リニューアル記念「太平洋戦争史」 |
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やうちさんの夢
戦い済んで日が暮れて〜 [2007/08/14
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太平洋戦争は今から62年前の今日、即ち、昭和二十年八月十四日、日本は連合国に「ポツダム宣言」の受託を通知し、日本の無条件降伏でその幕を閉じている。
振り返れば、昭和16年12月の開戦から3年9ヶ月、昭和12年の日中戦争から数えれば9年、さらに昭和6年の満州事変まで遡ると実に15年に及ぶ長い戦争が日本の大敗北でようやく終っている。ここに、“日出る国・日本帝国”は崩壊したのである。 では、「日本敗北の要因」は何であったのだろうか?・・・ 第一にその戦争計画の無謀極まる失策にあるように思う。日中戦争の泥沼に踏み込んだまま、貧弱な経済力を無視して、我が身の丈の十倍以上の経済力を有する強大国家との長期に及ぶ対決を余儀なくされたことである。 具体的には、潜水艦や飛行機による海上交通の封鎖で日本商船は壊滅し、日米両国の戦争能力の不均等を拡大させ、やがては日本経済を破綻に追い込んだ。他方、封鎖と並行する連合国の軍事作戦の圧力は、日本の陸海空戦力を次第に消耗と崩壊の一途をたどらせるに至ったのである。 専門書によると、「戦争の帰結は本土爆撃以前(昭和19年末)に、既に太平洋上または外郭防衛線上の決定されつつあった。本土空襲は日本敗北の基本的原因ではなく、日本の敗戦は本土戦略爆撃が開始される以前に既に確定的となっていたのである。そして、連合軍の潜水艦と飛行機の攻撃による日本商船の莫大な損失、日本軍の陸海空三方面における相次ぐ軍事的敗北、原爆と通常爆弾による空からの攻撃、ドイツの敗北、ソ連参戦の衝撃など、一切が相合して日本に降伏を余儀なくさせた」とある。 「太平洋戦争・負債勘定」 1、人的損害 ・・・全戦没者310万人以上(日中戦争死没者18,9万人含む) @軍人・軍属の戦死・行方不明:240万人(陸軍約183万人・海軍約57万人) A空襲・その他による一般市民の死者:70万人(うち原爆による死者:32万人) 2、物的損害 ・・・兵器の損害は当時の価格で700億円 @軍事的損失:航空機52,700機 ・ 艦艇870隻 A商船被害:損失814万トン・大破75万トン 3、戦 費 ・・・当時の価格で総額7,559億円(日中戦争以降の総軍事費) 昭和19年度における軍事費の歳出予算に占める比率は85,5% 4、物的資産被害 ・・・被害総額は当時の価格で653億円 建物・家財道具・港湾・運河・船舶・鉄道・車両・通信設備 「おわりに」 三百十万に及ぶ人命の損失、おびただしい国富、その他物的の莫大な犠牲や巨大な戦費を注ぎ込んだにもかかわらず、日本は無条件降伏に至っている。 壮大な大東亜共栄圏のことも夢のまた夢で終り、辛うじて残された日本本土、そして外地の軍人、軍属及び居留民約七百万人が引き揚げねばならなくなった。 これが敗戦当時の日本の姿である。 “こんな無謀な戦争は決して二度と繰り返してはならぬ” 太平洋戦争の最大の教訓である。 太平洋戦争史・完 結 戦況−5(昭和20年) [2007/08/03
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♪燃料片道 テンツルシャン 涙を積んで 行くは琉球 死出の旅 エーエ 死出の旅〜 ♪地上離れりゃ テンツルシャン この世の別れ 想いだします 母の顔 エーエ 母の顔〜 ♪雨よ降れ降れ テンツルシャン せめても雨よ 整備する身の この辛さ エーエ この辛さ 〜 (特攻隊節) 本土の各都市ではB29の焼夷弾による無差別攻撃が始まり、 沖縄ではあらゆる特攻兵器が投入され、10万を越える沖縄県民までもが巻き込まれて、尊い命が犠牲になろうとは・・・。 しかし日本は、ポツダム宣言を黙視、 業を煮やしたアメリカは、広島、長崎に原爆投下に至る。 早速【昭和20年(1945)】の主な戦況をたどる 【戦 況】 1/9 「アメリカ軍、ルソン島(リンガエン湾南岸)に上陸」 2/3 「アメリカ軍、マニラに侵入(一ヶ月に及ぶ市街戦へ)」 /4 「ヤルタ会談(米・英ソ)・ソ連対日参戦を決定」 /19 「アメリカ軍、硫黄島上陸」・・3/17・日本軍守備隊玉砕 3/25 「アメリカ軍、沖縄・慶良間列島に上陸」 4/1 「アメリカ軍、沖縄本島に上陸」 /7 「戦艦大和・徳之島沖で沈没」 ・・この頃陸海軍の特別攻撃隊、連日沖縄に出撃 泣くな嘆くな必ず帰る 桐の小箱に錦着てああ 逢いに来てくれ 九段坂〜 6/23 「沖縄の日本軍守備隊玉砕」 ・・戦死=日本軍9万人・一般国民10万人 8/6 「広島に原爆投下」 ・・中部太平洋のテニアン基地から飛来した米戦略爆撃機B29エノーラ・ ゲイは、広島に原子爆弾<リトル・ボーイ>を投下した。爆弾は上空580mで炸裂、一瞬にして広島を廃墟の町に変えた。 爆心地から半径500mにいたほとんどの人々が即死し、1950年までに、原爆症も含め約24万7,000人が原爆のために死亡している。 /8 「ソ連、対日宣戦布告」 ・・ヤルタ協定によってソ連は対日宣戦を通告。翌日、ソ連極東軍がソ連国境を越えて進攻し、中国東北地方全域を制圧。 /9 「長崎に原爆投下」 ・・アメリカは長崎にも原子爆弾を投下。熱線と熱風は川沿いの工場・学校・教会、そして爆心地から南へのびる街々を破壊し、約7万人の命が奪われた。今なお多くの人々が原爆後遺症で苦しんでいる。 /14 「ポツダム宣言・受託」 ・・ポツダム宣言は、7月発表の米・英・中3国の対日共同宣言である。軍国主義の絶滅、領土制限、民主化促進などを終戦の条件とし、無条件降伏を勧告。日本政府は8月14日これを受諾。戦後、占領政策の基点となった。 こうして太平洋戦争(大東亜戦争)は終ったのである。 戦況編(完) 戦況−4(昭和19年) [2007/07/25
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♪空に飛び行く 翼に祈り 沖をすぎ行く 煙に誓う 国を挙げての この戦に 湧いて来る来る 撃ちてし止まん 我等はみんな 力の限り 勝利の日まで 勝利の日まで〜 (勝利の日まで) この歌にある“撃ちてし止まん”は、 神武天皇が八十建(やそたける)を誅滅した時に久米部の武人に歌わせた 一節にある。 昨年2月のガタルカナル撤退以降は、ラジオで”必勝の歌”が 多く流れるようになる。 歌の各節の末尾は、どれもが「撃たでやまじの血がをどる」 で結ばれる歌である。 即ち、 「我々は、この天皇の大御歌にならい、米英を“うちてし止まむ” と叫ばねばならない」と説き、 標題の歌をもって必勝の想いを鼓舞する狙いではあったが、 はたして戦況は・・・ 早速【昭和19年(1944)】の主な戦況をたどる。 【戦 況】 2/1 「アメリカ軍、クェゼリン・ルオット両島(マーシャル群島)に上陸」 (2/6・日本軍玉砕) /17 「アメリカ機動部隊、トラック島大空襲」 /29 「アメリカ軍、ロスネグルス島に上陸、ラバウル孤立」 3/8 「インパール作戦開始」 /31 「アメリカ機動部隊、パラオに来襲」 6/15 「アメリカ軍、サイパン島に上陸」 /16 「B29中国基地から北九州を空襲」 (B29による本土空襲の最初) /19 「マリアナ沖海戦」 (米軍は対空射撃やレーダーによって日本軍を圧倒) 「アメリカ軍マリアナ諸島に上陸」 (日本の完敗。以降、B29による本土空襲の出撃基地となる) 7/4 「大本営、インパール作戦を中止」 /7 「サイパン島陥落(死者、軍=3万・住民=1万)」 (島の北端へ後退していた日本守備隊は、最後の万歳突撃をして玉砕) (共に後退していた非戦闘員達の多くは兵士と共に死を選んだ) /21 「アメリカ軍、グアムの上陸」8/10・日本軍玉砕 /24 「アメリカ軍、テニアン島に上陸」8/3・日本軍玉砕 9/10 「拉孟(雲南)日本軍守備隊・玉砕」 /15 「アメリカ軍、ペリリュー島に上陸」 10/10 「アメリカ機動部隊・沖縄空襲」 /20 「アメリカ軍、レイテ島に上陸」 /24 「レイテ島沖海戦」 (フィリピンのレイテ島沖で、日本の連合艦隊と米太平洋艦隊が戦闘開始) /25 「神風特別攻撃隊、アメリカ艦に突入」 神風特別攻撃隊の敷島隊が、レイテ沖海戦に出撃。 米空母に体当たりし、一隻撃沈、一隻大破させる。 以降、終戦までに290回出撃し、2,500人以上の犠牲者を出す。 11/1 「マリアナ基地のB29、東京初偵察」 /24 「B29七十機、東京初空襲」 12/9 「大本営、レイテ地上決戦の方針を放棄 【関 連】・・・「戦時下の国内の様子」 3/1 決戦非常要綱により、歌舞伎座など閉鎖 4 宝塚歌劇、この日限り休場 5 警視庁、高級料理店・バー・待合などを閉鎖 6 全国の夕刊廃止 4/1 国鉄、一等車・寝台車・食堂車全廃 (旅行には統制官の承認が必要となる) 7 大都市の国民学校で給食開始 5/7 那須戦時疎開学園開園 7/18 東条内閣総辞職 → 7/22 小磯・米内内閣成立 8/4 東京の国民学校児童、集団疎開開始 22 沖縄からの疎開船・対馬丸撃沈される 昭和19年はこうして戦っている。 (つづく) 戦況−3(昭和18年) [2007/07/08
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♪刃も凍る北海の 御楯立ちて二千余士 精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮をとる 山崎大佐指揮をとる〜 ♪時こそ五月十二日 暁こむる霧深く 突如と襲う敵二万 南に向え北に撃つ 南に向え北に撃つ〜 ♪残れる勇士百有余 遥かに皇居伏し拝み 敢然鬨ともろともに 敵主力へと玉砕す 敵主力へと玉砕す〜 (アッツ島決戦勇士) 戦局はこの年から「撤退」・「玉砕」へと加速することになろうとは・・・ 【昭和18年(1943)】の主な戦況をたどる。 【戦 況】 1/2 「ニューギニア・ブナの日本軍玉砕」 東部ニューギニアでは、連合軍の猛攻で日本陸海軍は撤退をくりかえし、戦局は敗色が濃くなった。 2/1 「日本軍、ガタルカナル島から撤退」 太平洋南西部のガダルカナル島からの撤退を開始。7日、撤退完了(11000名・死者25000名) 4/18 「連合艦隊指令長官海軍大将・山本五十六がソロモン群島で戦死」 ソロモン上空で乗機を撃墜され戦死(59歳)。海軍兵学校を卒業以来、39年間の海軍生活を送り、真珠湾奇襲攻撃の成功で国民的英雄とされた。 その後、米軍がソロモン諸島に次々と上陸し、日本軍に対する反攻作戦を展開してゆく。 5/9 「アメリカ潜水艦、北海道幌別を砲撃」 /12 「アメリカ軍、アッツ島に上陸」 冒頭の歌(アッツ島決戦勇士)の如し、5月12日、力尽き玉砕している。 6/30 「アメリカ軍、レンドバ島(ソロモン群島中部)に上陸」 7/29 「日本軍、キスカ島から撤退」 9/4 「アメリカ軍、ラエ・サラモア(ニューギニア)に上陸」 10/2 「コロンバンガラ島(ソロモン群島)の日本軍撤退」 11/1 「アメリカ軍、ブーゲンビル島(ソロモン群島)に上陸」 /21 「アメリカ軍、マキン・タラワ両島(ギルバート諸島)に上陸」 (11/25に日本守備玉砕軍) /22 「米・英・中によるカイロ会談」 ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石による日本の戦後処理についての討議。日本の無条件降伏、日本が獲得した太平洋の島の放棄、中国東北地方と台湾の中国への返還、朝鮮の独立などを規定している。そして、11・27〜12・1に「カイロ宣言」として発表。 【関 連】 「同盟国・ドイツとの連絡手段」 日本とドイツとの連絡が連合国によって断たれたので、物資、技術交流のため伊号潜水艦が日本とドイツ間の輸送に使われた。しかし、ドイツ軍の基地まで到着する潜水艦はわずかだったそうである。 「戦時下の国内の様子」 ・学校教育は、 そろばん、読み書きは勿論のこと、国民学校の校庭では、模型飛行機による木製の操縦かんを操作、そして飛行機の絵を瞬間的に見て当てる訓練まで行っている。 ・陸軍航空整備学校では、 学童による空の体験入隊が行われ、所沢の陸軍航空整備学校に一日入校も行われている。 ・動員学徒による兵器増産 戦力増強のために、軍需生産工場で工作機械を操作しながら戦車を製造し、造船所でもボルトをしめて船体の組み立て作業を、そして飛行機工場では、プロペラ取り付け作業が行なわれている。 ・国民生活」は、 国民精神総動員本部が東京市内に置かれ、「ぜいたくは敵だ」という立看板を配置し、装飾品や生活用品や文房具など販売制限された。 「学徒出陣」 太平洋戦争の激化に伴い、学生の徴集延期制度が撤廃され、1943年10月21日、神宮外苑競技場で、見送りの家族など6万5千人を動員して出陣学徒壮行式が挙行されている。 昭和18年はこうして戦っている。 戦況−2(昭和17年) [2007/07/02
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往くぞ 往くぞ ガンとやるぞ〜 と、 歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国〜であったが、 ♪一番乗りを やるんだと 力んで死んだ 戦友の 遺骨をだいて 今入る シンガポールの 街の朝〜 (戦友の遺骨を抱いて) に、なろうとは・・・【昭和17年(1942)】の主な戦況をたどる。 【戦 況】 1/2 「日本軍 マニラ占領」 昨年12月に、日本軍はアメリカ・フィリピン軍の撃滅と、主要基地の制圧および主なフィリピン諸島の占領を目的として、台湾から3日連続の空襲を行い、米軍機の大半を撃破。1月2日マニラを占領している。 /29 「日本軍ラバウル占領」 2/8 「シンガポール総攻撃」 日本軍がシンガポールの英軍に対し総攻撃を開始。 冒頭の「戦友の遺骨を抱いて」は、その時を唄ったものである。 /15 「シンガポール陥落」 日本軍がシンガポールを占領。山下泰文司令官が、英軍司令官パーシバルと会談、降伏を確認している。 3/1 「日本軍・ジャワ島上陸」 /8 「日本軍・ラングーン占領、ニュギニア上陸」 4/9 「バターン半島の戦い」 フィリピンのバターン半島の戦いで、米軍が日本軍に降伏。後に日本軍は、捕虜に収容所までの約100kmを炎天下徒歩行軍させ、多くの死者を出し、後々問題になったあの「バターン死の行進」である。 /18 「米陸軍機本土初空襲」 ドゥリットル中佐指揮のB25、16機によって日本本土(東京・名古屋など)が初めて空襲された。被害は軽微だったが、国民にあたえた心理的影響は大きく、これがミッドウェー攻撃の原因となったそうである。 5/1 「日本軍・ビルマのマンダレ−占領」 ※ ビルマ戦線において、日本軍はビルマの首都ラングーンを占領した。5月1日、マンダレーを占領。43年8月、日本占領下のビルマで、バー=モー政府が独立を宣言、米英に宣戦布告している。 /7 「マニラ湾コレヒドール島の米軍降伏」 米軍はマニラを放棄して、バターン半島の先端コレヒドール島を死守したが、5月7日、日本軍の増援部隊が進撃し、マニラ湾コレヒドール島の米軍は降伏している。 6/5 「ミッドウェー海戦」 4月の本土空襲をきっかけに、日本は太平洋正面の防衛強化のため、この日ミッドウェー島攻略を行った。その結果虎の子の空母4隻を喪失し、アメリカの海・空軍戦力の優勢が決定的になった。 /7 「アリューシャン戦線」 この日から43年にかけて、日本軍は防衛線拡大のためアリューシャン作戦を行っている。一時期アッツ・キスカ両島を占領するも、次々と撤退を余儀なくされた。以降各地の離島で日本軍は玉砕の運命をたどることとなる。 8/8 「第一次ソロモン海戦」 /21 「ガダルカナル島で、上陸した一木支隊潰滅」 /24 「第二次ソロモン海戦」 9/12 「ガダルカナル島で、川口支隊攻撃開始、同14日に中止」 11/12 「第三次ソロモン海戦」 ガダルカナル島周辺の制空・制海権は連合国側に移り、同島は孤立状態になる。 12/31 「大本営、ガダルカナル島撤退を決定」 また、中国戦線(湖北)では日本軍による掠奪が行われたともある。抗日運動の拠点支隊では、日本軍は奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす「三光作戦」を行ったとあるが・・・。 【関 連】 「陸軍始大観兵式」 1月8日、代々木練兵場で陸軍始大観兵式が行われている。兵員約2万人、航空機約500機、戦車約150両が参加し、天皇がそれを閲兵した。 「在米日系人強制移住」 2月19日、アメリカ政府が太平洋岸に居住する日系人の強制退去を決める。11万2千人の日系人は、内陸の砂漠にある再居住センターに収容された。脱走者は即座に射殺される事実上の強制収容所だった。 「日米交換船・浅間丸」 8月21日、横浜港に到着、野村・来栖大使等在米邦人1400名が帰国。 「予科錬の制服」 海軍飛行生(予科錬)制服が水兵服より、七つボタンの上着に改まる。 などなどである。 戦況−1(昭和16年) [2007/06/27
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暫く途切れた「太平洋戦争史」を再開する。 これまでに開戦に至る経過と、開戦の状況をみてきた。 この先は、年次ごとの「戦況」について時系列で列挙してゆく。 【昭和16年(1941)】 12/8 ●日本時間2時、日本軍マレ−半島に上陸開始。3時19分、第一航空隊ハワイ空撃開始。 ●4時、野村・来栖両大使、ハル長官に最後通牒手交。 ●6時、大本営開戦を発表 ●11時40分、宣戦詔書発布 12/10 ●「マレー沖海戦」 日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦である、プリンス・オブ・ウェールズなど2艦を撃沈。これにより、東南アジア海域の制海権は日本海軍の手中に入った。 そして英軍撤退により、日本軍がマレー半島西部ペナン島を無血占領し、続いて東岸のクワンタンを占領、半島を横断しクアラルンプールへ向かった。この時の日本軍の進軍は戦車でなく自転車だった。 ●日本軍、「グァム島を占領」、ルソン島に上陸。 12/25 ●「日本軍 香港占領」 第23軍を主力とした日本軍が、香港ルートによる列強の中国支援を断ち切るべく、イギリス防衛軍を破って香港を攻略。以後45年8月の日本の敗戦まで香港は日本の軍政下にあった。 「関連」 12/11:日独伊三国協定終結・単独不講和をとり決め。 12:閣議で、戦争の名称を「大東亜戦争」と決定(支那事変も含む)。 16:呉海軍工廠で戦艦「大和」が竣工。 動き出した狂った歯車はもう止まらない。 この先に落とし穴のあることも知らずに・・・。 つづく 開戦-Aマレー「コタバル上陸」 [2007/03/07
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太平洋戦争は、ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に 日本が先制攻撃を行なって始まっている。 大本営の作戦では、 ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については特に熟慮して 同時攻撃を行っている。 何故なら、一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからである。 「背 景」 マレー作戦が実行された背景には、ドイツが日本と同盟を結んだ要因の一つとも言われている。日本が英国の極東根拠地であるシンガポールを攻略することでドイツは、対英海上封鎖による英国本土への補給の遮断を間接的に日本に求めていたからである。陸路からしか攻略不可能なマレー半島は、シンガポール島まで距離約1千Kmで、そこに至るには1本の道路以外は多くは密林に覆われており、大小の河川は250を数えたまさに天然の要塞であったのである。 受けてたつ英軍の戦術は、250にものぼる多数の河川にかかる橋を逐次爆破し、戦術的に後退して時間を稼ぐ(援軍を待つため)ことにあったらしい。よってこの戦いは日本軍の橋梁の補修速度=進撃速度であったとされている。 「コタバル上陸」 真珠湾空襲に先立つこと約数時間前、12月8日午前1時30分第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行している。 太平洋戦争がこの時に始まったのである。 守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていたようである。鉄条網をめぐらした陣地は水際から50〜70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、地雷も多数敷設されていたそうである。 この戦闘で、死傷者700名、上陸用舟艇の沈没15、損傷10と、多大な犠牲を払い激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領したとある。この間、上陸船団の「淡路山丸」などが被弾し、再度の揚陸作業のやむなきに至るも、その後11日には補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めていったとある。 こうして太平洋戦争は、 旧日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」と、ここマレー半島の「コタバル敵前上陸」 をもって開戦したのでる。 早速、その後の戦局をみてゆく (関連記事:「昭和史を紐解く・16年編」) 開戦-@「真珠湾攻撃」 [2007/02/16
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昭和16年12月8日朝7時、ラジオは突然臨時ニュースのチャイムを鳴らした。 以下、その日を再現する。 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」 ♪守るも攻むるも くろがねの 浮かべる城ぞ たのみなる 浮かべるその城 日の本の 皇国の四方を 守るべし 真鉄のその艦 日の本に 仇なす国を 攻めよかし〜 (軍艦行進曲) この日のラジオは、一日中数々の軍歌にのせて開戦ニュースを流していたそうである。 「真珠湾攻撃」 ご案内のとおり、昭和16年(1941)12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に、日本海軍の機動部隊が航空機を主力にハワイの真珠湾にある米海軍基地(アメリカ太平洋艦隊と航空基地)に対して行った奇襲攻撃のことである。 この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六の構想の下に行われ、これによりアメリカ・イギリスに宣戦して太平洋戦争へと突入、この時点で日本とアメリカも第二次世界大戦に参戦することとなる。 作戦経緯をみると、11月に日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃に備え、千島列島の択捉島単冠湾に集結し、26日に、連合艦隊命令により、ハワイ沖に向け出航している。 機動部隊は、12月3日に山本長官の激励の電報を受け、12月7日 0700(現地時間1230)旗艦赤城のマストに、 「 皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ 」の信号を掲げ、オアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入して行く。 これとは別に12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊の特殊潜航艇5隻は、同夜真珠湾外において各々母艦を発進している。 その後、特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、発進した5隻の特殊潜航艇は1隻も帰艦することはなく、♪トラトラトラ(我レ奇襲に成功セリの暗号電)を黄泉で聞く〜こととなった。 なお、この奇襲攻撃で軍事施設以外を攻撃しないように目標を限定したため、一般市民に与えた被害は少なかったようである。 この奇襲攻撃の戦果は、 戦艦・巡洋艦など船舶の撃沈・大破が18隻、航空機が200余機、戦死・行方不明2,400余人、戦傷2,380余人。一方、日本軍の損害は、 飛行機では、喪失機29機・要修理機122機、特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)、戦死搭乗員55名。 とある。 しかし、その日の真珠湾には米国主力艦隊はここには居なかったので無傷で残り、その後の戦いに日本軍は窮地に追い込まれることになるのである。 この先 玉砕・本土空襲の悪夢の日々が続くことになろうとは、 誰もが思わないいままに暮れた12月8日である。 (関連記事:「昭和史を紐解く・16年編」) 開戦への経緯 [2007/01/11
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鏡開きも終わり 夢ブログを再開する。 何事もそこに至るには それなりの要因がある。 太平洋戦争に至った要因を挙げるなら その時の時代背景ではなかろうか・・・。 昭和12年(1937)に勃発した盧溝橋事件の後、日本は、アメリカ・イギリス・オランダ等との間で、対立が深まっていた。双方は以前から中華民国(支那)における利権を巡り対立していたのである。 日本は当時中華民国領へ侵出していた。 これに対し、アメリカ、イギリス、支那、オランダ等は日本に対して中華民国領への侵出を停止することを求めていた。 そのなか、なをも申し入れを拒む日本に、四ヶ国は、遂に「石油と鉄鋼の輸出制限」などの措置をとる様になってきのである。現在北朝鮮が置かれている同じ立場である。 このことは自国に対する挑戦であると反発した日本は、ドイツ・イタリアと「日独伊三国軍事同盟」を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立を一層深める結果となったようだ。 苦境に立つ近衛文麿内閣は、昭和16年4月から関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは「在米日本資産の凍結」、日本への「石油輸出の全面禁止」などを通告している。こうなっては近衛内閣もお手上げである。 10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、11月20日アメリカに対する交渉最終案を用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、チァーチルの働きかけもあるなか、11月26日朝、アメリカ海軍から“台湾沖に日本の船団の移動”との報告を受けた(実際は輸送船であったがアメリカ海軍による故意の過大報告)ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使らにに提示したのである。 これを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において日本時間12月8日の開戦を決定している。 こうして運命の昭和16年12月8日を迎えるのである。 太平洋戦争史(「神の国」のこと) [2006/12/07
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未履修科目・日本史のうち「神の国」をみる。 神の国とされた日本の戦史を辿ると、 古くは、文永(1274年)・弘安(1281年)の二度に亘る蒙古来襲も神風?が吹き、フビライの元(モンゴル)軍に不戦勝したのである。 それ以来、明治維新を終えて富国強兵を図った明治期には、 ♪日清談判破裂して〜品川乗り出す東艦〜 と、征清歌を唄った「日清戦争(明治27〜28年)」では、清国海軍主力艦・定遠をも撃破して勝利を収めている。 更にその10年後には、今度は当時の軍事大国・ロシアと、 ♪一列談判破裂して 日露戦争はじまった〜 の、世紀の一戦「日露戦争(明治37〜38年)」に臨む。 この戦いでは、世界最強とされたバルチック艦隊を有するロシアに、東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊が、T字作戦を用いてこれまた撃破している。 よって乃木大将が、わが息子等を犠牲にして悪戦苦闘した不落の要塞・203高地を漸く陥れることとなる。 これより以前、広瀬中佐の ♪轟く砲音飛び来る弾丸〜荒波洗うデッキの上に〜・・ と、唱歌で唄われた、数次にわたる旅順港閉塞作戦も侭ならずの果てに、この203高地陥落で、漸くにして旅順港の敵艦隊を全滅に至らしめたのである。 この報に日本国中は、 ♪日本勝った〜日本勝った〜ロシァ負けた〜ロシァの皇帝腰ゃ抜けた〜 と唄い、各地で提灯行列が行われている。 しかし、ここまで負け知らずの神の国ではあったが、昭和期に入るや、その神話も崩れ、米英などからなる連合軍に嫌と云うほど叩きのめされ、漸く悪しき夢から目が覚めたのである。
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