自然、温泉、めぐる季節と一つになりたい。

虫や鳥、草や木の声を聞き取りたい土筆です

父の死ー1 [2007年05月31日(木) ]
父が亡くなった。3月12日に入院してから2ヶ月半、5月27日零時20分に息を引き取った。82歳と8ヶ月の人生だった。
父は零時を過ぎた頃から心拍数が120を下回り、80とか70台になっていった。私は病室の前のナースセンターで心拍数を目で追っていた。私の息子が東京から最終の新幹線で帰ってくる。妻が駅まで息子を迎えに行っている。何とか間に合って欲しいと祈っていた。息子が病室に入って来たのは零時10分、すでに呼吸は弱々しく間欠的であったが、息子が父に呼びかけると父の身体が反応した。息子を待っていたのだと分かった。その数分後、父は息を引き取った。父の妻、父の4人の子どもたち、そして父の孫たち、皆に囲まれての大往生だった。私の娘と私の一番下の妹の娘(共に20歳)が声を押し殺して泣いていた。この二人の娘はおじいちゃんが大好きだった。父はこの二人の孫娘をとても可愛がっていたのだ。
父の死を確認の後、私以外は皆、我が家に帰ってもらい、私は一人で担当医師の来るをの待った。医師に死亡診断書を書いて戴き、それから葬儀社に電話を入れるようにと看護婦さんに言われていた。
20分ばかりして担当の医師がいらっしゃり、死亡診断書を書いて下さった。「お世話になりました」と私は心からお礼を述べた。
2ヶ月半、長いようで短い父と私たちの病院生活だった。特にこの1ヶ月は昼夜を問わずの付き添いだった。母が主に夜、父のベットの脇で寝ての看病だったので、母も限界に近づいていた。父と同じ82歳の母にとって、薄い敷き布団では腰も身体も痛くなり、数日すると耐えられないと言っていた。しかも病人は夜になると却って起きているし、看護婦さんが定期的にやってきては容体を診る。とても眠ることなど出来ない状況だった。この3日間は、私は母と二人で夜、付き添っていた。母一人では母の身体が心配だったからだ。個室で広いとはいえ、コンクリートの床にござを敷き、その上に薄い敷き布団一枚、そして掛け布団一枚では家から毛布を持ってきているとはいえ、身体に障る。
ともあれ、母と私たち子ども4人の総力をあげた看病生活は終わった。真夜中だったが私は予め電話番号を調べておいた農協の葬祭センターに電話をかけた。

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父の病状ー3 [2007年05月23日(水) ]
人は何の為に生まれてきたのか? 末期の肺癌の父と毎日向き合っている内にそんな問いが生まれてくるようになった。丁度一週間前の朝、母と看病を交代する為に妹を乗せて病院に行くと、父は便せんにびっしりと書いた紙を私に突き付けた。読むと、未だ父の入院を知らせていない、ある親戚にあてた手紙文だった。父の入院は、知らせなければならないところには殆ど知らせたが、その親戚だけは知らせるなとの父の命令で、未だ知らせていないのである。

その手紙は本家・分家について書かれたものであった。我が家を本家と認めるなら見舞いに来てくれ、もし認めないなら見舞いに来る必要はない、といった内容が書かれている。父にとって本家・分家という関係がずっと心を占めていたのが分かった。その手紙を私にその親戚に持って行けということだった。

一体どのように処理をしたらいいのだろう。私はこの手紙をそのまま親戚に持っていこうとは思わなかった。これから葬儀を控えているのに、親戚との間に争いの種になるようなことはしたくなかった。これは明らかに父が私に出した問題だと私は受け止めた。普通に考えれば本家・分家の関係は主に血縁によるモノ・カネの贈与、分与の関係と言うことになるだろうが、父の霊体が私の霊体に出した問題だと捉えると解くのがとても難しい。

今まで父から聞いている話では、その親戚の大本は確かに我が家の先祖じいさんが係わっている、というより先祖じいさんが建てた家だ。だが、もう明治20年代の話しである。そんな古い昔のことを、ましてや、その山裾にあった家はとうの昔に壊され、今の御当主により街中の新しい土地に引っ越し、新しく建てられている。当事者の誰も生きていない今、実際のところは誰にも分からなくなっている。今になって、本家だ、分家だと言ってみたところで始まらない。

「まき」という言葉がある。「あそこの家は○○のまきだ」というように使う。家を単位として、その本家・分家などの関係によって結ばれた集団のことである。

この問題を考えているうちに突然、私は思った。一体、我がきっちょむ家に受けついできた精神の伝統があるだろうか? きっちょむ家の人間の生きる心得というようなもの、家訓といっても良いし、家の柱と言っても良いもの。きっちょむのまきは皆この精神によって生きるのだ、といった命の使い方があっただろうか? 

モノ・カネや地位や名誉を得るのだけが人生の目標であるような、また、他人に迷惑をかけず、人並みの生活が出来ればそれでいいといったような生き方が中心ではなかっただろうか。身上を築いたとか、身上をつぶしたとか、モノカネ・財産にばかり目がいっていて、何にこの命を使うのかという、人間として最も大事な命の使い方を明確には築いてこなかったし、伝えても来なかったのではなかろうか。真に守るべきもの、贈与・分与すべきものは我が家の精神の伝統、命の使い方ではないのだろうか。

父の霊体が私に指し示していることは、きっちょむ家の柱を私に作れと言うことなのだ、と確信した。私はそう受けとめるのが最も自然なように思った。その晩、私は自分の部屋で心鎮めて、父宛に書いた手紙を読み上げた。父の御霊に「必ず近いうちに我が家の柱、我が家の家族の命の使い方を定めます」と約束した。
翌朝、病院に行くと、担当の先生から、「お父さんが大分苦しそうなので、今日から全身麻酔用の薬を使います」と聞かされた。病室に行くと、父が「もう、よっぱら生きたので、早く楽にしてくれ、と、今、先生に頼んだ」と言った。

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父の病状ー2 [2007年05月20日(日) ]
大正十三年、小さな農家の長男に生まれた父は昭和十九年に戦地へ。終戦後帰ってくるとすぐに山里の農家の末娘と結婚。私が生まれた。大東亜戦争、終戦、農地解放、そして戦後の経済の高度成長へとめまぐるしく変わっていく時代状況の流れ中で、僅か一町五反ばかりの農地を耕し、農業をやりながら四人の子どもを育てて母と生きてきた父にとって、人生とは何だったのだろうか? どんな意味があったのだろうか? 父の人生は満足の人生だったのだろうか? そんな思いが浮かんでくる。

私の他は三人の妹、四人兄弟である。父の入院と同時に、毎日の付き添いは母と三人の妹たちが交代でやってくれている。三人の妹たちは何れも嫁いでいるが我が家から近いところは車で十五分、遠くても車で四十分の距離であるから、この様な時には何かと有難い。四月の中頃までは昼間だけの付き添いだった。

ゴールデンウイークが近づいたある日の未明、まだ時計の針が三時をまわったばかりの頃、突然家の電話が鳴り、病院の看護婦さんから父が三階の病室から飛び降りようとしていると興奮した声で電話があった。私はすぐに駆けつけた。父は看護婦さんと部屋のベットで起きていた。メモ用紙に「先生ありがとう。看護婦さんありがとう。皆さんありがとう。悔いのない人生でした」と、いかにも遺書と言わんばかりの文字がハッキリと書かれていた。この数日前から母に「包丁をもってきてくれ」と何度か言っていたらしい。お見舞いに果物を貰うので、剥いて食べるのだと言うことだったが、何故か不吉な予感がして果物ナイフを病院に持っていっては駄目だと私は母に強く言っていた。母がもっていこうとしているのを偶然見かけて私は止めていたのだった。

父は日頃から「もう覚悟している。どうせ長くないのなら早く逝きたい」と言っていた。死ぬことの覚悟は七年前の胃癌の手術の時にすでに見受けられた。自分の父より長く生きたのでもういつお迎えが来ても良いのだ。みんなありがとう、とその時も言って胃癌の手術を受けた父だった。

一体どういうことでしょうか? 知人に父のことを話したら、知人からは即座に返事が返ってきた。「貴方からお父さんの様子を聞いてすぐに分かったわ、前世はおそらく名のある戦国の武将だったのだと思うわ」

霊的能力のある彼女はこともなげに言った。今までの父の生き方、言動を考えるとそれは当たっているように思う。潔い男であり、決断は早く、行動も迅速な父であった。逆境を屁とも思っていないところがあった。私がまだ東京にいた頃、父はムラから推されて市会議員に立候補した。金に余裕のない父はポスターをカラーではなく、白黒で作った。立候補する人の誰がそんなことを考えるだろうか、カラーのポスターの中に混じって白黒のポスターは却って人の目を惹いた。ムラの皆さんが応援してくれて市議を二期勤めた。郷土の人々の精神が如何に自己中心で、公の心がないかを父は事ある毎に私に話した。父の口にかかるとくそみそだった。だが、父はこの郷土を、この地の人々を誰よりも好きなのが私には分かっていた。熱血漢で良いと思ったことは誰がなんと言おうと貫き通した。

家では暴君だが、母はそんな父によく仕えた。二人は何をするにも一緒だった。父は農協や、議員の旅行で、自分が一人で旅行に出るときには必ず、沢山のお土産を買ってきた。お土産代は概ね旅費の半分だった。母に旅の一部始終を語って聞かせるのが常であった。母はいつも「私は旅行に行かなくてもおじいちゃんの行ったところは自分が行ったよりもよく知っている」と話していた。

病院での夜の騒動があった朝、看護婦さんから「昼よりも夜に家の方に付いていて貰った方が良いのです」と言われ、その夜から母が父のベットの脇で眠ることとなった。

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父の病状ー1 [2007年05月19日(土) ]
3月に入って同居している82歳の父の声が突然出なくなった。明け方喉が裏返しになるほどの咳をしているような音が階下から聞こえ、朝食時に降りていくと父は声が出せなくなったことを微かなかすれた声で言った。耳を父の口元に近づけると聞こえるが、少し離れると聞こえない。喉に異変が起こっているのだ。その日は朝一番に町の耳鼻咽喉科の医院に父を送っていった。

医院からは新潟市内の大きな病院の耳鼻咽喉科の医師宛の紹介状を頂いて父は出てきた。その足で病院に行く。全部予約制のこととて4時間以上待って漸く診て頂いたが、左の声帯が全く動かないとのこと、エコーという機械で映し出された映像を見せられながら若い医師から説明を受ける。消化器、あるいは呼吸器、また肺に何かの異常があり、左の反回神経が麻痺しているのだという。何れにしろ検査の必要があるが、父がいつも診て頂いている地元の病院に今までのデータがあるので今度はそちらの病院の医師宛に紹介状が書かれた。

翌日、地元の病院に父を送って行くとすぐに検査入院となる。次の日、仕事に出ている私のところに病院から電話、外科の先生のお話があるという。少し不安を覚えながら病院に急ぐ。約束の午後4時ちょっと前に病院に着くと医師はすでに待っておられた。大きな紙袋から肺のレントゲン写真が出され、説明を受ける。左の肺の心臓のすぐ上あたりに2センチ弱の丸い白い影が映っている。ほぼ一年前に撮ったレントゲン写真だった。この時すでに本人に肺癌だと医師は伝え、手術を奨めたが、父はこのままで良いと、手術を断ったのだという。高齢だということもあり、手術をしても成功の可能性は50lくらいだったので、医師は無理にとは言わなかったのだそうである。今日撮った写真は癌が6センチ強に大きくなっていることを示していた。心臓も大きく見えた。癌細胞が広がっていき、左の反回神経を麻痺させているのだという。医師から、もう声は戻りませんよ、といわれた。医師は私に「このまま行くと、もって後二〜三ヶ月でしょう。心臓に癌細胞が食い込んできているので心臓が破れるか、あるいは停止するでしょう」と説明された。

父は延命治療を一切拒否する旨を医師に伝えていたことを医師から聞かされた。。七年前に胃を全摘する手術を受けて以来、もう人生は終わったと父は思っているのかも知れないと私は思った。酒の大好きな父は胃癌の手術直前まで酒を飲んでいた。胃癌で胃を全部摘出したあと、一年位は酒をやめていたが、またやりだし、喉がおかしくなりかかっているのを自覚しながらもまだ飲んでいたのだった。

人生の最後の時に向かって父はどんな想いで酒を飲み続けてきたのだろう、ふと私はそんなことを考えた。

Posted at 10:29 | 人生の最後の時を迎えて | この記事のURL
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南瓜の芽 [2007年05月09日(水) ]
一週間ほど前に、「四季どりキャベツ」と「霜しらず地這(夏秋用)のきうり」それに「くりあじ南瓜」の種を買って来て、早速一晩水につけて翌朝ポットに蒔きました。朝晩水をやっていたら二日前から芽が出始め、今朝はきうりを除いて芽が出そろいました。

何れも川端の畑に植えるつもりでいたのですが、キャベツときうりはやはり無理だと分かりました。野菜作りの私の師匠のお話では農薬を使わないと暑い盛りのキャベツは虫が食うので穴だらけになって人間様の口には入らないと言います。
また、きうりは、なりだすと毎日もぎに行かねばならないので家から遠くの畑では大変だとのこと。どちらもごもっともです。
かくて、もう少し南瓜が成長したら川端の畑に南瓜苗だけ植えに行くつもりです。

南瓜は煮たのも美味しいですが、私の一番好きなのは皮をむいて柔らかく茹でたのを裏ごしした南瓜スープです。

Posted at 12:59 | 野菜作り | この記事のURL
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ナスのて(裏の畑 その3) [2007年05月08日(火) ]
ナスは夏の代表的食べ物です。きうりより長く秋まで食べつづける大切な食べ物です。今年はみずナスを2本しか植えなかったので、なりの悪い丸ナスや十全がどのくらい出来るかによって我が家の食卓が変化します。(というほど家族が多いわけではないので、たとえ、十全10本も植えてあるのですから、なりが悪くとも実のところ全く影響はないのですが、ちょっと言ってみただけです)



ナス苗は風に倒れ易いもの。昨日植えたナス苗を今日はしっかりと支柱を立てて、てをしました。ナスは油によく合うし、蒸すのも焼くのも煮るのもまた良く、勿論漬物にしても美味い。

初夢や一富士二鷹三茄子(為す)です。

Posted at 20:11 | 野菜作り | この記事のURL
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裏の畑(その2) [2007年05月05日(土) ]
母は裏の畑で殆どの野菜を作ろうとしているようにみえます。屋敷内で作れば何をするにも便利だからです。とって台所まで10秒。
「もう食べる者がいないのだから」、と昨年より苗は少ない。きうり12本、ナスは丸ナス10本、十全ナス10本、大長ナス1本、みずナス2本、シシトウ1本、ピーマン3本、韓国唐辛子1本、赤唐辛子1本。
ヤーコンは種を播いているが芽のでていないところにとヤーコン苗を2本。
今日は朝からそれらを植え、きうりのてをしました。今日一日降らないという予報なので助かりました。

               イチゴと讃岐豆も花盛り



               ハナズオウとカリンの花も盛りです。

Posted at 10:21 | 野菜作り | この記事のURL
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川端の畑1 [2007年05月04日(金) ]
我が家には畑が5つに分かれてあります。父の入院で母の手が回らなくなり、母は家から遠い、堤外にある2カ所の畑は今年は行かないと言います。草だらけにしておけないので、私がやる事にしました。土が良いのは信濃川の水が流れているすぐ傍にある畑です。砂地で水はけも良く、例年父母はここでゴボウや長芋を作ってきました。この2年ほどは掘るるのが私の役目でしたが、昨年はゴボウも長芋も、ほれぼれするものが出来ました。
今年は私が作るので、サツマイモの苗、それにゴボウと長芋の種を買いに行こうとしたら、母がゴボウも長芋も、もう少し時期が遅いと言います。それでも長芋なら良いのは出来ないかも知れないが、まだ間に合わないこともないというので朝、早速ホームセンターに長芋の種芋を買いに行きました。長芋は良くできると1bにもなる立派なイモが出来ますが、掘るのが大変なのでやまいもの短形の自然薯にすることにしました。
それとサツマイモの苗です。サツマイモはベニアズマと紅高系の2品種を買いました。サツマイモは蔓を伸ばし葉を広げるので畑に草を生えさせない効果があります。痩せ地でも肥料無しで作る事が出来る、いわば誰でも植えさえすればある程度とれる素人向きなのです。
              畝もサツマイモの植え方も如何にも素人

              まだ畝を作っていないところは南瓜の予定


隣の畑は1反2畝ばかりあります。隣ムラの70歳の女性が毎日のようにやってきては作っています。今日はネギを伏せていました。彼女一人で3反の畑をやっているのだそうです。50年間農業をやってきたが、農作業が辛いと思った事は一度もなく、楽しいと顔を綻ばせながら仰います。日々成長していく野菜を見るのは自分の子どもを見るようだと。
また、その野菜を得意先に自分でバイクに乗って届けに行くのだそうです。50年やっている内に自分の作った野菜を買って下さるお得意さんが出来たのだそうです。得意先が家族で食べる野菜の大部分は自分がまかなっているのだと。だからおかしな野菜は作れないし、農薬も出来るだけ使わない。「貴方の作った野菜以外は食べられない」と言って下さるのが一番嬉しいと仰います。
          
              隣の畑、 師匠はネギを植えています

野菜の作り方についていろいろ教わりました。畑を効率的に使う方法や野菜の組み合わせで、病害虫の発生を抑える事など、畑に植えてある野菜を例に説明しながら教えて下さいます。私に野菜作りの師ができました。
今年は暇な時間は畑にのめり込みそうです。

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裏の畑(その1) [2007年05月01日(火) ]
我が家は農家です。といっても私が東京から帰ってきた19年前にはもうすでに田んぼは委託に出し、親戚に作ってもらっていました。家の前の7畝の田んぼが大型機械が入らないので減反にし、草ぼうぼうなので見かねて完全無農薬天日乾しの米作りを10数年に渡り私がやりましたが、それも昨年限りでやめました。今は7畝の田んぼはコンビニになっています。私が土地を貸したからです。
両親は田んぼこそ委託に出しておりましたが、畑の方は二人でつくっていました。その面積約2反歩。家で食べる分は充分と言うより、食べる分より捨てる方が遙かに多く、それでも草だらけにしておけないので父母は作り続けてきたのですが、父がひと月ほど前から入院、ために母が毎日病院へ行っていますので、畑はやることが出来ません。
そこで全く素人ながら私がやり始めました。
先日はサヤエンドウのてをし、昨日は肥料や種を買い、今日は畑の草を取りました。明日耕すつもりですが、どうやら天気予報は雨らしい。それにしても鍬などもった事もないのが急にやり始めたので勝手が分からず、肉体的に疲れます。ふ〜。

両親ともに82歳。いくら二人でとはいえ、よくもまあ、その年齢で今まで野菜を作り続けてきてくれたと心から感謝した事です。我が家では一年中殆ど野菜は買った事がない。それもこれも父母が毎日畑に出て作ってきてくれた御陰です。

Posted at 19:46 | 野菜作り | この記事のURL
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