山縣勢は勝ったと思った。このまま馬防柵を打破って侵入すれば、徒士の兵などものの数ではない。
「進めや。今ぞ!」
あわてふためいて、中から木戸を締めようとする柵ぎわで、殺到して来た騎馬隊は、そのまま馬を乗りしずめ、そこここでメリメリと柵木を倒しにかかってゆく。
期せずして柵の外は人と馬で埋まった。
と、その瞬間だった。
柵の前に密集している騎馬隊二千の上へ、信長の伏せてあった鉄砲隊の銃口が天地をふるわして炸裂したのは.......ダダダーン!
いちど止んだと思うと、直ぐまたダダーン、ダダダーンと四回続いた。凡そ二千発以上の銃弾が密集部隊を見舞ったのである。
あたりはシーンとなった。凡そ三十秒足らずの短時間の間に柵の前は文字どおり死人の山....... font>
名作と言われる山岡荘八による「織田信長」の長篠の戦いのシーンだ。
さて、この臨場感溢れる描写は果たして事実をそのまま伝えているであろうか?
種子島にポルトガルの火縄銃が渡来したのは1543年で、長篠の戦は1575年だった。鉄砲の威力を逸早く見抜いた天才、信長は渡来後僅か30余年で実戦にその鉄砲を投入したのだった。
この火縄銃は筒先から火薬を押込み鉄のボール玉を弾き出す。先ず黒色火薬を包んだ紙包みを破り、筒先から落とし込み、続いて鉄玉を落とす。そして火縄に着火し、その火花が火薬に引火して爆発を引き起こし、その風圧で玉を弾き出す仕掛けになっていた。
このような手順になるのだが、このプロセスに少なくとも三分を要し、火薬の量を誤ると不発や手元で爆発が起きて、四発に一発は不発だった。不発の場合は勿論、玉を発射することに成功しても、その都度、筒の内部の清掃を必要とした。黒色火薬の残滓がこびりつくためだった。そして八発も撃つと、オーバーヒートで冷えるまでの間暫く中断せざるを得なかった。
その上、鉄玉は筒を飛び出す時の角度が定まらず、初心者のゴルファーの如く極端なフックやスライスで、狙いの的を撃ち抜く距離は精々十メートル程度だった。性能が改良された3世紀後の南北戦争当時でも50メートルが限度で、20メートルを超える標的は狙い定める意味が無いと言われた。
語り継がれているように、信長の鉄砲隊は数段に重なって柵の背後に隠れていたが、射程能力から考えて、その距離は騎馬隊から10メートル前後だったであろう。何事にも徹底を期した信長のことだ。至近距離でないと命中率が零に近くなることを日頃の訓練で織田軍は承知していたと考えるべきであろう。
山岡によれば、4回の一斉射撃があったことになっているが、十数メートルの距離だ。もうもうと立ち込める硝煙が30秒で消え去ることはなかった。だから二度目から後の一斉射撃は盲射ちだったことになる。それにも拘らず死人の山が出来たのは、どうしてか?
南北戦争開戦当時でも、鉄砲隊の命中率は発射した銃弾の1パーセント以下だった。信長軍は訓練が行届いていたとはいえ、百発百中と考えるには無理がある。
一度目の射撃で生き延びた武田の騎馬隊が無駄と知りながら再三の攻撃をし掛け、結果として全滅に近い敗戦を負ったとする方が自然だ。どうも実際は山岡荘八の流れる如き描写とはかなり異なる状況だったように思われるのだが。
武田軍が鉄砲の弱点を知っていれば、射程距離ぎりぎりまで騎馬で進んで挑発を重ね、最初の銃撃が終わるや、硝煙の中を騎馬で突き進めば、おそらく織田の鉄砲隊は総崩れになったはずだ。
短気の勝頼でなく、信玄であれば戦局は別のものになり、日本史も違う軌跡を描いたことになる。
「進めや。今ぞ!」
あわてふためいて、中から木戸を締めようとする柵ぎわで、殺到して来た騎馬隊は、そのまま馬を乗りしずめ、そこここでメリメリと柵木を倒しにかかってゆく。
期せずして柵の外は人と馬で埋まった。
と、その瞬間だった。
柵の前に密集している騎馬隊二千の上へ、信長の伏せてあった鉄砲隊の銃口が天地をふるわして炸裂したのは.......ダダダーン!
いちど止んだと思うと、直ぐまたダダーン、ダダダーンと四回続いた。凡そ二千発以上の銃弾が密集部隊を見舞ったのである。
あたりはシーンとなった。凡そ三十秒足らずの短時間の間に柵の前は文字どおり死人の山....... font>
名作と言われる山岡荘八による「織田信長」の長篠の戦いのシーンだ。
さて、この臨場感溢れる描写は果たして事実をそのまま伝えているであろうか?
種子島にポルトガルの火縄銃が渡来したのは1543年で、長篠の戦は1575年だった。鉄砲の威力を逸早く見抜いた天才、信長は渡来後僅か30余年で実戦にその鉄砲を投入したのだった。
この火縄銃は筒先から火薬を押込み鉄のボール玉を弾き出す。先ず黒色火薬を包んだ紙包みを破り、筒先から落とし込み、続いて鉄玉を落とす。そして火縄に着火し、その火花が火薬に引火して爆発を引き起こし、その風圧で玉を弾き出す仕掛けになっていた。
このような手順になるのだが、このプロセスに少なくとも三分を要し、火薬の量を誤ると不発や手元で爆発が起きて、四発に一発は不発だった。不発の場合は勿論、玉を発射することに成功しても、その都度、筒の内部の清掃を必要とした。黒色火薬の残滓がこびりつくためだった。そして八発も撃つと、オーバーヒートで冷えるまでの間暫く中断せざるを得なかった。
その上、鉄玉は筒を飛び出す時の角度が定まらず、初心者のゴルファーの如く極端なフックやスライスで、狙いの的を撃ち抜く距離は精々十メートル程度だった。性能が改良された3世紀後の南北戦争当時でも50メートルが限度で、20メートルを超える標的は狙い定める意味が無いと言われた。
語り継がれているように、信長の鉄砲隊は数段に重なって柵の背後に隠れていたが、射程能力から考えて、その距離は騎馬隊から10メートル前後だったであろう。何事にも徹底を期した信長のことだ。至近距離でないと命中率が零に近くなることを日頃の訓練で織田軍は承知していたと考えるべきであろう。
山岡によれば、4回の一斉射撃があったことになっているが、十数メートルの距離だ。もうもうと立ち込める硝煙が30秒で消え去ることはなかった。だから二度目から後の一斉射撃は盲射ちだったことになる。それにも拘らず死人の山が出来たのは、どうしてか?
南北戦争開戦当時でも、鉄砲隊の命中率は発射した銃弾の1パーセント以下だった。信長軍は訓練が行届いていたとはいえ、百発百中と考えるには無理がある。
一度目の射撃で生き延びた武田の騎馬隊が無駄と知りながら再三の攻撃をし掛け、結果として全滅に近い敗戦を負ったとする方が自然だ。どうも実際は山岡荘八の流れる如き描写とはかなり異なる状況だったように思われるのだが。
武田軍が鉄砲の弱点を知っていれば、射程距離ぎりぎりまで騎馬で進んで挑発を重ね、最初の銃撃が終わるや、硝煙の中を騎馬で突き進めば、おそらく織田の鉄砲隊は総崩れになったはずだ。
短気の勝頼でなく、信玄であれば戦局は別のものになり、日本史も違う軌跡を描いたことになる。
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