63年前の8月15日、ぼくは台湾の大渓にいた。3か月前は台北市(当時の地名・古亭町)にいたが、直撃弾で屋敷が吹っ飛び、郊外に疎開したのだ。
家族は無事だっただが、衝撃のせいか当時の記憶がきわめて薄い。こんなとき一まわり以上年がはなれた姉が書いた手記がたよりになる。以下、青文字は姉の手記。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それは昭和20年5月31日の正午少し前。町内はほとんど内地へ引揚げた後で静まりかえっていました。サイレンが響きました。
南東の空に豆粒ほどのB29の機影が数機浮かびました。母と弟たちは防空壕に入り母は家の中にいた私を呼びました。
私は「大丈夫」と言いながら、いつもの爆音とは違った重々しい予感にかられ、壕に飛び込み扉を閉めました。
轟々とうなる金属音と同時に鉄槌で叩かれたような衝撃。「死が来る」と頭の中は妙に冴えていました。気がつくと、あたりは茶色の煙が立ちこめていました。
三人の名前を叫び、その無事を確かめ、息苦しい壕から飛び出しました。そして見たものは凄まじい破壊の跡でした。わが家も周辺の家も消えていました。
三年生のあなたはショックだったのでしょう。壕から出た後は一言もしゃべりませんでした。駆けつけてくださったおば様に連れられて、あなたは黙ってついて行きました。
手記を読んだとたんに、爆死した犬の顔や瓦礫の中から焦げた学用品や飴のように曲ったレコードを掘り出している少年の姿を思い出した。当時、十歳の私は炸裂音も破壊のショックも覚えていない。
微かに残るのは土壁の焦げた匂いだ。今でも火災現場や解体中の家の前を通ると妙に胸騒ぎするのは、あの時の記憶のせいだろうか。
大空襲を境に台湾への爆撃機の飛来が少なくなった。この時期、米軍は沖縄首里を占領し、B29は日本の心臓部を直撃していたのだ。
その日から2ヵ月後、終戦を迎えました。疎開先の大渓は山河に囲まれ、あなたは廟の一部を使った学校で勉強をしました。11月に台北に戻りました。
翌年の春、あなたは昭和国民学校の4年生になりました。国民政府の統治下です。「三民主義、吾党所宗…」と続く北京語の国歌を忘れないように歌っていました。覚えていますか。
このあと、私が瓦礫の山から使えそうなレンガや銅線などを掘り出し、路傍で売ったと記してある。家計の足しにしたのか、おやつを買いたい一心だったのかわからないが、こんな少年時代を過ごしていたことをすっかり忘れていた。
昭和21年3月24日、はたちの兄が急死した。技術者の父は残留を要請されていた国民政府の申し出を断り、遺骨を抱いて急きょ帰国することにした。
4月1日、くるぶしまであるお兄さんの防寒コートを着こみ、大きなリュックを背負い、米軍のリバティ船に乗りました。上陸港は和歌山県田辺港です。
13日、ようやく見えた日本の島々に涙があふれ、上陸の夜は援護局の温かな食事の世話を受け、「リンゴの歌」にしばしの笑みが浮かびました。そして麦の香りの田辺を後に父の古里に向かいました。
あなたは地元の小学校に編入しましたが、近所の子から引揚者の子≠ニさげずまれ、面白半分の嫌がらせに涙を浮かべていたことが再三でした。おが屑入りのパン、かぼちゃと麦かすのだんご汁、今はブタも食べない食事にも無理を言いませんでしたね。
忘れないうちに第二の故郷になった町に落ち着くまでを書きとどめておきます。
文章はここで終わっている。
姉に続きを催促したら、「もう忘れたわ。これから先は自分で想い出しなさ
い」と釘をさされた。私と13歳離れている姉はいたって健康だが、遺言のつもりで私に渡したのか。
手記は、被災・空腹・いじめにあった時代を一気に思い出させてくれた。
嫌な記憶より近所の子と遊び呆けたことや家族と過ごした楽しい時代を想い出すほうが楽なような気がするが、この手記に刺激され、今までなんとなく避けていた空白を埋めてみたいと思っている。
なんといっても瞬時に人の命を奪い、ものを破壊し、人生までも狂わせてしまう「戦争」だけは風化させるわけにはいかないから・・・。 以上
ここまでは、2002年に発行した新風書房の『孫たちへの証言 第15集 戦争の風化許すまじ』(B6判294頁)に記した一文である。社長の福山琢磨さんにすすめられて記したが、姉の手記がなかったらとてもでないが書けなかった。
以来、頭を刺激して、空白部分を発掘中だが、数日前、『孫たちへの証言 第21集』が発行された。そのサブタイトルには「記録することで体験は生きつづける」とある。
福山さんは「今回で21冊目となるが、原稿は順調に集まった。今、戦争についての証言や当事者から子ども、さらには孫の世代にまで広まってきていることを感じている。家族と戦争の関係、父と娘で綴った記録まで多様な証言や記録を収めることができた。
副題につけた“記録することで体験は生きつづける”ということがいかに重要かを思い知らされた」と話し、今後も証言記録集の出版に力を入れていく方針という。
書くこと、書き続けることの大切さを改めて痛感した。
http://www.shimpu.co.jp/mago/
家族は無事だっただが、衝撃のせいか当時の記憶がきわめて薄い。こんなとき一まわり以上年がはなれた姉が書いた手記がたよりになる。以下、青文字は姉の手記。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それは昭和20年5月31日の正午少し前。町内はほとんど内地へ引揚げた後で静まりかえっていました。サイレンが響きました。
南東の空に豆粒ほどのB29の機影が数機浮かびました。母と弟たちは防空壕に入り母は家の中にいた私を呼びました。
私は「大丈夫」と言いながら、いつもの爆音とは違った重々しい予感にかられ、壕に飛び込み扉を閉めました。
轟々とうなる金属音と同時に鉄槌で叩かれたような衝撃。「死が来る」と頭の中は妙に冴えていました。気がつくと、あたりは茶色の煙が立ちこめていました。
三人の名前を叫び、その無事を確かめ、息苦しい壕から飛び出しました。そして見たものは凄まじい破壊の跡でした。わが家も周辺の家も消えていました。
三年生のあなたはショックだったのでしょう。壕から出た後は一言もしゃべりませんでした。駆けつけてくださったおば様に連れられて、あなたは黙ってついて行きました。
手記を読んだとたんに、爆死した犬の顔や瓦礫の中から焦げた学用品や飴のように曲ったレコードを掘り出している少年の姿を思い出した。当時、十歳の私は炸裂音も破壊のショックも覚えていない。
微かに残るのは土壁の焦げた匂いだ。今でも火災現場や解体中の家の前を通ると妙に胸騒ぎするのは、あの時の記憶のせいだろうか。
大空襲を境に台湾への爆撃機の飛来が少なくなった。この時期、米軍は沖縄首里を占領し、B29は日本の心臓部を直撃していたのだ。
その日から2ヵ月後、終戦を迎えました。疎開先の大渓は山河に囲まれ、あなたは廟の一部を使った学校で勉強をしました。11月に台北に戻りました。
翌年の春、あなたは昭和国民学校の4年生になりました。国民政府の統治下です。「三民主義、吾党所宗…」と続く北京語の国歌を忘れないように歌っていました。覚えていますか。
このあと、私が瓦礫の山から使えそうなレンガや銅線などを掘り出し、路傍で売ったと記してある。家計の足しにしたのか、おやつを買いたい一心だったのかわからないが、こんな少年時代を過ごしていたことをすっかり忘れていた。
昭和21年3月24日、はたちの兄が急死した。技術者の父は残留を要請されていた国民政府の申し出を断り、遺骨を抱いて急きょ帰国することにした。
4月1日、くるぶしまであるお兄さんの防寒コートを着こみ、大きなリュックを背負い、米軍のリバティ船に乗りました。上陸港は和歌山県田辺港です。
13日、ようやく見えた日本の島々に涙があふれ、上陸の夜は援護局の温かな食事の世話を受け、「リンゴの歌」にしばしの笑みが浮かびました。そして麦の香りの田辺を後に父の古里に向かいました。
あなたは地元の小学校に編入しましたが、近所の子から引揚者の子≠ニさげずまれ、面白半分の嫌がらせに涙を浮かべていたことが再三でした。おが屑入りのパン、かぼちゃと麦かすのだんご汁、今はブタも食べない食事にも無理を言いませんでしたね。
忘れないうちに第二の故郷になった町に落ち着くまでを書きとどめておきます。
文章はここで終わっている。
姉に続きを催促したら、「もう忘れたわ。これから先は自分で想い出しなさ
い」と釘をさされた。私と13歳離れている姉はいたって健康だが、遺言のつもりで私に渡したのか。
手記は、被災・空腹・いじめにあった時代を一気に思い出させてくれた。
嫌な記憶より近所の子と遊び呆けたことや家族と過ごした楽しい時代を想い出すほうが楽なような気がするが、この手記に刺激され、今までなんとなく避けていた空白を埋めてみたいと思っている。
なんといっても瞬時に人の命を奪い、ものを破壊し、人生までも狂わせてしまう「戦争」だけは風化させるわけにはいかないから・・・。 以上
ここまでは、2002年に発行した新風書房の『孫たちへの証言 第15集 戦争の風化許すまじ』(B6判294頁)に記した一文である。社長の福山琢磨さんにすすめられて記したが、姉の手記がなかったらとてもでないが書けなかった。
以来、頭を刺激して、空白部分を発掘中だが、数日前、『孫たちへの証言 第21集』が発行された。そのサブタイトルには「記録することで体験は生きつづける」とある。
福山さんは「今回で21冊目となるが、原稿は順調に集まった。今、戦争についての証言や当事者から子ども、さらには孫の世代にまで広まってきていることを感じている。家族と戦争の関係、父と娘で綴った記録まで多様な証言や記録を収めることができた。
副題につけた“記録することで体験は生きつづける”ということがいかに重要かを思い知らされた」と話し、今後も証言記録集の出版に力を入れていく方針という。
書くこと、書き続けることの大切さを改めて痛感した。
http://www.shimpu.co.jp/mago/
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自分の出番以外は、ステップ内をウロウロしていましたから、もしかしたらすれ違っていたかも分りませんね?
夢宙人さまの豊中ご在住は、前から知っていましたので、
実はお知らせしようかと思たのです…でも、自己宣伝のようで出過ぎた事かも分らない?と躊躇してしまいました
豊中平和演劇祭は来年もやる予定ですので、次からは、
そういう事があればお知らせさせて頂きますね
弊ブログにいつもコメントを下さる・伊丹ご在住の方が、
メールを下さり、確認の上来てくださいました。
今回はどなたにも言っていませんので、
STAGE関係ではその方1人だけでした。