江戸時代の結婚は、
恋愛感情を無視して親や親戚の意向で決めていましたので、
遊郭の中こそが純粋な恋を夢見る事の出来る場でありました。
ここ大坂の新町(現・大阪市西区新町)は、
江戸の吉原、京都の島原と共に幕府公認の三大遊郭の一つで、
これら一流所の遊女達は、体を提供するだけでなく、琴・三味線・踊り・和歌・茶道・香道・書画等様々な事にも優れた才色兼備の女性だったそうでございます。
恋愛感情を無視して親や親戚の意向で決めていましたので、
遊郭の中こそが純粋な恋を夢見る事の出来る場でありました。
ここ大坂の新町(現・大阪市西区新町)は、
江戸の吉原、京都の島原と共に幕府公認の三大遊郭の一つで、
これら一流所の遊女達は、体を提供するだけでなく、琴・三味線・踊り・和歌・茶道・香道・書画等様々な事にも優れた才色兼備の女性だったそうでございます。
(拡大して下さい)
中でも『太夫(別称・こったい)』は最上級の遊女で、吉原では、仙台藩の当主・伊達綱宗との交情があった高尾太夫さん、島原では、灰屋紹益に身請けされなはった吉野太夫さん、大坂では、このあちき、「扇屋」の夕霧を入れて三大太夫やとか言うてくれておざんすが、西鶴はんは、その中でもわちきが最高でありんしたと書いておくれでおざんす〜。

『…神代こなたのかた 又類しなき 御傾城の鏡 姿をみるまでもなし 地顔 素足の尋常 はづれゆたかに ほそく なり恰好 しとやかに しゝのつて 眼ざしぬからず 物ごしよく はだへ雪を争し 床上手にして 名誉の好にて 命をとる所あって あかず酒飲みて 哥に声よく 琴の弾手 三味線は得もの 一座のこなし 文づらけ高く 長ぶんの書て 物をもらはず 物を惜まず 情ふかくて 手くだの名人 是はどなたが事と 申せば 五人いちどに 夕霧より外に 本朝廣しと申せ共 此君此君と 口を揃えて誉ける…(「好色一代男」より)』
(…類稀なる美しさで傾城の鏡、ほっそりとした淑やかな体、素顔も美しく雪のように白い肌、目力があり、床上手は勿論、歌も上手く、琴、三味線も得意。客の上下に拘らずどんな人にも優しい気配りができ、文章も上手く、物をねだらないばかりか惜しみなく与え、情が深くて品格もあり人間が出来ている、しかも手練手管の恋の名人、皆が夕霧こそ日本一の太夫と絶賛した…)(夕霧作の「稚(ちご)の親 手傘いとはぬ 時雨かな」等、数々の名句も残っています)
畠山其山(きざん)はんの『色道大鏡』には『…目の内おらんだの如く澱み 顔立ちすぐれ押立よかりければ…』とあり、西洋的な美人と書いておざんすわいなぁ。
さらに西鶴はんは、『…命を捨つる程になれば 道理を詰めて遠ざかり 名の立かゝれば 了簡してやめさせ つのれば 義理をつめて見ばなし 身おもふ人には 世の事を異見し 女房ある男には うらむべきほど程を合点させ・・・』
(…命を捨てるほど思いつめた男には道理を説いて遠ざかり、噂が立ちかけると上手に止めさせ、女房持ちには妻の嫉妬心をも教え…、彼女を愛する男達と、常に一定の距離を保つようにしていた…)
わちきら太夫は分刻みのスケジュールでありんしたので、お大名様と言えどほんの数分しかお相手が出来ず、たくさんの男はんの愛を頂いておざしたから、特定の男はんと親密になることは職業意識に反する事でおざんした。
近松(門左衛門)はんの『夕霧阿波鳴渡』には、『…四国西国隠れのない夕霧といふ太夫に近付きになりたいとて、わざ/\大坂で御越年。…』(…四国から、あの有名な夕霧太夫に一目会いたいと、わざわざ年越しの旅をした…)三百余年後の言葉で言うたら”スターの追っかけ”とやら、ほんに有り難い事でありんしたわいな。
世間様は、郭に身を沈めた生立ちを哀れに思い同情してくんなましんすが、定めを恨んでも他人様を羨ましゅう思うても何もなりんせん。与えられた中で誠実に精一杯生きる事が大事やと思うていんす。わっちは…哀れとも恥ともちごうて…人様の情と真心をいっぱい頂き…胸を張って正直に生きた幸せな一生でありんした。
浄国寺ご住職の手による夕霧太夫墓誌があり、
延宝6年(1678年)正月、27歳の若さで没した、とあります。
右写真→墓碑正面の戒名は『花岳芳春信女』、
左面に『此の塚は 柳なくても あはれ也』の鬼貫の句が刻まれています。
(上島鬼貫・かみじまおにつら…万治四年(1661)〜元文三年(1738))
墓碑裏面には、『延宝6年亥年正月六日 俗名 あふぎや夕ぎり(扇屋・夕霧)』
とあり、ここは元々扇屋の墓地で、
大勢のファンに惜しまれながら、扇屋主人が丁寧に埋葬されたそうです。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっております。
尚、京都嵯峨野・清涼寺墓地にも夕霧の墓碑があります
(謎の多い女性で出生は不明ですがあの辺りが生誕地だったらしいとの事です)。
延宝6年(1678年)正月、27歳の若さで没した、とあります。
右写真→墓碑正面の戒名は『花岳芳春信女』、
左面に『此の塚は 柳なくても あはれ也』の鬼貫の句が刻まれています。
(上島鬼貫・かみじまおにつら…万治四年(1661)〜元文三年(1738))
墓碑裏面には、『延宝6年亥年正月六日 俗名 あふぎや夕ぎり(扇屋・夕霧)』
とあり、ここは元々扇屋の墓地で、
大勢のファンに惜しまれながら、扇屋主人が丁寧に埋葬されたそうです。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっております。
尚、京都嵯峨野・清涼寺墓地にも夕霧の墓碑があります
(謎の多い女性で出生は不明ですがあの辺りが生誕地だったらしいとの事です)。
浄国寺山門と前の通り。
右端→ここの弥勒菩薩様は両手を掛けておられる珍しいお姿。
室町時代の円仁作、重要文化財に指定されています。
又境内の3m程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、
”マンが悪い(運の流れが悪い)”時に、流れを変えて下さいます。
右端→ここの弥勒菩薩様は両手を掛けておられる珍しいお姿。
室町時代の円仁作、重要文化財に指定されています。
又境内の3m程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、
”マンが悪い(運の流れが悪い)”時に、流れを変えて下さいます。
≪浄国寺≫大阪市天王寺区(地下鉄・谷町9丁目駅の西、又は各線・日本橋駅の東)
1560年開創の風格ある古刹。ご住職も奥様も気さくで良いお方(大阪のお寺は観光化されず長年地元民と共に生きていますので、拝観料なしでいつでも入れます。勿論お参りの際にはお声を掛け、写真を撮る場合は了解を取って下さいね)。
門外不出の夕霧さんの書も保管されていますが、紙が弱っている為一般には公開出来ず、檀家さんや私に申し付けて下されば予定を立てて下さいます(何しろ奥の奥に仕舞われていますので)。
Posted
at 03:45
| なにわ夢便り
| この記事のURL
コメント(112)
| トラックバック(0)





)


)
を浴びて気持ち良さそう〜これが本当の甲羅干し。 親亀の上に小亀が乗って〜♪