通称コリアンタウンとして賑わっています。
前回の「鶴の橋」史跡がある地の現住所は大阪市生野区桃谷3丁目ですが、
昭和48年(1973年)までは猪飼野中、猪飼野西などとなっていました。
猪飼野=在日の町という差別が横行していたため、
近くのJR「桃谷駅」の名を地名に変えたのです。
猪飼野(いかいの)…古代、百済の渡来人が猪(=豚)を飼育していた事から付いた名。
古事記から千何百年の時を挟んで同じ地に根をおろしたコリアン達は、
しかし、古代のようには尊敬されませんでした。
「子どもの頃、日本人の大人から「家はどこや」ときかれて、「猪飼野です」と返事したら、「チョーセンの多いとこやな」と言われた。そのチョーセンというのが侮辱的なイントネーションである。そんな風に"チョーセン"と言う日本人を、僕は憎んだ。やがては自らも、「チョーセンや」と自虐的に言うことを覚えた。大阪の多くの日本人にとって、「猪飼野」はチョーセン町である。だから1973年この町名を消し「中川」になった。中川になったからといっても、何も変わらない。」と書いています。
猪飼野新橋の意匠には勾玉と古墳が使われ、仁徳記のプレートが付けられている。
この先が北で今里・森之宮を通って第二寝屋川に合流する
大正・昭和を通して猪飼野は、
在日朝鮮・韓国の人々の家内工業がひしめき、
そこでは身体に悪い強い薬剤を使うサンダルの裏張りやキツイ仕事など
人の嫌がる事を請け負い、
日本経済の発展を底辺から支えてくれました。
子供の頃にも行った事がありますが、ニンニクの臭いが鼻につき…
汚い町・恐い町…と遠巻きに見ていたような気がします。
今考えると…とても恥ずかしい事です…。
サッカーや韓流ブームで、今でこそ偏見もなく、又街も綺麗になり、
御幸通りのコリアンタウンを楽しんで訪れる人が増えましたが、
つい十年数前までは暗い戦後の闇を引きずってきた背景がある町なのです。
(生野区在住の芥川賞作家・玄月(げんげつ、ヒョン・ウォル、1965年生)氏、
毎日出版文化賞や小熊秀雄賞等の作家で詩人の金時鐘(キム・シジョン、1929年生)氏、
その他…多くの作家がその事を書かれています。)
そこを西に3本程行くと、「月はどっちに出ている」、「夜を賭けて」、「血と骨」等で山本周五郎賞受賞の作家・ 梁石日(ヤン・ソギル、1936年生)氏の生家があります(右の写真)。袋小路の路地(関西弁ではろおじと発音)の3軒長屋。
「お母さんがこの軒下で天ぷらを揚げて売ったはったわ。そのマンションも前は古鉄屋やったんや。昔は板金や溶接やプレス、旋盤加工の小さな町工場が多かったとこなんですわ〜。」 路地をウロウロしていると親切に教えて下さった恰幅の良い男性は、韓国籍で梁石日の幼馴染みだとの事。
訪れる人の少ない路地裏でひっそりと佇む2つの場所を、愛しく思えた日でした。
Posted
at 03:45
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という歌がありますが、では橋の始めは何処でしょう?
日本書紀に
『仁徳天皇14年(323年)11月橋を猪甘津(いかいつ・猪飼津)に造り、
即ち其処を号(なず)けて小橋(おばせ)と曰う』と記され、
これが文献上で日本最古の橋とされています。
後の摂陽郡談には、
『この橋のあたりに鶴が群生している』との記述があり、
後世世俗で『鶴の橋』と呼ばれました。
「津の橋」から訛ったものという説もあり、これが「鶴橋」の地名の由来です
(鶴橋駅の傍に小橋(おばせ)という地名も現存しています)。
橋の東方で猪(=豚)を飼育していた事から「猪飼野(いかいの)」と呼ばれ、
又「百済」からの渡来人が多く住んでいた為「百済野」とも呼ばれました
(「日本書紀」「古事記」にも登場しています)。
上町台地の「高津の宮」からの官道が敷かれ、
仁徳天皇は鷹狩りを兼ね、度々その先進文明の視察にお出ましになりました。
この地の森で休息されたことから、
現存する「御幸通り」や「御幸森神社(天神宮)」という名が付いています。
もっと東に行くと、百済や杭全(くまた)という地名を今に残しています。
又ここは遥拝所とされ、異国の人々が故郷や遠くの神様を遥拝する所でもある。
中→本宮、右→神社西入口
今も日本で一番多くの朝鮮・韓国人が住んでいます。
特に明治末期から大正時代にかけては、
工場労働者と平野川開削工事労働者によってその集落は大きくなり、
大正12年済州島―大阪間の君が代丸運行開始によりさらに移住者が増加しました。
戦後もここに住むコリアンが増え…古代からの因縁を感じる地です。
焼肉亭「高橋」(つるの橋史跡・近くのお店)
≪オーナーの高 貞子(コ ジョンジャ)さんは日韓双方の創作民話・童話作家として有名。又、故・時実新子さんや田辺聖子さんらと川柳を詠み才能を高く評価されています。他にも日韓合同ミュージカルのプロデュース等々…広範囲に深いお方です。≫ Posted
at 04:09
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昔、大川町(現・淀屋橋)の宿屋へ1人の男が泊まりに来ました。
「因州鳥取の者じゃが…」と自称するこの男、
どうやら国元では大金持ちらしく、二万両の取引で大坂へ来たと言う。
次から次と桁外れの景気の良い話をしますが…実は全て嘘の文無し男でおます。
さて宿屋の亭主、本業だけでは算盤が合わず、
高津神社の富くじ売りの副業もしていますが、残った一枚が売れていない。
渡りに船と、
「旦さん、この札を一枚買ぉて頂きますわけにはまいらんもんだっしゃろか?」
「よっしゃ。まぁ1番が当たったところでたったの千両やろ。何が当たってもお前さんに半分上げるとしとこか。運試しじゃ、テゴ(てんご=悪戯、悪ふざけ)じゃでな。」
「そんな大金をわたくしが頂戴いたしますので…、おありがとぉございます。」
「お礼は当たってからの話じゃで、ヒャ〜ッハッハッハッ〜!!」
…い、行ってしもた…、ヤマコ*もえぇ加減に張っとかなあかんなぁ。調子に乗ってしゃべってたら、大事にしてた虎の子の一枚、取られてしもた……。とぉとぉ一文無しの空っ穴や……、まぁ、あれだけ言ぅときゃ、やいやい催促もしょまい。えぇ加減飲み食いしてスキ見て逃げたれ…」
*やまこ…山子:山気。虚勢。はったり。ヤマコを張る…大風呂敷を広げること。
写真中→富くじ(同番号が書かれた下の部分を剥して木に貼り付け白木の箱に入れる)
男が高津神社へ参りますと、えらい(沢山の)人だかりで賑わっております。
「一番が『子ぇの千三百六十五番……』やて…。
えぇ〜ッと、これが『子ぇの千三百六十五番』ふ〜〜ん、ちょっと似たぁるなぁ…。
…これが『子ぇの千三百六十五番』、あれが『子ぇ』の…、子ぇの、ねぇの、ネェノ『千三百……』えっ?! 千三百、六十……六十? 六十、えぇ?! 五番…、五番? あれが『子ぇの千三百六十五番』これが『子ぇの…』…あたた、たたたた、た〜ッたたた、あたたたた〜…」
あまりの事に寒気がして体を震わせて宿へ帰った男、
部屋に飛び込み頭から布団に包まりました。
大きな声で読み上げます。現代の当りはお米、お酒、旅行・食事券、電化製品、他…。
私は5枚買い、全部外れでした〜(笑)
群集が帰ったあとに高津神社にやってまいりましたのが宿屋の亭主。
「旦さん『何が当たっても半分やる』ちゅうてなはったな…。
あ、書いたぁる書いたぁる、一番が『子ぇの千三百六十五番』か…。
旦さんのんが『子ぇの千三百六十五番』か…あの一番が『子ぇの…』。旦さんのんが…ん?…ん?? どういぅこっちゃ?…、え…どこが違うねん?…あ、あ、あ、当たったぁねんやがな〜!たぁた、た〜ッたた…」
慌てて帰ってきた亭主、下駄も脱がずに例の旦那の部屋へ直行〜!
「旦さん〜!、たぁた、たたたたた、あたたたた、あたった〜!」
男は震えながら布団から頭を出し、
「何や知らんが、人の寝間へ下駄履いて上がって来る奴があるか!」
「え?!あ、あんまり嬉しぃて、下駄脱ぐのん忘れておりますねん。誠に相済まんこって。…そんなことより旦さん!、起きて、早よぉ〜お祝い酒を〜!」
と布団をめくりますと……
注意した旦那も、草履をはいて寝ておりました……。
三代目柳家小さん師匠は大阪でこれを習い、場所を湯島天神に替え『宿屋の富』として江戸落語にも移植させました。
この日のもう1つの目玉は、『たぶん日本一の屋台達』と名付け、大阪の有名店15店が軒を並べる事です。焼きそば・たこ焼き等のお祭り屋台の常識を変え、老舗が儲け度外視で「ほんまもん」を提供してくれます。これには味に厳しいなにわっ子も満足〜("▽"*)年々話題を呼び、最近ではこれを目当ての参拝客が数万人にのぼるそうです。
Posted
at 04:08
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結願日に当って行われる行事で、天長四年(827年)から続いています。
2週間祈祷された「牛王宝印」という魔除けの護符を裸の若者達が奪い合います。
現在は混乱と危険を避ける為、柳の枝付き護符を紙の御守札に代え、指定校の若者だけの参加としています。
六時堂の前で掛け声と共に押し合うとそこへ冷水が次々と浴びせられ、冷水はたちまち湯気となって裸体から立ちのぼります。やがてお堂の天井から御守札がまかれると、勢いよく階段を駆け上がって奪い合います。
右→新聞社とTV局は石舞台上の特別席で撮影
『わっしょい〜!』 ←クリックして下さい(1分)
若者達がどやどやと群がって来る事から付いたとも、
大阪弁で「どや!=どうだ!」と奪い合った事からとも、
今年の実りを「どや?=どうですか?」と
神仏に問うた事から出たとも言われています。
≪大阪弁は同じ言葉でも多くの意味を持ち、音の高低・強弱の微妙な違いで意味がまるで異なります。田辺聖子氏も書いていますが…文字だけでは表し難い…。
余談ですが…ブログでもよく使われます「ぼちぼち」も「ぼちぼち行こかぁ〜」の
ぼにアクセント付けると「ゆっくり行きましょう〜」という意味になり、
ちにアクセントを付けると「(今迄おとなしくしていたが)そろそろ本気を見せてやろうじゃないか!」の意味になります。
実際口に出す時は「ぼ」「ち」以外も変える必要があり、それらを間違えると意味が変わって通じません。
ネイティブ?の関西人は無意識の内にそこを使い分け理解し合っています

≫ Posted
at 03:58
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人間国宝の竹本住大夫翁が
「おめでとうさんです。大阪で生まれ大阪の皆さんに育てられた文楽を、
これからもどうぞご贔屓に〜よろしゅう頼んます。」
とご挨拶され、賑やかなお正月囃子の中、
えべっさん(恵比寿様)や福禄寿はんが1人1人に升酒を振舞ってくれはります。
演目の第一は、【七福神宝の入船】。 とざい、とぉ〜ざい〜!
チョーン!幕が開くとめでたく新年を迎えた明るい海、
霞の中から現れた船の上では七福神が賑やかに宴を催しています。
『…千里の外も見え渡り、雲居の空に舞鶴の蓬が島を目の当り、筆に書くとも及ぶまじ。…かゝる霞の中よりも、浮かれ出でたる神々の 七つの福を銘々に、積むや宝の舟遊び、呑めや歌へや酌に立つ、その色こそはなよ竹の、生る島にぞ住み給ふぅ〜…』
右上→緞帳は「松に波図」、上に近くの生国魂神社のお札と鯛飾り
右下→大道具絵、大人10人程が乗れる舞台一杯の大きさです
やがて1人づつ芸を披露する事になりました。
『サア、サア、サア、これから銘々に嗜みの芸尽くし…』
『まづ年役に寿老殿、始め給へ〜』
『この三味線で玉琴に似せるも時の笑ひ草…』
と、寿老人は三味線を使って琴の音を聞かせます。
『ヨウ、ヨウ、ヨウ。さても弾いたり爪音の、お年に似合はぬ華やかさ〜!』
次は布袋様、
『布袋てんごう(大阪弁で悪戯の事)の戯れを、腹を抱えて聞き給へ〜』
と大きなお腹で腹鼓の数々を披露します。
『ヨウ、ヨウ、ヨウ。見事、見事!』
にこにこ顔の大黒天、
『皆が望みに乗りが来て、胡弓の音を一興に…』
と、胡弓を取り出し美しい音色を弾きます。
『ヨウ、ヨウ、ヨウ、見事見事−!いづれに愚かはなけれども男ばかりで華がない。』 という事で、弁財天に琵琶を所望します。
♪〜そもそも江州竹生島なる、弁財天女の由来を詳しく申すも愚かや〜
昔々孝安天皇御代の時とや〜、頃は三月己巳(つちのとみ)の日の辰の上刻〜♪… と続く琵琶語り。
『ヨウ、ヨウ、見事見事〜!』
長い頭のてっぺんに獅子頭を付けて登場したのは福禄寿、
くるりと回って笛を吹き、見事に角兵衛獅子を奏でながら踊ります。
次は水干烏帽子(すいかんえぼし)に黄金の釣竿を持った恵比寿三郎左衛門、
釣竿で船端を叩いて太鼓のリズムを打ち上げます。
『ヨウ、ヨウ、奇妙、奇妙!さても細かう打ち囃し、誠に感心、感心―!』
皆でどっと褒めそやすと、毘沙門様が出てきます。
いかめしい姿だから無芸だと思われるのは心外と、これまた顔に似合わず(失礼!)上手に三味線を披露します。
『実に福音の音曲の数を並べて積み上げし、波乗船の音の良き、調べを代々に伝えける〜』補助席までぎっしりの満員で、演者・観客・が溶け合い拍手喝采〜

ロビーもお正月らしい嬉しさと華やかさがこぼれておりました。
お茶席が私の流派の「表」なのも嬉しい、関西はお裏さんが多いです(全国的かな?)。皆様も私達家族も 初対面の人同士が笑顔でご挨拶していました〜

去年の『偽』を一新して、福々しい気分になって頂けましたでしょうか?
Posted
at 05:53
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木津(本名・中村)勘助の一節でございます〜
右手に設計図を持ち、木津川の方向に向いている。
関西人なら誰でも知っている放送作家・新野新さんの祖父が建てたが
戦時中に供出され、戦後、父嘉雄さんが再建された。
ええ男はんやから、色んな角度で撮らせて貰いました(*^_^*)
天下の豪商淀屋がお礼を出すというのを、『金持ちは嫌いや』と勘助は拒否。淀屋も大物、勘助の人間性を見抜き、そこから豪邸とあばら家のご縁が始まります。
その内淀屋の娘・お直さんが毎日ため息混じりの恋患い…このお直さん、飛び切りの別嬪さん(美人)で頭も良し、庶民には高値の花のお姫様です…。
♪お医者様でも 草津の湯でも 〜ドッコイショ〜、治らぬ病に淀屋直々に勘助宅へプロポーズに行きます。
『何で大金持ちのお姫さんが俺みたいなもんを好きになるねん?』
『金持ちの家に生まれ金持ちの家に嫁いで一生送るよりも、あんたのよぉなお人の女房になって、無から一緒にやってみたい…娘がこぉ申しますんや。』
『よっしゃ、気に入った、もらいまひょ。』
てな具合で、現・淀屋橋一帯を占める豪邸から木津(現・大国町)の4畳半一間の勘助家の新婚生活が始まります。
自費で橋を架けたので淀屋橋と呼ばれる
しかし後年、商人の身分で贅沢だと、徳川幕府から家財全てを没収され潰される
ある日の事、勘助が冴えない顔で帰ってきます。 『どないしやはったん?』
『うん、世話になってる六兵衛さんがなぁ、米相場ちゅうもんに手を出して、二百両の金がなかったら店たたんで夜逃げをせんならんやて。気の毒な…、金があったら助けたれるけど、金がないゆぅんは辛いもんやなぁ。』
『たったの二百両でございますか?』
『お前はアホか?!二百両言ぅたら、奉公人の百年もの給金やぞ!』
『うちがお嫁に参りました時、お父はんが「当座の小遣にせぇ」て、くれはりました』
『凄いもんやなぁ、金持ちは!当座の小遣に二百両も?!』
『いぃえ、三千両……。天王寺屋五兵衛さんに預けておます。』
江戸時代は貨幣価値がコロコロ変わりましたが、今の感覚で言うと一両が約十万円。
お直さんは3億円の持参金を持って来たのでございました。
さっそく三千両取り寄せ、二百両は六兵衛さんにあげ、あとの二千八百両は自分の家に。「こんなもん持ってても意味ないやろ、俺が使こぉてええか?」
当時は格差社会で豪商は大名達と派手な遊びに興じ、庶民は行き倒れが絶えぬ世でした。川を流れて来る土左衛門、又、徳川と豊臣の戦が終わったばかりで、大水が出るとこれらの遺体も木津川へ流れ込んで来る、が、これを拾い上げる者がいません。
勘助は小船を一艘もらい受け、ドザエモンたちを引き上げます。それを葬ってやる為にお寺を建立しお墓を立て、あちこちの土地をせっせと開墾いたしました。
しかし…、今度は大坂を大飢饉が襲います。
飢える民衆を助けたくとも、もうお直さんの持参金はありません。
『お直、かんにんやで。さいなら〜!』
意を決した勘助はお直と別れ、中之島の米蔵(筑前黒田五十余万石の蔵屋敷)を破り、民衆に米を配りました。
翌日、勘助は自首しますが、「勘助はんはわいらの恩人や」と、民衆が奉行所に駆け込みます。 結果、勘助の罰は島流しと決定。流される島は彼が開墾した「勘助島」。今の地図で言えば隣の区、歩いて行ける場所という、粋なお裁きでございました〜チャンチャン!

♪ 人の 為ならぁ〜 女房も泣かすぅ〜 それがどうした 文句があるか♪
男・木津勘助の滅私奉公! これぞナニワの心意気や〜!
…と派手に言うたものの…お直さんの持参金といい…何処かで似たような話が?
…人の為に尽くして身上を潰しても…我が家から平成の勘助は生まれなかった…
Posted
at 05:46
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自分達が生かされている事に感謝し その喜びを表現する為に踊る・・・
廃れてきた所もあるようですが…
これは 私達世代の盆踊り離れも関係しているのではないでしょうか

ならば 私達で この温かい地域行事を盛り返しませんか


外に目を向けるのも良いですが、
大切な忘れ物にも目を向けて…1人でも多くの方と参加・連繋して、
次世代に継承したいと思っています
お国自慢の盆踊り♪ 貴方の地元ではどんな曲を演奏されますか?
大阪市で必ずやるのが、大阪音頭、河内音頭、江州音頭、ドンパン節、地蔵盆唄です。又、天下の台所と言われた大坂は、江戸時代には流通・消費の中心となり、日本で唯一の米相場が立ち、全国の大名達が競って蔵屋敷を建てました。今と違い簡単には帰省出来なかった時代…在所を離れた人達の為に 各地の音頭を共に歌い共に踊り 喜び合った上方の風習。今も一部では日本全国の唄で続けられています。
盆踊りは写真だけでは伝わりません、動画の一部を是非ご体験下さいませ
↓タイトルをクリックして下さい 横に書いてあるのは動画時間です
大阪限定の『大阪音頭』2分 佐藤惣之助・作詞、佐々紅華・曲
ハァ〜花の大阪よい港 咲いて黄金の宝船 ハー寄せて文化の宝船
*繰り返し*
(サテ そやないか そうだっせ ハァ〜ほんにえらいこっちゃ そやないか)
ハァ〜せめて見せたや近松(1)に 道頓堀から人の波 ハー千日前まで人の波
(繰り返し*)
ハァ〜梅田ちょいと出りゃ天満橋 二人揃ふて中ノ島 ハー仲の良い良い中ノ島
(繰り返し*)
ハァ〜君と北浜堂島(2)は 一と手千両の市が立つ ハー黄金千両の市が立つ
(繰り返し*)
ハァ〜天王寺詣りの絵日傘は いとし(愛しい)いとはん(3)の恋ごころ ハーこいし(恋しい)いとはんの恋ごころ
(繰り返し*)
ハァ〜住めば住吉・天下茶屋(4) 君を待つ夜の松の風 ハー君を待つ夜の松の風
(繰り返し*)
ハァ〜わてはあんたに身を尽くし(5) 好いた同士の新世界 ハー若い二人の新世界
(繰り返し*)
ハァ〜五座の櫓(6)が立つ頃は 道頓堀から春霞 ハー千日前から春がすみ
(繰り返し*) *歌詞はこれ以外に、その場所によって色々あります
(1)なにわが生んだ日本のシェイクスピア近松門左衛門 (2)北浜・堂島周辺は淀屋他の豪商がありここの米相場は全国を支配していた。現在は証券取引所になっている。 (3)いとはん→大阪弁でお嬢さんの事 (4)住吉⇒古代からの住吉大社の地、当時は白砂青松だった。天下茶屋⇒秀吉が大阪城から堺に行く時に、この辺りで一時休憩する為の茶屋(茶室)を作ったのが、現在の地名になっている (5)みおくつしは古代から難波江の浅瀬に立てられていた水路の標識、大阪市章になっている。『わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みおつくしても 逢はむとぞ思う(元良親王)』 (6)道頓堀は芝居の町として全国1の賑わいがあった。特に五つの座は有名。
お時間を許して頂けるお人はこちらもご覧下さいませ乾いた心に素朴な日本の潤いを…一杯やりながらどうぞ〜

◎『河内音頭』2分10秒
各派によって少しづつ違います。これは珍しい女性の音頭とり。
◎『江州音頭』2分40秒
船場商人のルーツは江戸時代に大坂に来てこの地に根付いた近江商人です。
◎『中央区音頭』2分(大阪市中央区の音頭)
古代から発展していた中央区。後半の子供達の踊りが可愛い〜!
◎『地蔵盆唄』1分(元は新町の芸者さん達が踊った)
地蔵盆の風習は主に近畿、中でも京都、大阪、滋賀が盛ん。
◎『ドンパン節』1分
ご存知の通り、秋田県の代表的な民謡です
おまけ◎『河内音頭・菊水丸』 と ◎『河内音頭・ドンパン節からダイアナへ』
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at 04:48
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これで平城京が当初は南北十条だった事が確実になりましたが、
しかし、誰が?何故?九条に変えたのか?が謎を投げかけています。
当時権力を持っていた藤原不比等が、帰国した遣唐使に「長安の都は九条であった」と聞かされ作りかけていた道を設計変更した、又「九」が皇帝の数字と考えられていたので止めた、等が有力視されています。
*条坊制…都市区割り。朱雀大路を中心として、東西に走る大路を北から一条、二条と数え、、南北に走る大路による区画を「坊」といいます。
(現在も、○条と名残りの住所がありますね)。
*宮と京…「宮」と言うのは、朱雀門の内側(北)の天皇がおられる内裏や大極殿・朝堂院などの中央官庁のある部分で、
「京」は、「宮」を内に含んだ諸氏族が集住する特別行政区域で、朱雀門から南に向かって伸びる朱雀大路の南端・羅城門までの範囲を言います。政治経済の中心として機能するよう、都市計画に基づいて造営し、この地域が「都」となります。 ↑拡大して下さい ↓上と比べて下さい。羅城門の南に条があった?!
平城宮の存在した時期は、大阪にあった「後期難波宮」の時期と重なります。
難波宮と関係が深く、同じ様相で造営され遺跡・遺物に多くの共通点があり、
交流が深かった事も証明されています。
難波宮案内の参考資料としても再度じっくり探るべく、考古学研修に行って参りました(よって、なにわ夢便りの番外編として入れました)。
現・平城宮跡が他の都と異なる大きな特徴は、その後に遷都された平安京以降、奈良の都自体が放棄され寂れてしまった事です。
これは、難波宮が他所へ遷都後も経済都市として発達した大阪や、その他の大都会よりも発掘し易く、考古学上とても有利でした。
都市化が進行する事なくそれまで放置、あるいは耕作地だった120万平方メートル余の土地を国が買い占め、発掘・調査にあたっています(宮部分のみ)。
宮域全体が残されている平城宮は、又、様々な手法を用いて遺構の復元整備が行われており、復元データーの実験場でもあります。それらを試しながら、その中の最適な手法が今後の国分寺他の復元に利用される事になります。
今日の平城宮跡 ←クリックして下さい・4分弱 (
雨が降ったり止んだりで画像が悪い
)音/韓国音楽・何茫然 (ハマンヨン)
(HELP!半年振りに作ったフォトストーリー、無駄な黒い枠が出て写真が切れます。どうして?? どなたか教えて下さい!
) Posted
at 04:09
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太子の霊を慰める為に行われる、
法要と舞楽が一体となった古式床しい大法要です。
千数百年の伝統があり、重要無形民俗文化財に指定されています。
降雨量が多くなり雨が複数の白い線で写ってしまいました〜
演奏は舞台の左右に分かれ、左方(唐楽)は、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛、鞨鼓(かっこ)、
鉦鼓(しょうこ)が使われ、右方(高麗楽)は、篳篥、高麗笛、三ノ鼓、太鼓が使われます
当時、仏教と共に伝来した舞である『伎楽(ぎがく)』も
仏教式楽として奨励しました。
それが後に楽所(がくそ)と呼ばれる演奏集団になり、
平安時代は宮廷(京都)、南都(奈良)、天王寺(大阪)の三方楽所に確立され、
宮中で舞楽が演ぜられる時にはこの三楽人達が召されました。
昔の『浪速名所図屏風』をご覧下さい。目の位置は違いますが(上写真の左端・橋の正面から見た図)、千年以上経った今も変わらず同じ場所で同じ事をします
又宮中の他、寺でも活動する庶民派でした。
平安時代には都の貴族の四天王寺詣の楽しみの1つになり、
吉田兼好も『徒然草』で天王寺舞楽の立派さを讃えています。
『天王寺の伶人の申し侍りしは、当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたくととのほり侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調のもなかなり。秘蔵の事なり・・・(後略)』
ここ伶人町の人達も、
千年以上住み慣れた地を後にして東京に移り住むことになります。
その後廃れかけた天王寺舞楽を、地元の有志達が保存団体
『雅亮会(がりょうかい)』を設立して伝統を守り、聖霊会は続けられています。
四天王寺は、これまで天災や戦火で7回も焼失や倒壊に見舞われましたが、
その度に、お上の手を借りず、市民が寄進などで復興しています。
四天王寺の管長は、『大阪は、寺も聖霊会も庶民に支えられてきた。太子の和の精神がある』と言っておられます。
因みに、明治26年に公布されました『君が代』は、
ここの天王寺伶人・林広守氏の作曲で、彼も後に東京に召されました。
振鉾(えんぶ)、蘇利古(そりこ)、桃季花(とうりか)、菩薩(ぼさつ)、獅子(しし)、迦陵頻(かりょうびん)、胡蝶(こちょう)、綾切(あやきり)、太平楽(たいへいらく)、納蘇利(なそり)で3時間超、昔は朝から深夜まで25曲の舞楽が延々と奉納されていたそうです。
舞楽は、4月22日(聖徳太子のご命日が旧暦2月22日)『聖霊会』の他、8月4日夜の『篝の舞楽』、10月22日の経供養『椽の下の舞』の3つがあります。太古の行事ですが、初めての方でも何故か懐かしく温かく心身に沁み込んでくる事と存じます、是非一度お越しやす〜

四天王寺さんは入るのも舞楽法要鑑賞も無料です(大阪の寺院は民衆と共にあり、殆どが拝観料を取りません。)
Posted
at 04:30
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大阪・大坂・逢坂・と出ます。
他に、古代は津の国や摂津の国と称し、
江戸時代は上方と呼ばれていました。
では、なにわに続きその解説を〜

近代は大阪の表記に使わず、大阪市に現存する「なにわ七坂」の1つを言います。
松屋町筋終点、合法ヶ辻(がっぽうがつじ)を東へ上がって四天王寺西門に至る坂道。聖徳太子と物部守屋の二人が、信じる方法を比べ合わせたと言われた「合法四会」、そこに近いことから合坂(おうさか)・逢坂と名付けられました。逢坂の関になぞらえてよんだものという説もあります。
浄瑠璃『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の舞台として有名です。
・大坂
本願寺の八世を継いだ蓮如は関西各地で一向宗を広め、盛んに寺院を建てていきました。その時上町台地を見初めこの地に惚れ込み、堺の豪商の助けで中心になる御坊を建てます。
工事に掛かると、まるで基礎用に用意してあったように土中から沢山の大きな石が出てきた、で、ここを石山本願寺と名付けました(考古学上正式には大坂本願寺)。又近くに「おさか(小坂)」を始め多くの坂があった為、一帯を大坂と名付けました。
1532年に京都の山科本願寺が焼かれてからは日本中の主になり、寺に城郭を築き、石山本願寺城と呼ばれ、摂津第1の名城とうたわれました。信長はここを10年掛けて攻撃しました。
・大阪
太古から、大坂に地政学的価値を見出した天皇や武将は多く、織田信長も『大坂は日本一の境地なり(信長公記)』と書いています。秀吉がその果たせなかった思いを継いで、落城した大坂本願寺の跡地に大阪城を築き、明治維新の時、大久保利通が大阪遷都を訴えました。が、それぞれ不幸な結末や一代で身代限りになっています。立地条件に恵まれ繁栄を呼ぶ地だけに何かの折には目を付けられ易い事も確かです。
そんな事もあって、文化5年(1808)に刊行された『摂葉落穂集』で、坂は「土にかえる(反→返)」から縁起が悪いと、阪を用いる人もいたことが書かれています。
1868年に「大阪府」が設置されてからも混用されていましたが、明治10年代には「大阪」が一般的になりました。
大阪は、信長が言う通り、京都・奈良・堺に隣接し、淀川・大和川からの流れが町を縦横し西は大海で、日本中はもちろん中国・朝鮮・西洋の船が出入りする立地の富貴の町です。
江戸時代は日本中の人と富が集まり『天下の貨の七分は浪華にあり』と言われ各地の大名も競って蔵屋敷を建てました。全国の産物が流通し『天下の台所』と言われ、日本で唯一の米相場が立ち、経済・文化の中心地でした。町人文化・風俗も花開き、大坂が流行の発信地でありましたので、当時まだ新しい町であった江戸の人々はこぞって大坂の文化を吸収していました。
何でも大坂から流れてくるので、上方と呼びました。江戸から見て、流行の中心である大阪は、川の流れの上方であったという事です。
・津の国・摂津国
津の国は、太古のなにわが海沿いで津(港)が多かった事からです。
天武天皇時の壬申の乱後の677年、丹比公麻呂(たじひのきみまろ)が攝津職(せっつしき)の太夫になった事が『日本書紀』に記されています。摂津職とは、難波京を中心に国内の神社の維持・管理、道路や橋の維持、各戸の戸籍や計帳を作成、市の店舗や商いに対して升や物差の基準化、民衆に農業や技術を指導・推奨し徴税・徴兵を行う…等の他、難波津を出入りする国内外の船の管理や、外国使節の事務的応対と接待も任されていた重要な任務でした。
この時代の摂津国範囲は大阪市のみでしたが、後に豊中市、吹田市、高槻市、さらに尼崎、西宮、芦屋、宝塚から神戸市に至る地域を含むようになります。
因みに近畿地方は摂津国の他、山城国(京都府)、大和国(奈良県)、河内(北河内、中河内、南河内とあり大阪市の周りの都市)、和泉国(現・泉州や岸和田市・)の五つがあり近畿地方を五畿内と称していました。
他都市でこのような所はあるのでしょうか?
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