人は何の為に生まれてきたのか? 末期の肺癌の父と毎日向き合っている内にそんな問いが生まれてくるようになった。丁度一週間前の朝、母と看病を交代する為に妹を乗せて病院に行くと、父は便せんにびっしりと書いた紙を私に突き付けた。読むと、未だ父の入院を知らせていない、ある親戚にあてた手紙文だった。父の入院は、知らせなければならないところには殆ど知らせたが、その親戚だけは知らせるなとの父の命令で、未だ知らせていないのである。
その手紙は本家・分家について書かれたものであった。我が家を本家と認めるなら見舞いに来てくれ、もし認めないなら見舞いに来る必要はない、といった内容が書かれている。父にとって本家・分家という関係がずっと心を占めていたのが分かった。その手紙を私にその親戚に持って行けということだった。
一体どのように処理をしたらいいのだろう。私はこの手紙をそのまま親戚に持っていこうとは思わなかった。これから葬儀を控えているのに、親戚との間に争いの種になるようなことはしたくなかった。これは明らかに父が私に出した問題だと私は受け止めた。普通に考えれば本家・分家の関係は主に血縁によるモノ・カネの贈与、分与の関係と言うことになるだろうが、父の霊体が私の霊体に出した問題だと捉えると解くのがとても難しい。
今まで父から聞いている話では、その親戚の大本は確かに我が家の先祖じいさんが係わっている、というより先祖じいさんが建てた家だ。だが、もう明治20年代の話しである。そんな古い昔のことを、ましてや、その山裾にあった家はとうの昔に壊され、今の御当主により街中の新しい土地に引っ越し、新しく建てられている。当事者の誰も生きていない今、実際のところは誰にも分からなくなっている。今になって、本家だ、分家だと言ってみたところで始まらない。
「まき」という言葉がある。「あそこの家は○○のまきだ」というように使う。家を単位として、その本家・分家などの関係によって結ばれた集団のことである。
この問題を考えているうちに突然、私は思った。一体、我がきっちょむ家に受けついできた精神の伝統があるだろうか? きっちょむ家の人間の生きる心得というようなもの、家訓といっても良いし、家の柱と言っても良いもの。きっちょむのまきは皆この精神によって生きるのだ、といった命の使い方があっただろうか?
モノ・カネや地位や名誉を得るのだけが人生の目標であるような、また、他人に迷惑をかけず、人並みの生活が出来ればそれでいいといったような生き方が中心ではなかっただろうか。身上を築いたとか、身上をつぶしたとか、モノカネ・財産にばかり目がいっていて、何にこの命を使うのかという、人間として最も大事な命の使い方を明確には築いてこなかったし、伝えても来なかったのではなかろうか。真に守るべきもの、贈与・分与すべきものは我が家の精神の伝統、命の使い方ではないのだろうか。
父の霊体が私に指し示していることは、きっちょむ家の柱を私に作れと言うことなのだ、と確信した。私はそう受けとめるのが最も自然なように思った。その晩、私は自分の部屋で心鎮めて、父宛に書いた手紙を読み上げた。父の御霊に「必ず近いうちに我が家の柱、我が家の家族の命の使い方を定めます」と約束した。
翌朝、病院に行くと、担当の先生から、「お父さんが大分苦しそうなので、今日から全身麻酔用の薬を使います」と聞かされた。病室に行くと、父が「もう、よっぱら生きたので、早く楽にしてくれ、と、今、先生に頼んだ」と言った。
その手紙は本家・分家について書かれたものであった。我が家を本家と認めるなら見舞いに来てくれ、もし認めないなら見舞いに来る必要はない、といった内容が書かれている。父にとって本家・分家という関係がずっと心を占めていたのが分かった。その手紙を私にその親戚に持って行けということだった。
一体どのように処理をしたらいいのだろう。私はこの手紙をそのまま親戚に持っていこうとは思わなかった。これから葬儀を控えているのに、親戚との間に争いの種になるようなことはしたくなかった。これは明らかに父が私に出した問題だと私は受け止めた。普通に考えれば本家・分家の関係は主に血縁によるモノ・カネの贈与、分与の関係と言うことになるだろうが、父の霊体が私の霊体に出した問題だと捉えると解くのがとても難しい。
今まで父から聞いている話では、その親戚の大本は確かに我が家の先祖じいさんが係わっている、というより先祖じいさんが建てた家だ。だが、もう明治20年代の話しである。そんな古い昔のことを、ましてや、その山裾にあった家はとうの昔に壊され、今の御当主により街中の新しい土地に引っ越し、新しく建てられている。当事者の誰も生きていない今、実際のところは誰にも分からなくなっている。今になって、本家だ、分家だと言ってみたところで始まらない。
「まき」という言葉がある。「あそこの家は○○のまきだ」というように使う。家を単位として、その本家・分家などの関係によって結ばれた集団のことである。
この問題を考えているうちに突然、私は思った。一体、我がきっちょむ家に受けついできた精神の伝統があるだろうか? きっちょむ家の人間の生きる心得というようなもの、家訓といっても良いし、家の柱と言っても良いもの。きっちょむのまきは皆この精神によって生きるのだ、といった命の使い方があっただろうか?
モノ・カネや地位や名誉を得るのだけが人生の目標であるような、また、他人に迷惑をかけず、人並みの生活が出来ればそれでいいといったような生き方が中心ではなかっただろうか。身上を築いたとか、身上をつぶしたとか、モノカネ・財産にばかり目がいっていて、何にこの命を使うのかという、人間として最も大事な命の使い方を明確には築いてこなかったし、伝えても来なかったのではなかろうか。真に守るべきもの、贈与・分与すべきものは我が家の精神の伝統、命の使い方ではないのだろうか。
父の霊体が私に指し示していることは、きっちょむ家の柱を私に作れと言うことなのだ、と確信した。私はそう受けとめるのが最も自然なように思った。その晩、私は自分の部屋で心鎮めて、父宛に書いた手紙を読み上げた。父の御霊に「必ず近いうちに我が家の柱、我が家の家族の命の使い方を定めます」と約束した。
翌朝、病院に行くと、担当の先生から、「お父さんが大分苦しそうなので、今日から全身麻酔用の薬を使います」と聞かされた。病室に行くと、父が「もう、よっぱら生きたので、早く楽にしてくれ、と、今、先生に頼んだ」と言った。
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at 21:01
| 人生の最後の時を迎えて
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