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★★★ 『なにわ夢便り』(大阪の歴史や新旧名所・旧跡のご案内ブログ) ★★★
     ライフワークのつもりで随時更新しています、是非お読み下さいませ〜♪
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夏の総括  [2008年08月28日(木) ]
1ヶ月振りにブログを書いたら、もう秋やて?!
そんな無茶なァ〜!

私の1番好きな季節! 身も心もギラギラと騒ぐ夏!
今年も、陽炎の炎天下を、熱帯夜の星空を、
真夏の太陽と流れる汗に力を貰い、熱い思いに背中を押され、
家庭の事も 自分の事も 忘れて駆け抜けました

今夏も20以上のボランティア行事に携わりましたが、絞って4つをアップさせて頂きます。其々に課題が残り、未熟な私は今も自問自答しています。今後のために、ご教示・ご意見を下されば嬉しいです(本来は別々にブログに書くべきなのですが時間が無く、纏めてアップさせて頂きました)。

今夏某日 
障害者作業所

平和教育の依頼を受け、長崎の原爆を題材にした『嘉代子桜』の紙芝居をしました。偶然にも、以前娘が教育実習に行った所でした。電車を乗り継いで日差しの強い郊外の長い道を歩きながら不安を抱え訪問した私…、でも終わると沢山のお友達が出来、新しいご縁も生まれました。

新聞切り抜き。個人名や私の事が書かれている部分に、
  上から作業中のパン工房の写真を貼り付けました

ここは養護学校を卒業しても就職できない若者達が、手漉き紙やパンを作って収入を得ています(色々買いました、どれも美味しかったです〜)。彼等の平均月収は数千円! STAGEの皆様方の何十分の1でしょうか?この格差にはいたたまれない気持ちになりました。

・2006年に施行された悪法?「障害者自立支援法」に対し、今年5月、その出直しを訴える請願団が署名を国会に提出しましたが、衆・参両方で不採択となりました。私達はこれからも粘り強く訴え続けますが…実のところ自信がありません…もっと良い方法があるのでしょうか?

某日 イラク市長・医師講演
広島の原爆慰霊祭に、今年初めて、イラクの市長とクルド人医師が訪れました。式典参加後TV・新聞の取材を受け翌日大阪入り、現地の実情を聞く講演・勉強会をしました。
イラクからのコーディネーター・西谷氏、司会進行・ルル
アップはイラク北部ハラブジャのファッド・サレ・ラダ市長、37歳
ハラブジャは『イラクの広島』と言われ…フセイン政権時代から現在に至るまで、化学兵器で多くの人が死にましたが…現在、健康な人に次々後遺症が出ています。特に子供達はその影響が大きく、原因不明の病気で死ぬ子が増え、又性器の無い異常児なども生まれています(それらの医療費の為に、当日参加の多数でカンパをし、その場で彼等に手渡しました)。
原爆と同じように、生き残っても後からじわじわと忍び寄る死の恐ろしさ。この症状はイラク人だけでなく米兵にも多数現れ、帰国してからも癌患者が増え続けています。敵味方と言えど同じ空気を吸っているのですから当然です。

・市長曰く、『サマワの自衛隊駐留地周辺でも同様の事が起こっている』。しかし日本政府はそれを発表しません。自衛隊の人々に、本当に後遺症は出ていないのでしょうか? これ以外にも現在の日本は規制が強化され、報道されない真実があまりにも多過ぎ、それを明確にしようとする人々があまりにも少な過ぎるように思います…。又多数の人々が、物事の上面だけを見て同じ意見に流れるさまも恐いように感じております。この日もTV局のカメラが入っていましたが、どのように報道されるやら?

某日 
平和演劇祭

教育委員会(あまり好きではありませんが・笑)後援の平和演劇祭があり、その中で戦争体験者の手記を朗読いたしました。
空襲で家を焼かれ命を焼かれた普通の人々の悲しみと憤り…途中涙で声が途切れ…演者として大いに反省しています。
ブログのお友達・我太郎さま撮影分
・体験者の親に育てられた私達は、次世代との橋渡しになる大きな宿題があるように感じております。これからも、年々風化され消え去ろうとしている記憶を語り、平和を願い続けていきたいと思っています。皆様方の貴重なご体験や聞かれたお話も教えて頂けたら嬉しいです。

某日 盆踊り
子供の頃はどの町でもやっていた盆踊りが、消えたり縮小されたりしています。
責任の一端は私達世代にもあるのではないでしょうか?
STAGEの中でも、盆踊りをしない・手伝わない・お人が多いように感じます。私達の子供や孫の時代、そして私達が死んだ百年後が心配です。

・風習を継承する為には、誰かがやってくれるだろうではなく、まず私達が盛り上げ協力しないといけないのではないか?と感じております。町内会や盆踊りから離れておられたお人も、浴衣を着て踊る阿呆になってみませんか?

…と、お誘いした責任上、恥を忍んでアホ踊りをお見せします
夜も更け人も減った時間…3時間以上踊り続け、手元も足元もかなり怪しくなっています(笑)。大阪音頭・河内音頭・他…約10種類踊りますが、まずは、1番簡単で 誰でも 即踊れます ≪江州音頭≫を〜←クリックして下さい・40秒

尚、同時期の『沖縄慰霊の日』『黒田清さん追悼ライヴ』は、
  既にブログにさせて頂いております。

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7・26追悼ライヴ  [2008年07月29日(火) ]
 『本日は お忙しい処をご来場下さいまして 
   誠にありがとうございます。
 ジャーナリストの黒田清さん(*)
 を覚えていらっしゃいますか?
 TVやマスメディアを通じ、一度は名前
 を聞かれたのではないでしょうか?
 温かく庶民的なキャラクターで
 多くの人々に親しまれる一方、反戦、反 差別を訴え続けた反骨の人でした。   
 その黒田さんが亡くなって、
 この7月で8年が経ちました。

あれからも、年々荒廃していくように感じる世の中…、
今、黒田さんが生きておられたら、
私たちに何を説かれ、どのように行動されたでしょうか?
それを考えますと、今更ながら悔しい思いがいたします。
今日は黒田さんや同志の筑紫哲也さんとも親交のあった新井英一さんを迎え、皆様と一緒に 平和への思いや生きる意味をかみしめたいと思います。』

新井英一さんのライヴと花束贈呈
レコード大賞作品賞を取り、
カーネギーホールにも出ている実力派ですが、
露出を好まず、自分のペースでライヴのみをされています。
魂の歌声は人生の喜怒哀楽を絞り出し…
聴いている内に涙が溢れてきます
ご来場下さったタンゴさまの感想はとても的を射た表現です。
新井英一をご存知のお人も知らないお人も是非クリックしてご覧下さい
全体の感想はこちらに書いて下さっています

 『私達は、黒田さんから直接受けた多くの教えと遺志を引き継ぎ、これからも戦争や差別の無い社会を目指して頑張っていきたいと思います。
今後ともご指導・ご支援の程、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました!』


♪この日の為に半年間一緒に苦労した仲間達
左半分の若い子達は、代表の矢野さん(遺影の向って左)が教えているゼミの学生達(関西大学)です。当日朝からお手伝いに来てくれました、おおきに〜。
♪右写真は打ち上げのお座敷にて
戦い済んで日が暮れて…出演者もスタッフも同じ思いを分かち合い…深夜迄大いに語り合い、気持ち良く酔いよく食べました。


≪黒田 清≫
1931年大阪市生まれ。大阪府立高津高校、京大経済学部を卒業して読売新聞大阪本社入社。社会部一筋で、76年社会部長、79年編集局次長を経て87年に退社。数々のスクープをものにし「黒田軍団」の名を全国にとどろかせた。
84年の著書「警官汚職」で日本ノンフィクション賞、85年の長期連載「戦争」で菊池寛賞を受賞。読者参加形式のコラム「窓」の筆者としても知られた。退社後に「黒田ジャーナル」を創設しTVや雑誌などで幅広く活躍。「窓友会」を主宰し月刊『窓友新聞』を発行するとともに、弱者の立場で言動し続けた。
大阪をこよなく愛した。2000年7月23日永眠。


(ご心配頂きましたヘルペス、26日までには何としても治すぞ〜!と、薬と休養に気を付けましたら、お陰様で朝には殆ど良くなっていました。
お気遣い・ご助言に感謝申し上げます、ありがとうございました
しかし本番日の17時間奉仕?で又ぶり返し、日曜日は撃沈して月曜に病院に行きました。が、前回よりは軽いようです。
皆様のお陰で無事終わりました事を、取り急ぎ報告させて頂きます。)

Posted at 02:59  | その他  | この記事のURL
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大事な時期にィ〜  [2008年07月21日(月) ]
 暑中お見舞い申し上げます 
いつも稚拙なブログにお付き合い下さいまして
誠にありがとうございます

大阪では、6/30の愛染祭の火蓋切りから、今、各地域で夏祭りの真っ最中であります 夏女・お祭り女の私は、愛染さん、生玉さん、高津さんと、なにわ三大夏祭りにお客様をご案内し(何処も徒歩10分以内)、今週は日本三大祭りの1つ・天神さんの船渡御に乗船予定でございました

ところが…各種行事の企画・制作・運営に繁忙の日々を過ごす内に、日頃の不摂生がたたり、とうとう体が悲鳴を上げてしまいました〜
最初、なんもせえへんのにしつこい頭痛やなァ、なんて思いながら…予定が詰まっていて病院に行く間もなく…それに、こんなもん一晩寝たら治るわ〜!と高をくくっていました。

その内に瞼も腫れ、頭だけでなく顔面に痛さが走るようになりました。やっと時間を取り診察を受けますと、初めて体験するヘルペスという病気でした。
(よう聞く病気ですけど、何やはっきりせえへん病気ですなァ)
昔は、ヘルペスが目にも来たら失明する、という恐い物だったそうですが、今は良いお薬があるので必ず治るそうです。
そんな訳で現在は、頭痛持ちのお岩さん状態どすゥ〜(笑)

で、ブログ掲載はおろか、お友達のブログにもコメント出来ずにいますが…、皆々様もそういう事のありませんよう…
『若いつもりでおいでやしても体は年に正直だす。私も、原因は過労とストレス・オマケに加齢(こんなオマケはいらんわァ〜)で抵抗力が弱い、と言われましたので、ご同輩方もお気を付けておくれやすゥ。』…という警告?と自省を兼ねて、取り急ぎ暑中お見舞いのブログを書かせて頂いた次第でございます

夏はつい冷たい物を摂り過ぎたり、夜更かしや不摂生になりますので(私だけ?)、知らぬ間に抵抗力が低下しているものでございます。
くれぐれもご過信なさらず 
ご自愛下さいますよう お願い申し上げます

暑い夏の結婚式は、お母様も留袖をやめてお洋服で〜
(クリック後右下クリックで最大に)

どれがお好みでしょうか? (京都高島屋フォーマルサロンの今夏PR)
ヘルペス前のまだ目が腫れていない時の撮影です(笑)。
もっとも普段の私はこんな格好ではなく、汚いジーンズで本や紙芝居を抱えて走り回っています〜

今週末には舞台監督他をするイヴェント(←タンゴさまがブログにして下さっています、クリックして是非ご覧下さいませ〜)がありますし、8月は教育委員会の平和演劇祭他があり、秋にかけても大小のイヴェントが控えています。どれも自由気儘なボランティアですが…そうは申しましても…其々に大事な役割を頼まれていますので、実生活では、病気でも休めません。
体調が戻りましたら、又暇を見付けて皆様方のブログに少しづつコメントさせて頂きます。勝手な事ですが…イヴェント案内も含め、どうぞよろしゅうに おたのもうします〜

Posted at 03:21  | その他  | この記事のURL
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くいだおれ顛末記  [2008年07月11日(金) ]
前略 
 くいだおれ太郎さん、
まずは還暦までの60年間ご苦労はんどした。
戦後から今まで、赤い灯〜青い灯〜の道頓堀を行き交う ぎょうさんのお人に育てて貰いはって、あんな盛大なお別れ会までして貰いはって、今頃は左団扇でエエ夢 見てはる事やと存じます。

 世間さんは、『大阪のシンボルがなくなる』、いうて姦しい事でおましたが、あれ、誰が言うてはったんやろねェ?
多分、市外のお人や他府県から来たお人が騒ぎ出しはって、それにマスコミが乗りはって、いつの間にか皆さんがたのお題目みたいになったんですやろなァ。
Wikipediaには『くいだおれ太郎は大阪城、通天閣、太陽の塔と並ぶ大阪を代表するシンボルの一つであり…』なんて書いてありますんやでェ。なんも知らんと勝手な事や、あほらしィ。

 私ら”根ェからのなにわっ子”に取りましては、様々なお店が工夫しておいでのキャラの1つ、江戸時代の文楽人形や芝居小屋の幟とおんなじ 道頓堀独特の風景の1つで、なんでこうも大騒ぎしやはるんか分りませんわァ。
そんなに言わはるんやったら、そのお人らも、もっとお店へ食べに行きはったらよろしかったんやァ。なら、閉めることもあらしまへんかったのになァ。
左→普段は太郎さん1人。 右→最終日は 弟・次郎くんも応援の珍しいツーショット
 私も、子供の頃は両親や祖父母に連れられて行きましたけど…昔はともかく、今日びの大阪人にしたら、『食堂ビルくいだおれ』は古うてダサい感じがしたのも正直な処だすゥ。
口の肥えた大阪人を相手にするのに、目ェをむくほど美味しい事も これと言う特徴もなく、なんや中途半端でしたなァ。
そこがアカンかった理由とちゃいますやろかァ? 後に出来た食堂ビルでも、もっと美味しいのんやお洒落なんが、そこいらじゅうにおましたさかいにィ。
道頓堀はうちの庭ですよってェ、しょっちゅうあんさんの前も通らせてもろてましたけど、近年は地元客より観光客で持ってはって…それも青息吐息やったと感じてましたえ…。

 それより!今回の事で、あんさんの商魂と才覚を見せて貰いましたでェ。
3ヶ月前に大々的に閉店報道をしやはったんは、ほんまに賢い戦略でおましたな。それまで何とも思うてへんかった地元っ子までが、外からの渦に巻き込まれて残念がり、ぎょうさんのお人が来やはって、お店の売り上げを驚異的に伸ばしはったんやもん。
ほんで、会見の時の女将の機転の利く会話とはんなりした大阪弁まで評判になって、芸能プロが狙うてはるとか?
同じ大阪でも、船場吉兆はんとはエライ違いや〜。
太郎さんの値打ちもうなぎ登りに騰がり、入札どころか著作権貸しのお話まで出て…。TVでも特集を組んで貰いはって 全国に放送されるらしいですなァ。
閉店時間の1時間前。見回した範囲だけでも…4大新聞・地方紙と、NHK、朝日放送、読売TV、毎日放送、関西TV、TV東京、TBS、フジTV等々…
アナウンサーやレポーターも来ていました。
「他に報道すべきもっと大事な事は?…なかったんですやろか?」
 もしあのまんまやったら…お店は尻すぼみで遠からず倒産、太郎さんも破棄か倉庫入り…という処を逆手に取り、大フィーバーで有終の美を飾りやはった。
やられる前に愛嬌と洒落で逃げる…戦時中一番弱かった大阪の兵隊さんと一緒や〜。お陰で、町内の蟹さんや海老さんや河豚さんらが くすんでしもうて ワヤや。

 最後は三枝師匠・浜村純さん始め著名人に『大阪締め』で収めて貰いはって、女将さんも『くいだおれは日本一幸せなお店でございました、おおきにィ!』て満面の笑みで言うてはりましたわなァ。こりゃ〜役者が1枚ウワテどした。
石を宝石にする錬金術で、自分も周りのお人も 皆喜ばせはった。さすが なにわのあきんどや。ほんまにお上手で…おめでとうさんでござりました。

 後はどないしやはるんか 知りまへんけど…、世間様ちゅ〜のは、一時は熱うなってもすぐ忘れはるもんから 気ィ付けなはれや。『去るものは日々に疎し』、『人の噂も75日』って言いますやろ(今は噂も、1割の1週間で消えますなァ…私ら古い人間は着いて行かれしませんわ)。
けど、あんさんの事やから、これからも才覚と浪花節で、しぶとう生きていきはると思うてます。ま、安心して見させてもらいますゥ。
ほな、ひとまず さいなら〜、ごきげんよろしゅに〜。              

その後の『くいだおれ』。 ビルに≪長年のご愛顧ありがとうございました≫等の垂れ幕
右→入口の太鼓の横に、『わて、旅に出まんねん くいだおれ太郎 』 との伝言と絵
【くいだおれ人形の動画 (1分)】
↑写真で見ても、動く様をご存知ないお方に(周りの混雑でテーマソングが聞こえにくいですが…)

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お知らせとご報告  [2008年06月26日(木) ]
1ヶ月のご無沙汰でございます。
最近は地域や社会の大小活動とボランティアが増え、ブログはおろか家事も自分の事をする時間も持てず、人様に頼まれた各スケジュールをこなすだけで精一杯…それらに伴う夜のお付き合いも増え、断れない私(笑)は、深夜帰宅が続きお肌も体もボロボロ(泣)…お友達のブログ訪問も儘ならず…申し訳ない事でございます
   ・−・−・−・ ≪西谷氏のスーダン報告≫ ・ー・−・−・ 
イラク取材を続けている友人の西谷氏が、5月に、20年以上内戦が続いているスーダンに行き、先日帰国しました。その放映お知らせを書かせて頂きたく、取り急ぎブログを掲載させて頂いた次第です(急な事件などがあれば、放送は延期又は削除される可能性もあります)。
・6月27日(金)午後4時過ぎ〜  
 朝日放送「ムーブ!」(関西地方のみ)
              (話題の新社屋・新スタジオからの生放送です)

『自衛隊がスーダンに派兵されようとしているが、本当に必要なのは、軍隊ではなく、民間の人道支援だと感じた。』と、彼は言っていました。
   ・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
又、新聞や各メディアでご存知のように、
6月23日は沖縄慰霊の日でした。

1945年3/26、米軍が慶良間諸島に上陸開始、4/1には読谷・北谷に上陸し、北部と南部に進攻。組織的な戦闘は6月22日に終わり、20万人を越す戦死者がありました。沖縄県では6月23日を『慰霊の日』と定めています。

同日、友人の主宰する『沖縄戦を忘れない、6・23市民集会』のお手伝いをしてきました。今回の議題は「集団自決」に軍の強制や関与がどの程度あったか、でした。数年前から沖縄で取材している友人のジャーナリストの報告と、大江・岩波裁判の検証などを話し合いました。中でも、沖縄戦を体験した方々のお話は生々しく印象的でした。
渡嘉敷島 集団自決跡地
読谷村郷友会会長の平安名(ヘンナ)氏は、小さな頃は泣き虫で、集団避難壕に入った時も不安で泣いていました。日本軍の兵隊が「泣く子は殺す!」と軍刀を抜き、同じ壕にいた近所の人々までが冷たい視線を向けるのに堪らず、彼の母親は「自分で殺します!」と言ったそうです。子供を抱いたまま、その子の頭を岩にぶつけ血が流れた時、横に居た彼のオバアが体を張って止め、「みんな、どうかしてる。目を覚ませ!」と怒鳴り、皆も一緒にそこから逃げ出し助かりました。が、オバアはその後軍に咎められ、軍刀で首を切られて道端に死んでいるのを発見されました。

平安名氏の頭には63年後の今も、その時の傷があります。又今も、近所の老人達は言います、「あの時お前が泣かなかったら、お前のオバアの言葉がなかったら、わしらはあの壕で自決を強いられていただろう。お前とオバアは命の恩人だ。」と。そのオバアは、一昨年、やっと慰霊碑に名が入ったそうです。
沖縄タイムスの記事
本土では考えられない事ですが…沖縄の人達は、今でも、あの時の真実を喋ると殺されるかも知れない恐怖と戦っているそうです。最近高齢になり、「このまま死んでは真実が葬られる」と、やっとボツボツ語り始めた方が多いそうです。他の方々の話も総合しますと…沖縄の人に取って恐かったのは、実は米軍よりも日本兵だったようです。


「沖縄人には日本人の血も流れていなけりゃ大和魂もない。胸に日の丸を付けてやる」と言って軍刀で胸を突かれ理不尽な死に方をした島民。
島の絶壁に村人を集め、「天皇陛下万歳」を叫ばせながら集団で飛び込みをさせた日本兵。壕に入ると日本兵から手榴弾を渡され、自決を強要された。しかし当時の手榴弾は粗悪品も多く、不発の人達が何とかして死のうとする必死な形相が、今も頭に焼き付いている。生き残った人達は日本兵に助けられたのではなく、たまたま粗悪な手榴弾を配られただけ…等々。
反対に、米兵に捕まり捕虜になった人達はベッドと食事が与えられ、「こんな事ならもっと早く捕まっておけば良かった」と思ったそうです。
琉球新報の記事 模様に見えるのは集まった人々
米軍が島民の焼き払いをする前に、日本兵によって直接殺され、或いは自決を強いられた沖縄の人達。私が習った教科書の「米に攻撃された沖縄の悲劇」と生の声とは…少し違いました…。

重ねて皆さんは訴えます、「歴史問題と基地の問題を同時に考えて欲しい」と。演習中の飛行機から落ちた燃料タンクで死んだ友。基地の狩り遊びの散弾銃で誤って撃たれた島民達。レイプされて村に居られなくなった娘達…本土の新聞に載らない事が日常的にあり、今も沖縄は日本の捨石である…だから伝えて欲しい、沖縄はリゾート地ではないと…。
♪安里屋ユンタ若い子も三線(サンシン)を持って参加(普通の会議室でマイクなし、音が悪いです)

(もしコメントを頂けますならば、「見た」、「了解」などで結構ですよ〜。明日も朝から夜まで出掛けますし、今月締め切りの原稿も2、3頼まれていますので、お返事は遅れる可能性もあります

Posted at 01:28  | 社会の片隅で  | この記事のURL
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映画『靖国』  [2008年05月31日(土) ]
 映画評論家の佐藤忠雄氏の言葉を借りれば、『日本及び日本人についての優れたドキュメンタリーである。これは一知半解の日本理解ではない、よく研究しているな、と思わずうなった。真剣勝負の気迫のこもった作品である。』
その通り、館内は、観客達の真剣な眼差しと息遣いで張り詰めていました。
8月15日の靖国神社に集う人々と、靖国刀鋳造の90歳の刀匠の姿との、動と静の2極を絡ませながら進んで行きます…。

始めに、『昭和8年から敗戦までの12年間、“靖国刀”と呼ばれる8100振りの軍刀が神社の境内において作られた』
との文が出ます。又、『靖国神社のご神体は刀である(*)』と。

【*註…この記述に対し、靖国神社から、『ご神体は“神剣及び神鏡”である。』と訂正があったそうです(いずれにしても私は、靖国神社のご神体が刀剣である事を知りませんでした…又、靖国神社のご紋が、菊の上に桜の重なっている事も…)。

10年をかけて取材して来た李監督は、
『色んな人が登場して色んな現象が起こる。
それらは何を意味し何を象徴しているのか、その裏には何があるのか、その問いかけに其々の心で考えて貰いたい。』
と書いています。

まさに“1つの大きな舞台”と言える8月15日の靖国神社には、
シリアスな人物から滑稽と思える人物まで…
実に様々な役を持った人々が登場いたします。

旭日旗を掲げて参道を進み英霊の御霊に頭を下げる老人。捧げ銃の敬礼をする陸軍姿の一団。七つ釦の海軍の白服軍団は拝殿に向って軍隊ラッパを吹き「天皇陛下万歳!」を。小泉・元首相や石原都知事が英霊を讃え、それに対して賛否を述べる人達。南京大虐殺は捏造だと叫ぶ署名運動。片手に「小泉総理を支持します」のテロップを掲げ片手に星条旗を掲げるアメリカ人、その彼を巡って対立する日本人達。高砂義勇兵の魂を靖国神社から取り戻すべく訪れた台湾人遺族。御霊追悼集会の場に乱入する若者等々…、
カメラは、
この日この場で起こった生の姿だけを凝視していきます。
この種の映画にありがちな批判や思想は全く入れず、
ナレーションも一切無く…。

年代的にも地域的にも遠い存在であった靖国神社が、私の中の日本人の血に迫って来ます。机上で靖国問題を論じ合いながら、靖国神社そのものの実態を知らない事に愕然とし…そんな自分が恥ずかしくなる…そういう内にも映像はどんどん迫り…遠慮のない問いかけを残していきます…。靖国のHPクリックして下さい
(予告編も、著名人のコメントも、上映映画館一覧もこの中にあります↑)

…靖国神社という場所は、これら様々の思いがうごめき長年それらを呑み込んで来た所だったのだ…、友人達に、全ての日本人に是非観て欲しい、そして一緒に考え合いたい、と思いました。
≪第七藝術劇場(通称・ななげい)≫と気骨の館主(大阪・十三駅すぐ)。
彼は当初から、『日本中が中止してもうちはやる。』と言い切り、話題になりました。元々が社会派やアングラの場です。現在は近畿2府4県でここが唯一の上映館ですが、6/7からは京都市下京区の≪京都シネマ≫でも上映しますので2館で観られます。尚、≪第七藝術劇場≫は5/10〜6月も引き続き上映します。

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(55)夕霧太夫  [2008年05月20日(火) ]
江戸時代の結婚は、
恋愛感情を無視して親や親戚の意向で決めていましたので、
遊郭の中こそが純粋な恋を夢見る事の出来る場でありました。

ここ大坂の新町(現・大阪市西区新町)は、
江戸の吉原、京都の島原と共に幕府公認の三大遊郭の一つで、
これら一流所の遊女達は、体を提供するだけでなく、琴・三味線・踊り・和歌・茶道・香道・書画等様々な事にも優れた才色兼備の女性だったそうでございます。
(拡大して下さい)

中でも『太夫(別称・こったい)』は最上級の遊女で、吉原では、仙台藩の当主・伊達綱宗との交情があった高尾太夫さん、島原では、灰屋紹益に身請けされなはった吉野太夫さん、大坂では、このあちき、「扇屋」の夕霧を入れて三大太夫やとか言うてくれておざんすが、西鶴はんは、その中でもわちきが最高でありんしたと書いておくれでおざんす〜。
『…神代こなたのかた 又類しなき 御傾城の鏡 姿をみるまでもなし 地顔 素足の尋常 はづれゆたかに ほそく なり恰好 しとやかに しゝのつて 眼ざしぬからず 物ごしよく はだへ雪を争し 床上手にして 名誉の好にて 命をとる所あって あかず酒飲みて 哥に声よく 琴の弾手 三味線は得もの 一座のこなし 文づらけ高く 長ぶんの書て 物をもらはず 物を惜まず 情ふかくて 手くだの名人 是はどなたが事と 申せば 五人いちどに 夕霧より外に 本朝廣しと申せ共 此君此君と 口を揃えて誉ける…(「好色一代男」より)』


(…類稀なる美しさで傾城の鏡、ほっそりとした淑やかな体、素顔も美しく雪のように白い肌、目力があり、床上手は勿論、歌も上手く、琴、三味線も得意。客の上下に拘らずどんな人にも優しい気配りができ、文章も上手く、物をねだらないばかりか惜しみなく与え、情が深くて品格もあり人間が出来ている、しかも手練手管の恋の名人、皆が夕霧こそ日本一の太夫と絶賛した…)(夕霧作の「稚(ちご)の親 手傘いとはぬ 時雨かな」等、数々の名句も残っています) 

畠山其山(きざん)はんの『色道大鏡』には『…目の内おらんだの如く澱み 顔立ちすぐれ押立よかりければ…』とあり、西洋的な美人と書いておざんすわいなぁ。
さらに西鶴はんは、『…命を捨つる程になれば 道理を詰めて遠ざかり 名の立かゝれば 了簡してやめさせ つのれば 義理をつめて見ばなし 身おもふ人には 世の事を異見し 女房ある男には うらむべきほど程を合点させ・・・』 


(…命を捨てるほど思いつめた男には道理を説いて遠ざかり、噂が立ちかけると上手に止めさせ、女房持ちには妻の嫉妬心をも教え…、彼女を愛する男達と、常に一定の距離を保つようにしていた…)

わちきら太夫は分刻みのスケジュールでありんしたので、お大名様と言えどほんの数分しかお相手が出来ず、たくさんの男はんの愛を頂いておざしたから、特定の男はんと親密になることは職業意識に反する事でおざんした。

近松(門左衛門)はんの『夕霧阿波鳴渡』には、『…四国西国隠れのない夕霧といふ太夫に近付きになりたいとて、わざ/\大坂で御越年。…』(…四国から、あの有名な夕霧太夫に一目会いたいと、わざわざ年越しの旅をした…)三百余年後の言葉で言うたら”スターの追っかけ”とやら、ほんに有り難い事でありんしたわいな。

世間様は、郭に身を沈めた生立ちを哀れに思い同情してくんなましんすが、定めを恨んでも他人様を羨ましゅう思うても何もなりんせん。与えられた中で誠実に精一杯生きる事が大事やと思うていんす。わっちは…哀れとも恥ともちごうて…人様の情と真心をいっぱい頂き…胸を張って正直に生きた幸せな一生でありんした。

浄国寺ご住職の手による夕霧太夫墓誌があり、
延宝6年(1678年)正月、27歳の若さで没した、とあります。

右写真→墓碑正面の戒名は『花岳芳春信女』、左面に
『此の塚は柳なくてもあはれ也』の鬼貫の句が刻まれています。
(上島鬼貫・かみじまおにつら…万治四年(1661)〜元文三年(1738))墓碑裏面には、『延宝6年亥年正月六日 俗名 あふぎや夕ぎり(扇屋・夕霧)』とあり、ここは元々扇屋の墓地で、大勢のファンに惜しまれながら、扇屋主人が丁寧に埋葬されました。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっております。
尚、京都嵯峨野・清涼寺墓地にも夕霧の墓碑があります(謎の多い女性で出生は不明ですがあの辺りが生誕地だったらしいとの事です)。
浄国寺山門と前の通り。
右端→ここの弥勒菩薩様は両手を掛けておられる珍しいお姿。
室町時代の円仁作、重要文化財に指定されています。

又境内の3m程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、
”マンが悪い(運の流れが悪い)”時に、流れを変えて下さいます。

≪浄国寺≫
大阪市天王寺区(地下鉄・谷町9丁目の西、又は各線・日本橋の東)
1560年開創の風格ある古刹。ご住職も奥様も気さくで良いお方(大阪のお寺は観光化されず長年地元民と共に生きていますので、拝観料なしでいつでも入れます。勿論お参りの際にはお声を掛け、写真を撮る場合は了解を取って下さいね)。
門外不出の夕霧さんの書も保管されていますが、紙が弱っている為一般には公開出来ず、檀家さんや私に申し付けて下されば予定を立てて下さいます(何しろ奥の奥に仕舞われていますので)。

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(54)真田幸村戦死の地  [2008年05月09日(金) ]
元和元年(慶長20年・1615年)5月7日、
ここ安居神社の松の根元で傷の手当てをしていた真田幸村
(本名・信繁。幸村は諱(いみな)死後その人を尊んで贈る名)は、
松平忠直の家臣・西尾宗次らに不意を付かれて落命しました。

翌5月8日、
豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害(生き残り説もあり)、
お城が炎上し、天下が新しい地・江戸へと移るのでございます。
同23日、秀頼の子・国松が、僅か8歳のいたいけな身を市中引き回し六条河原で斬首されます。
これによって豊臣家は全て滅亡いたしました。
左→真田幸村戦死の地の碑  右→傷の手当をした真田の松
(写真はどれも拡大できます)
大坂の陣(冬:1614年、夏:1615年)は、戦歴60年・48回に及ぶ家康の合戦の中で、一番困難な戦いでありました。
冬の陣で和解をしたかに見せた家康は、約束を破り夏の陣に突入します(元々彼が、豊臣家の血を絶つ為にイチャモンを付けて仕掛けた戦さですものね…長くなりますのでこの事は又の機会に…)。

徳川勢約20万に迎え討つ豊臣勢は5万、
その内我が真田勢は3千5百でございます〜
少数精鋭の真田隊は大坂城や真田丸(陣)から各所に抜け穴を作り、神出鬼没の猛攻で家康の本陣にまで迫ります。ついに家康の金扇や大馬印が倒され、本陣は大混乱に〜。逃げる家康が「これまでか…」と覚悟を決め腹を切ろうとした処、側近に止められ、何とか思いとどまります。

嗚呼〜、その寸前の一瞬の休息が〜!
幸村様を死に至らせ日本の歴史を変えたのであります。
命日の慰霊式典…宮司さんは弊サークルのお仲間で普段はひょうきんなお方〜♪

実は家康は、前年の冬の陣の時、陰で彼をヘッドハンティングしています。伊達政宗の誇る騎馬鉄砲隊との戦いで一時撤収するも、その堂々とした態度に彼を追う徳川方の武士は一人も無く、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と言わせた男・幸村に畏敬をいだき喉から手が出るほど欲しかったのであります。

「10万石で徳川方に付かないか?」
「いいえ、お断り申し上げます!」
「では、信濃一国ではどうじゃ?」
「私は10万石はおろか信濃一国なども欲しくはない。それよりも、自分を助けてくれた豊臣殿の不忠者にはなりたくない!」 
左から…真田幸村の子孫の方、長野県上田市市長、上田城甲冑隊代表(皆様ご来阪お疲れ様です)、右2つは、大阪城甲冑隊代表、大阪真田鉄砲隊・隊長、

さてさて、首実検の会場では、「総大将・家康殿が最も恐れる男・真田幸村の首を取ったら大出世間違いなし!」と絶賛の中、松平忠直と部下の西尾宗次が得意げに座っています。が、それを見た家康は、褒めるどころか「普通ならお前などの相手になるようなお方ではない!」と不快感を示し何の恩賞も与えません(この不満から、松平忠直らは後に騒動を起こす事になります)。
又、武将達は、幸村にあやかろうと、競ってその毛髪を抜き取りお守りにしました。

ガラシャさんの夫・細川忠興も、「さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と書き、
島津家の『薩摩日記』には、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由。徳川方半分敗北。」と書いています。
大阪城・上田城・両甲冑隊の、ご存知!真田の赤備え(上)と、真田鉄砲隊(下)
(信州上田城と大阪城は友好提携を結んでいます)


六文銭は六道銭をあらわし、三途の川の渡し賃。
「旗印の六文銭が三途の川へ渡してくれよう!」と、
死を恐れない証であり「不惜身命」(ふしゃくしんみょう→仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味します。
因みに、死後に赴く六道とは、地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六世界で、其々に一文の計六文が必要です。

彼の性格は『ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし(「先公実録」)』、『性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。(「翁草」)』、『異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり(「山下秘録」)』 等とあり、敵からも慕われた戦国のスパースターで、あの家康が、「来世で一緒に酒を飲み交わしたい人じゃ…」と言ったそうでございます。
(司馬遼太郎、池波正太郎、柴田錬三郎他、多くの本にあり)

友人も入っている大阪城甲冑隊は、安居神社の式典の後、その南側の茶臼山(徳川の本陣があった場所)で400年前と同じ陣を張る合戦パフォーマンスをし、その後一心寺での豊臣方・徳川方・両兵への慰霊祭に出席、そこから天王寺駅に向い駅付近の清掃をして帰ります(脇差の鞘の中身はゴミハサミと清掃用具です〜

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(53)天王寺舞楽  [2008年04月28日(月) ]
今年も、年に一度の聖霊会(しょうりょうえ)にお参りいたしました。
聖霊会とは、日本仏法最初の寺院・四天王寺において、聖徳太子のご命日に行われる舞楽法要です(重要無形文化財に指定されています)。
六時堂と石舞台。右が左手前に見える亀の休憩所のアップ
を浴びて気持ち良さそう〜これが本当の甲羅干し。♪親亀の上に小亀が乗って〜

四天王寺の六時堂には聖徳太子摂政像と金堂の仏舎利が祀られ、前の石舞台の四隅には曼珠沙華の飾りが立てられ華やかな雰囲気です。そこで、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)の声明を唱える四箇法要と、古式を厳重に守られた舞楽が、交互に行われます。
天王寺舞楽は、左方楽舎、右方楽舎に別れて演奏します
左方(さほう)中国・中央アジア、インドから伝わったもので、「唐
     楽(とうがく)」。楽器は、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛、鞨鼓
      (かっこ)
、鉦鼓(しょうこ)、太鼓。舞は、主に赤系統の装束
右方(うほう)朝鮮・満州から伝わったもので、「高麗楽(こまがく)」。
     楽器は、篳篥、高麗笛、三ノ鼓、太鼓。
     舞は、主に緑系統の装束
また、舞には、優雅な所作の平舞、武具を持つ武の舞、1人で活発に舞う走舞(はしりまい)、子供の童舞(わらべまい)などがあります。

装束は、左方・右方とも、元々は唐風の物でありましたが、平安時代頃から少し和様化し、唐風を受け継ぐ平舞装束、衛府の官人の制服であった蛮絵装束、各曲固有の別装束、童舞に用いる童装束などがあります。

一緒に行った韓国人のお友達の話によりますと、「韓国の古典舞踊とも共通している。」との事でした。彼は3時間以上になる舞楽を最後まで熱心にメモを取り、翌日も関連本を調べたそうです。お互いの文化を分かち合う…嬉しいですね〜

迦陵頻(かりょうびん)の動画クリックして下さい(最後の40秒のみです)≪説明≫ インドの祇園精舎供養の日に、伽陵頻伽(かりょうびんが)という鳥が飛来してさえずり舞った姿を、妙音天女が舞曲にして、阿難尊者に伝えたという伝説の歌。
背に鳥の羽を着け、天冠(てんがん)に桜の花を挿し、手の銅拍子を打ちながら舞台上を飛び回る姿は、軽快可憐で浄土の様子を見る思い。天王寺舞楽では、童舞(わらべまい)の伝統に従って、今でも『迦陵頻』や『胡蝶』は男の子のみで舞います。

聖霊会←聖霊会の歴史などはここに書いています

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画期的な判決  [2008年04月18日(金) ]
4月17日、名古屋高裁(民事第3部・青山邦夫裁判長)は、
『自衛隊の活動、特に航空自衛隊がイラクで行っている米兵等の輸送活動は、他国による武力行使と一体化したものであり、イラク措置法2条2項、同3項、かつ憲法9条1項に違反する』との判決を下しました。


1990年の湾岸戦争への自衛隊派遣以降、多くの文化人や市民が違憲を訴え提起し続けてきましたが、裁判所は一貫して司法判断を避け、門前払いの判決を示し、憲法判断にすら踏み込もうとしませんでした。又日本政府は、国会でもイラクでの自衛隊活動の詳細を明らかにせず…本訴訟においても、事実関係については全く認否すら行わない異常な態度を貫きました。

我が国の憲法訴訟は、違憲判断消極主義と言われ、政府・国会の判断に対する過剰な謙抑により、憲法の規範性が骨抜きにされ続けてきたと言われます。

自衛隊の違憲性については、昭和48年9月7日の長沼ナイキ基地訴訟第一審判決(札幌地裁)での違憲判断が唯一見られるだけで、ましてや、高裁段階の判断としては、本日の名古屋高裁の判決が戦後初めてのものであります。

この判決は、日本国憲法制定以来、憲法の根本原理である平和主義の意味を正確に捉えたもので、60年の憲法史上画期的で、価値の高い判決と評価できます。
判決が言い渡された時、法廷は皆の拍手と熱い涙で埋め尽くされたそうです。

『憲法と良心に従い、平和と人権を守る役割を認識し、
勇気を持って職務を全うした名古屋高裁民事第3部の裁判官に敬意を表します。             2008年4月17日
                 自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団』
17日夜、西谷氏らと共に祝杯を挙げました
右の女性も作家で、名古屋高裁で傍聴後、記事を書くと直ぐ新幹線で駆けつけてくれました。
…と言う訳で…又もや深夜帰宅のルルでありました…

Posted at 03:54  | 社会の片隅で  | この記事のURL
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