写真は、光秀によって滅ぼされたキリシタン大名、内藤ジョアンの居城があった八木城山
西の鯖街道・歴史を創った人物@
「丹波武士と本能寺の変」
光秀、強権政治に反発
亀岡城の建築に着手し、城下町の基盤整備に努めた戦国時代の武将、明智光秀を再評価する機運が最近、亀岡市で高まっている。そうした中、ガレリアかめおかで「光秀」をテーマに開かれた第五十七回丹波学トークで大阪市立大学の仁木宏助教授が「丹波武士と本能寺の変」について講演し、同トークとして過去最高の約二百人が聴き入った。
どうして光秀が信長を暗殺したのか、社会的背景から考えると、「強権政治」と「自治」という、戦国武将が目指した秩序回復に向けての二つの方向性の「揺れ動き」が、「本能寺の変」として現れたといえる。そして、それには丹波武士の影響が見られる。
信長が目指した強権的な政治は、人々を魅了した一方、社会に大きな戸惑いを与えた。当時の戦国武将にとって天下統一による社会秩序の回復は共通の目標。しかし、その手法については二つの大きな方向性が存在していた。
一つ目は、「信長的発想」。強大な権力の下に社会秩序を収斂(しゅうれん)されることを目指した。二つ目は「自治」の思想。戦国時代に入り、朝廷や寺院といった既存の権力の影響から解放された人々は、ある意味で「自由」だった。その中で、堺や京都といった都市の「自分たちのことは自分たちで解決する」という風潮は、戦国武将の間にも広がった。
丹波地方では、中小勢力が均衡していたため大きな戦争がなく、社会が安定していた。その中で、自治システムが発達した。中央からの介入も跳ね返し、自由独立路線を維持していた。
信長上洛後、丹波攻略を命じられた光秀。亀山(亀岡)を拠点に侵攻を始めたが、丹波武士たちの挟み撃ちに遭い敗走した。その後、亀山城築城に着手、一つずつ攻略諸点を築きながら地元勢力を一年かけて丁寧に手なずけ、丹波統一に成功する。
その後、丹波各地で城下町を中心に軍事的でなく、経済活性化を目指した地域整備を進め、在郷の武士たちを城下町に住まわせるといった当時最新の支配方法を展開した。しかし、これは「自主独立」を目指す丹波武士の目には「強権的」に写った。
結果、無謀な反乱に走った土着勢力もいた。
光秀は、丹波統治を経て、そうした勢力への親近感を持ち始めていたのではないか。本能寺へ向かった光秀軍のほとんどは丹波勢で構成されていたと思われる。自治自衛、相互協力を尊重する丹波武士の社会の姿に接した光秀が、うまい支配を行って武士たちに受け入れられた一方で、取り込まれていった。丹波を統治した経験が、信長的な強権的な支配への反発を生み出し、光秀最後の決断に影響を与えたのでないか。(7月8日)
大阪市立大助教授 仁木 宏さん
にき・ひろし 1962年東大阪市生まれ。京都大学大学院博士課程国史学専攻学修了。98年から現職。専攻は日本中世史。「新修亀岡史」では、戦国時代の丹波地方や明智光秀に関するテーマで執筆した。
【この内容は、京都新聞平成十八年八月十七日朝刊に掲載されたデータを転載いたしました。】 本紙面作成:2008/01/27
推薦関連書物 家村耕 著 文芸社発行
「摂丹の霧・鬼神信長と人間光秀」第一作
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at 23:53
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