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ああ新撰組、堂々三部公開  [2008年08月03日(日) ]
先日、日野市、新撰組の史跡を訪ねて見てまいりました。

新撰組、6番隊組長井上源三郎資料館、日野宿本陣、土方歳三資料館
では、子孫の方がそれぞれ熱心に説明、解説をされて興味深い散策
でした。






  
高幡不動 土方歳三 像





司馬遼太郎の『幕末』『徳川慶喜』他、幕末ものを若い頃、読みあさりましたが、何故旧幕府軍が薩長軍に簡単に負けてしまったのか、今ひとつ、よく理解出来ないでおりました。

今回、その部分を含めて見直してまいりましたが、その結果、全容がほぼ分ってまいりました。

幕末の背景

幕末の政治は藩の意志として倒幕を目指した藩はひとつもなかった。
平和的な王政復古と、新政権で中心的な位置を目指し、抗戦的な会津藩、桑名藩に軽挙妄動を慎むように押さえ、恭順の態度を取っていた徳川慶喜。朝廷は幕府軍との戦いを避けるためにも徳川慶喜、新政府参加に傾いていた。
一方、新政府においてこの件について会議が行われた。薩摩の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきと主張していた。
そんな中、鳥羽伏見の戦いは西郷らの『暴発』によって戦いが始まってしまい。結果的に幕府崩壊の道に進んで行ったのである。

敗因
@幕府軍の総指揮官が24歳という若さで、戦いの経験が全く無かった。
A兵器に新旧の差があった。
B幕府軍の指示系統に行き当たりばったりで統一性が無かった。
C徳川慶喜は新政府軍の挑発にのらぬように、戦いの先頭に立つことなく、大阪城より、江戸に戦いの最中に戻ってしまった。
D錦の御旗を新政府軍は岩倉具視と画策し、これを建てることに成功し  た。  
E藤堂藩が、朝廷の勅使により寝返った。

こんなことをまとめたものが、2002年にNHK『その時歴史はうごいた』で
放映されていたのを捜しあてました。会津藩お抱えの新撰組から見た、鳥羽伏見の戦いからのあらましを作成してあり、これを多少短く編集、載せてみました。興味のある方はご覧になって下さい。

新撰組副長 土方歳三、時の流れを知らぬわけではなかったろう、あえて武士の骨格である忠誠心を貫き通した生き様に、古き一時代前の企業戦士の末端を自負するものとして理解出来、土方歳三の辞世の句(第三部の最後に表示)に感涙するものである。

何しろ、動画の容量が大きいため、動画預けサイトの容量にあわせ、3部作としました。

各、7分から8分になります。長いためお暇のあるときにご覧になって下さい。

ああ新撰組第一部  鳥羽伏見の戦いが勃発するまでと戦いの戦況

ああ新撰組第二部  伏見で破れ鳥羽で善戦した幕府軍だが・・

ああ新撰組第三部  鳥羽伏見、淀の戦いに破れ天王山、男山のふもと橋本の戦いで敗北し大阪城にもどり、江戸、東北、北海道と戦った土方歳三の最後まで

BGMを消すのは、左のプロフィールの上の音楽ボタンの■ボタンをクリクして止めて下さい。

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手裏剣の練習  [2008年06月30日(月) ]
<大>手裏剣の練習をしておりますが、目標の一つである4.5M離れた距離の的に100本投げて70本刺す確率、的中率70%を越えました。

昨年の4月にこの目標を立て、約1年、これに要した打剣回数約16000回で
ようやく74%を出しました。
次の目標は3間の距離5.4Mからの目標に向かって、修練中です。最終目標は、当流派の最大射程距離7.2M(4間)からです。

写真は6月に行った合宿。



庭にて練習風景の短い、ビデオです。2間半(4.5M)距離です。
カミサンからは庭では、近所の人に怪しまれるので禁止になっていますが
カミサンの居ない時をねらって写しました。従って内緒です。

手裏剣の練習



尚、刺る威力ですが、私のような高齢者では雑誌を的に投げ刺すと100ページから200ページの範囲でしか入りませんが、手に錐、又は同じ手裏剣を持って力いっぱい刺してもそこまではいきませんでした。

今回の合宿での若い優勝者は480ページ打ち抜いています。

Posted at 12:26  | この記事のURL
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皇居宮殿内部  [2008年05月05日(月) ]
前回、皇居東御苑散策をアップしました。今回は、一般には入れない宮殿内部写真をご紹介いたします。

宮殿は昭和44年に竣工しております。当時、建設造営工事の関係者だった亡父が竣工後、『宮殿造営記録』なるものを宮内庁より工事関係者に賜り、その中の竣工写真をフォトストーリーにして見ました。

『宮殿内部写真』

宮殿の各建物の名称、配置を写真と図面で示しましたので、参考にご覧になって下さい。




平面図は見えにくいとおもいますので、上の上空写真と見比べて下さい。
図面下側より長和殿が横長に163m、奥行き15.6m、高さ、軒下9.0m、の大きさです。
この建物の中、左右に南溜めホール、北溜ホールがあり受付記帳。
階段を上がって中央に春秋の間という大広間があります。この左右に廊下があり東側の廊下には毎年参賀に御立ちになる所です。

右側に、豊和殿が大食堂、続いて厨房棟、その上が連翠殿で小食堂です。

左側は回廊約70mがあり、左側に千草の間、千鳥の間の休息所に続いて図面上側の正殿で松の間で謁見されます。

宮殿造営の経過

明治6年おりしも5月5日、西ノ丸の皇居が炎上して、天皇・皇后両陛下は
赤坂離宮を仮御所と定められました。
江戸城は、築城より1637〜1868年までの間な6回も炎上し、前回の東御苑の石垣は熱せられて各所表面が割れておりました。
中でも1657年の明暦3年の大火は、天守閣を焼失して、それより天守閣は再建されておりません。

明治21年に宮殿は完成し、60年の歴史を経て、昭和20年1945年5月25日
米空軍の大空襲にさいし、霞ヶ関一帯の火災から飛び火して26日未明
ついに炎上しました。

昭和23年まで、『宮城』と称されていたが、平和日本にふさわしくないという世論があり、普通名詞の『皇居』と呼ばれるようになった。

戦災後、皇居内は、かなり荒廃していたが、これを勤労奉仕により清掃したいという声が自然に国民から起こり、実行に移されている。

その後、昭和35年皇居造営工事方針決定。昭和39年7月着工、昭和43年
11月14日竣工式、佐藤栄作内閣総理大臣祝辞があった。

総工費、約131億円であった。

当時の大学初任給3万円代、現在20万前後、米価にすると60kg当たり当時8000円、現在14000円前後であるという。

Posted at 15:21  | この記事のURL
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東御苑と皇居周辺散策  [2008年04月26日(土) ]
<太>桜田門から入り、二重橋⇒坂下門⇒皇太子成婚記念噴水公園。
昼より、大手門より本丸跡⇒大奥跡⇒天守台から二の丸庭園のツツジ観賞して平川門より帰りました。

フォトストーリーにしました。

所用時間4分10秒
クリックしてください
『皇居東御苑』





Posted at 07:07  | この記事のURL
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深川縁日  [2008年04月04日(金) ]
先日、深川、門前仲町の小さな縁日に行ってきました。麻布十兵衛様が書かれているのと同じです。

桜は当時まだうっすらと咲いき始めというところでしたでしょうか。

深川不動、富岡八幡宮などもみてまいりました。

縁日の様子、フォトストーリーにしましたので、下をクリックしてください

深川縁日


写真中が富岡八幡宮 下が深川不動

Posted at 12:38  | この記事のURL
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天璋院篤姫展  [2008年03月05日(水) ]
先日、両国にある江戸東京博物館に行き、大河ドラマでの天璋院篤姫展を見に行く、おりしも昨日ドラマの篤姫役の宮崎あおいが結婚という報道があった。

篤姫は薩摩藩主島津家の一門に生まれ、ペリー来航に揺れる幕末の動乱期、徳川十三代将軍家定に嫁ぎます。夫の急死後は落飾して天璋院と号し、若き十四代将軍家茂の養母として、その夫人和宮とともに江戸城大奥をとりまとめ、やがて訪れた戊辰戦争字には、西郷隆盛ら新政府軍に働きかけ、江戸城無血開城に大きな役割を果たしたとされています。

数ある歴史展覧会で、一人の女性に焦点を定めて、これだけの規模のものがもようされるのは珍しい事で、幕末から明治へと日本が大きくその進路を変えて行く、変化の中心に立たされた天璋院の毅然とした生き方に、現代の我々に強く訴えるものがある。(主催者の語りの一部を掲載)

司馬遼太郎の小説の世界で、西郷隆盛と勝海舟の会談で、無血開城が成立したとしか思っていなかったが、この展覧会の数々の当時の文章を見て、天璋院の尽力が実際にあったことを知り、この時代も女性の力はやはりすごかったと実感しました。私にとっては、見ごたえのある2時間あまりでした。
天璋院と皇女和宮は当初は確執があったようですが、聡明な二人の女性はその後徳川家存続のために協力、若くして亡くなった和宮を偲んで後年
詠んだ歌


君が齢とどめかねたる早川の 水の流れもうらめしきかな

場内撮影禁止のため、写真集よりフォトストーリーを作りました。パラパラ
めくるつもりでご覧下さい。






Posted at 12:13  | この記事のURL
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運動系趣味について  [2008年02月13日(水) ]
先日、TVで野球の長島さんが、リハビリについて語っていました。『リハビリを一日休むと身体は2日前に戻るので苦しくてもリハビリは毎日続けています』
この言葉を聞いて、リハビリだけではなく、我々の年齢には年を重ねる毎に
運動の学習機能が衰えて行くように思います。

私は、手裏剣等変な運動をやっておりますが、3年前に始めた頃は、多少今より元気が良く、毎日自宅練習をしていました。
それなりに進歩したのですが、ここに来て毎日がしんどくなり、1日置き、2日置きになりますと、どうも進歩しません。

1年前に目標を、距離3間半で150回投げて的に手裏剣の刺さる確率を80%と定めたのですが、去年の前半が50〜70%代を推移していましたが、最近は50%を越えるのが稀になってきました。身体の感覚が掴めないのです。
身体が刺さる感覚を学習しないのです。

身体の機能が低下して行くのが、ひしひしと感じる年になってしまいました。
そこで最近、刺さった時の感覚を文書にして記録するようになりまた。その日、その日で違います。はじめる前にそれを見て、終ったら加筆修正して行くようにしました。

何か記憶することを文書で残して、思い出すという事も必要なのかもしれませんね。

年を重ねてる過程での上手な対処の仕方など、気が付かれたことがありましたら教えてください。
合宿風景(私ではありません)






演武風景(この外人さん恋に破れて傷心で帰国)

Posted at 16:39  | この記事のURL
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ある一日の夫婦  [2008年02月05日(火) ]
年金暮らし、5歳年下のカミサンと二人暮らしをしています。
雪が降った次の日、私は、家でテレビのラジオ体操の時間に合わせて体操、簡単なストレッチ運動、手をデンデン太鼓のように腰回しと一緒に振る、スワイショ(太極拳の呼び方)を行って、合わせて25分くらい行っています。


穏かな、午前中でした。
カミサンが昼のやきそばを作りはじめたので、それが出来るまで、私は車庫の車の前と、玄関前の雪をどける作業をやることにして、長靴、スコップを手に約30分、奮闘、あまり使った事がない筋肉と、よる年波でふうふう言いながらそれなりに一段落させ、車庫と玄関前はホースで水撒きまでして
前面道路は、夕方陽が回るので多少の雪は溶けると計算して、出来たやきそばを美味しく食しました。

その日の朝、一人でテレビのみのもんたの『朝ズバ』をみていたら、夫婦の題材で川柳を紹介していていました。

夫婦の円満のひけつは

『円満は 見ざる言わざる 逆らわず』ですね〜。
『夫婦仲 鈍感力が ものをいう』、
『了解と 右から左へ 受け流す』と言うのもありますよ



夫婦道の大事な付き合い方の一つかもしれませんね。





Posted at 20:28  | この記事のURL
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日比谷〜靖国神社散策  [2008年01月24日(木) ]
日比谷から桜田門、半蔵門、イギリス大使館前を通って靖国神社まで
約4時間の散策をしました。



そのフォトストリート約2分40秒



日比谷のお堀、桜田門方面



帝国ホテル


Posted at 21:28  | この記事のURL
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ロボ君新年ご挨拶  [2008年01月02日(水) ]
本年も宜しくお願い致します。

拙いロボ君(Mu君)新年ご挨拶。

Posted at 19:51  | この記事のURL
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