父が亡くなった。3月12日に入院してから2ヶ月半、5月27日零時20分に息を引き取った。82歳と8ヶ月の人生だった。
父は零時を過ぎた頃から心拍数が120を下回り、80とか70台になっていった。私は病室の前のナースセンターで心拍数を目で追っていた。私の息子が東京から最終の新幹線で帰ってくる。妻が駅まで息子を迎えに行っている。何とか間に合って欲しいと祈っていた。息子が病室に入って来たのは零時10分、すでに呼吸は弱々しく間欠的であったが、息子が父に呼びかけると父の身体が反応した。息子を待っていたのだと分かった。その数分後、父は息を引き取った。父の妻、父の4人の子どもたち、そして父の孫たち、皆に囲まれての大往生だった。私の娘と私の一番下の妹の娘(共に20歳)が声を押し殺して泣いていた。この二人の娘はおじいちゃんが大好きだった。父はこの二人の孫娘をとても可愛がっていたのだ。
父の死を確認の後、私以外は皆、我が家に帰ってもらい、私は一人で担当医師の来るをの待った。医師に死亡診断書を書いて戴き、それから葬儀社に電話を入れるようにと看護婦さんに言われていた。
20分ばかりして担当の医師がいらっしゃり、死亡診断書を書いて下さった。「お世話になりました」と私は心からお礼を述べた。
2ヶ月半、長いようで短い父と私たちの病院生活だった。特にこの1ヶ月は昼夜を問わずの付き添いだった。母が主に夜、父のベットの脇で寝ての看病だったので、母も限界に近づいていた。父と同じ82歳の母にとって、薄い敷き布団では腰も身体も痛くなり、数日すると耐えられないと言っていた。しかも病人は夜になると却って起きているし、看護婦さんが定期的にやってきては容体を診る。とても眠ることなど出来ない状況だった。この3日間は、私は母と二人で夜、付き添っていた。母一人では母の身体が心配だったからだ。個室で広いとはいえ、コンクリートの床にござを敷き、その上に薄い敷き布団一枚、そして掛け布団一枚では家から毛布を持ってきているとはいえ、身体に障る。
ともあれ、母と私たち子ども4人の総力をあげた看病生活は終わった。真夜中だったが私は予め電話番号を調べておいた農協の葬祭センターに電話をかけた。
父は零時を過ぎた頃から心拍数が120を下回り、80とか70台になっていった。私は病室の前のナースセンターで心拍数を目で追っていた。私の息子が東京から最終の新幹線で帰ってくる。妻が駅まで息子を迎えに行っている。何とか間に合って欲しいと祈っていた。息子が病室に入って来たのは零時10分、すでに呼吸は弱々しく間欠的であったが、息子が父に呼びかけると父の身体が反応した。息子を待っていたのだと分かった。その数分後、父は息を引き取った。父の妻、父の4人の子どもたち、そして父の孫たち、皆に囲まれての大往生だった。私の娘と私の一番下の妹の娘(共に20歳)が声を押し殺して泣いていた。この二人の娘はおじいちゃんが大好きだった。父はこの二人の孫娘をとても可愛がっていたのだ。
父の死を確認の後、私以外は皆、我が家に帰ってもらい、私は一人で担当医師の来るをの待った。医師に死亡診断書を書いて戴き、それから葬儀社に電話を入れるようにと看護婦さんに言われていた。
20分ばかりして担当の医師がいらっしゃり、死亡診断書を書いて下さった。「お世話になりました」と私は心からお礼を述べた。
2ヶ月半、長いようで短い父と私たちの病院生活だった。特にこの1ヶ月は昼夜を問わずの付き添いだった。母が主に夜、父のベットの脇で寝ての看病だったので、母も限界に近づいていた。父と同じ82歳の母にとって、薄い敷き布団では腰も身体も痛くなり、数日すると耐えられないと言っていた。しかも病人は夜になると却って起きているし、看護婦さんが定期的にやってきては容体を診る。とても眠ることなど出来ない状況だった。この3日間は、私は母と二人で夜、付き添っていた。母一人では母の身体が心配だったからだ。個室で広いとはいえ、コンクリートの床にござを敷き、その上に薄い敷き布団一枚、そして掛け布団一枚では家から毛布を持ってきているとはいえ、身体に障る。
ともあれ、母と私たち子ども4人の総力をあげた看病生活は終わった。真夜中だったが私は予め電話番号を調べておいた農協の葬祭センターに電話をかけた。
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at 20:48
| 人生の最後の時を迎えて
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