元和元年(慶長20年・1615年)5月7日、
ここ安居神社の松の根元で傷の手当てをしていた真田幸村
(本名・信繁。幸村は諱(いみな)…死後その人を尊んで贈る名)は、
松平忠直の家臣・西尾宗次らに不意を付かれて落命しました。
翌5月8日、
豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害(生き残り説もあり)、
お城が炎上し、天下が新しい地・江戸へと移るのでございます。
同23日、秀頼の子・国松が、僅か8歳のいたいけな身を市中引き回し六条河原で斬首されます。
これによって豊臣家は全て滅亡いたしました。
ここ安居神社の松の根元で傷の手当てをしていた真田幸村
(本名・信繁。幸村は諱(いみな)…死後その人を尊んで贈る名)は、
松平忠直の家臣・西尾宗次らに不意を付かれて落命しました。
翌5月8日、
豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害(生き残り説もあり)、
お城が炎上し、天下が新しい地・江戸へと移るのでございます。
同23日、秀頼の子・国松が、僅か8歳のいたいけな身を市中引き回し六条河原で斬首されます。
これによって豊臣家は全て滅亡いたしました。
左→真田幸村戦死の地の碑 右→傷の手当をした真田の松
(写真はどれも拡大できます)
大坂の陣(冬:1614年、夏:1615年)は、戦歴60年・48回に及ぶ家康の合戦の中で、一番困難な戦いでありました。(写真はどれも拡大できます)
冬の陣で和解をしたかに見せた家康は、約束を破り夏の陣に突入します(元々彼が、豊臣家の血を絶つ為にイチャモンを付けて仕掛けた戦さですものね…長くなりますのでこの事は又の機会に…
)。徳川勢約20万に迎え討つ豊臣勢は5万、
その内我が真田勢は3千5百でございます〜

少数精鋭の真田隊は大坂城や真田丸(陣)から各所に抜け穴を作り、神出鬼没の猛攻で家康の本陣にまで迫ります。ついに家康の金扇や大馬印が倒され、本陣は大混乱に〜。逃げる家康が「これまでか…」と覚悟を決め腹を切ろうとした処、側近に止められ、何とか思いとどまります。
嗚呼〜、その寸前の一瞬の休息が〜!
幸村様を死に至らせ日本の歴史を変えたのであります。
命日の慰霊式典…宮司さんは弊サークルのお仲間で普段はひょうきんなお方〜♪
実は家康は、前年の冬の陣の時、陰で彼をヘッドハンティングしています。伊達政宗の誇る騎馬鉄砲隊との戦いで一時撤収するも、その堂々とした態度に彼を追う徳川方の武士は一人も無く、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と言わせた男・幸村に畏敬をいだき喉から手が出るほど欲しかったのであります。
「10万石で徳川方に付かないか?」
「いいえ、お断り申し上げます!」
「では、信濃一国ではどうじゃ?」
「私は10万石はおろか信濃一国なども欲しくはない。それよりも、自分を助けてくれた豊臣殿の不忠者にはなりたくない!」 左から…真田幸村の子孫の方、長野県上田市市長、上田城甲冑隊代表(皆様ご来阪お疲れ様です)、右2つは、大阪城甲冑隊代表、大阪真田鉄砲隊・隊長、
さてさて、首実検の会場では、「総大将・家康殿が最も恐れる男・真田幸村の首を取ったら大出世間違いなし!」と絶賛の中、松平忠直と部下の西尾宗次が得意げに座っています。が、それを見た家康は、褒めるどころか「普通ならお前などの相手になるようなお方ではない!」と不快感を示し何の恩賞も与えません(この不満から、松平忠直らは後に騒動を起こす事になります)。
又、武将達は、幸村にあやかろうと、競ってその毛髪を抜き取りお守りにしました。
ガラシャさんの夫・細川忠興も、「さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と書き、
島津家の『薩摩日記』には、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由。徳川方半分敗北。」と書いています。
大阪城・上田城・両甲冑隊の、ご存知!真田の赤備え(上)と、真田鉄砲隊(下)
(信州上田城と大阪城は友好提携を結んでいます)
六文銭は六道銭をあらわし、三途の川の渡し賃。
「旗印の六文銭が三途の川へ渡してくれよう!」と、
死を恐れない証であり「不惜身命」(ふしゃくしんみょう→仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味します。
因みに、死後に赴く六道とは、地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六世界で、其々に一文の計六文が必要です。
(信州上田城と大阪城は友好提携を結んでいます)
六文銭は六道銭をあらわし、三途の川の渡し賃。
「旗印の六文銭が三途の川へ渡してくれよう!」と、
死を恐れない証であり「不惜身命」(ふしゃくしんみょう→仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味します。
因みに、死後に赴く六道とは、地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六世界で、其々に一文の計六文が必要です。
彼の性格は『ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし(「先公実録」)』、『性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。(「翁草」)』、『異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり(「山下秘録」)』 等とあり、敵からも慕われた戦国のスパースターで、あの家康が、「来世で一緒に酒を飲み交わしたい人じゃ…」と言ったそうでございます。
(司馬遼太郎、池波正太郎、柴田錬三郎他、多くの本にあり)
友人も入っている大阪城甲冑隊は、安居神社の式典の後、その南側の茶臼山(徳川の本陣があった場所)で400年前と同じ陣を張る合戦パフォーマンスをし、その後一心寺での豊臣方・徳川方・両兵への慰霊祭に出席、そこから天王寺駅に向い駅付近の清掃をして帰ります(脇差の鞘の中身はゴミハサミと清掃用具です〜
)


















おはよう。



フニャ
ホント印象深いですよね。
、ええ唄いまくって下さい〜


…そんな大層な評価を下さったとは…滅相もありません、力不足を自覚して余計に恥ずかしいです…

ファンタジーの世界を創造していたのですものね

//
かたじけなき候。真田幸村は、手前がガキのころ何となく憧れの人でした。猿飛佐助
とか霧隠才蔵
などの親分であったのを覚えています。ところで余談ですが、大阪夏の陣で、有名になったのが、「ガマの油」
であったことご存知でしたか?「陣中膏」の名のいわれは、ここからきているのでござる。





こんばんは〜 お返事が遅れました、すみません
「歴史秘話」、別の場所で、同じ物を同時に見ていたとは〜
仰せのように…同じセリフが出て来て嬉しかったです。
信州上田出身の幸村さんですが、活躍した大阪では強烈なファンが多く、
大阪人の殆どが彼を慕い心から愛しています。
長野とは深いご縁を感じますので、風藤 瞬さまも同じ感じです。
はい、池の北側の鬱蒼とした森が、仰せの茶臼山です。
昔から古墳説があるのですが、最近の調査では和気清麻呂が川底池を掘った工事の際の残土かも知れないとも言われています。
私のブログを教科書とは畏れ多いですが…
このように関連して見て下さり深く分って下さると嬉しいです。
和泉式部も面白かったですね〜。
この方達と一緒に名を書いて下さるのも畏れ多いですが…私、3人の中では少しオキャンで皮肉屋の清少納言が面白くて好きです〜