誰が自分を窮地に追い込むような現実をつくるものか、と誰しも思うことでしょうが、実はその現実を作っているのが同僚ではなく、自分自身だったとすると事はちょっとややこしくなります。つまり自分が同僚に頼み、そのような現実を招き寄せたと。
此処で「自分」とは何か? という問題が浮上しますが、「自分」という存在について考えてみると、なかなかやっかいなことだと判ります。「自分」とは自明であるようですが、さて本当に自明かというと、どうもそうでもないからです。
日本には昔から「霊」「霊魂」「魂」「魂魄」「一霊四魂」などと言う言葉があります。古事記に出て来る大国主命を祀った出雲大社に参拝すると、誰もが目にすることと思いますが、大国主命と兎の像があり、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)があります。古事記の時代から一霊=「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)という考え方があったことになります。
数年前に99歳で私の祖母が亡くなりました。病室で看護婦さんが死に化粧をして下さるというので病室の外に出て廊下の長椅子に腰掛けて待っている間に、私の左肩に虹の玉が乗っているのに気付きました。丁度シャボン玉が乗っている様で重さは全く感じられないのですが、その虹の玉が祖母だとすぐに分かりました。私は祖母に「おばあちゃん、長い間有難う。ぼろぼろになった衣をやっと脱いだんだね。今まで沢山の愛をいただいて本当に有難う」 そのような言葉を私は意識で語りかけました。祖母は私の肩から私のお腹の所に降りてくるとほんの数秒、其処にいた後、すっと消えました。祖母との最後の別れでした。
この数年、身内や知人の死に際し、魂の存在を感じることが多くなるとともに、私にとって人間に霊=魂があるというのは、いつのまにか自明のことになりました。人間とは魂が肉体を羽織って此の世に出てきた姿そのものであると今では当然のことの様に思っています。もっと言えば肉体とは魂の選んだ着物、魂の乗り物とさえ言えましょう。
私たちは此の世で自分一人で生きてゐるのではありません。自然や人工物や人との関係性の中で生かされています。肉体を羽織った魂は何の目的で此の世に顔を出したのでしょうか、そのことを私はずっと考えてきましたが、最近、私は気付きました。きっと魂はあらゆる旅がしたいのだ、と。永遠不滅の魂はありとあらゆる経験がしたくて此の世に顔を出すのではないのか、肉体を羽織ることによってしか旅が出来ないのではないか、と。
今生は「薄幸の美女となって悲劇のヒロインをやってみたい」とか、あるいは「お金を儲けるためだけに執念を燃やす守銭奴をやってみようか」とか、実にいろいろな、その魂なりの目的を持って、自分の目的に一番相応しい肉体、相応しい環境を選んで此の世に顔を出す。そう考えた方がしっくりくるのです。
だから自分の目の前に現れる現実は時に舞い上がるほど仕合わせなこともあり、時にはどうしようもなく困難にぶち当たることもありますが、その仕合わせ、困難は自分の魂が自ら招いているのではないかと思う様になりました。仕合わせの現実、また困難な現実を自ら体験することで、魂は一つ、、またひとつと知恵を獲得していくのではないか、魂の旅とは知恵の獲得以外にないんじゃなかろうか、とそのように考えます。
そのように考えると、内なる自分=魂が望んで仕合わせな現実、困難な現実を自ら設定したと考えることが出来ます。勿論、表の自分は困難な現実などまっぴらご免ですが、内なる自分はそれを望んでいる。そしてその困難な現実から徹底的に学びつくし、知恵を獲得することでその対象に対して感謝する。およそ、そのような仕組みになっているのではないか、と最近私は思う様になりました。
此処で「自分」とは何か? という問題が浮上しますが、「自分」という存在について考えてみると、なかなかやっかいなことだと判ります。「自分」とは自明であるようですが、さて本当に自明かというと、どうもそうでもないからです。
日本には昔から「霊」「霊魂」「魂」「魂魄」「一霊四魂」などと言う言葉があります。古事記に出て来る大国主命を祀った出雲大社に参拝すると、誰もが目にすることと思いますが、大国主命と兎の像があり、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)があります。古事記の時代から一霊=「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)という考え方があったことになります。
数年前に99歳で私の祖母が亡くなりました。病室で看護婦さんが死に化粧をして下さるというので病室の外に出て廊下の長椅子に腰掛けて待っている間に、私の左肩に虹の玉が乗っているのに気付きました。丁度シャボン玉が乗っている様で重さは全く感じられないのですが、その虹の玉が祖母だとすぐに分かりました。私は祖母に「おばあちゃん、長い間有難う。ぼろぼろになった衣をやっと脱いだんだね。今まで沢山の愛をいただいて本当に有難う」 そのような言葉を私は意識で語りかけました。祖母は私の肩から私のお腹の所に降りてくるとほんの数秒、其処にいた後、すっと消えました。祖母との最後の別れでした。
この数年、身内や知人の死に際し、魂の存在を感じることが多くなるとともに、私にとって人間に霊=魂があるというのは、いつのまにか自明のことになりました。人間とは魂が肉体を羽織って此の世に出てきた姿そのものであると今では当然のことの様に思っています。もっと言えば肉体とは魂の選んだ着物、魂の乗り物とさえ言えましょう。
私たちは此の世で自分一人で生きてゐるのではありません。自然や人工物や人との関係性の中で生かされています。肉体を羽織った魂は何の目的で此の世に顔を出したのでしょうか、そのことを私はずっと考えてきましたが、最近、私は気付きました。きっと魂はあらゆる旅がしたいのだ、と。永遠不滅の魂はありとあらゆる経験がしたくて此の世に顔を出すのではないのか、肉体を羽織ることによってしか旅が出来ないのではないか、と。
今生は「薄幸の美女となって悲劇のヒロインをやってみたい」とか、あるいは「お金を儲けるためだけに執念を燃やす守銭奴をやってみようか」とか、実にいろいろな、その魂なりの目的を持って、自分の目的に一番相応しい肉体、相応しい環境を選んで此の世に顔を出す。そう考えた方がしっくりくるのです。
だから自分の目の前に現れる現実は時に舞い上がるほど仕合わせなこともあり、時にはどうしようもなく困難にぶち当たることもありますが、その仕合わせ、困難は自分の魂が自ら招いているのではないかと思う様になりました。仕合わせの現実、また困難な現実を自ら体験することで、魂は一つ、、またひとつと知恵を獲得していくのではないか、魂の旅とは知恵の獲得以外にないんじゃなかろうか、とそのように考えます。
そのように考えると、内なる自分=魂が望んで仕合わせな現実、困難な現実を自ら設定したと考えることが出来ます。勿論、表の自分は困難な現実などまっぴらご免ですが、内なる自分はそれを望んでいる。そしてその困難な現実から徹底的に学びつくし、知恵を獲得することでその対象に対して感謝する。およそ、そのような仕組みになっているのではないか、と最近私は思う様になりました。
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at 13:41
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