クサツエストピアホテルから始まった、ひとり旅2日目の目的地は
“琵琶湖疎水の取水口”、“三井寺”、“皇子山古墳”の3ヶ所。
JR膳所(ぜぜ)駅で下車して、京阪石山坂本線に乗り換え。
京阪電鉄石山坂本線の電車内は始業式当日(4/8)ということもあり高校生で溢れかえっていましたが、関東の江ノ電と雰囲気が似ていて、情緒があって、ひとり旅には最高です。
三井寺駅で下車し、まずは第1の目的地である“琵琶湖疎水の取水口”へ。
写真1)琵琶湖疎水取水口

琵琶湖疎水は、明治2年東京遷都後、急激に衰退した京都を復興させるために計画された疎水事業で出来上がりました。
現在でも発電(蹴上発電所、夷川発電所、伏見発電所)の他、京都市民の重要な水源として貢献しています。
写真2)琵琶湖疎水と長等山(第1)トンネル入り口(トンネル長:2436m)
琵琶湖疎水に掛かる橋の上で桜の花に見惚れていたら、地元のおばあさんが通り掛かりましたので、
三井寺までの道を尋ねてみました。
おばあさんが教えてくれたのは、総門から行くコースで、よりによって長い階段がある。
前日の大阪城(8階)もきつかったがこれも辛い。
皆さん、お寺巡りをされるのなら、普段から足腰を鍛えておく必要がありまっせ。
写真3)三井寺 西国十四番札所観音堂

三井寺は天台寺門宗の総本山。正式名称は長等山園城寺。
672年、天智天皇が崩御された後、皇位継承権を巡り、壬申の乱が勃発。
争いに敗れた弘文天皇(大友皇子)の皇子の大友与多王が父の霊を弔うために
「田園城邑(=田畑屋敷)」を寄進して寺を創設した際、
壬申の乱の勝者である天武天皇から「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりなのだそうです。
*)ここで壬申の乱について面白い物語を語りたいところですが、長くなるからやめます。
三井寺と呼ばれるようになった経緯がHPに載っていましたが、嘘っぽいので省略します。
もうひとつ宗派名にある“寺門”は10世紀末の派閥争いで天台宗が二分され、延暦寺の“山門”、三井寺の“寺門”と称するようになったとか。
仏さんの世界も派閥争いがお好きでんな〜。
次に近江神宮に行く途中で「史跡 近江大津宮錦織遺跡第二地点」を通り掛かりました。
667年、中大兄皇子は皇居を近江国大津宮に移し、翌年668年に即位して天智天皇となります。
写真4)史跡 近江大津宮錦織遺跡第二地点
大津宮の位置は最近まで不明でしたが、1974年錦織地区で中心施設と思われる遺構(第一地点=内裏南門と推定)が発見されました。
この第二地点は第一の真北約89mに位置し、天智天皇が自ら政を執った内裏正殿のあった場所と推定されています。
近江神社は昭和13年の創建。御祭神は天智天皇。
参道と境内の桜が美しい神社ですが、写真は省略し、いよいよ皇子山古墳です。
皇子山(164m)の頂上にあり、4世紀後半に築かれた古墳。
全長60m、大和で流行った前方後円墳ではなく、前方後方墳。
どのような人物が埋葬されたのか残念ながら不明です。
皇子山は近江神宮駅の西方にありますが、辿り着くのは奇跡的。
私の場合は近江神宮から宇佐神宮を経由して行きましたが、ラッキーでした。
写真5)古墳から大津市街を臨む
この山登りもしんどかった〜。
この後は浜大津駅で京阪電鉄京津線に乗り換え、西行桜さんとの待ち合わせ場所の京都駅に向かいました。
皆様、長い長いブログにお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。
“琵琶湖疎水の取水口”、“三井寺”、“皇子山古墳”の3ヶ所。
JR膳所(ぜぜ)駅で下車して、京阪石山坂本線に乗り換え。
京阪電鉄石山坂本線の電車内は始業式当日(4/8)ということもあり高校生で溢れかえっていましたが、関東の江ノ電と雰囲気が似ていて、情緒があって、ひとり旅には最高です。
三井寺駅で下車し、まずは第1の目的地である“琵琶湖疎水の取水口”へ。
写真1)琵琶湖疎水取水口
琵琶湖疎水は、明治2年東京遷都後、急激に衰退した京都を復興させるために計画された疎水事業で出来上がりました。
現在でも発電(蹴上発電所、夷川発電所、伏見発電所)の他、京都市民の重要な水源として貢献しています。
写真2)琵琶湖疎水と長等山(第1)トンネル入り口(トンネル長:2436m)
琵琶湖疎水に掛かる橋の上で桜の花に見惚れていたら、地元のおばあさんが通り掛かりましたので、
三井寺までの道を尋ねてみました。
おばあさんが教えてくれたのは、総門から行くコースで、よりによって長い階段がある。
前日の大阪城(8階)もきつかったがこれも辛い。
皆さん、お寺巡りをされるのなら、普段から足腰を鍛えておく必要がありまっせ。
写真3)三井寺 西国十四番札所観音堂
三井寺は天台寺門宗の総本山。正式名称は長等山園城寺。
672年、天智天皇が崩御された後、皇位継承権を巡り、壬申の乱が勃発。
争いに敗れた弘文天皇(大友皇子)の皇子の大友与多王が父の霊を弔うために
「田園城邑(=田畑屋敷)」を寄進して寺を創設した際、
壬申の乱の勝者である天武天皇から「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりなのだそうです。
*)ここで壬申の乱について面白い物語を語りたいところですが、長くなるからやめます。
三井寺と呼ばれるようになった経緯がHPに載っていましたが、嘘っぽいので省略します。
もうひとつ宗派名にある“寺門”は10世紀末の派閥争いで天台宗が二分され、延暦寺の“山門”、三井寺の“寺門”と称するようになったとか。
仏さんの世界も派閥争いがお好きでんな〜。
次に近江神宮に行く途中で「史跡 近江大津宮錦織遺跡第二地点」を通り掛かりました。
667年、中大兄皇子は皇居を近江国大津宮に移し、翌年668年に即位して天智天皇となります。
写真4)史跡 近江大津宮錦織遺跡第二地点
大津宮の位置は最近まで不明でしたが、1974年錦織地区で中心施設と思われる遺構(第一地点=内裏南門と推定)が発見されました。
この第二地点は第一の真北約89mに位置し、天智天皇が自ら政を執った内裏正殿のあった場所と推定されています。
近江神社は昭和13年の創建。御祭神は天智天皇。
参道と境内の桜が美しい神社ですが、写真は省略し、いよいよ皇子山古墳です。
皇子山(164m)の頂上にあり、4世紀後半に築かれた古墳。
全長60m、大和で流行った前方後円墳ではなく、前方後方墳。
どのような人物が埋葬されたのか残念ながら不明です。
皇子山は近江神宮駅の西方にありますが、辿り着くのは奇跡的。
私の場合は近江神宮から宇佐神宮を経由して行きましたが、ラッキーでした。
写真5)古墳から大津市街を臨む
この山登りもしんどかった〜。
この後は浜大津駅で京阪電鉄京津線に乗り換え、西行桜さんとの待ち合わせ場所の京都駅に向かいました。
皆様、長い長いブログにお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。
Posted
at 17:26
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そういうことなのです。
西行桜さんへのお礼が言いたくて、
時間軸を無視して、最初に西行さんとの体面を載せたので、
誤解を与える結果になってしまったかも。
ところでミルフィーユさんの故郷、高山もいいところですよね。
2〜3回、訪問しているのですが、いずれも仕事。
観光はしていないのですが、街の美しさは確認しています。