湾岸戦争への自衛隊派遣以降、多くの文化人や市民が違憲を訴え提起し続けてきましたが、裁判所は一貫して司法判断を避け、門前払いの判決を示し、憲法判断にすら踏み込もうとしませんでした。又日本政府は、国会でもイラクでの自衛隊活動の詳細を明らかにせず…本訴訟においても、事実関係については全く認否すら行わない異常な態度を貫きました。

我が国の憲法訴訟は、違憲判断消極主義と言われ、政府・国会の判断に対する過剰な謙抑により、憲法の規範性が骨抜きにされ続けてきたと言われます。

自衛隊の違憲性については、昭和48年9月7日の長沼ナイキ基地訴訟第一審判決(札幌地裁)での違憲判断が唯一見られるだけで、ましてや、高裁段階の判断としては、本日の名古屋高裁の判決が戦後初めてのものであります。

この判決は、日本国憲法制定以来、憲法の根本原理である平和主義の意味を正確に捉えたもので、60年の憲法史上画期的で、価値の高い判決と評価できます。

判決が言い渡された時、法廷は皆の拍手と熱い涙で埋め尽くされたそうです。

『憲法と良心に従い、平和と人権を守る役割を認識し、
勇気を持って職務を全うした名古屋高裁民事第3部の裁判官に敬意を表します。
                           2008年4月17日
                           自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団』
17日夜、西谷氏らと共に祝杯を挙げました
右の女性もジャーナリスト兼作家で、
名古屋高裁で傍聴後、記事を書くと直ぐ新幹線で駆けつけてくれました。
…と言う訳で…又もや深夜帰宅のルルでありました…

Posted at 03:54 | 社会の片隅で | この記事のURL
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私は さくら [2008年04月13日(日) ]
今年も たくさんのお人が 私の処に来られました。
各地の仲間も申しておりますが…最近は中高年のお姿が目立ちます。
日本のお年寄りも長生きになり 余裕が出来たのでございましょう、
平和で結構な御世になりました…。    
大阪の今年の桜達(写真は拡大して下さい)
私は さくら …春になると…人間の目線が痛く感じます
私の開花を予想して それを求め…愛で…賑やかに繰り出す人々
着飾った私の姿が その手で 絵になり…写真になる…

毎年 そんな波が来て 毎年 そんな波がひく
それでも私は 変わらずに ここに根をはり 動かない

花を飾った 春だけを 特別扱い されるのは 
嫌ではないけど 不思議な感じ
花が咲くのは 自然の摂理 私にとっては 生きる事

花が散っても 私は私 そんな事には 頓着せずに 
私はいつも ここに居て 同じ姿勢の 繰り返し

雨が降り…お日様が出て…数え切れない 夜と朝が 過ぎた…
刀や槍で 足を傷付けられた日もあった
焼夷弾で 腕を焼かれた日もあった

王朝貴族の 豪奢な舞いも 市井のささやかな 宴も見た
私に恋した 戦国武士や 出征兵士も 見送った

私の下で 誰かと出会い 私の下で 誰かと別れ
嬉しい 事も 悲しい 事も 
いっぱい いっぱい 貰ったけれど

それでも私は 変わらずに ここに根をはり 動かない
私はいつも ここに居て 同じ姿勢の 繰り返し

花の盛りは 短いけれど 花が散っても 私は さくら
大阪城の桜と、江戸時代の『浪花百景』に描かれたこの付近(桜宮) 歌川国員・画
私からのお願い
ここ2、3年…私の傍でバーべキューや焼肉をするお人が出てきました。
ここにはそんなお人はおられないと思いますが…この煙や熱で病気になったり寿命が縮んだ木が増え、私の仲間達も悲鳴を上げています。どうか厳禁にお願いいたします。又、シートは私の根の周りから離して敷いて下さいね。

Posted at 05:58 | 雑感 | この記事のURL
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イラクの現況 [2008年04月01日(火) ]
『イラク取材を終え、無事帰阪しました。3月20日の開戦5年には、幸いにも北イラクで取材を続けることができました。またキルクークの油田に入り込むことができ、改めてこの戦争が石油がらみであることを確信しました…(後略)』
と、西谷氏から帰国報告が入りました。

避難民キャンプの現況や戦争民営化の実態などを含めて撮影した映像とその様子が以下の番組で放映されます(3月下旬も現地中継などのTV放送がありましたので見られた方がいらっしゃるかも分かりませんね?)。

◆ 4月4日朝日放送ムーブ!(関西地方)11日もやる予定です)
◆ 4月9日TBSイブニングニュース(関東地方)(8日になる可能性があります)

(変更の可能性もあります、お確かめ下さいませ。
その他にも打診がありますが、まだ詳細は決まっておりません。)
目の前のお寺の今日の桜、7分咲きです。日本は平和です。

彼が調査し続けてきた『戦争の裏側にある石油と軍需産業の利権の構造、アメリカがイラクにこだわる理由』についても今回は潜入取材の成功で明らかになりましたが、これは放映されるかどうか?疑問です(多分、関西のほうが本音に近い放送になると思いますが…)。

関心のあるお方の為に少しだけ書き添えます
(このブログも公安に目を付けられると言う方もいます)。
軍事の民営化・商業化について
『今回、うまくいけばイラクにおける民間軍事会社(PMC)の実態を取材できるかもしれないという期待を抱いていた。3月20日、ちょうどイラク戦争から5年のその日、彼らはホテルにやってきた(中略)。S氏(イギリスの民間軍事会社「ノース・スター」の社員)は、日本の航空自衛隊が物資を運ぶ、タリル空港に宿泊していた。「広大な基地だよ。基地の中では何でもそろう。エアコンもバッチリで快適さ」。その基地の外では、イラク市民が、エアコンはもちろん、電気も水もなく、恐怖の中で暮らしている。イラク戦争は、歴史上最もアウトソーシングされた戦争だ。このような民間軍事会社の親会社は、ハリバートンやカーライルグループ。ハリバートンはチェイニー副大統領の、そしてカーライルは親子ブッシュの会社である。彼らはこの戦争によって1粒で2度美味しいのである。』

これら軍隊派遣会社に応募してくるのはネパール・インド・他、アジアの貧しい少年達です。彼らは米軍兵士として戦いながらも、死んでも米の戦死人数にはカウントされず、砂漠に投げ捨てられミイラ化しています。

石油について
『メディアが入ることのできない油田を取材できることになった。
キルクーク市内から車で30分、「油田への道」を行くと検問所が。通常ここから先は関係者以外絶対入れないところだ。検問を抜けると、すぐさま「イラク石油警察」がガードにつく。イラク国防軍とは別に、油田だけを警備する「石油警察」がいるとは知らなかった。

検問から車で5分、油の臭いが鼻につきはじめ地面から火が噴出している。ものすごい勢い。近づいて撮影しようとするが、熱くてなかなか近寄れない。本来ならここは「黄金の地」である。これだけの豊富な原油があれば、人々は世界でトップクラスの生活ができるはずだった。ところが歴史は皮肉なもので、この原油があるために、人々は常に大国間の利権争いの渦中に巻き込まれてきた。』


現在の状況
『ブッシュ大統領は「イラクの治安は大幅に改善した」と胸を張った。では、なぜ難民、避難民ともに、その数が増えているのか?
治安は回復していないのである。例えばバグダッドでは、シーア派は東へ逃げ、スンニ派は西へ逃げた。混住する地域から、いわゆる「民族浄化」に近いものが行われ、直接的な殺戮行為が減っただけで、互いの憎しみは深いままなのだ。
通訳モハンマドの叔父は「オマル」という名前のIDカードを持っているだけで殺された。「オマル」という名前は100%スンニ派だからだ。』

『所要で立ち寄ったドバイでは、今日もアラブの富豪たちが、冷房の利いた部屋で株式や原油の動向を調査しながら、投資対象を探している。ハッキリ言って「成金都市」である。世界一ののっぽビル「ブルジドバイ(ドバイの贈り物)」が建設中で、そのビルの周囲は超高層ビルが立ち並ぶ。「まるでニューヨークみたいやね」とタクシーの運転手に言うと、「こちらではこの地区をスモールニューヨークと呼んでいる」とのこと。
7つ星ホテルの最上階からヘリポートが伸び、プライベートビーチの先には、「ザ・ワールド」。海の中に世界地図とそっくりな人口島を浮かべ、そこに別荘を作り、分譲しているのだ。「お前ら、ええかげんにせんかい!」と突っ込みたくなるのは私だけだろうか。

世界一ののっぽビルも、ホテルも、ザ・ワールドも、実際に建設しているのは、アジアからの出稼ぎ労働者だ。その他にもホテルの従業員、タクシーの運転手、各家庭のメイド…。「ドバイに行けばお金が稼げる」と来た彼等の収入は月に800ディルハム(約2万円)で6年契約だという。彼らが6年かけて稼ぐ給料は、7つ星ホテルのロイヤルスイート4泊分に過ぎない。

新自由主義と戦争。強者はますます強くなり、弱者はさらに切り捨てられる。これを理不尽だと思って闘うか、それともあきらめてしまうか。私たちは今、その岐路に立たされている。』

『劣化ウラン弾によると思われる被害についても、さらに認識が深まった。とりわけ、アンマンでであったペニスのない子どもは衝撃的だった。彼はサマワの自衛隊基地から2`のところで出生した。

ウランの粉末は風に乗って飛んでいく。自衛隊だけではなく、今後日本企業も、イラク南部の油田がらみで進出していくだろう。きちんと医学的調査をして、将来に禍根を残さないようにするべきではないだろうか。飛んでくる弾なら避けるすべもあるが、飛沫になって漂うウラン粒子を吸い込まない方法はない。

バグダッドから逃げてきた子どもが2人とも、生まれつき直腸肥大で、人工肛門をつけていたのにも驚いた。遺伝子異常としか言いようがない。父親は「もうイラクでは子どもを生んではいけないんだ」と語っていたのが印象的だった。

劣化ウラン弾を通常兵器と言い張る米軍!その上に新たに神経ガスを使った疑惑も出ている。空爆後にだんだんと神経が麻痺して、重度の障害を抱えるようになった人が多数出ているのは、爆弾との因果関係を疑わざるをえない。

日本での原爆投下直後の情報を一切隠蔽し、ベトナムでは枯葉剤を使い、イラクでは劣化ウラン弾、クラスター爆弾を使い続けた国であるから、「新型神経兵器」を使ったとしても、それは「従来どおりの方針」なのかもしれない…。』


放映のお知らせブログですので、コメントも「見た」だけで結構ですよ
又、以上は西谷氏が何年も取材を続けた事実をそのまま書いただけで、
イデオロギー論ではありません

Posted at 03:49 | 社会の片隅で | この記事のURL
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手塚な街 [2008年03月23日(日) ]
〜 手塚治虫の子供時代の足跡を訪ねてみませんか 〜
◆4月6日(日)午前10:30分 
◆阪急宝塚線・曽根駅改札集合(梅田から普通で約15分)
◆コース:
10:30曽根駅発〜萩の寺(東光院)@〜2軒目の手塚邸及び悦子夫人生家跡〜能勢街道〜原田神社A〜手塚治虫資料室〜食事・自由行動(手塚先生馴染みのお寿司屋さん『魚冶』、又は自由に。尚、お弁当ご持参の場合は桜塚公園の満開の桜の下で)
13:30〜能勢街道を豊中駅方面へ〜カトリック豊中教会B〜手塚治虫生家跡〜豊中駅解散15:00(楽な道ですので子供から年配者までどなたでもOKです)
その後希望者は『宝塚市立手塚治虫記念館』へ(入館料400円、豊中駅から電車で約20分)

@萩の寺…『美味しんぼ』モデル・北大路魯山人が建てたマリア観音像があります。この近くに彼の高級料亭・星岡茶寮がありました。(お寺自体は、又の機会(萩の季節)に『なにわ夢便り』で掲載させて頂きます)。
A原田神社…手塚先生が幼年時代に遊んだ場所(684年、天武天皇創建の重要文化財。ここもいつか掲載させて頂きます)
Bカトリック豊中教会…手塚作品『スリル博士』に登場の場所。神父さんのお話もお願いしてあります。

◆主催は岡町商店街『マイブックス』店主の木村勝さん。
お申し込みは直接お電話で… 06-6844-0155
(ルルのブログで知ったと言って下さっても結構です。尚私は別の予定があり、残念ながら行けません

個人の熱意でされている小さな会です。無料(交通費・食事等は各自負担)
木村さん所有のお宝の一部
木村さんは、店の2階の狭いお部屋に(失礼)、手塚漫画と手塚治虫関連のお宝や資料を無料公開していらっしゃいます。そこにある手塚マンガ、他、約600冊も自由に閲覧できます。手塚治虫と故郷・岡町を熱く愛しているお方。
ご自身も手塚ファンですが、蒐集のきっかけはご長男を骨肉腫で亡くされた事。
『息子の闘病中、その喜ぶ顔が見たくて、私は、せっせと彼の好きな手塚マンガを運んだものです。しかし、その甲斐も無く平成4年、20歳という若さでこの世を去ってしまいました。それは、私にとって、本当に辛く寂しいものでした。しかしそれが、やがて、私の中で、ひとつのエネルギーに変わっていきました。そうさせたのは、手塚氏の代表作である「鉄腕アトム」のストーリ・・・・。天馬博士は息子をなくし、その寂しさを紛らわせるためにアトムを作ります。私も、息子をなくしました。私は、アトムは作れないが、息子の愛した手塚作品、その資料室を作ろう。そう思ったのです。』マイブックスのホームページ→http://www.mybooks1928.com/

手塚先生の事はどなたもよくご存知ですので省きますが…
1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・大阪府豊中市)に生まれ幼年期を豊中で過ごしました(現在も親戚の方々が住んでいます)。
その後一家で宝塚市に移り、大阪府立池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)→大阪府立北野中学(現・北野高校)→大阪大学付属医学専門部(現・大阪大学医学部)へと進みます。
25歳で上京し、1989年60歳で亡くなるまで、漫画の神様と崇められ第一線で活躍し続けました。
手塚治虫ワールドHP↓
http://ja-f.tezuka.co.jp/
(楽しいサイトです)


ただのお知らせブログですので、コメントも「了解」などで結構ですよ

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秋葉系?フェスタ [2008年03月16日(日) ]
『日本橋(にっぽんばし)ストリートフェスタ2008』
今年は 3月20日(木・祝)13:00〜16:00 です
大阪市のメインストリートの1つである堺筋を歩行者天国にしてくり広げられる、
『見て、触れて体験できる沿道イベント』です(公道ですから勿論無料)。

主なパレードは、
商売繁盛で有名な今宮戎神社(この近くです)の宝恵籠
家電各社による新製品パレード
特撮ヒーロー・ヒロインのアクション
最新ロボットのパフォーマンス 
コスプレパレード  ですが…
他にも(去年実績で)、地元子供達の手作りお神輿のお練、
高校生のダンスパフォーマンスと器楽演奏、商店街の人達の民謡などもあり、
又各会場では、日本橋映画祭、日本橋絵画展、最新ハイエンドオーディオ体験会、家電新製品展示会、高校生ロボコン、他…
時間内では周り切れないほど盛り沢山な催しがあります。

このフェスタの特徴であり面白い処は、主催者側だけでなく来場者もコスプレで来る事です(電車で来る子達は駅で着替えるそうです)。
車道にも歩道にもコスプレの若者が溢れ…ホラホラ〜!
皆さん、アニメの主人公になりきって歩いてはりますわ〜
参考までに、去年撮った写真を大量に?掲載いたします(今年は、当日が友人の舞台のお手伝いの為、私は残念ながら見られません)
《写真は最大まで拡大できます》

娘世代は、「又、家の近所がお宅だらけになるやん〜」と冷やかですが…今や【お宅】のサブカルチャーは日本経済に多大な影響を与えていますね。フランスでは、日本アニメのコスプレ関連が一大市場になり、欧米やアジアでも日本アニメ関連は【OTAKU】で通じるそうです。

『当日の12:00〜17:00頃は、堺筋の日本橋3から恵美須町までは全面車輌通行止になりますので迂回道路をご利用ください。又堺筋の日本橋3〜恵美須町のパーキングチケットはご利用いただくことができません。周辺道路は全て駐車禁止となっています。当日、周辺道路は大変混み合うことが予想されますので、マイカー、自転車でのご来場はご遠慮ください。』との事ですが…、 近所情報を言わせて頂きますと…東の松屋町筋は殆ど混み合わず、又堺筋を2本も東に行きはったらコインパーキング等もありますから大丈夫ですわ〜、自転車で来はるんやったら、1本裏のかなり傍まで行って止められます(内緒やよ〜・笑)。

地下鉄堺筋線と南海阪堺線(チンチン電車)の恵美須町駅すぐ、
   又は地下鉄各線・近鉄・南海・の難波駅南出口歩5分
詳細は日本橋ストリートフェスタ実行委員会 06-6644-0260
URL:http://www.denden-town.or.jp/festa2008/index.html です。
  1分CM→http://www.denden-town.or.jp/mov/festa/4festa_promo.wmv
 開催日に間に合うように書いた唯のお知らせブログですので、
   コメントは『見た』や『了解』のみで結構ですよ〜

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