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50歳未満お断り! 紳士と淑女の知的コミュニティ (シニア向けコミュニティ STAGE ステージ) http://www.stage007.com

命を見つめる
若くはないのだから…は、心の叫び。
でも…と反発するのも、心の叫び。
両方をなだめながら、
曰く言い難い年齢を冒険中なのかも・・・

プロフィール
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ラブラブ! [2007年10月02日(火) ]
カードが届いた


<文面>
結婚5年目に入りました。
ハネムーンで来た想い出のイタリアから送ります。

5年目のイタリアです。ウフフ・・・子どもは母に預けて2人で!

私たちは、披露宴の打合せの時にお聞きしたことばを
心に焼きつけています。

覚えていらっしゃいますか?
「2人とも生きる命と死ぬ命を授かって生きている。
今日の命は明日の命とは限らない。
だから、今の命を二人で大事にしあって欲しい」

どうですか?

Gohさんのこの言葉を2人の生き方にしています。
だから、今でもラブラブですよ。
Gohさんもきっとラブラブな人生を送っていらっしゃるのでしょうね。
わたしたちも頑張ります。



・・・素適なメッセージじゃありませんか。

        
ただ、僕にラブラブと言って来た根拠って、何だろう・・・
        
でも、いいかァ・・・
今頃、2人はヴェローナ辺りを肩を抱き合いながら
歩いていると想像するように、
僕と誰かがラブラブで過ごしていることを
想像してkれているのかもしれない・・・
       
事実がどうであろうと、
よいイメージを与えられたことは、喜ばしいじゃないか。

様々な切ない、悲惨な知らせが多い中で、
       
狭い部屋で孤独な人生を送っている僕であっても、
       
「素適な人とラブラブなんでしょう?」
と言われるイメージを与えている自分を考えてみる。
       
これは、自分自身、賞賛に値する存在なんじゃないのか・・・

       
そうだよ・・・僕はラブラブ人生を送っているのさ!

Posted at 15:09 | 生活日記 | この記事のURL
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思いやり? [2007年10月13日(土) ]
『親心・・・思いやりよ』

ほう・・・親心って?

思いやりって?

昼間、街を歩いていて耳にしたことばだ。

3〜4歳の子どもを連れ歩いていた母親(だろう)が、
涙をためて声をころして泣いている子どもの手の甲を二度三度叩いていた。

そこに通りかかった年配のご婦人が顔をしかめ、
「まァ、どうなさったの」
声をかける。

「さっき欲しいお菓子を買ってあげなかったから、すねてるのよね?」

年配のご婦人に答えているのか、

叩いた理由を子どもに対して念押ししているのか、

どちらともつかない言い回しだ。


「まァ可哀想に、手が赤くなっているじゃないの…ねェ」

ご婦人は、お菓子をねだった程度でこんな仕打ちをしている母親を、
確実に非難しているのだが、そのことばを子どもにかけている。

「はい、そうです」 ・・・と、
子どもに同意を求めるように・・・

不思議なやりとりだ。

「親としての、この子への思いやりです!」

・・・と言うなり、グイと子どもの手を引いてその場を後にした。

ご婦人は、ひと言…

「可哀想に・・・」

さっきより強いことばで言い放つと、反対方向に去っていった。

はて・・・親としてはいいだろう。

「思いやり」とは何だろう。

優しさでないことは確かだ。

子どもにとって本当に必要なのは、優しさ・・・ではないのだろうか。

思いやりは意識的、意志を内包したことばで、
〜のために・・・という「〜してあげる」ことではないだろうか・・・
何か見返りを求めることばに思えてならない・

叩いてはいけないとは言えないと思うが、

子どもに本当に必要なのは、
「親としての優しさ」ではないのだろうか。

その優しさをもって、すねている子どもを叱るとすれば、
傍で見ている者に対して、
「可哀想」に映るだろうか・・・

よしんば、叩いていても、
それが優しさからであったならば、
傍で見ていたご婦人の心をも、一緒に包み込んだのではなかったろうか・・・

そんな思いを持ちながら、
家に帰って来て書いている。

何か、あの子の涙が目の前にちらついて離れない。

Posted at 21:33 | 生活日記 | この記事のURL
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亀田が棲んでいる [2007年10月16日(火) ]
ボクシングで投げ飛ばす・・・

僕はボクシングの試合は見るが、詳しくはない。

戦後の混乱の中で、白井義夫さんというボクサーが世界チャンピオンになり、

俄然人気が沸騰したボクシング・・・

体力に劣る日本人だが、それを補うテクニックと耐力では決して劣らなかった。

だから、いろいろなテクニックが生まれるのは分かる。

が・・・本来は、「打ち合い」をするスポーツじゃないのですか?

そこには、打たれるのを防ぐテクニックも生まれるでしょうし、

また防御をかいくぐって打つテクニックも生まれるでしょう。


しかし今回の世界戦は、そのようなボクシングではなかった。

悪の喧嘩祭り・・・

亀田一家のならず者ぶりは「悪」をボクシング界に持ち込んだ。
ボクシングを「殴りあい」にし、「極悪の伝説」をつくったと思う。
対戦相手に対する無礼極まりない態度からして、
演出の域を越えた下賤の行為だ。

その者を賛美したTBSは、
未だに歯切れの悪い態度に終始している。

中継で、反則を「若さが出た」という言い回しはもってのほかだ。

「これはいけない」と、どうして言えないのか・・・

紳士的にしろとは言わない。

「親がいけない」・・・という人もいる。

確かに悪いには違いないだろうが、

それを囃し立て、持ち上げる連中がいるうことにも問題がありはしないか。

荒くれを売り物にし、無礼を看板に、品性のなさをサングラスで隠し、肩で風を切ってのし歩く。
少しでも、気に沿わないことに出会うと睨みつけ、恫喝する。

今回のペナルティは軽かった。
罰を下す前に、内藤氏に対して、亀田と親は陳謝するべきではないのか。

それに引き換え、内藤氏は立派だ。

口下手で、言いたいことの半分も口にしていないはずだが・・・。

グローブを外して打ち合えば喧嘩になる。

心得てか知らずか、「勝ってよかった」の言葉。

「おれは強い」とはひと言も言わなかった。

苛めを克服できたことも言った。

子ども達に見せたい部分と、見せたくない部分が混在する今回の事件だった。

世に存在する大きな矛盾が凝縮して存在しないか…とも思う。

が、断罪して「あゝ、よかった」といって済ませる問題でもない。

亀田は内藤教室での修行をすすめたい。
(内藤氏は「いやだ」と言うだろうなァ・・・・)

もう一つ、胸に手を置いて考える。

俺の中に、 「亀田」 がいやしないか・・・・ということだ。

亀田は誰の中にもある…いや棲んでいるように思うのである。

Posted at 09:58 | 生活日記 | この記事のURL
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ばか者…死ねッ! [2007年10月18日(木) ]
ばか者!!!!!!!

今度だけは腹が立ったぞ!

××のあられ・・・じゃない…荒くれ親父・・・
(あえて個人名を伏せる)



その内容が何であれ、

我が子を従え、謝罪の記者会見をせざるを得ない親ほど
辛いことはないだろう。



目をそむけ、絶句せざるを得ないような試合を、

テレビを通して全国に見せておきながら、



「こんなはずじゃなかった」(放映テレビ局)

「・・・でも視聴率は稼げた…オンノジ、オンノジ!」
(同局&スポンサー)

質問「反則を指示していないか?」

親父「していません」

ここで第一のお腹立ちじゃ!



質問者よ、君は何故、反則を指示したかを
親父に聞いたのだ?

箇条書きした質問をしているだけじゃ
記者は務まらんのだよ・・・



「では、反則の全ては息子が自分の判断でおこなったのか?」



この質問に行かなければ、単発の豆鉄砲だろう!

※ここで第二のお腹立ちじゃ!



××の親父よ、お前は息子を連れて来て、

彼をかばいたいと思わないのか?

親なら、命を懸けて息子を守ってやれ!

反則の罪全部を担ってやれッ!


お前が、「・・・していません」

といった途端に、

悪の全部を息子の肩に背負わせたことに
気付かなかったのか!?

親失格!

切腹しろ!



しょぼんと座る未成年の子どもを、

全国からの非難の矛先に晒し、

手前ェがいい子になろうとする親父の姿を見て

・・・・おれの血圧は頂点に上った。



クソッ!

息子を、初めて可哀想に思えた瞬間だ!



テメエは帰れッ・・・息子を先に席を立たせたのは、

一緒にいづらかったからだろう。

親の責任を放棄して…
息子に罪をなすりつけた醜い親じゃないか・・・・



テレビを見ていて・・・
怒り心頭に達するようなことは滅多にない!



腹が立って、腹が立って仕方がない!



ク〜ッ!!!

題名が過激だが・・・我が演劇用語だァ・・・(こじ付けかな?)

Posted at 11:02 | 無題 | この記事のURL
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いのち・・・・ [2007年10月19日(金) ]
限られた命…



最近、このことばを使う機会が多くなった。

歳のせい…?

いや、そうではないと思う。

自宅玄関前で刺殺された女の子の事件がテレビで報道されたり、

親が子を殺したとか、子が親を殺したという事件も、

数年前と比較すると極度に多くなってきた。

それと併せて、全くの他人で、面識もない人を
出会いがしらに切りつけた…などの事件も多い。

報道は、残された者の悲惨さを訴える。

・・・が、僕は、殺害された被害者が、
何を思い感じたかを考えてしまう。

何故殺されなければならないのかを考えてしまう。
それを思うと、行き詰ってしまうのは仕方がない。
自分は当事者には決してなれないのだから。

被害者家族には、
「おつらいでしょうね」
「お気持は分かります」
「犯人に言いたいことは?」
・・・・・などのことばが投げかけられる。

当事者でなければ感じ得ないことを聞き出そうとする
リポーターの仕事かもしれない。

だが、それを聞いたところで、
思いを共有できるわけもないのである。

誰でもが、
自分の命が限られたものであることは分かっている
…はずだ。

今日ある命が明日もある命とは断言できないはずだ。

それは自分の命だけではない。

父や母、子や孫、友人や…全ての人に言えることだ。

しかし、それを思い、
「だから・・・・」
を考えて今を生きる人は少ない。

僕は、いつ刺されて死ぬかもしれないから、
限られた命を思え…とは言っていない。

全てのもの、それが道端の雑草であっても、

空飛ぶ小鳥であっても、

同じく、手を握れば握り返してくれる恋人や妻、夫も、

子も親も友人も…同じなのだ。

それが、踏み敷かれる雑草であれ、

その限られた命を、

より良く生きようと、今を生きている。

寝たきりの命であっても、

「だから自分も頑張って生きよう」

と、励ましを受けている人もいる。

与えられた命は、
存在するだけで価値がある。

それを絶つことは、
自らも、他人もしてはならないはずだ。

その命は、自分との関係だけで存在してはいない。
僕も、未遂の経験を持っている。
それを以ってして言うものは何もない。

いまある命は、そのもののためにだけあるのではないし、
あらゆる存在との支えあいの中に存在しているのだ・・・・

僕は、そう思う。

Posted at 14:04 | 生活日記 | この記事のURL
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もうひとり・・・・ [2007年10月25日(木) ]
先日、
「昨日、銀座で声をおかけしたんですよ」

その日の午後、銀座三越の前で僕を見かけて、声をかけたというのだ。

その日は、家をほとんど出ていなかった。

夕食を買いにスーパーマーケットに行き、
溜池にまわり、銀行によって帰って来ただけで、
銀座に足を向けたことはない。

20日は、21日のリハーサルのために岩槻に行った。

その会館の客席に座っていると、横の席に座ったご婦人に言われたのだ。

「丁度、明日はリハーサルでお目にかかるので、まあ、ご縁があると思って、
声をかけたんですよ。お時間があれば食事でもご一緒したいと思ったものですから」

すると、その僕は、「はァ、どうも」と言って、デパートに入ってしまったというのだ。

「いやァ、僕は昨日、銀座には行きませんでした」

「可笑しいわねェ…世の中にそっくりの人が3人いるとは聞いたことがあるけれど、
気味悪いわァ・・・だって、そっくりそのままよ」

・・・・・・顔を少し遠ざけたり近づけたりしながら、しみじみと見るのである。

「黒いバッグを肩からかけて、ゴールドっぽい携帯を手に持って・・・・
あら、そちらにあるバッグ、先生のですか? それに、そのポケットに入っている
携帯・・・ほら、ゴールドじゃない・・・」

ここまで同じだと分かると、

「いやだァ、先生…やっぱり先生だったんだわ」

・・・・そう言われるのも分からないではなくなる・・・

「おれは、ボケが入ってしまったのだろうか」

溜池まで自転車で行ったとばかり思っていたが、

本当は銀座まで行っていたのだろうか・・・・」

自信がなくなりそうになる。


お互いに、

「可笑しい」

「可笑しい」

で、話を終らせ、必要な打合せをして帰宅の途についた。

帰りの電車の中で、

反対側に座る7人の顔を見た。

2人として同じ顔はなかった。

「可笑しいこともあるものだ」

という思いから、
しかし不思議だ。

同じ人類として生まれてきて、
同じ顔は二つとない・・・・

これは奇跡に近いことじゃあないのか…と思う。

真正面の席が空いて、

窓には自分の顔が映った。

あの顔と同じ顔が、この世にいるのだろうか・・・・

会いたいものだ・・・と思う。

そっくりだという、その男に会ってみたい。

絶対に、何処か違うはずだ。

大宮から上野まで、

上野から東京まで、

正面に座る人たちの顔をそれぞれ見較べる。

違う。
きつね顔に豚顔、ひまわり顔に白菜顔・・・
里芋顔に・・・ねぎ顔・・・
あ、あれは・・・チワワ顔!
姉妹か・・・良く似ている二人だが、目のくぼみが違う・・・等々、
確実に違う。

僕には双子の兄弟もいない。
東京から赤坂見附までの地下鉄は8名座っているが、全部違う。
それぞれ二つとない顔が並んでいる・・・・

オレは今、間違いなくここにいる。
・・・で、オレそっくりのオレは、今何処にいるのだろう・・・・
まさか・・・・
いろいろな考えが浮かんでくる。
あのご婦人に、また会いに行っている・・・なんてこともあるかも知れない。
怖〜い話じゃないか・・・・
家に帰るまで、ず〜っと、こんなことを考え続けていました。

そして21日、そのご婦人に会ったが、
やはり首をひねっていました・・・・

今頃また、僕に似た人がご婦人の家に訪ねたりしないことを・・・
願っている。こわ〜い話じゃないか・・・・

Posted at 00:42 | この記事のURL
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