以前バラエティ番組でモーニング娘の安倍くんと石川くんと或るコーナーを担当したことがありました。
その番組打合せで、「伊藤さんは何処で演劇を?」と聞かれ、「民藝という劇団で、師匠は宇野重吉さんです」と答えると、「それ誰ですか?」と言われて、ビックリした経験があります。ああ、時代は音を立てて流れていると実感したものです。
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確かに、僕はバラエティ番組など全く見ていませんでしたから、モー娘とかいう言葉は知っていても安倍なつみくんが誰かも知りませんでしたし、世代間で共通の話題を作る難しさも実感した思いでした。
それで今回、数年前から上演してきた三浦綾子さん原作の「母」のリメイク上演をしましたが、新しく加えた出演者に、明治、大正、昭和と続く舞台を理解させるのにどれほど苦労したかわかりません。
劇中でぼた餅を食べるシーンがあります。そこで、「年に一回でもぼた餅を食えれば、あとは何を食っていてもいいね」「ぼた餅って、人を幸せにする食べ物だね」「だったら日本中の人に食べさせたいね」というセリフがあります。
戦前のものの乏しい時代の話ですが、50代の後半以上の年齢の人々の大半には分かってもらえる言葉だと思います。しかし特に若い現代世代には理解困難な言葉であり、世界でした。
「あれ食べたい」と思えば、餅だろうと何だろうと季節か変わりなく購入できます。昔は、餅を食べるのは正月くらいなもので、牡丹餅なども、食べられてもお盆や余程のお祝いでもなければ見ることすら出来ませんでした。いまはコンビニにひとっ走りです。
こういったことは演技にも現われます。実感がないところでの「つくり」です。観る側からすれば真実味の無さ、丸見えです。
芝居作りも熟成するまで稽古する根気がありません。「ああ動け」「こう動け」と指示してもらいたいのです。
こんな影響でしょうか、形だけの、面白おかしければいいという安易なお芝居が溢れかえっています。便利さ、手軽さを追い求めて待つことが出来なくなった世代がどんどん増えているように思えてなりません。・・・これも、我々世代がつくり上げたものかも知れませんが、どこかでブレーキをかけないと、大変なことになりはしないかと考えています。「待たせましょう」「待ちましょう」そこに期待が生まれ、考える生活が生まれるように思えるのです。
その番組打合せで、「伊藤さんは何処で演劇を?」と聞かれ、「民藝という劇団で、師匠は宇野重吉さんです」と答えると、「それ誰ですか?」と言われて、ビックリした経験があります。ああ、時代は音を立てて流れていると実感したものです。
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確かに、僕はバラエティ番組など全く見ていませんでしたから、モー娘とかいう言葉は知っていても安倍なつみくんが誰かも知りませんでしたし、世代間で共通の話題を作る難しさも実感した思いでした。
それで今回、数年前から上演してきた三浦綾子さん原作の「母」のリメイク上演をしましたが、新しく加えた出演者に、明治、大正、昭和と続く舞台を理解させるのにどれほど苦労したかわかりません。
劇中でぼた餅を食べるシーンがあります。そこで、「年に一回でもぼた餅を食えれば、あとは何を食っていてもいいね」「ぼた餅って、人を幸せにする食べ物だね」「だったら日本中の人に食べさせたいね」というセリフがあります。
戦前のものの乏しい時代の話ですが、50代の後半以上の年齢の人々の大半には分かってもらえる言葉だと思います。しかし特に若い現代世代には理解困難な言葉であり、世界でした。
「あれ食べたい」と思えば、餅だろうと何だろうと季節か変わりなく購入できます。昔は、餅を食べるのは正月くらいなもので、牡丹餅なども、食べられてもお盆や余程のお祝いでもなければ見ることすら出来ませんでした。いまはコンビニにひとっ走りです。
こういったことは演技にも現われます。実感がないところでの「つくり」です。観る側からすれば真実味の無さ、丸見えです。
芝居作りも熟成するまで稽古する根気がありません。「ああ動け」「こう動け」と指示してもらいたいのです。
こんな影響でしょうか、形だけの、面白おかしければいいという安易なお芝居が溢れかえっています。便利さ、手軽さを追い求めて待つことが出来なくなった世代がどんどん増えているように思えてなりません。・・・これも、我々世代がつくり上げたものかも知れませんが、どこかでブレーキをかけないと、大変なことになりはしないかと考えています。「待たせましょう」「待ちましょう」そこに期待が生まれ、考える生活が生まれるように思えるのです。
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