「仕手相場」(パンローリング社&徳間書店)
が代表作の経済作家でした。
偏った作品から脱皮してみたい。
新しい何かを掴みたいと、このコーナーで試させていただきます。
               こずかた治

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街ゆかば 51  [2009年04月14日(火) ]

 もう少しだけ聞いてくれ。人間の子供は乳離れも子離れも遅く、幼稚園や小学校の入学式に母親が着いていくのは成長した姿を見る悦びがある。それは嬉しく傍目にも楽しい光景だ。しかし大学に入るときも、卒業して大人になって就職しても、教授やら就職先の上司に我が子をよろしくと手みやげ持参で母親が挨拶に参上する。こうした子離れの遅い母親に育てられると、ペット以下だな。
 猫の母親は四ヶ月後には子供をさっさと突き放し、自分は次の相手を探しだし、次の子づくりをし、育児に励む。動物の理にかなっているのだ。もっとも次の相手が、昔、別れ別れになった兄弟姉妹であったり、子供であったりすることもある。彼らには、人間のような親子だから交わってはならない、自分の兄弟だから交じり合って子供を作ってはならないといった倫理観などはない。相手が雄か雌でしかない。それでも、さすがに同じ家の中、同じ生活範囲でくらしていると、親子、兄弟の近親相姦は少ない。求愛されても、朝から晩まで同じテリトリーでくらしている顔ぶれのせいで新鮮味にかけるのか、相手を受け入れないのである。
 生まれた仔猫たちは母に去られる前、授乳期の六十日間になんとか自力でモノを噛み砕けるようになる。自分の眼の前のものが食料として適しているかどうかの判断も、この期間に修得するのである。もちろん完璧ではない。目が見えるようになり、まだよちよち歩きのくせに好奇心のつよい仔猫がとんでもないものを口にし、命を落とすことも多い。同じ母から産まれても、発育に差があるのは他の生物と少しも変わらない。危険を素早く察知できる仔猫は、危険から身をかわす術も早くから心得ているが、どうしようもなくトロイ仔猫もけっこういるのだ。
 仔猫たちの動きや性格は母猫に教えられ育まれたわけではないが、本能的に相手を威嚇することも次第にマスターする。生まれつき成育が遅ければ、当然エサにありつける機会も少なく、敵に抵抗するどころか逃げることも下手である。
 この差は産まれた直後から如実である。
 猫の出産を見たことがあれば知っているだろうが、母猫は出産するとすぐさま仔猫を包んでいる薄い水色の胎盤や出産の汚れを丁寧に舐めとり、剥がして、きれいにしてやる。口から呼吸する術を知らぬ猫は鼻孔部をきれいにしてもらわなければ窒息死するのだ。母猫に呼吸の孔を開けて貰って、赤ちゃん猫はようやく呼吸が出来るようになる。
 この一連の作業は何時間かかろうが何匹産まれようが、母猫は最後まで根気よく行う。人間と違い、他人の手を借りたりはしない。手抜きなどもしないのだ。
 自分のお腹に宿した子を全員産み終え、産み終えたことを納得するまで、丹念に産後の作業をつづける。だが彼女の仕事はそこまでである。生まれた仔猫は自分で生きる努力をしなければならない。
 お母さんに体をきれいにしてもらった仔猫は、今度はありったけの力を振り絞って乳を捜さねばならない。お母さんの体から周囲とそこら中を嗅ぎ回り、鼻をあちこちにすりつけ、ときには産褥の臭いを母乳と勘違いして、性器に吸い付いたりもする。


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花の生涯  [2009年04月13日(月) ]
 桜吹雪をかいくぐって、道場へ。
もう、いいだろう。そう思ってのことだったが右肺にまだ影が残っていると医師の言葉。しつこいヤツだ。その病院からの帰途、見つけて思わず快哉の声を上げた。一昨年の春から我が家の近所に芽吹き始めた日本タンポポの花だ。どういう訳か背だけが高く風情のない西洋タンポポに押され、すっかり影を潜めていた背の低い、だが野の花というに相応しいタンポポだ。それが昨年から少し増え、今年はあちこちに広がっている。花の生涯なんてこのようなものかなどと柄にもなく呟き、夜、近所の赤提灯で夜桜を眺め、一枚の写真にむちゃくちゃ投げ込んでみた。小説を間もなく再開いたします。コラージュと華道の投げ込みとは違いますね。

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未だ復調に至らず  [2009年04月02日(木) ]
 身体も精神状態も、可ならず。医師に入院しろと宣告され、気だてのいい看護婦さんがいないと拒否した罰か。せめてもの慰めに、猫をクレープ仕立てにして眺めてみることにした。夏は涼しいのだが、いつまでも冬と結託している北向きの我が書斎。窓から見下ろせば墓地。深夜、退屈しのぎに彷徨える幽霊と会話をしたいと幾度か呼びかけるのだが、酒の相手をさせられると勘違いしているのか杳として現れず。美人じゃなくてもいい。そうは言うものの、汚い男よりは女性がいい。と、いう事情で今回は美味そうに仕立てた猫を眺めて下さい。
 因みに、Q は純粋の雑種血統書付で証書は飼い主の私が発行しました。推定年齢二歳。不妊手術はしましたが、やはり雌。私に好意をもって、よくなついています。

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辛夷哀れ  [2009年04月01日(水) ]
幹から差し出す枝は他の木々より早く冬の様相。だが、よく見ると枝の先に小さな小さな芽を付けている。葉を落とし冬支度と想いきや、辛夷は師走どころか春を迎える態勢に入っています。やがて猫柳のような蕾を付け、春を待つ人間を焦らします。そして三月初旬。透明感のあるクリーム色の花弁を青空に向け、大きく一斉に、まるで背伸びでもするかのように開花。だが三日もちません。樹下に咲く椿の赤い花びらの上に、萎れ落ち朽ちてしまいます。腹立たしく、悲しいので一緒にコラージュしてみました。

本文に写真を掲載するのは初めてです。次回は狭いベランダに咲かせた花を載せてみようと思っています。

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無事生還? しました。  [2009年04月01日(水) ]
肺炎でした。
どうりで、一ヶ月程前から100メートル歩いては立ち止まっては足腰をさすり、ふぅ、と溜息をしなければならぬ異常な体調と気配を感じていたわけです。それなのに週三回ほどの剣道と居合いの稽古に出ていたのです。ご存じかも知れませんが、剣道の稽古着の下は生まれたままの姿です。真冬でも稽古着一枚だけのスッポンポンです。ある程度の年齢になると、いつ倒れるか、倒れた際に、そう自慢できるほどでもない男のイチモツをさらけ出すのは失礼で恥ずかしいと越中褌を締めたりはしますが、多くは裸です。それで悪化させたようです。まだ影が少々ありますが、なあに、気合いで治して見せます。と、いう次第で復帰しました。又、[街ゆかば] を書かせて頂きます。週末までには必ず載せます。お読み続けて下さった皆さんにご報告と、お詫びを申し上げます。

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暫くお休みします。  [2009年03月22日(日) ]
 10日程前、背中が張る。腕と言わず、腰、脚、すべての筋肉のシン、骨の髄が痛む。体温39.9度が4日間続いた。そしてダウン。時流に美味く乗れず、今頃B型インフルエンザです。入院したくなければ、仕方ないでしょう。但し、安静を保ち、ウィルスをばらまかぬよう外出なるべく禁止。と医師が宣う。偉そうに! 
 そのような事情で、チョットだけ時間を下さい。酒、タバコ(一日100本のヘビースモーカーが休みを宣言して8年。いつか吸うつもりだから、少しも苦しくない)博打=麻雀は好きだが、これも只今無沙汰中。それから女性!
これが悲しい。欲望か願望かカンダダの糸の類か、どれかだろうが、もう忘れて久しい。酒席などでタッチする機会ぐらいはあるのだが、ダメ!

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街ゆかば  50  [2009年03月15日(日) ]
 久子が呆気にとられていると気が付かぬのか、修の動物論が次々と展開されていく。
 人間に動物たちの気持ち全部が読みとれる筈はないよ。でも、彼らが人間に呼びかけたり、反対にこちらから行動を起こしたりするとき、互いに相手の要望と噛み合ったらしいと感じる回数が、暮らしている時間の経過とともに多くなっていくんだ。
 犬や猫に限ったことではない。
 極端な例ではなく、水槽で飼う金魚や熱帯魚から、他の動物の多くに共通する。人間も子供のしぐさは可愛く、眺めていて飽きない。これは動物より人間の赤ん坊が親に手を掛けさせ過ぎるからかもしれない。
 人間の赤ん坊の授乳は大人の生活のリズムに関わりなく、食事と食事、居眠りなどの間隔が四時間から五時間である。親は日中は行動するときであり、夜は寝るときと勝手に決めているが、赤ん坊にそうした習性はない。お腹が空けばミルクを用意しろ、飲ませろと大声で泣きわめく。今、僕は育児番組を抱えているから、言えるけど、赤ん坊は厳寒期の深夜でも、親が抱きかかえて適温かどうかミルクを数滴、手首の内側に滴らせたりして温度を計る。濃さはどうか、甘さは大丈夫かと口に含んで味を見たりもする。
 それを夢うつつでやろうものなら、砂糖と塩の容器を見間違え、砂糖のつもりで塩を入れてしまったりする。塩入りミルクなど不味くて大人でも飲めるものではない。
 まして赤ん坊である。当然、飲んでくれない。哺乳瓶の吸い口を口に含んでも、吐き出してしまう。赤ん坊としては空腹で泣いているのだが、若い両親は自分の犯したミスに気づかず、泣いている原因を見つけようと必死になる。育児番組で監修の小児科医から教わるのであろう。修の人間論、動物論が延長する。久子はもう、止めようと言いかけて口をつぐんだ。躁状態のときには言わせるだけ言わせておくこと、と一緒になって以来の知恵で知っていた。
 体のどこかに異常があるのではないか、重大な障害があるのではないか。まんいち、医師にそれを告げられたら、どうしようなどと、悪いほうに気がいく。
 初めての子育ては、毎日がその繰り返しである。夜泣き、湿疹、人見知り、おむつの便の色などが親の心配としてベストファイブを占める。よその子供との比較もある。成育ぶりの違いである。頭髪が薄いのは父方の遺伝ではないか。言葉が遅いなどと、自分勝手に決めて育児ノイローゼというやつにかかる。
 何人かを産み育て、ベテランの域に達すると、よくもこんな些細なことでノイローゼ気味になれたものだと呆れるのだが、若い母親達はそんなことの連続である。
 そうした手が掛かるから可愛いのか、こうした関わり合いから愛情がうまれるのか、それぞれに異論があるだろうが、子供が可愛いいと思う母親の心はどの親も変らない。
 そこへいくと、動物は実に手が掛からない。
 仔猫などは、いつまでも仔猫だとおもっていると、飼い主が気づかぬ間に成育していて、生後八ヶ月ほどで子供を産める身体になっている。ちかごろ肥ってきたなと思っていると実は妊娠していたりするのである。それほど猫の成育は早いんだ。
 やっと、軌道を元に修正しかけていた。

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街ゆかば  49  [2009年03月10日(火) ]
 修が続けた。
 もっとも、飼い方によってはペットが主従の関係を無視して主になることもある。これは互いが同格であり、家族であるという意味を誤解するからにほかならない。ものごとの捉え方、考え方、生き方が人間とは違うということを、しっかり理解してやらなければならないのだ。言葉を換えれば、産まれたばかりの人間の赤ん坊に、大人と同じくらしをさせることはできないのだ。赤ん坊はまだ幼く、言葉も理解できない。食べ物も自分の歯で噛めない。排泄も自分で処分できない。それと同様だと言えば極言だが、知能的にはそう差がないと認識してほしい。
 人間に別れがあるのと同様、犬や猫との暮らしにも当然別れが待っている。悲惨な別れは生き別れだ。買われていることを忘れ、自分が上の位置に立つのだと錯覚させたりすると、互いに憎み合うことさえある。飼主の命令や言いつけを守らなくなるのだ。 
 修も久子も小さなとき、犬も猫も家にはいたが、幼い彼らが飼っていたわけではない。大人達が食事から散歩、排便まで面倒をみ、子供は遊んで貰っていただけである。
 二人と同様、多くの人がこうして文鳥、カナリヤ、金魚に熱帯魚などさまざまな動物たちと出会うきっかけになる。この過程で、猫を飼ったことのない人は、猫は気持ちが悪い、目の表情が怖い。猫は表情が読みとれない。犬と違い人間の意のままにならない、命令に従わないと敬遠することになる。
 だが、二葉亭四迷ではないが、飼ってみると、いつのまにか家族の一員になってしまい、ペットという語感がなじまないことに気づかされる。動物というものは、彼らなりに自分の意志を主張し、訴えていることが人間に理解されると、家族になる時間が早くなるのである。

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街ゆかば  48  [2009年03月08日(日) ]
「ネコのことだけか、他の動物もみんな好きだよ。だから詳しいのさ」
「そうね、よく知らないのは私のことだけ」
 女性のきまり台詞だ。
「世の中にはなんでも分類してしまわなければ気が済まない人がいるよな。好きな動物は犬ですか、それとも猫ですか。血液はといった具合にさ。このような人に、どちらも好きです。犬や猫だけではなく、小鳥も亀もモルモットも、なんでも動物ならすべて好きですと答えると、困ったような顔をする。ひどい人になると、不機嫌になる人もいる」
 そう話し始めた修だが、二人も犬でも猫でも、それこそ動物ならなんでも好きだった。ただ、文鳥などの小型の鳥は避けていた。一緒に住み始めて間もない頃、迷い込んできた文鳥に死なれてから、意識的に避けていた。死なれるのが辛かった。
 分類好きな人に動物は何でも好きだと答えると、今度は血液型はなにですかと、これまた分類しようとする。血液型が自分と違うから取引を中止するとか、近所づきあいをやめようという訳でもないが、とにかく分けたがる。好きな動物が犬であろうと猫であろうと、修と久子には関係なしなのだ。分類しておかねば気が済まないというのは、なんでも分類派といった派に属すべきタイプなのかもしれない。学生時代にはノート整理が上手だったに違いない。でも動物を飼ってみると、こうした分類がどれほど無駄か、自分があぁあ浅はかだったかとしらされる。明治の文豪坪内逍遙の弟子で、これも師を越えるほどの文豪二葉亭四迷は小説「平凡」のなかで、こんなことを書いている。
「その矢張り犬に違いないポチが、私に対ふと……犬でなくなる。それとも、私が人間でなくなるのか?……何方だか其は分からんが,兎に角互いの熱情熱愛が、人畜の差別を撥無して,渾然として一如となる」
 このように、ペットというのは、最初こそ、こちらが飼い主なのだといった優越感をもたせてくれるが、次第に飼うものと飼われるものといった垣が外されてしまうのだ。そして、人間が、彼らは家族の一員であり同格の関係であることに気づかされるのである。

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街ゆかば  47  [2009年03月04日(水) ]

「え、そう? だって裏のアパートに住み着いている一家の親子はずうっと一緒にいるみたいよ。子供がいるのに女性を振り回すなんて無いと思うわ、いくらネコちゃんだって」
「それは、昔の話。それもニッポンの女性に道徳として教えられ、環境の律として女性を縛ったせいだろう。しかし、今は違うだろう。ネコのお母さんより、子供を何処かへ置き去りにして、夫以外のオスを求めて走り去る人間の母親の方が多いかも知れない」
「悲しい話しねえ。ネコちゃんたちは小さいときは誰でも思わず抱っこしたり、頬ずりするほど小さくて、愛らしくて、可愛いわよね」
 久子がほっと溜息した。修が頷いた。終戦間際の凄まじい連合軍の空襲で家を焼かれ、親を亡くし、身よりを失った子供達の悲惨さを二人は知っていた。その子達の戦後は、上野駅が代表格だが、全員裸足。体は垢が縞模様になっていた。着るモノとは間違えても言えない布きれ、ボロ切れを身にまとわせていた。いつ、何処で眠り、どこで、どのように飢えを凌ぐのか想像できなかった。春から秋の初めまでは季節の寒暖に対応できたのであろうが、冬は数人以上の子供達が道ばたで凍え死んでいた。彼らは目が異常に鋭く、大人を信じない、いや自分以外の人を疑うことしか知らぬ。通行人で動きが悪い、反応が遅い、人が良さそうだと見ればその手にあるモノを奪う、かっぱらう。強そうだ、組み伏せられそうだと感じたら、へらへらと媚びて見せる。二人と同年代の子供達だった。
「とんがり帽子の赤い屋根が沢山あれば、あの子達も違ったろうな」
 捨て犬、捨て猫の話がいつの間にか、戦後の孤児。そして現代の女性達の生き方など、いつものようにごちゃまぜの会話になっていた。
「ね、やめましょ、その話。それよりなぜ、あなた、そんなにネコちゃんの生理なんか詳しいの? あやしいぞ」
 久子が茶化した。

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