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なんでもありです

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国東半島の奇祭ケベス  [2008年10月01日(水) ]
ケベス祭りが近づきました。スケベの誤記ではありません。2000年12月25日に国の選択無形民俗文化財に選択された土のにおいがするお祭りです。

舞台は大分県国東半島の海岸沿いにある小さなお社。行事は、海でミソギをした白装束のトウバたちが社に集うところからはじまります。やがて笛と太鼓が響いて行進がはじまり、いつのまにか列にまぎれこんだ仮面姿のケベスが飄々と歩いています。


その間に境内の一隅に山積みされたシダの束に火がつけられ、火が燃え上がると、俄然、ケベスは踊りの輪から離れ、炎めがけて何回も突進します。


突然、ケベスとトウバたちは、火の束を振りかざし、逃げ回る参拝者を追いかけはじめます。漆黒の闇に大量の火の粉が飛び散り、逃げまどう人々。祭りの最大の見せ場です。


火の粉を浴びると無病息災になる。髪の毛を焦がしながら嬉しい悲鳴をあげる若い人たちがいました。

今年も10月14日(火)に催されます。岩倉社の所在地は大分県国東市国見町櫛来。問い合わせは0978-82-1111(国東市国見総合支所)へ。

帰省のあいだの最大の楽しみにしています。

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誕生日 遠い記憶  [2008年09月27日(土) ]
お誕生日おめでとう。素敵な一年になりますように。

朝、アウトルックを開くと、数枚のバースデーカードが届いていました。愛らしいカード、ユーモアたっぷりのカードといろいろです。
家人はまだ夢の中。多分、目覚めても「オメデトウ」と声をかけてくれないでしょう。カードをみているうちにどんどんいい気分になりました。けさ、大阪は快晴です。

アルバムを整理しています。船のデッキで赤ん坊を母親が抱き、女の子と父親が赤ちゃんを覗き込んでいる構図の写真があります。

赤ん坊はわたし。臨月の母は博多で出産するつもりで台湾基隆港から門司港に向かう船に乗りましたが、予定よりだいぶ早まった。船長さんはじめ乗員のみなさんはあわてたことでしょうね。船上出産の証明者は船長です。戸籍謄本には「船長作成の航海日誌の謄本提出」と記してあります。
写真は、数ヵ月後、迎えに来た父親とともに台湾へ引き返したときに写したものです。


船の名前は吉野丸。1919年(大正8)から終戦一年前の1944年7月31日(昭19)まで、台湾と日本を結んだ8959トンの貨客船でした。第1次大戦終結後、敗戦国ドイツから賠償で得た船で、元の名は「KLEIST」。

都市−博物館プランナーの三輪祐児さんの著書「海の墓標〜戦時下に喪われた日本の商船」(展望社\1,890)によると、

吉野丸は南方輸送に従事したのち,昭和17年10月からは純白の船体に赤い十字を記した病院船として行動。1944年7月(昭19)に輸送船に再改装され関東軍の部隊輸送にあたることになります。

そして、関東軍の将兵5千を満載して7月29日に高雄を出港,マニラを目指しますが2日後に潜水艦の魚雷が命中、5千の兵士は「なだれのように海中に落ちた」と郵船戦時船史は書いています。

第133兵站病院史にはこの時の体験談が多く掲載されていますが、殆どの人が「この船は絶対沈まない」と叫ぶ船員の声を聞いたと証言しています。
放り出された兵の救助も緩慢でした。護衛艦が「今日はこれで終る。日が暮れると敵さんがやって来る。明朝来るからそれまで浮いていろ」と言って去ったあと、幾日も漂流して無人島に辿りついたという証言もあります。吉野丸の生存者は約2400名でした。


何十年前、名付け親のお名前を日本郵船にたしかめたことがあります。担当者は「資料がないので不確かだが」と前置きされたあと、船長は船と運命をともにされたといわれたような記憶があります。その際、お名前を聞いたような気がしますが、記憶にありません。

「この船は絶対沈まない」と叫ぶ船員の声。それは船長の声だったのか。
73年後のきょう、気になっていることの一つです。

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故郷から季節の便り  [2008年09月25日(木) ]
大分県国東半島に棲む青鬼君から季節の便りがとどきました。

草刈りの疲れが若干出ていますが、体調はまあまあ。気分転換に国東半島の今を写してきました。コスモス、萩、彼岸花満開。国東半島は秋の花が咲き乱れています・・・

つい先日まで青々としていた稲も頭を垂れて黄金色へとかわってきました。
栗や柿や梨、サツマイモや里芋も食べ頃になりました。



画像は、国東町成仏字京乱の一枚です。
成仏観音寺跡または朝日観音堂跡といわれています。宝篋印塔と供養塔のまわりには沢山の彼岸花が咲いていました。


こちらをクリックすると青鬼君の隠れ家が現れます。刺激されてホームページの写真を取り替えました。国東半島のまんなかにある両子山が見える画像です。


23日からはじまった土地・建物の国政調査がおわるまで、帰省はお預けです。



Posted at 08:29  | この記事のURL
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過度ないたわりの精神は不要  [2008年09月14日(日) ]
敬老の日の行事にいやいや出席しました。「ことしの記念品は朱塗りのお箸。このごろ、よく箸を折るからちょうどいい機会。もらってらっしゃい」というかみさんの命令にはさからえません。

メニューは、小学生の器楽演奏、おばさまたちの和太鼓、新舞踊、マジック、南京玉すだれ、公民館分館の社交ダンス同好会のデモと、いつもと同じパターンでした。


初参加の近所のTさんが「お茶とケーキまでいただいてありがたい。みなさんハッピーな顔していいもんですね」と感心していました。

ぼくは、歌って、踊って、おしゃべりする世代交流型の集いにしたらいいのにと思っていますが、言葉にすると仕事が増えるので、小さくなっていました。

公民館分館の館長さんから、年度末の行事・第九を歌う会へ誘われました。今回は全曲に挑戦するそうです。
3年前、大阪城ホールの「一万人の第九」を経験しましたが、本番で涙腺がつまり歌にならなかったことを思い出しました(写真=パート別レッスンのある日)。やはりお断りしたほうがいいね。


Posted at 18:15  | 日記  | この記事のURL
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インターネット議会中継って見たことありますか?!  [2008年09月09日(火) ]
豊中市議会のインターネット中継が始まりました。導入費用約3500万円。直前には市はホームページを全面リニューアル、録画の再生もできるようにしました。たいした力の入れようです。

かたぐるしい議場に足を運ばなくても、いつでも好きなときに議員や市長の発言を確認できる。市政に関心のあるものにとっては大切なメディアの出現です。

本会議初日の9月5日(金)、本番開始前後の緊張した議場の雰囲気を味わい、あとは自宅でゆっくり観察しました。
といっても議場は変わっていません。議席の配置も…。変化は傍聴席の左右の天井から吊り下げられた2台の大型液晶モニターに現れる映像です。
議長席のうしろにあるズームカメラが議員たちの表情を写し出していました。



今までは議員の後ろ姿しか見えませんから、われらの代表36人がどんな風に説明に聞き入っているのか、こっくりしていてもわかりません。こんな心配を吹き飛ばす画像が映るようになったのです。素晴らしい進化です。

傍聴席上部にあるもう一台のカメラは、市長や幹部、議長や登壇者の表情を精緻にとらえています。
双眼鏡の持ち込みを許してほしいなというは心配はなくなりました。

議員席や理事席にはモニターがないので、ご自分がどんな具合に撮影されているかが判りません。で、なんとなくお行儀よく見えました。

午後1時、本会議開始を告げる議長のことばは「市民の皆さま」ではじまりました。
大阪府下の一番手、府議会に続く試みです。市民の負託に応える議会にしたいという意気込みを感ずる挨拶でした。

さて、自宅に戻り、エンドマークが出るまで見たのですが、初日は膨大な案件の報告と採決の繰り返しで、論議は皆無。単調でしたので画面を最小化し、声を聞き、珈琲をのみながら手紙を書いておりました。
傍聴席ではこんなことはできませんね。

そうそう、閉会直前、挙手した議員がいました。無所属・無会派の29歳の神原宏一郎議員です(写真)。
大急ぎでデジカメのシャッターを押し、あとで感想を問うとメールが入りました。



「質疑の最中、他の議員の意見(野次)がどの程度、飛び交い、それがネット上でどのように聞こえているのか気になっていました。が、これまでほど野次がなかったように感じました」

「カメラを過剰に意識する必要はないとは思いますが、ネットを通じて視聴して下さる方々に、自分の意見や提案をしっかりと届けるため、またその場の臨場感や緊張感を少しでも感じて頂けるような質疑や討論を行っていきたいと思っています」

「多額の税金をかけて実現した議会中継が、多くの方々に活用され、導入されて良かったと思われるような審議を展開していく責任が、私たち議員や行政職員一人ひとりに課せられていると思います」

ところで、9月29日まで本会議があるそうですが、ナマ中継のある日は、9月25日、26日、29日の3日間だけ。委員会の中継はナシ。
もったいない話ですが、国会でも委員会にカメラが入ったのは比較的最近か。
まずは議会中継が実現したことをすなおに喜び、委員会中継が早く実現することを祈るばかり。

録画再生できることになっていますが、9日朝現在、閲覧の用意がしてありません。これは議会中継を委託されている民間会社の事情でしょうか。
公約は守ってほしいな。

9月1週目のあわただしかったこと。24時間テレビ応援。統計調査準備。田舎のあばらやのこと。

Posted at 08:46  | この記事のURL
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町の真ん中にドボン式トイレがあった  [2008年08月22日(金) ]
信号待ちをしているとき足元のマンホールの蓋に「災害用トイレ」の刻印があるのに気づいた。花や鳥など自治体のシンボルを刻んでいるのはよく見かけるが「災害用トイレ」ははじめて。
公衆が行き交う空間である。こんなところで、どういう使い方をするのだろうか。蓋を開けると便器が飛び出してくるのだろうか!?


花壇に説明図があった。蓋の中央の四角い所を持ち上げると和式便器になる。書いていないが、排泄物は直下のマンホールにドボーンと落ちて流下するのだろう。


災害用トイレの大半は備蓄場所から移動するタイプのようである。しかし、トイレは後始末が肝心である。あの大震災のつらい苦しみを思い出す。
こんなマンホール便所が普及するといい。もちろん、かようなものを使う災害が起こらないことを祈る。

花壇にベンチがあった。座るところは木材、基礎はコンクリート。イザという時、上部をはずして炊き出し用のかまどに変身させるのだろう。これはいい。

9月1日は防災の日。吹田市民病院近くの片山町交番前で。

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帚木蓬生作『逃亡』を読み終え、赤とんぼが乱舞する神崎川へ  [2008年08月22日(金) ]
客人を送り、帚木蓬生さんの小説『逃亡』を読み終え、神崎川へ。天竺川→東三国ルートで神崎川に出る。7月17日にたどり着いた旧猪名川水門前をとおり、猪名川を北上する2時間半。河川敷は赤とんぼが乱舞していた。

自転車のブレーキパッドを求めに一走りと思ったのだが、絶好のサイクリング日和に足が勝手に動いた。堤防を走っているうちに空港、その向うに先日、猪名川花火大会の会場があった。



1945年8月15日、日本敗戦。国内外の日本人全ての運命が大きく変わろうとしていた――。香港で諜報活動をしていた憲兵隊の守田軍曹は、反日感情を増す香港に身の危険を感じ、離隊を決意する。本名も身分も隠し、憲兵狩りに怯えつつ、命からがらの帰国。
しかし彼を待っていたのは「戦犯」の烙印だった…。

新潮社刊の『逃 亡』は柴田錬三郎賞受賞作である。622ページ。ズッシリと重い内容だった。

帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)さんは、東大を卒業後、TBSに勤務。退職後九大医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動に励む。1979年、『白い夏の墓標』で注目を集める。1992年、『三たびの海峡』で第14回吉川英治文学新人賞受賞。現在は福岡県中間市にて「通谷メンタルクリニック」を開業。開業医として診察をしながら、人間の心と社会倫理を鋭く射抜く、ヒューマニズムあふれる作品を世に出し続けている。医学に関わる作品が多く、また自身(精神科医)の立場から『ギャンブル依存とたたかう』を上梓している。(ウィキペディア)

帚木作品ははじめて。ペンネームが『源氏物語』五十四帖の巻名「帚木」と「蓬生」から生まれたこともはじめて知った。ファンになった。

この人の作品を読みたいと思ったのは単純である。
小説新潮8月号に、「帚木蓬生/小説「終診」+インタビュー」があり、その一節に「当クリニックにおいて三十年間診療をして参りましたが、古稀を迎えるにあたり、本年六月二十七日、金曜日をもって引退致します。しばらく休んだ後、古里の国東半島にある新しいケアハウスで、老妻ともども余生を送るつもりでおります。」という一文に興味を抱いたからだ。

国東半島・・・。帰省は実現できないまま秋になった。

Posted at 03:47  | 日記  | この記事のURL
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63年前 記録することで体験は生きつづける  [2008年08月16日(土) ]
63年前の8月15日、ぼくは台湾の大渓にいた。3か月前は台北市(当時の地名・古亭町)にいたが、直撃弾で屋敷が吹っ飛び、郊外に疎開したのだ。

家族は無事だっただが、衝撃のせいか当時の記憶がきわめて薄い。こんなとき一まわり以上年がはなれた姉が書いた手記がたよりになる。以下、青文字は姉の手記。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

それは昭和20年5月31日の正午少し前。町内はほとんど内地へ引揚げた後で静まりかえっていました。サイレンが響きました。

南東の空に豆粒ほどのB29の機影が数機浮かびました。母と弟たちは防空壕に入り母は家の中にいた私を呼びました。

私は「大丈夫」と言いながら、いつもの爆音とは違った重々しい予感にかられ、壕に飛び込み扉を閉めました。


轟々とうなる金属音と同時に鉄槌で叩かれたような衝撃。「死が来る」と頭の中は妙に冴えていました。気がつくと、あたりは茶色の煙が立ちこめていました。

三人の名前を叫び、その無事を確かめ、息苦しい壕から飛び出しました。そして見たものは凄まじい破壊の跡でした。わが家も周辺の家も消えていました。

三年生のあなたはショックだったのでしょう。壕から出た後は一言もしゃべりませんでした。駆けつけてくださったおば様に連れられて、あなたは黙ってついて行きました。


手記を読んだとたんに、爆死した犬の顔や瓦礫の中から焦げた学用品や飴のように曲ったレコードを掘り出している少年の姿を思い出した。当時、十歳の私は炸裂音も破壊のショックも覚えていない。

微かに残るのは土壁の焦げた匂いだ。今でも火災現場や解体中の家の前を通ると妙に胸騒ぎするのは、あの時の記憶のせいだろうか。

大空襲を境に台湾への爆撃機の飛来が少なくなった。この時期、米軍は沖縄首里を占領し、B29は日本の心臓部を直撃していたのだ。

その日から2ヵ月後、終戦を迎えました。疎開先の大渓は山河に囲まれ、あなたは廟の一部を使った学校で勉強をしました。11月に台北に戻りました。

翌年の春、あなたは昭和国民学校の4年生になりました。国民政府の統治下です。「三民主義、吾党所宗…」と続く北京語の国歌を忘れないように歌っていました。覚えていますか。


このあと、私が瓦礫の山から使えそうなレンガや銅線などを掘り出し、路傍で売ったと記してある。家計の足しにしたのか、おやつを買いたい一心だったのかわからないが、こんな少年時代を過ごしていたことをすっかり忘れていた。

昭和21年3月24日、はたちの兄が急死した。技術者の父は残留を要請されていた国民政府の申し出を断り、遺骨を抱いて急きょ帰国することにした。

4月1日、くるぶしまであるお兄さんの防寒コートを着こみ、大きなリュックを背負い、米軍のリバティ船に乗りました。上陸港は和歌山県田辺港です。

13日、ようやく見えた日本の島々に涙があふれ、上陸の夜は援護局の温かな食事の世話を受け、「リンゴの歌」にしばしの笑みが浮かびました。そして麦の香りの田辺を後に父の古里に向かいました。

あなたは地元の小学校に編入しましたが、近所の子から引揚者の子≠ニさげずまれ、面白半分の嫌がらせに涙を浮かべていたことが再三でした。おが屑入りのパン、かぼちゃと麦かすのだんご汁、今はブタも食べない食事にも無理を言いませんでしたね。

忘れないうちに第二の故郷になった町に落ち着くまでを書きとどめておきます。


文章はここで終わっている。
姉に続きを催促したら、「もう忘れたわ。これから先は自分で想い出しなさ
い」と釘をさされた。私と13歳離れている姉はいたって健康だが、遺言のつもりで私に渡したのか。

手記は、被災・空腹・いじめにあった時代を一気に思い出させてくれた。

嫌な記憶より近所の子と遊び呆けたことや家族と過ごした楽しい時代を想い出すほうが楽なような気がするが、この手記に刺激され、今までなんとなく避けていた空白を埋めてみたいと思っている。

なんといっても瞬時に人の命を奪い、ものを破壊し、人生までも狂わせてしまう「戦争」だけは風化させるわけにはいかないから・・・。       以上

ここまでは、2002年に発行した新風書房の『孫たちへの証言 第15集 戦争の風化許すまじ』(B6判294頁)に記した一文である。社長の福山琢磨さんにすすめられて記したが、姉の手記がなかったらとてもでないが書けなかった。
以来、頭を刺激して、空白部分を発掘中だが、数日前、『孫たちへの証言 第21集』が発行された。そのサブタイトルには「記録することで体験は生きつづける」とある。

福山さんは「今回で21冊目となるが、原稿は順調に集まった。今、戦争についての証言や当事者から子ども、さらには孫の世代にまで広まってきていることを感じている。家族と戦争の関係、父と娘で綴った記録まで多様な証言や記録を収めることができた。
副題につけた“記録することで体験は生きつづける”ということがいかに重要かを思い知らされた」と話し、今後も証言記録集の出版に力を入れていく方針という。

書くこと、書き続けることの大切さを改めて痛感した。


http://www.shimpu.co.jp/mago/



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キャンドルナイトの主役は廃油  [2008年08月10日(日) ]
ECOキャンドルでつくる幻想的な夜への招待状をいただいた。
服部緑地公園の野外音楽堂で和太鼓やダンス、センチュリー交響楽団の演奏のあと、噴水塔のある東中央広場全面をキャンドルで浮かび上がらせようという社団法人豊中青年会議所の企画である。
メンバーが用意したキャンドルは1万個。家庭や地域の子どもたちも協力して家や店の廃油を利用して作ったという。

突風と俄か雨のために「幻想的な空間」の試みは中断したが、失敗ではない。関係者は「こころに灯すつながりの輝き〜灯火が集う夜」の可能性を十分体感したはずある。

来年は、市民が持ち寄ったかすかなキャンドルの明かりの中で、演奏や演舞、朗読を鑑賞してみたい。ぜひ、継続してほしい。

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鍵つきのビオトープ池  [2008年08月07日(木) ]

昨夜の雨でひんやりとしている朝。雲の色は秋の色。
羽鷹池公園まで足を伸ばしたかえり、はじめて通った道路際にビオトープ池の表示があった。こじんまりとした池の周辺は分譲マンションや戸建ち住宅があり、児童公園もある。
教育熱心な人たちの努力の結晶かと近づいたが、三面はフェンスで囲い、背後は人家のよう壁。鍵がかかっていて入れない。


どんな生物が育っているのだろう。ヤゴを育てているのかな。生態系を損なう生物が侵入した形跡はないかな。水や餌は十分供給できているか・・・。

「管理人さん、ぼくたち、これから観察するからかぎ貸してね」といちいち断るのだろうか。いつでも自由にのびのびと観察する場であってこそビオトープといえるのに。変。

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