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★★★ 夢ブログ『なにわ夢便り』(歴史や新旧名所・旧跡のご案内ブログ) ★★★
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(55)夕霧太夫 [2008年05月20日(火) ]
江戸時代の結婚は、
恋愛感情を無視して親や親戚の意向で決めていましたので、
遊郭の中こそが純粋な恋を夢見る事の出来る場でありました。

ここ大坂の新町(現・大阪市西区新町)は、
江戸の吉原、京都の島原と共に幕府公認の三大遊郭の一つで、
これら一流所の遊女達は、体を提供するだけでなく、琴・三味線・踊り・和歌・茶道・香道・書画等様々な事にも優れた才色兼備の女性だったそうでございます。
(拡大して下さい)

中でも『太夫(別称・こったい)』は最上級の遊女で、吉原では、仙台藩の当主・伊達綱宗との交情があった高尾太夫さん、島原では、灰屋紹益に身請けされなはった吉野太夫さん、大坂では、このあちき、「扇屋」の夕霧を入れて三大太夫やとか言うてくれておざんすが、西鶴はんは、その中でもわちきが最高でありんしたと書いておくれでおざんす〜。
『…神代こなたのかた 又類しなき 御傾城の鏡 姿をみるまでもなし 地顔 素足の尋常 はづれゆたかに ほそく なり恰好 しとやかに しゝのつて 眼ざしぬからず 物ごしよく はだへ雪を争し 床上手にして 名誉の好にて 命をとる所あって あかず酒飲みて 哥に声よく 琴の弾手 三味線は得もの 一座のこなし 文づらけ高く 長ぶんの書て 物をもらはず 物を惜まず 情ふかくて 手くだの名人 是はどなたが事と 申せば 五人いちどに 夕霧より外に 本朝廣しと申せ共 此君此君と 口を揃えて誉ける…(「好色一代男」より)』


(…類稀なる美しさで傾城の鏡、ほっそりとした淑やかな体、素顔も美しく雪のように白い肌、目力があり、床上手は勿論、歌も上手く、琴、三味線も得意。客の上下に拘らずどんな人にも優しい気配りができ、文章も上手く、物をねだらないばかりか惜しみなく与え、情が深くて品格もあり人間が出来ている、しかも手練手管の恋の名人、皆が夕霧こそ日本一の太夫と絶賛した…)(夕霧作の「稚(ちご)の親 手傘いとはぬ 時雨かな」等、数々の名句も残っています) 

畠山其山(きざん)はんの『色道大鏡』には『…目の内おらんだの如く澱み 顔立ちすぐれ押立よかりければ…』とあり、西洋的な美人と書いておざんすわいなぁ。

さらに西鶴はんは、『…命を捨つる程になれば 道理を詰めて遠ざかり 名の立かゝれば 了簡してやめさせ つのれば 義理をつめて見ばなし 身おもふ人には 世の事を異見し 女房ある男には うらむべきほど程を合点させ・・・』 


(…命を捨てるほど思いつめた男には道理を説いて遠ざかり、噂が立ちかけると上手に止めさせ、女房持ちには妻の嫉妬心をも教え…、彼女を愛する男達と、常に一定の距離を保つようにしていた…)

わちきら太夫は分刻みのスケジュールでありんしたので、お大名様と言えどほんの数分しかお相手が出来ず、たくさんの男はんの愛を頂いておざしたから、特定の男はんと親密になることは職業意識に反する事でおざんした。

近松(門左衛門)はんの『夕霧阿波鳴渡』には、『…四国西国隠れのない夕霧といふ太夫に近付きになりたいとて、わざ/\大坂で御越年。…』(…四国から、あの有名な夕霧太夫に一目会いたいと、わざわざ年越しの旅をした…)三百余年後の言葉で言うたら”スターの追っかけ”とやら、ほんに有り難い事でありんしたわいな。

世間様は、郭に身を沈めた生立ちを哀れに思い同情してくんなましんすが、定めを恨んでも他人様を羨ましゅう思うても何もなりんせん。与えられた中で誠実に精一杯生きる事が大事やと思うていんす。わっちは…哀れとも恥ともちごうて…人様の情と真心をいっぱい頂き…胸を張って正直に生きた幸せな一生でありんした。

浄国寺ご住職の手による夕霧太夫墓誌があり、
延宝6年(1678年)正月、27歳の若さで没した、とあります。

右写真→墓碑正面の戒名は『花岳芳春信女』、
左面に『此の塚は 柳なくても あはれ也』の鬼貫の句が刻まれています。
(上島鬼貫・かみじまおにつら…万治四年(1661)〜元文三年(1738))
墓碑裏面には、『延宝6年亥年正月六日 俗名 あふぎや夕ぎり(扇屋・夕霧)
とあり、ここは元々扇屋の墓地で、
大勢のファンに惜しまれながら、扇屋主人が丁寧に埋葬されたそうです。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもなっております。
尚、京都嵯峨野・清涼寺墓地にも夕霧の墓碑があります
(謎の多い女性で出生は不明ですがあの辺りが生誕地だったらしいとの事です)。
浄国寺山門と前の通り。
右端→ここの弥勒菩薩様は両手を掛けておられる珍しいお姿。
室町時代の円仁作、重要文化財に指定されています。

又境内の3m程ある大きな「まんなおし地蔵さん」も有名で、
”マンが悪い(運の流れが悪い)”時に、流れを変えて下さいます。

≪浄国寺≫
大阪市天王寺区(地下鉄・谷町9丁目駅の西、又は各線・日本橋駅の東)
1560年開創の風格ある古刹。ご住職も奥様も気さくで良いお方(大阪のお寺は観光化されず長年地元民と共に生きていますので、拝観料なしでいつでも入れます。勿論お参りの際にはお声を掛け、写真を撮る場合は了解を取って下さいね)。
門外不出の夕霧さんの書も保管されていますが、紙が弱っている為一般には公開出来ず、檀家さんや私に申し付けて下されば予定を立てて下さいます(何しろ奥の奥に仕舞われていますので)。

Posted at 03:45 | なにわ夢便り | この記事のURL
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(54)真田幸村戦死の地 [2008年05月09日(金) ]
元和元年(慶長20年・1615年)5月7日、
ここ安居神社の松の根元で傷の手当てをしていた真田幸村
(本名・信繁。幸村は諱(いみな)…死後その人を尊んで贈る名)は、
松平忠直の家臣・西尾宗次らに不意を付かれて落命しました。

翌5月8日、
豊臣秀頼・淀殿は大坂城内で自害(生き残り説もあり)、お城が炎上し、
天下が新しい地・江戸へと移るのでございます。
同23日、秀頼の子・国松が、
僅か8歳のいたいけな身を市中引き回し六条河原で斬首されます。
これによって豊臣家は全て滅亡いたしました。
左→真田幸村戦死の地の碑  右→傷の手当をした真田の松
(写真はどれも拡大できます)
大坂の陣(冬:1614年、夏:1615年)は、
戦歴60年・48回に及ぶ家康の合戦の中で、一番困難な戦いでありました。
冬の陣で和解をしたかに見せた家康は、約束を破り夏の陣に突入します。
(元々彼が、豊臣家の血を絶つ為にイチャモンを付けて仕掛けた戦さですものね…長くなりますのでこの事は又の機会に…

徳川勢約20万に迎え討つ豊臣勢は5万、その内真田勢は3千5百〜。
少数精鋭の真田隊は大坂城や真田丸(陣)から各所に抜け穴を作り、神出鬼没の猛攻で家康の本陣にまで迫ります。ついに家康の金扇や大馬印が倒され、本陣は大混乱に〜。逃げる家康が「これまでか…」と覚悟を決め腹を切ろうとした処、側近に止められ、何とか思いとどまります。

嗚呼〜、その寸前の一瞬の休息が〜!
幸村様を死に至らせ日本の歴史を変えたのであります。
命日の慰霊式典…宮司さんは弊サークルのお仲間で普段はひょうきんなお方〜♪

実は家康は、前年の冬の陣の時、陰で彼をヘッドハンティングしています。
伊達政宗の誇る騎馬鉄砲隊との戦いで一時撤収するも、その堂々とした態度に彼を追う徳川方の武士は一人も無く、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と言わせた男・幸村に畏敬をいだき喉から手が出るほど欲しかったのであります。

「10万石で徳川方に付かないか?」
「いいえ、お断り申し上げます!」
「では、信濃一国ではどうじゃ?」
「私は10万石はおろか信濃一国なども欲しくはない。
それよりも、自分を助けてくれた豊臣殿の不忠者にはなりたくない!」 
左から…真田幸村の子孫の方、長野県上田市市長、上田城甲冑隊代表(皆様ご来阪お疲れ様です)、
右2つは、大阪城甲冑隊代表、大阪真田鉄砲隊・隊長、


さてさて、首実検の会場では、「総大将・家康殿が最も恐れる男・真田幸村の首を取ったら大出世間違いなし!」と絶賛の中、松平忠直と部下の西尾宗次が得意げに座っています。が、それを見た家康は、褒めるどころか「普通ならお前などの相手になるようなお方ではない!」と不快感を示し何の恩賞も与えません(この不満から、松平忠直らは後に騒動を起こす事になります)。
又、武将達は、幸村にあやかろうと、競ってその毛髪を抜き取りお守りにしました。

ガラシャさんの夫・細川忠興も、「さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と書き、
島津家の『薩摩日記』には、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由。徳川方半分敗北。」と書いています。
大阪城・上田城・両甲冑隊の、ご存知!真田の赤備え(上)と、真田鉄砲隊(下)
(信州上田城と大阪城は友好提携を結んでいます)


六文銭は六道銭をあらわし、三途の川の渡し賃。
「旗印の六文銭が三途の川へ渡してくれよう!」と、死を恐れない証であり
「不惜身命」(ふしゃくしんみょう→仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味します。
因みに、死後に赴く六道とは、
地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上の六世界で、其々に一文の計六文が必要です。

彼の性格は『ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし(「先公実録」)』、『性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。(「翁草」)』、『異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり(「山下秘録」)』 等とあり、敵からも慕われた戦国のスパースターで、あの家康が、「来世で一緒に酒を飲み交わしたい人じゃ…」と言ったそうでございます。
司馬遼太郎、池波正太郎、柴田錬三郎、他も多くの本を書いていますね。

友人も入っている大阪城甲冑隊は、安居神社の式典の後、その南側の茶臼山(徳川の本陣があった場所)で400年前と同じ陣を張る合戦パフォーマンスをし、その後一心寺での豊臣方・徳川方・両兵への慰霊祭に出席、そこから天王寺駅に向い駅付近の清掃をして帰ります(脇差の鞘の中身はゴミハサミと清掃用具です〜

Posted at 03:39 | なにわ夢便り | この記事のURL
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(53)天王寺舞楽 [2008年04月28日(月) ]
今年も、年に一度の聖霊会(しょうりょうえ)にお参りいたしました。
聖霊会とは、日本仏法最初の寺院・四天王寺において、聖徳太子のご命日に行われる舞楽法要です(重要無形文化財に指定されています)。
六時堂と石舞台。池の手前に見える石は亀の休憩所(右がアップの写真です)
を浴びて気持ち良さそう〜これが本当の甲羅干し。 親亀の上に小亀が乗って〜♪

四天王寺の六時堂には聖徳太子摂政像と金堂の仏舎利が祀られ、
前の石舞台の四隅には曼珠沙華の飾りが立てられ華やかな雰囲気です。
そこで、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)の声明を唱える四箇法要と、古式を厳重に守られた舞楽が、交互に行われます。
天王寺舞楽は、左方楽舎、右方楽舎に別れて演奏します
左方(さほう)中国・中央アジア、インドから伝わったもので、「唐楽(とうがく)」。
     楽器は、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛、鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、太鼓。
     舞は、主に赤系統の装束。
右方(うほう)朝鮮・満州から伝わったもので、「高麗楽(こまがく)」。
     楽器は、篳篥、高麗笛、三ノ鼓、太鼓。
     舞は、主に緑系統の装束。
また、舞には、優雅な所作の平舞、武具を持つ武の舞、1人で活発に舞う走舞(はしりまい)、子供の童舞(わらべまい)などがあります。

装束は、左方・右方とも、元々は唐風の物でありましたが、平安時代頃から少し和様化し、唐風を受け継ぐ平舞装束、衛府の官人の制服であった蛮絵装束、各曲固有の別装束、童舞に用いる童装束などがあります。

一緒に行った韓国人のお友達の話によりますと、「韓国の古典舞踊とも共通している。」との事でした。彼は3時間以上になる舞楽を最後まで熱心にメモを取り、翌日も関連本を調べたそうです。お互いの文化を分かち合う…嬉しいですね〜

迦陵頻(かりょうびん)の動画クリックして下さい(最後の40秒のみです)
≪説明≫ インドの祇園精舎供養の日に、伽陵頻伽(かりょうびんが)という鳥が飛来してさえずり舞った姿を、妙音天女が舞曲にして、阿難尊者に伝えたという伝説の歌。
背に鳥の羽を着け、天冠(てんがん)に桜の花を挿し、手の銅拍子を打ちながら舞台上を飛び回る姿は、軽快可憐で浄土の様子を見る思い。天王寺舞楽では、童舞(わらべまい)の伝統に従って、今でも『迦陵頻』や『胡蝶』は男の子のみで舞います。

聖霊会←聖霊会の歴史などはここに書いています

Posted at 04:52 | なにわ夢便り | この記事のURL
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