オーパーツ out-of-place-artifacuts
(現在の私たちの科学体系では処理できない場違いな加工物)
佐治芳彦氏がオーパーツについて次の様に書いている。
「一九六七年アメリカコロラド州のロッキー・ポイント鉱山で(地表から約一二〇bの深さのところ)銅の鉱脈の中から人骨が発見された。)地質学的に見て数百万年以前のものとあるから、アフリカのオルドバイ峡谷から発見された世界最古の人骨よりも古いかも知れない。ただ問題だったのは、その箇所から、人骨以外に、長さ一〇センチの焼きのよく効いた銅製のやじりが出土したことである。つまり学者から見ればまさに『場違い』もいいところなのだ」
この事実を現代の学者たちは解説できない。しかし事実は隠しようもなく事実である。
また、「一九七二年、フランスの原子力委員会の元委員長フランソワ・ペランの出した有史以前の核の連鎖反応の報告がある。
それは西アフリカのガボンから送られてきたウラニウム鉱石の分析結果が、ウラン二三五を〇,六二一l(普通〇,七一五l)しか含まず、あたかも二三五の減少した分が連鎖反応によって燃えたとしか考えられなかった事である。しかもフランスの核研究センターの調査によると、ウラン核融合物の残滓物の特有な形で四つの稀土元素も発見されたのである。だが連鎖反応が自然に起こったとすれば、つまり燃える為には減速剤として「水」が必要である。その「水」は不純水が一万分の二〜三パーセント以下の純粋でなければならないが、そのような高純度の「水」は天然には存在しない。ということは、一七億年前に原子炉があったということである」
これらの事は今の歴史では処理する事が出来ない。だとすれば地球の歴史が本当に四五億年なのかどうかも疑ってしかるべきではなかろうか。現代科学や歴史学が恣意的にとは言わないが、解明できていないことは実は山ほどあり、それらは解明不可能と言うだけで無視され、現在の歴史の体系が作られているとしたら、未来に起こるであろう地殻の変動によって種々のものが無視できないほど出現する事により、地球の歴史は大きく変わると考えた方が自然である。三内丸山遺跡の発見によって縄文時代の意味がまるで変わってしまった様に。
つまり今私たちが与えられている歴史はあくまでも仮の歴史であり、本当の歴史を私たちは未だ何も知っていないと考えるべきであろう。
その意味で学会で無視されてきた日本の古史古伝の一つ『竹内文書』についても素直に読んでみる必要がありはしないだろうか。また、酒井勝軍著『太古日本のピラミッド』なども本格的に検討し、歴史の中に位置づけていかなければならないのではなかろうか。
(現在の私たちの科学体系では処理できない場違いな加工物)
佐治芳彦氏がオーパーツについて次の様に書いている。
「一九六七年アメリカコロラド州のロッキー・ポイント鉱山で(地表から約一二〇bの深さのところ)銅の鉱脈の中から人骨が発見された。)地質学的に見て数百万年以前のものとあるから、アフリカのオルドバイ峡谷から発見された世界最古の人骨よりも古いかも知れない。ただ問題だったのは、その箇所から、人骨以外に、長さ一〇センチの焼きのよく効いた銅製のやじりが出土したことである。つまり学者から見ればまさに『場違い』もいいところなのだ」
この事実を現代の学者たちは解説できない。しかし事実は隠しようもなく事実である。
また、「一九七二年、フランスの原子力委員会の元委員長フランソワ・ペランの出した有史以前の核の連鎖反応の報告がある。
それは西アフリカのガボンから送られてきたウラニウム鉱石の分析結果が、ウラン二三五を〇,六二一l(普通〇,七一五l)しか含まず、あたかも二三五の減少した分が連鎖反応によって燃えたとしか考えられなかった事である。しかもフランスの核研究センターの調査によると、ウラン核融合物の残滓物の特有な形で四つの稀土元素も発見されたのである。だが連鎖反応が自然に起こったとすれば、つまり燃える為には減速剤として「水」が必要である。その「水」は不純水が一万分の二〜三パーセント以下の純粋でなければならないが、そのような高純度の「水」は天然には存在しない。ということは、一七億年前に原子炉があったということである」
これらの事は今の歴史では処理する事が出来ない。だとすれば地球の歴史が本当に四五億年なのかどうかも疑ってしかるべきではなかろうか。現代科学や歴史学が恣意的にとは言わないが、解明できていないことは実は山ほどあり、それらは解明不可能と言うだけで無視され、現在の歴史の体系が作られているとしたら、未来に起こるであろう地殻の変動によって種々のものが無視できないほど出現する事により、地球の歴史は大きく変わると考えた方が自然である。三内丸山遺跡の発見によって縄文時代の意味がまるで変わってしまった様に。
つまり今私たちが与えられている歴史はあくまでも仮の歴史であり、本当の歴史を私たちは未だ何も知っていないと考えるべきであろう。
その意味で学会で無視されてきた日本の古史古伝の一つ『竹内文書』についても素直に読んでみる必要がありはしないだろうか。また、酒井勝軍著『太古日本のピラミッド』なども本格的に検討し、歴史の中に位置づけていかなければならないのではなかろうか。
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