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歴史と鉄砲〜長篠の戦〜  [2006年07月19日(水) ]
 山縣勢は勝ったと思った。このまま馬防柵を打破って侵入すれば、徒士の兵などものの数ではない。
「進めや。今ぞ!」
 あわてふためいて、中から木戸を締めようとする柵ぎわで、殺到して来た騎馬隊は、そのまま馬を乗りしずめ、そこここでメリメリと柵木を倒しにかかってゆく。
 期せずして柵の外は人と馬で埋まった。
と、その瞬間だった。
 柵の前に密集している騎馬隊二千の上へ、信長の伏せてあった鉄砲隊の銃口が天地をふるわして炸裂したのは.......ダダダーン!
 いちど止んだと思うと、直ぐまたダダーン、ダダダーンと四回続いた。凡そ二千発以上の銃弾が密集部隊を見舞ったのである。

 あたりはシーンとなった。凡そ三十秒足らずの短時間の間に柵の前は文字どおり死人の山.......

 名作と言われる山岡荘八による「織田信長」の長篠の戦いのシーンだ。
 さて、この臨場感溢れる描写は果たして事実をそのまま伝えているであろうか?

 種子島にポルトガルの火縄銃が渡来したのは1543年で、長篠の戦は1575年だった。鉄砲の威力を逸早く見抜いた天才、信長は渡来後僅か30余年で実戦にその鉄砲を投入したのだった。

 この火縄銃は筒先から火薬を押込み鉄のボール玉を弾き出す。先ず黒色火薬を包んだ紙包みを破り、筒先から落とし込み、続いて鉄玉を落とす。そして火縄に着火し、その火花が火薬に引火して爆発を引き起こし、その風圧で玉を弾き出す仕掛けになっていた。

 このような手順になるのだが、このプロセスに少なくとも三分を要し、火薬の量を誤ると不発や手元で爆発が起きて、四発に一発は不発だった。不発の場合は勿論、玉を発射することに成功しても、その都度、筒の内部の清掃を必要とした。黒色火薬の残滓がこびりつくためだった。そして八発も撃つと、オーバーヒートで冷えるまでの間暫く中断せざるを得なかった。

 その上、鉄玉は筒を飛び出す時の角度が定まらず、初心者のゴルファーの如く極端なフックやスライスで、狙いの的を撃ち抜く距離は精々十メートル程度だった。性能が改良された3世紀後の南北戦争当時でも50メートルが限度で、20メートルを超える標的は狙い定める意味が無いと言われた。

 語り継がれているように、信長の鉄砲隊は数段に重なって柵の背後に隠れていたが、射程能力から考えて、その距離は騎馬隊から10メートル前後だったであろう。何事にも徹底を期した信長のことだ。至近距離でないと命中率が零に近くなることを日頃の訓練で織田軍は承知していたと考えるべきであろう。

 山岡によれば、4回の一斉射撃があったことになっているが、十数メートルの距離だ。もうもうと立ち込める硝煙が30秒で消え去ることはなかった。だから二度目から後の一斉射撃は盲射ちだったことになる。それにも拘らず死人の山が出来たのは、どうしてか?
 南北戦争開戦当時でも、鉄砲隊の命中率は発射した銃弾の1パーセント以下だった。信長軍は訓練が行届いていたとはいえ、百発百中と考えるには無理がある。

 一度目の射撃で生き延びた武田の騎馬隊が無駄と知りながら再三の攻撃をし掛け、結果として全滅に近い敗戦を負ったとする方が自然だ。どうも実際は山岡荘八の流れる如き描写とはかなり異なる状況だったように思われるのだが。

 武田軍が鉄砲の弱点を知っていれば、射程距離ぎりぎりまで騎馬で進んで挑発を重ね、最初の銃撃が終わるや、硝煙の中を騎馬で突き進めば、おそらく織田の鉄砲隊は総崩れになったはずだ。
 短気の勝頼でなく、信玄であれば戦局は別のものになり、日本史も違う軌跡を描いたことになる。

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お隣の風景  [2006年07月15日(土) ]
 シャノアールさんが、北海道の素晴らしい光景を掲載されています。
 その光景をずっと辺鄙な様子に変えると、我が家の近辺の画像になります。

 我が家は雑木林が多く、見通しが良くありませんので、先ほどお隣までひと走りして持ち帰ったのが下記です。
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 右手に黒く点在するのが牛たちです。
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 これは同じお隣のコーン・フィールドです。もう人の背よりも高くなりました。映画「Field of Dream」でお馴染の光景ですね。食用ではなく、飼料用です。この畑をお隣のご主人は独りで、大型のトラクターを駆使して面倒を見ています。


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「インディアナポリス」と原爆  [2006年07月14日(金) ]

 また、あの日がやってきます。今回は広く知られていない、原爆輸送に関わる史実です。

 中西部に位置するインディアナ州の州都、インディアナポリスは、シカゴから車で3時間ほど南東に走った距離にある。成長が著しく、精力的な行政改革で市政を再建したことでも知られている。3年半ほどこの地に住んだが、中西部らしい落ち着いた町だ。
 しかし、一部のカーキチの人たちに500マイル自動車レースの開催地として知られているのを除くと、日本とは余り縁がない。

 ところが、このインディアナポリスの名と日本は思わぬことで接点がある。

 最初の原子爆弾がテニアンを飛び立ったB29によって広島上空で投下されたことは周知の通りだ。
 この最初の原爆を海路送り届けたのが、アメリカ海軍の巡洋艦「インディアナポリス」だった。

 アメリカ軍自慢の高速巡洋艦で、1936年にアルゼンチンで開かれたパン・アメリカン会議に出席するルーズベルト大統領は、この軍艦で現地に乗り込んでいる。高速を誇るだけあって、西海岸からハワイまでの3,300キロ強を74時間半で渡る記録を残している。平均時速が45キロに達する。

 終戦を急ぐアメリカが、初の原爆を海路運搬するのに、第5艦隊旗艦のこの高速艦を選んだのも当然かもしれない。
 ところが、「インディアナポリス」は任務を終えてグァム島からフィリピンへの帰還の途中、日本海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈してしまった。太平洋戦争でアメリカ海軍が負った最後の損害だった。

 この潜水艦は橋本艦長指揮下の伊58号といわれる。双方が呉、サンフランシスコを出港したのが同じ7月16日と不思議な運命の両艦だった。この潜水艦攻撃が往路であったならば、果してその後はどうなっていたであろうか。

 無線封鎖をしていたために捜索が遅れ、海中に投げ出された乗組員1,196人は5昼夜漂流しているうちに多数がサメに襲われたりして、救助されたのは316人だけだった。アメリカ海軍史上でも最悪の被害となった。

 余りの損害に動揺した米海軍当局は、潜水艦攻撃の回避行動を取らなかったとして責任の一切をチャールス・マクベイ艦長に負わせて、この事実を戦後まで公表せずじまいだった。祖父、父も海軍軍人で、父親は提督まで昇進した海軍一家の出のマクベイ艦長は、第二次大戦で艦艇の喪失を理由に軍法会議に掛けられた唯一の艦長となった。
 マクベイ艦長は陸上勤務の閑職に追われた後の1949年に退役し、1968年、70歳の時にピストル自殺を遂げている。

 ところが、海軍当局が日本潜水艦の行動を事前に察知しながら、マクベイ艦長に通告しなかっただけでなく、救助が遅れたのは、予定時刻になっても帰らぬ巡洋艦の捜索活動を怠った司令部の失策だったことが、半世紀後に民間人によって、それも疑問を抱いた一高校生の調査で明るみにされた。こうして二十世紀も末になって、ようやく艦長の名誉が回復した。どこの世界にもある話しだ。

 ところで、今となっては忘れられているが、旧日本海軍の潜水艦はアメリカやドイツのものに比べて飛び抜けて大きな図体だった。外国が潜水艦を主として近海の作戦目的に建造したのに対して、日本は最初から太平洋の各海域に出動可能なように、長い航続距離を持つように設計した。
 大西洋で活躍したドイツのUボートの一倍半の艦長があった。戦争末期には長さが百メートルを超える伊401号などのように、現在の原子力潜水艦を彷彿させる巨大な潜水艦を数隻進水させている。この超大型艦はパナマ運河の爆破を目的にしていたが、残念ながら、近海に一度出動しただけで終戦を迎えた。

 日本魚雷の性能の優秀なことは戦中にすでに広く行き渡っていた。このように優れた技術を備えた潜水艦を保有していた日本海軍だが、アメリカが大量に投入した輸送艦の攻撃にはほとんど使用されなかったようだ。反対に、南方への兵員や物資の輸送に転用され、その間に沈没を重ねている。
 旧海軍が兵站を切り崩す作戦を思い付かなかったのか、輸送船の如き軽武装の船を攻撃するのは武人の恥と考えたのか、戦後日本軍の潜水艦を没収し、その優れた性能を改めて目にしてアメリカ側は頭を傾げた、と言われる。
 

追記 広島に飛来したB29[エノラゲイ」は飛行機発祥の地である、オハイオ州、デイトンの博物館に陳列されています。
 この機長の孫が米空軍の軍人で、グアムに駐屯中のB2爆撃機に乗り組んでいるそうです。

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映画に強いステージの皆さんへ、速報  [2006年07月12日(水) ]
 映画博士のチャッピーさんをはじめ、ステージにはその道の通が居られますので、当地の速報を。

 ジョニー・デップ主演の海賊物(Pirates of the Caribbean)の最新作「Dead Man's Chest」がこの週末に全米で公開されましたが、これが何と記録的な収益で、金曜日の一日の売上が史上最高の55.5百万ドル(今まではスター・ウォーズIIIの50百万ドル)、週末総額でも2002年のスパイダー・マンの114.8百万ドルを遥かに超える132百万ドルでした。

 個性的なデップのひょうきんな振る舞いがこの人気だそうですが、この男優、既にその雰囲気が満々ですが、大俳優に化けるかもしれませんね。

Posted at 08:38  | この記事のURL
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小股の切れ上がった女  [2006年07月09日(日) ]
 自称、デリケートなappuruさんが、「、、、のいい男」という、過激なブログを掲載されていましたので、オノコの一角にぶら下がる小生としても一言を。

 一昔前、雑誌「図書」に長期に渡って「一月一話」というエッセイが連載されていた。どれも短いエッセイだったが、普段知ることのない隠れた事実や鋭い指摘があって楽しんだものだ。
 「淮陰生」のペンネームで書かれたこれらのエッセイの著者が誰なのか話題になった。イザヤ・ベンダサンの山本七平だったとの説もある。文体から見てもそのように思われる。

 その一話に「小股の切れ上がった女」があり、小股の切れ上がったとは何か、を論じた諸説を紹介している。

 幾つかの説のうち、面白いのは次のものだ。

 元吉原の某ヤリテ婆さんからの伝聞として紹介されている説によると、もともとは廓(さと)言葉から出たもので、花魁の足の運び方の違いを指すのだそうだ。
 花魁は廓の中を練り歩くのだが、突き出しの時代には内八文字という踏み方をするが、格が上がると、外八文字を踏むのだそうだ。

 内八文字は歩幅も小さく、すべてしおらしく見えるが、外八文字は、歩幅も大きく派手になる。女らしさ、色っぽさを失わずに、小気味良く踏めるようになった花魁を、小股が切れ上がったと評するようになった、とするのがこの説だ。

 著者はこれも諸説のひとつに過ぎないとして、結局、その意味も語源も分らない、と国語辞典の不親切さを指摘してこのエッセイを結んでいる。

 私は、この小股とは文字通り両脚の分岐点を指すのではないかと推察している。明治時代に普及したらしいこの言葉は、帯をキリリと締め上げ、着物の裾を小気味よく翻して、いそいそと歩む後ろ姿から、遣り手の女性を呼ぶようになったのではなかろうか。

 小生は、漱石の「虞美人草」に登場する藤尾のような女、と勝手に決め込んでいるのだが、おきゃんで少々小生意気な、でも竹を割ったようなサッパリした、ステージのアチコチに見え隠れする女。いかがであろうか。

Posted at 23:51  | この記事のURL
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嗜好の変化とロッド・スチュアート  [2006年07月08日(土) ]
 良い歳になって突然のように嗜好が変化するのは良くない兆候と聞いたことがある。しかし、徐々にであれば気にすることもないのだろうが、どうもこの数年、嗜好に変調を来たしている。

 食欲もそのひとつだ。当地では、刺身や酢の物、焼き魚、煮物、など、かっては無くては生活に困った新鮮な海産物や日本独特の野菜に恵まれない。ところが、このところそれほど痛痒を感じなくなってしまった。
 日本出張に際しては、あちらに着けば、昔通ったかのレストラン、あるいはあの料理屋へと思いを馳せるのだが、いざ、成田に降り、都内に向かう頃には、興奮状態は冷め、足は自然にトンカツ屋に向かい、ヒレカツやロースを食べてしまう。

 食欲が環境に左右されるのは、当然かもしれないが、音楽の類の変化も顕著だ。
 クラシックは、若い頃の激しいものから、シューマンやショパンなど耳に軽やかなものに移っていたのが、最近はまた昔に戻って、ベートーベンなどにメロメロだ。
 月並と思われようが、ベートーベンの第5番など、運転には離せない。

 その運転に欠かせないのが、ロッド・スチュアートのCDだ。
 この英国出身の歌手が日本で騒がれたのは70年代だっただろうか。ビートルズの直ぐ後に雨後の筍のように出現したロック歌手のひとりだった。

 女装をしたり、舞台で頻りに飛んで跳ね、しかもしわがれ声、とくるので、余り気にも掛けない歌手だった。
 20年近く前にダラス郊外に住んでいた頃、知人に誘われ野外コンサートに出掛けたことがある。この時もそれまでの印象と変わらず、芝生に寝そべり夏の夜空に見とれて、舞台の方は上の空だったものだ。

 ところが、今は、長距離のドライブに際しては、ベートーベンとロッド・スチュアートのものを必ず車に積み込むのだから、面白い。

 ロッド・スチュアートの代表的な曲は、Forever Youngだろうが、次のものも大いに気に入っている。
Rhythm of My Heart
Maggie May
Downtown Train
Reason To Believe
Some Guys have All The Luck
Tonight’s The Night
You’re In MY Heart
Ooh La La
この歌手も先日、還暦を迎えたそうだ。

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男と涙  [2006年07月07日(金) ]
 自称デリケートなrinちゃんさんが、表題について豪放なる批評をされ、一部の方からの、昨今は男も涙っぽくなったとの意見を拝見していましたら、本日、こんな記事が目に留まりました。

 これは硬いことでは定評のウォールストリート紙からですが、時には粋な投稿があり、ロンドンのデイリー・メイル紙の記者からのものです。

 英国はワールド・カップ戦で、ポルトガルにフリーキックで敗れ、4強に進出出来ませんでした。
試合直後、チーム・キャプテンのかの有名なデイビッド・ベッカムが、辞任を表明。
 ジレットの髭剃りの宣伝では厳つい顎を売りものにしているのに、頬を流れ落ちる涙がその顎から滴り落ちるのを拭うこともなく、泣きじゃくり、まさに倒れんばかりの落胆振り。
 英国の男はどうしたのか?と嘆いて、昔の例を引き合いに。

 ナポレオンが惨敗したワーテルローの戦いで、英国軍のアックスブリッジ卿は敵の大砲の直撃で片足を吹き飛ばされた。
 その時の卿の言、「オヤオア、我輩は片足を失ったノー」、傍らにいたウェリントン卿がそれに応えて、「本当ですね。足を失われましたね」。

 現代の英国男児はなっていない。英国サッカー・チームは、誰も彼も「nancy boys(泣き虫小僧たち)」と冷やかされるのも当然だ、とこき下ろしていました。日本チームはどうだったのでしょうか?
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 これは拙宅の前庭にあるクラブ・アップルです。大き目のサクランボのサイズの林檎で、秋には、大きなバケツに数杯の収穫で、大量のジャムとなります。

Posted at 06:39  | この記事のURL
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我が集落の墓地  [2006年07月04日(火) ]
 きょうは独立記念日で役所や普通の企業は休日です。
 娘の馬具店は逆に稼ぎ時ですので開店。その二階に居候の私の事務所もつられて開店。

 近くに集落の共同墓地があります。教会に付属した墓地もありますが、それらは規模が小さく、大部分の住民はこの共同墓地を利用することになります。
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 陽の差す斜面に並ぶ墓石には、いつもこのように花が沢山そえられ、年中絶えることがありません。住まいと墓地が混在しているからでしょうか。
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 現世では、自助と自活の世界だけあって厳しい人生を送るこの国の人たちですが、あの世に旅立つと、生前よりは丁寧に扱われるのが常、面白い現象です。

Posted at 23:45  | この記事のURL
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小泉首相、エルビス・プレスリー記念館を訪問  [2006年07月02日(日) ]
 ミシシッピー川に面したテネシー州メンフィスの町は、筆者の住むケンタッキーより5時間の距離です。ここは昔から河川交易の町として栄え、また、ニューオリンズで生まれたジャズが北上の途中にこの地でも盛んになり、今でもあちこちにジャズを奏でるクラブが存在します。そして、エルビス・プレスリーの故郷としても知られています。

 当地時間の金曜日に、この地を訪米中の小泉首相が訪れました。ブッシュ大統領と共に専用機で飛来、プレスリーの住んでいた邸宅跡の記念館訪問が目的で、首相からの希望に、同盟のよしみで米側が応えたとか。
 例の「ラブ・ミー・テンダー」の頭出しを口ずさむ首相の映像に、TVのアンカーが、「英語は殆ど喋らないが、英語の歌は歌う、、、」と。

 イラクへの派兵、牛肉の早期輸入再開、など先行投資をたっぷりした後なのですから、それに触れて、「日本もこれくらい無理を重ねているのだから、任期が残り少ないブッシュ君に、世界平和のために頑張れよ、と話したところだ」くらいのジョークを飛ばせないものでしょうか。
 英国で教育を受け、英語とは無縁でもないし、母国語ではないのだから巧みに操る必要もなく、せめて暗記位してパフォーマンスして欲しいものです。

 プレスリー邸訪問は、いわば三波春夫の墓を米大統領が訪れるようなもの。話題性には事欠かず、公の場だけではなく、一般の米市民に日本をアピールするまたとない絶好の機会です。
 はにかみながら、プレスリー愛用の縁がキンキラ眼鏡を掛けて、ラブ・ミー・テンダー、しかも頭出しの部分だけとは、情けない。先行投資には熱心なのに、果実を摘むことが不得意な経営者とそっくりと言えます。

 首相に随行した官邸、あるいは外務省の関係者が、何故、そのような進言をしないのか。残念です。

Posted at 03:46  | この記事のURL
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第二の国歌、「アメリカ・ザ・ビューティフル」  [2006年06月29日(木) ]
 来週火曜日は独立記念日だ。
 「星ちりばめた旗」がアメリカ国歌に指定されたのは1931年3月のことだった。南北戦争時代から国歌を定めようとする運動がしばしば起きていたが、色々の意見が百出しこれぞという曲に決められずにこの年まで国歌無しで来たのだ。

 この「星ちりばめた旗」と最後まで指定を争ったのが、「アメリカ・ザ・ビューティフル」だった。一番はこのようになっている。

O beautiful for spacious skies,
For amber waves of grain,
For purple mountain majesties
Above the fruited plain !
America ! America !
God shed His grace on thee
And crown thy good with brotherhood
From sea to shining sea !


 この第二の国歌として親しまれている歌詞は、1859年ニューイングランドのケープ・コッドで生まれた英文学教師、キャサリン・リー・ベイツの手による。
 1893年、コロラド州の州都デンバーの直ぐ南に位置するコロラド・スプリングスにあった大学で三週間の夏期クラスを担当したベイツは、終了間際に、他の教師たちと共にコロラド・スプリングスの町の真西にそびえるパイク山の頂上を訪れた。

 コロラド・スプリングスが既に海抜1,600メートル以上あるため現地でこの峰を見上げるとその標高を錯覚し勝ちだが、頂上は4,300メートルに達する高峰だ。
 ベイツの一行は最初は馬車で、途中からはラバに乗り換えて数時間を掛けて頂上に達した。その素晴らしい光景に感銘を受けたベイツがその夜ノートブックに走り書きしたのが、「オー・ビューティフル...」のはじまりだった。

 この詩はしばらく日の目を見なかったが、一部を修正したものが1895年の独立記念日に愛国歌として初めて或る宗教雑誌に掲載された。パイク山の感動から2年経っていた。掲載されるやこの愛国の詩は多くのひとから注目された。

 その後一部の表現が歌い易いように変更されると、全国的な反響を招いて、色々な曲に合わせて歌われるようになった。

 しかし今日我々が耳にする曲を作曲した本人は、その生前には自らの曲とこの歌詞が第二の国歌といわれる程普及するとは予想もしなかったふしがある。
 作曲をしたのはニュージャージー州のサミュエル・オーガスタス・ウォードだった。1848年生まれのウォードは、ニューアーク市の教会でオルガンを弾くかたわらコーラス隊の指揮者をしていた。
 1882年夏の或る日、ウォードは夫人と友人を伴ってコニー・アイランドに出掛けた。後には時代に先駆けて大規模なローラー・コースターが建設されてコニー・アイランドの名は全米に知られることになるが、ウォードが訪れた時にも既にニューヨーク郊外では最大の行楽地になっていた。

 コニー・アイランドからは外輪船で帰路についた。その船上でウォードが口ずさんで生まれたのがこの曲だった。最初はその当時普及していた賛美歌にこのメロディが使われていたが、各地の教会に新しい賛美歌を紹介する目的で発行されていた雑誌に掲載され広く知られる曲となった。

 1910年に発刊された賛美歌集に掲載されたのが、この曲とベイツの歌詞が一緒になった最初といわれている。しかし、作曲したウォードは1903年に皮膚病が原因で既に病死していてこの世にはいなかった。
 ベイツは出身校の英文学の教授を定年まで勤め、終生独身を通して1929年に69歳でこの世を去った。
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 「星ちりばめた旗」が国歌に指定されたのはベイツの死後2年後だったが、その決定迄には「アメリカ・ザ・ビューティフル」を愛する多くの人々が国歌への指定を要求して止まなかった。
 現在でも第二の国歌として国歌以上に頻繁に聞かれる。フロンティアが発端になったこの歌詞がいつまでもアメリカ人の心を打つからであろうか。
(写真は、リン・シアー著「アメリカ・ザ・ビューティフル」より転載)


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