大正十三年、小さな農家の長男に生まれた父は昭和十九年に戦地へ。終戦後帰ってくるとすぐに山里の農家の末娘と結婚。私が生まれた。大東亜戦争、終戦、農地解放、そして戦後の経済の高度成長へとめまぐるしく変わっていく時代状況の流れ中で、僅か一町五反ばかりの農地を耕し、農業をやりながら四人の子どもを育てて母と生きてきた父にとって、人生とは何だったのだろうか? どんな意味があったのだろうか? 父の人生は満足の人生だったのだろうか? そんな思いが浮かんでくる。
私の他は三人の妹、四人兄弟である。父の入院と同時に、毎日の付き添いは母と三人の妹たちが交代でやってくれている。三人の妹たちは何れも嫁いでいるが我が家から近いところは車で十五分、遠くても車で四十分の距離であるから、この様な時には何かと有難い。四月の中頃までは昼間だけの付き添いだった。
ゴールデンウイークが近づいたある日の未明、まだ時計の針が三時をまわったばかりの頃、突然家の電話が鳴り、病院の看護婦さんから父が三階の病室から飛び降りようとしていると興奮した声で電話があった。私はすぐに駆けつけた。父は看護婦さんと部屋のベットで起きていた。メモ用紙に「先生ありがとう。看護婦さんありがとう。皆さんありがとう。悔いのない人生でした」と、いかにも遺書と言わんばかりの文字がハッキリと書かれていた。この数日前から母に「包丁をもってきてくれ」と何度か言っていたらしい。お見舞いに果物を貰うので、剥いて食べるのだと言うことだったが、何故か不吉な予感がして果物ナイフを病院に持っていっては駄目だと私は母に強く言っていた。母がもっていこうとしているのを偶然見かけて私は止めていたのだった。
父は日頃から「もう覚悟している。どうせ長くないのなら早く逝きたい」と言っていた。死ぬことの覚悟は七年前の胃癌の手術の時にすでに見受けられた。自分の父より長く生きたのでもういつお迎えが来ても良いのだ。みんなありがとう、とその時も言って胃癌の手術を受けた父だった。
一体どういうことでしょうか? 知人に父のことを話したら、知人からは即座に返事が返ってきた。「貴方からお父さんの様子を聞いてすぐに分かったわ、前世はおそらく名のある戦国の武将だったのだと思うわ」
霊的能力のある彼女はこともなげに言った。今までの父の生き方、言動を考えるとそれは当たっているように思う。潔い男であり、決断は早く、行動も迅速な父であった。逆境を屁とも思っていないところがあった。私がまだ東京にいた頃、父はムラから推されて市会議員に立候補した。金に余裕のない父はポスターをカラーではなく、白黒で作った。立候補する人の誰がそんなことを考えるだろうか、カラーのポスターの中に混じって白黒のポスターは却って人の目を惹いた。ムラの皆さんが応援してくれて市議を二期勤めた。郷土の人々の精神が如何に自己中心で、公の心がないかを父は事ある毎に私に話した。父の口にかかるとくそみそだった。だが、父はこの郷土を、この地の人々を誰よりも好きなのが私には分かっていた。熱血漢で良いと思ったことは誰がなんと言おうと貫き通した。
家では暴君だが、母はそんな父によく仕えた。二人は何をするにも一緒だった。父は農協や、議員の旅行で、自分が一人で旅行に出るときには必ず、沢山のお土産を買ってきた。お土産代は概ね旅費の半分だった。母に旅の一部始終を語って聞かせるのが常であった。母はいつも「私は旅行に行かなくてもおじいちゃんの行ったところは自分が行ったよりもよく知っている」と話していた。
病院での夜の騒動があった朝、看護婦さんから「昼よりも夜に家の方に付いていて貰った方が良いのです」と言われ、その夜から母が父のベットの脇で眠ることとなった。
私の他は三人の妹、四人兄弟である。父の入院と同時に、毎日の付き添いは母と三人の妹たちが交代でやってくれている。三人の妹たちは何れも嫁いでいるが我が家から近いところは車で十五分、遠くても車で四十分の距離であるから、この様な時には何かと有難い。四月の中頃までは昼間だけの付き添いだった。
ゴールデンウイークが近づいたある日の未明、まだ時計の針が三時をまわったばかりの頃、突然家の電話が鳴り、病院の看護婦さんから父が三階の病室から飛び降りようとしていると興奮した声で電話があった。私はすぐに駆けつけた。父は看護婦さんと部屋のベットで起きていた。メモ用紙に「先生ありがとう。看護婦さんありがとう。皆さんありがとう。悔いのない人生でした」と、いかにも遺書と言わんばかりの文字がハッキリと書かれていた。この数日前から母に「包丁をもってきてくれ」と何度か言っていたらしい。お見舞いに果物を貰うので、剥いて食べるのだと言うことだったが、何故か不吉な予感がして果物ナイフを病院に持っていっては駄目だと私は母に強く言っていた。母がもっていこうとしているのを偶然見かけて私は止めていたのだった。
父は日頃から「もう覚悟している。どうせ長くないのなら早く逝きたい」と言っていた。死ぬことの覚悟は七年前の胃癌の手術の時にすでに見受けられた。自分の父より長く生きたのでもういつお迎えが来ても良いのだ。みんなありがとう、とその時も言って胃癌の手術を受けた父だった。
一体どういうことでしょうか? 知人に父のことを話したら、知人からは即座に返事が返ってきた。「貴方からお父さんの様子を聞いてすぐに分かったわ、前世はおそらく名のある戦国の武将だったのだと思うわ」
霊的能力のある彼女はこともなげに言った。今までの父の生き方、言動を考えるとそれは当たっているように思う。潔い男であり、決断は早く、行動も迅速な父であった。逆境を屁とも思っていないところがあった。私がまだ東京にいた頃、父はムラから推されて市会議員に立候補した。金に余裕のない父はポスターをカラーではなく、白黒で作った。立候補する人の誰がそんなことを考えるだろうか、カラーのポスターの中に混じって白黒のポスターは却って人の目を惹いた。ムラの皆さんが応援してくれて市議を二期勤めた。郷土の人々の精神が如何に自己中心で、公の心がないかを父は事ある毎に私に話した。父の口にかかるとくそみそだった。だが、父はこの郷土を、この地の人々を誰よりも好きなのが私には分かっていた。熱血漢で良いと思ったことは誰がなんと言おうと貫き通した。
家では暴君だが、母はそんな父によく仕えた。二人は何をするにも一緒だった。父は農協や、議員の旅行で、自分が一人で旅行に出るときには必ず、沢山のお土産を買ってきた。お土産代は概ね旅費の半分だった。母に旅の一部始終を語って聞かせるのが常であった。母はいつも「私は旅行に行かなくてもおじいちゃんの行ったところは自分が行ったよりもよく知っている」と話していた。
病院での夜の騒動があった朝、看護婦さんから「昼よりも夜に家の方に付いていて貰った方が良いのです」と言われ、その夜から母が父のベットの脇で眠ることとなった。
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at 21:10
| 人生の最後の時を迎えて
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