シニア向けコミュニティ STAGE ステージ
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自然、温泉、めぐる季節と一つになりたい。

虫や鳥、草や木の声を聞き取りたい土筆です

全ては自分の責任 [2008年08月15日(金) ]
 煙草の煙は嫌いだ、あっちへ行け、と思っていると、タバコを吸う人がやってきて、よりによって自分の前に座り、煙草を吸い始める。「煙草の煙」に意識がいった所為で煙草の煙が嫌いでも好きでも同じこと、煙草の煙を現実に呼び込む結果となります。
 身のまわりには、うまがあわない人がいるものです。苦手タイプと云いましょうか、あの人とは付き合いたくない、そんな人が身のまわりに必ず一人やふたりいるものです。そんな人とは会いたくないのに、何故か会う羽目になります。
 目の前に現れる現実は全て自分の心の反映だと考えると、苦手なタイプの人間は自分の中に持っている自分の心模様が現れ出たものと解釈出来ます。相手は自分の鏡であり、自分の様々な表現の一部だと考えた方がつじつまが合います。だから嫌な相手の出現は自分がそうさせているのであり、「完全な自己責任」なのです。
 「自分の人生の完全な責任とは、自分の人生の中の全てが、単にそれが自分の人生の中に存在していると言うだけの理由で、自分の責任である」のです。この考えは自分が見たり聞いたりするすべての世界が自分の創造であると云う事を意味します。
 この考えは大方の人からは認められないでしょう。自分の言動が自分の責任だというのは分かるが、自分の人生に於けるあらゆる人の言動が自分の責任だというのは認める事が出来ない、と。
 しかし、ハワイに住む心理学者イハレアカラ・ヒュー・レン博士は「全世界が自分の責任だ」と言い切っています。
 ハワイには昔から伝わっているヒーリングで「ホ・オポノポノ」があります。「ご免なさい、許して下さい、有難う御座います、愛しています」の4つの言葉を唱えるだけで、自分をはじめ、周囲まで癒す事が出来るという究極のヒーリングです。レン博士は精神障害を理由に不起訴、減刑、或いは無罪となった人々の病棟に収用されていた人達全員を、誰一人診察することなく、癒しました。
 レン博士は患者のカルテを読み、自分がどのようにしてその人の病気をつくり出したのかを理解するために自分の内面を見ました。患者はレン博士自身の思考、想念の一部であると考えたのです。そして彼は自分自身を改善するにつれて患者を改善したのです。現在その病棟は閉鎖されているそうです。患者が誰もいなくなったからです。レン博士が自分を癒す為に使ったのはホ・オポノポノです。
 皆さんは、そんな事はあり得ないとお考えでしょうか。

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意識は物質? [2008年08月13日(水) ]
 人が何事かを思う時、想念波動を出します。、それは電気、熱、光、音などと同じく現実的なものです。人の耳に聞こえなくとも虫や精密機器が感知する音はあるし、人の目に見えなくとも繊細な機器に感知出来る光の波はいくらでもあります。新しい機器が発明されて新しい波が出現するのではなく、機械が発明されようと発明されまいと波は存在しているのは誰しもご承知でしょう。磁気・磁力は私達の感覚器官に引っかからないけれど、存在している事を私達は磁石の存在から知っています。また磁気波が鳥を寄せ付けない事も農家の皆さんには経験的に知っています。鳥が磁気・磁力を感知している事は明らかです。、
 人は同じ周波数で引き合うのです。愛には愛が、憎しみには憎しみが引き合います。強い想念、長く思い続けている想念に対しては、その想念に応じる他の想念を引き寄せます。類は友を呼ぶ、これは真理です。愛に満たされている男女はどんな面にも愛を見て、他の愛を引き寄せますし、憎悪を抱く人は最大限の憎悪を受けます。人生は闘争だと思っている人には常に戦いの種が待っています。
 私達は残念な事に意識・想念の使い方について教えて貰ってきていません。学校は単に知識を詰め込む場でしかなく、意識について、人間の生き方について全く教えてはくれませんでした。
 私達の今は多かれ少なかれ、自らが思った結果です。直接言葉によって、あるいは想念の波を介して伝わってきた他者の思いも影響していますが、心の態度全体が自分の発する想念だけではなく、他から受け取る想念の性格も決定するからです。人はその人の心の態度全体に調和する想念だけを受信します。心の態度と調和しない想念は殆ど影響を与えませんし、反応も起こしません。人は自分の心に合うもの、探しているものを見つけ出すのだと言えます。その意味で、秋葉原の無差別殺人事件で犯人が刺した人は偶然のように見えて実は犯人の意識波動と繋がっていたのかも知れません。丁度テレビのある番組が犯人の意識波動だとするとその番組にチャンネルを合わせた人が被害者となってしまった。
 もし心が強く、明るく、楽しく、仕合わせで、自信に溢れ、積極的に動いていれば、勇気を感じ、仕事をよくこなし、目的を遂行し、成功への道を進むでしょう。他に影響を与え、協力したいと願わせ、後に続きたいと願わせる強く積極的な思いを放つからです。
 断言とか決意表明は大きな役割を果たします。積極的な宣言をする事で同じような波動を引き寄せる事が出来るからです。これが、「アフォメーション」(宣言)と「自己暗示」の重要なところです。アフォメーションの目的は二つあります。
一つは新しい心の態度を自ら設定する事で、自己改造、性格形成に驚く程役立つこと。
もう一つは、同じ思いに生きる他の人の積極的な想念を受け取るように心の常態を高めること。
創造的に生きる為には、断言・宣言や決意表明が如何に重要かが分かります。

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風流江戸雀 [2008年07月17日(木) ]
 江戸に魅せられた人間は江戸からも又魅せられるのでしょうか。杉浦日向子さんの『風流江戸雀』(潮出版)を寝床の中でこの一週間ばかり読んでいます。決まって最後は最終頁近くにある「みんな見放すに藪医(やぶ)の頼もしさ」の項で大笑い。そして次の「なつかしく ゆかしく そして金と書き」で男の誰もがもっている自惚れ心に苦笑いし、最後の「湯殿帰りの死んでみたがる」「むかしの女 女ではなし」で男の思いの結末を知る。ここまで読んで消灯し、眠りの世界へ入っていく。眠る前の一時を楽しんでいます。この本は私の心をとても懐かしい場所に連れて行ってくれます。

 川柳はきわめて俗なるものではあるけれど、俗きわまれば雅にいたるでしょうか、何でもない日常の瑣事を詠んで人生の核心を衝いています。この本にえらび採られている古川柳は、「柳多留」の中でもことさらの佳句で、古川柳の代表作だと言われているものです。江戸の情緒ある風俗とともに、生き生きと描かれた庶民の暮らしぶりは、江戸人であった杉浦日向子さん故に描くことの出来た世界でしょう。なんとも稀有の人であったと改めて思います。

 この本、1988年文春漫画賞を受賞しています。

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こぶたくっくを紹介します 博多女のあたたかさ [2008年06月21日(土) ]
 皆さんは「こぶたくっく」と云うブログをご存知でしょうか。私の好きなブログで暇な時には時々覗いています。 載っているこぶたさんの料理を作ろうというわけではなく、このブログの醸し出す雰囲気が好きなので時々覗いているのです。一所懸命生きてゐる若い女性(こぶたさん)の心の有り様が、私を惹きつけるとでも云いましょうか。彼女が博多弁で書いていることもぴったり私の中に入ってきて、博多弁の素晴らしさを味わうことが出来ます。
 私は友人、知人に九州人が多い所為か、九州弁?は全く抵抗がないと云うより、好きな言葉です。もっとも九州弁も博多弁も私には区別はつかないのですが。
 こぶたさんは福岡に住んでいる若い女性、といっても30代になったらしいのですが、彼女の日常の生活とともに彼女の喜怒哀楽も書き連ねられている料理のレシピブログです。何とこのブログ、ブログの表題そのまま『こぶたくっく』と云う本も出版されているんです。
 彼女はこの2月に素敵な男性と所帯を持ち、今は夫婦二人、お互いに働きながら頑張っています。ブログには彼女の日常とご主人を愛する気持ちをこめた料理が毎日紹介されています。見て楽しく、ほのぼのと心あたたかくなるブログです。
 料理は和洋中華何でもありですが、どれもこれも美味しそうです。彼女の料理は勿論素人料理ですが、素人の料理こそ本当は最高なんだと気付かせられるブログです。ご主人は日本一の幸せ者だと掛け値なしに思います。ただこんなにいつも愛情溢れるご馳走ではご主人、長生き出来ないかもしれない、と多少の不安はありますが、二人とも未だ若い、だからこれくらいが丁度良いのかとも思います。
 ご興味のある方は一度覗いてみて下さい。
http://cobuta.jp/archives/2008/06/post_501.html#more

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集合意識 [2008年05月29日(木) ]
昨日の帰途、車のラジオのスイッチを入れると丁度ニュース、大阪の船場吉兆、女将の会見が耳に飛び込んできました。小さな声で廃業する旨を言っていました。その少し後に、街で拾ったインタビューの声が2〜3人から聞こえました。
若い女性らしい声が
「あれだけ不信感を与えたのだから廃業して当然でしょう」

中年のサラリーマンらしい男性の声
「以前、2回行った事があるが、高級感のあるお店でした。残念です」

牛肉産地偽装事件で経営が悪化し、残った料理を別の客に提供していたことが明らかになり、ついに廃業に追い込まれた高級料亭、大阪の船場吉兆。
この事件からは様々な事を考えさせられます。
その一つに、地域には、地域に住んでいる人達が生活の中で生み出してきた意識があります。それはまた、文化でもあるでしょう。大阪には大阪特有の意識、お金や仕事等に対する共通する考え方、生き方があると思います。だから、大阪人は大阪人らしいとなるのです。
巨大都市大阪に高級料亭が一体どのくらいあるのか、地方の田舎に住んでいる私には想像も出来ませんが、今度の船場吉兆の事件は、大阪にある他の高級料亭でも、もしかしたらやっているかも知れない、という疑念を抱かせます。少なくとも、全くあり得ない事だとは考えにくくなった人も多い事かと思います。

今のようにマスコミが発達して、日本人の全てがある意味で共通の価値観、共通の意識で生きていますから、食品偽装の問題は広く全国各地でも起こりうるし、又実際起こってもきました。現代人の人としての規範の乱れは底なしのように思います。人として生きる意味が見いだせない、そんな混乱した意識状況が見えてきます。大阪の船場吉兆の事件はそんな意識の象徴なのかも知れません。


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感謝考ー4 感謝する自分とは? [2008年05月18日(日) ]
誰が自分を窮地に追い込むような現実をつくるものか、と誰しも思うことでしょうが、実はその現実を作っているのが同僚ではなく、自分自身だったとすると事はちょっとややこしくなります。つまり自分が同僚に頼み、そのような現実を招き寄せたと。

此処で「自分」とは何か? という問題が浮上しますが、「自分」という存在について考えてみると、なかなかやっかいなことだと判ります。「自分」とは自明であるようですが、さて本当に自明かというと、どうもそうでもないからです。

日本には昔から「霊」「霊魂」「魂」「魂魄」「一霊四魂」などと言う言葉があります。古事記に出て来る大国主命を祀った出雲大社に参拝すると、誰もが目にすることと思いますが、大国主命と兎の像があり、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)があります。古事記の時代から一霊=「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)という考え方があったことになります。

数年前に99歳で私の祖母が亡くなりました。病室で看護婦さんが死に化粧をして下さるというので病室の外に出て廊下の長椅子に腰掛けて待っている間に、私の左肩に虹の玉が乗っているのに気付きました。丁度シャボン玉が乗っている様で重さは全く感じられないのですが、その虹の玉が祖母だとすぐに分かりました。私は祖母に「おばあちゃん、長い間有難う。ぼろぼろになった衣をやっと脱いだんだね。今まで沢山の愛をいただいて本当に有難う」 そのような言葉を私は意識で語りかけました。祖母は私の肩から私のお腹の所に降りてくるとほんの数秒、其処にいた後、すっと消えました。祖母との最後の別れでした。

この数年、身内や知人の死に際し、魂の存在を感じることが多くなるとともに、私にとって人間に霊=魂があるというのは、いつのまにか自明のことになりました。人間とは魂が肉体を羽織って此の世に出てきた姿そのものであると今では当然のことの様に思っています。もっと言えば肉体とは魂の選んだ着物、魂の乗り物とさえ言えましょう。

私たちは此の世で自分一人で生きてゐるのではありません。自然や人工物や人との関係性の中で生かされています。肉体を羽織った魂は何の目的で此の世に顔を出したのでしょうか、そのことを私はずっと考えてきましたが、最近、私は気付きました。きっと魂はあらゆる旅がしたいのだ、と。永遠不滅の魂はありとあらゆる経験がしたくて此の世に顔を出すのではないのか、肉体を羽織ることによってしか旅が出来ないのではないか、と。
今生は「薄幸の美女となって悲劇のヒロインをやってみたい」とか、あるいは「お金を儲けるためだけに執念を燃やす守銭奴をやってみようか」とか、実にいろいろな、その魂なりの目的を持って、自分の目的に一番相応しい肉体、相応しい環境を選んで此の世に顔を出す。そう考えた方がしっくりくるのです。

だから自分の目の前に現れる現実は時に舞い上がるほど仕合わせなこともあり、時にはどうしようもなく困難にぶち当たることもありますが、その仕合わせ、困難は自分の魂が自ら招いているのではないかと思う様になりました。仕合わせの現実、また困難な現実を自ら体験することで、魂は一つ、、またひとつと知恵を獲得していくのではないか、魂の旅とは知恵の獲得以外にないんじゃなかろうか、とそのように考えます。

そのように考えると、内なる自分=魂が望んで仕合わせな現実、困難な現実を自ら設定したと考えることが出来ます。勿論、表の自分は困難な現実などまっぴらご免ですが、内なる自分はそれを望んでいる。そしてその困難な現実から徹底的に学びつくし、知恵を獲得することでその対象に対して感謝する。およそ、そのような仕組みになっているのではないか、と最近私は思う様になりました。

Posted at 13:41 | 意識について | この記事のURL
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感謝考ー3 感謝の対象と感謝する自分 [2008年05月13日(火) ]
自分は誰に、又何に感謝出来るかと考えていくと面白いことが分かります。親に、妻に、子に、兄弟に、教師に、会社の社長に、また同僚に、親友に、恋人に・・・と人間について感謝の対象がなくなってきたら、次ぎに日常世話になっているもの、つまり、机、鞄、車、洋服、靴、バス、電車等々そして、茶碗、箸、食べ物や珈琲やお酒、お茶などの嗜好品に感謝するといった風に次々に感謝出来る人や物を探していきます。

どんどん、どんどん感謝出来る対象について考えていくと、終いに大地、空気、水、火、風、そして地球や太陽、また月や星にまで感謝の対象が広がっていくかもしれません。

ところで、苦手な人や自分を攻撃する人に感謝出来るでしょうか。自分を窮地に陥れ、苦しめる人に対して感謝出来るでしょうか。社会的に悪人とされる犯罪者はどうでしょう。強盗殺人事件の犯人に感謝出来るでしょうか。もっと言えば自分の妻や子を殺した犯罪者に感謝出来るでしょうか。

ここまで極端ではなくとも、例えば会議などで自分が意見を述べる。その自分の意見を悪し様に言い、真っ向から反対意見が出てくる。しかも、その反対意見を声高に言う人が日頃からそりの合わない同僚だったりすると、内心むかっとするのは誰しも同じだと思います。そんな同僚に対して感謝出来る? と誰しも思うことと思います。

ここで改めて感謝って何だろうと考えざるをえません。感謝とは自分にとって価値あるものが与えられた時に発生する感情を伴った心の作用だとすると、当然の事ながらそりの合わない同僚と、その発言に対して感謝など出来ないと言うことになります。

しかし、もしそのような現実を自分が望んで招いているのだとしたらどうでしょう。誰が自分を窮地に追い込むような現実をつくるものか、と思うかも知れませんが、実はその現実を作っているのが同僚ではなく、自分自身だったとすると事はちょっとややこしくなります。

Posted at 07:28 | 意識について | この記事のURL
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感謝考ー2 肉体 [2008年05月05日(月) ]
「肉体は食べ物のお化け」と言った著名な料理研究家がいます。たしかに人の身体は食べたものに因ってつくられますから、この言はまことに重要であり、一理あると言えましょう。

しかし、人の肉体は食べたものに因ってばかりつくられているのではないことを知らなければならないとも、また思います。ディーパック・チョプラの『エイジレス革命ー永遠の若さを生きる』を読むと、「肉体は私たちが生まれて以来学習してきた解釈の全てが、結果として物理的に現れたものである」と。これはまさに至言と言うべきで、私たちの思考や想念、感情などが如何に自分の肉体に影響を与え続けているかを考えさせられます。

思考や感情は肉体的、感覚的な刺激よりも影響力において劣るわけではなく、情報を肉体的な現実に変換し、文字通り心を物質に変換するプロセスに関わる細胞の信号と見なす必要があります。思考や感情が肉体に及ぼす密なる影響についてパート博士は次のように言っています。「夫と死別したばかりの女性が乳ガンになる確率は平均の2倍。鬱の人が病気になる確率は平均の4倍であることから如何に思考や感情が肉体に影響を及ぼしているかが分かる」と。

セラピストのノエル・C・ネルソンは「感謝の思考や感情がプラシーボ効果と同じ効果を上げる。健康一般に対する感謝を、そして健康である時の自分の肉体を思い起こし、それに向かって感謝すると健康を高めることに大いに役立つ」と言っています。これは病気に対するに私たちの意識の如何に重要なことかを示唆しています。

通常、私たちは次のように自分の身体の不調について嘆いています。「また、消化不良、私の胃はポンコツだ、何を食べても痛むんだから」「顔中吹き出物だらけ、思春期を過ぎれば治ると思っていたのに、嫌んなっちゃう」 これでは身体の不調を治すよりも定着させ、より深刻にさせるだけです。

Posted at 18:44 | 意識について | この記事のURL
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感謝考ー1 [2008年05月03日(土) ]
感謝とは何でしょう。人は物や人に感謝します。ありがたい、という思いはどこから来るのでしょう。 〜して貰ってありがたい、と思う時、人はその対象に価値を置いています。自分にとって価値あるものなのです。自分の窮地を救ってくれたから、あるいは自分の欲望の手助けをしてくれたから、あるいはもっと、自分が生かされていることに気付いたから等々、気付き方次第でいろいろな対象が感謝の対象になりえます。

通常、感謝は自分や自分の属する集団にとって価値ある物や行為がもたらされたことによって発生する感情といえましょう。「ありがたい」という思いは生きていく上でもっとも必要な思いでもありますが、人はなかなか感謝できない。

また感謝の質についても考える必要があります。私は仕事上、得意先で毎日「有難う御座います」と感謝の言葉を口にしていますが、心から感謝して言っているかというと、どうもそうではありません。営業という仕事上の決まり文句、挨拶代わりの言葉として使っていることも多いです。「ありがとう」という感謝の言葉は同じでも、発する人の心の状態は実に様々です。

日常生活において常に感謝を中心に生きている人も多くいます。人や物の手助けがなければ生きていけない人々は必然的に「ありがとう」を口にせざるを得ない。すべてが自分を支えてくれる対象となるからです。

世の中には実に様々な人達が居て、その中には傲慢さが衣を着ているような人達も決して少なくありません。世の中は、或いは会社は自分が居てこそ成り立っているのだと言わんばかりの態度です。しかし、そんな人でも、ちょっと見方を変えれば自分が生かされていることに気付く。病気になった時、或いは事態が思惑とは反対の方向に向き始めた時、そんな時こそ自分の意識を振り返るチャンスなのだと思います。
また、いつも不満たらたらの人も見かけます。ご主人に、また奥さんに対して不満と不平の言葉をのべつまくなし言っている。すること為すこと、何かにつけて気に入らない。伴侶となったことを悔やんでいる。そんな夫婦もいます。価値観が違う、こんな人だとは思わなかった等々いろいろですが、その人が夫に、また妻に不満を発すれば発するほど事態は好転しないものです。不満の波動は相手の内から同じ波動を呼び起こすからです。愛には愛が、不満には不満が返ってくる。相手の姿が自分の姿だと気付きたくて不平不満を言っているようなものかもしれまえん。
この様な人は相手が代わってもやはり代わった相手が不満の対象になります。不満の対象になる相手しか選ばないとも言えましょう。

感謝について考えてみるに、果たして自分は自分自身に対して感謝してきただろうかと思わないわけにはいきません。五十有余年人生をやってきて一度も自分に感謝したことがなかったのではなかろうかと思います。飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べ、、暴飲暴食、随分無理な身体の使い方、不摂生をやってきたのに強靱な私の肉体は不満も言わず健康を保っていてくれる。また、自分のなかで時に密やかに表の私に思考や行動の指針を与えてくれる自分の魂、それら自分自身に私は万感の想いをこめて今感謝しないではいられません。

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思い込み [2008年03月28日(金) ]
 出張に出ると大概自炊宿です。自炊宿に泊まる様になって、もうかれこれ10年ほどになります。時間にとらわれず、気楽で良いし、何よりも好きなものを自分の食べたいだけ、さっと作って食べるのですから、身体に負担がかかりません。温泉宿の食事は大抵宿泊する値段によって決まっていますから、どこに泊まっても出てくる料理はほぼ同じで、毎日の様に旅をしていると身体をこわしてしまいます。
 私は出張する長野でも福島でも、山形、また宮城でも、宿は大抵決めています。長野では高山温泉郷の、広い露天風呂のある一軒宿にいつも泊まっています。
 この度の長野行きも、いつもの宿を予約しました。さて、食材の調達はこれまたいつも立ち寄る長野市に入ったところにある産直のお店です。ざっと店内を見渡すと目に飛び込んできたのが、エシャレットとギョウジャニンニクのポップ。
 ギョウジャニンニクは私も妻も大の好物です。毎年、春になると妻がどこからか調達してきてさっと煮たものを出してくれるので、買ったときは妻の顔が思い浮かびましたが、今夜は宿で独り占めとばかり、エシャレット1束、ギョウジャニンニクは5束も買い込みました。これは春から縁起がよいとばかり、内心にんまりしたのでした。
 



 エシャレットは刻んで味噌と鰹節で和えました。これはとても美味しい。酒の肴にもご飯のおかずにも合います。ギョウジャニンニクは5束すべてを醤油と味醂とお酒で煮たのですが、不思議なことにギョウジャニンニク特有の優しいニンニクの香りが全くしません。おかしなことがあるものだ、と其の時は思ったことです。狐につままれた感じでした。
 今、このブログに載せようと写真をよく見てびっくり。なんと、ギョウジャニンニクと思っていたのはアサツキだったのです。そう言えば葉はギョウジャニンニクの様に開いていなかったし、茎の太さも違うと、今漸く気付いた次第。「ギョウジャニンニク」と大きく書かれたポップの台に置かれていたので疑いもしませんでした。全く思い込みとはいえ、我ながら呆れています。

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