人との出会いは、広大な砂漠の中から一粒の砂を見つけるほどの確率です。出会いを大切にしたいと思います。

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花かげ 高校生編  [2010年03月14日(日) ]
いよいよ陽光うららかな春の訪れです。
遊水地の水もぬるんできたことでしょう。柳が芽吹き、桜ももうすぐです。

【水ぬるむ】既出ですが、昨年3月15日の様子です。
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/1004457005386283b3e33a16142ffab118c63f430/030239011257017321

さて、きょうは【花かげ 高校生編】です。

昭和40年4月静岡市の公立高校に入学しました。1年生のクラスでは、席順は入学試験の成績で決められました。成績の良い方が後ろから座りました。私は運良く後ろの方でした。この頃の教育は今のように「みんな一緒にゴールイン」ということはありませんでした。実力試験などの成績も貼り出され、成績は一目瞭然で分かってしまいます。

高校には立派なプールがありました。私は泳ぎが苦手で、よく「パンツを忘れました」とか「風邪をひいています」などと言い訳していましたが、いつまでも許されるものではありません。50mは必修だったのです。
検定試験の時、平泳ぎで泳ぎ始めましたが、25m程泳いだところで息が苦しくなり、溺れそうになって、ちょうど中央にいた先生に藁をも掴むおもいで必死にしがみつきました。格好わるいこと甚だしいことです。

清水市から静岡市へ引っ越してきたところは、家の前は女子高、隣はその寄宿舎という教育環境は最高(?)の場所でした。幼稚園の頃、寄宿舎住まいの優しい女子高生のお姉さんと話をした憶えがあります。どういう訳か母性のようなものを感じました。
今の女子高生には在り得ないことです。

自転車通学をしていました。朝、家を出るとき、多くの女子高生と出会います。女子高の前ですから女子高生も私を注目していたのでしょうか。それとも私の自我意識が強かったのでしょうか。毎日わくわくした気持ちで家を出ました。
ある日、隣の寮で生徒が騒いでいました。何かと思ったら、寮の2階のベランダに干しておいた下着類が無くなっていたようです。
いえ、私ではありません。庭へ出て見上げればベランダですが。

高校2年の時、好きな女子がいました。個人的にお付き合いはしませんでしたが、卒業して彼女にラブレターのようなものを出しました。差出人である自分の住所氏名は書きませんでしたので、不審に思ったことでしょう。彼女から返事が来たと思いますが内容は憶えていません。

私は英語が好きで、「百万人の英語」や「FEN放送」など東京の放送を聞いたものでした。
受験勉強で疲れると夜空を見上げ、「この宇宙は何処まで続いているのだろうか」「地球の果てはあるのだろうか」と思いを巡らせ、にわか詩人になったものです。

進路は「これからは経済が分からないと駄目だ」という「政治・経済」の先生の影響で、東京のM駅から1分と、すぐ近くの大学の経済学部を目指しました。
受験の下見で行った学校の正門の前で、雪が積っていたため、歩きなれない私はすってんころりんしてしまい大恥をかきましたが、また、受験番号は「○○79」と「泣く」かと思いましたが、何とか合格することができました。
ブレザースーツや身の回りの生活用具を揃えてもらい、私の胸は早や東京生活へ傾いていました。


東京の生活は果たして期待通りだったのでしょうか。

次回【花かげ 学生編】をご期待ください。

Posted at 05:28  | この記事のURL
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花かげ 中学生編  [2010年03月13日(土) ]
三寒四温、きょうは暖かく春風が心地よい日です。
富士山の雪化粧も今が一番綺麗に乗った頃です。

定年退職まであと半月。最後まで多忙で、その後も数ヶ月続きます。
職場で定年退職慰安旅行を補助してくれます。今年は「龍馬伝」の四国へ行きましょうか。それともどこか外国へでも。
さて、私事をブログに載せるのも何ですが、今HPがダウンしておりますので悪しからず。今回は【中学生編】です。(5年前作成)

昭和37年4月、静岡市立中学校へ入学しました。登呂遺跡に近い中学です。
当時は浜まで家はなく松林が見えました。中学校も木造の古い建物でした。
私達の年代は「団塊の世代」でして、1クラスの人数は55人くらいだったでしょうか、クラス数も15クラス位あったと思います。

ある日、外で担任の先生が悪さをした生徒数人をスリッパでひっぱたいているところに遭遇しました。その頃は子どもも親もそういう先生の行為を非難するということなど在り得ませんでした。すべて昨今の「自己責任」でした。
このような中を、もまれに揉まれてよくぞ55年間生きてきたものです。

部活は吹奏楽部に所属しました。パートはトロンボーンでした。リーダーは怖い先輩でした。楽譜も満足に読めないのに、よくやったものです。
技術家庭の時間、40代半ばの男の先生が二日酔いで参っていたのを思い出します。
プールは無かったので苦手な水泳はやらずに済みました。

中学はお弁当持ちでした。アルマイトといいましたか、ブック型の弁当箱に母は「卵はね、良質な蛋白質があって頭が良くなるんだよ」と言って、毎日「玉子焼き」を入れてくれました。少々うんざりしましたが、その割には余り頭が良くなったとは思いませんでした。
真に「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代だったのです。

修学旅行は京都・奈良へ。でもほとんど憶えていません。大仏さんが大きかったのだけは憶えています。
確か中学生の時だったと思いましたが、映画館へ映画を見に行く「映画教室」の授業がありました。「80日間世界一周」、吉永さゆりの「キューポラのある街」など思い出します。吉永さゆりのあの初々しい姿がまざまざと蘇ってきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/wakatai/qpora.htm
そういえば吉永さゆり似の女子がいました。しかし、彼女は学校中の憧れの的「マドンナ」だったのです。所詮高嶺の花でした。

私はまた科学に興味がありました。兄が「子供の科学」という雑誌を取っていてそれを読んでいました。
http://www.fujisan.co.jp/Product/886/
ゲルマニュウムラジオを作り、音が出たときの喜びは今も憶えています。
また、小学生の頃からプラモデル作りに熱中しました。作っては壊し、作っては壊していました。残しておけば今お宝だったでしょう。

静岡県は公立志向です。高校入試を控え、先生から「公立は危ない、私学を受けなさい」と言われました。私は「絶対公立を受かってやる」と心に決めました。


現在は、指導上教師が生徒にちょっとした体罰を加えれば大ごとになります。運動会の競争も、皆並んでゴール。
ちょっとしたことでくじけてしまい、他への思いやりの欠如。

「生きる力」を育まなくてはなりません。

【花かげ 高校生編】へ続く

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花かげ【小学生編】  [2010年03月07日(日) ]
きょうも朝から雨の一日でした。
春を呼ぶ雨ならいいのですが、まだ早い気もします。
こういう日は二胡演奏です。きょうは新曲を練習。といっても古い日本の叙情歌です。
【初恋】甘く切ない言葉が響きます。
http://www.youtube.com/watch?v=FRJIfHy2hw4


さて、今回は【花かげ【小学生編】】です。

昭和31年4月、静岡市立の小学校に入学しました。歩いて10分位だったでしょうか、静岡駅から最も近い小学校です。この小学校は校歌にも歌われていますが昭和4年の創立です。校舎は勿論木造で、古い建物でした。
入学したての頃、私は足を床にバタバタさせて先生に「静かにしなさい」と注意されたことを憶えています。何でバタバタさせたのでしょうか。
夏はプールの時間がありました。その頃は洒落た海水パンツはありませんでしたので、赤フンをつけて水浴びしたものです。どうしたものか、ようやく50m泳げるようになったのは高校生になってからでした。

小学2年生の頃でしたか、授業中に先生から「すぐ家へ帰ってね」と言われました。
家に帰って見たのはお爺さんの帰らぬ姿でした。この時初めて死というものが怖いものだと感じました。お葬式は自宅でやり、多くの人々がお爺さんとのお別れに訪れました。
夜遅くまで祭壇の灯りがついていました。私はその前を通過するのが怖かったのでした。

二人の叔母さんが同居していました。ある日男性が訪問してきました。家には母がおらず私が応対しました。その男を私は好きではありませんでした。何か信用できない男だったのです。その男は二人の叔母さんのうち下の叔母さんの婚約者だったのです。
二人は結婚したようですが、しばらくして別れたとのことでした。
私はこの頃から人を見る目が出来ていたようです。

小学4年の頃、私は数人と一緒に放課後残されました。
算数の割り算で答えは出ていたのですが、下に続く計算式が書けなかったのです。私は気が短かったのでしょうか、計算は頭の中でやっていたのでした。「もういいから帰りなさい」先生の言葉に私は残念でなりませんでした。それ以来算数は嫌いになりました。

5.6年生の頃、林間学校がありました。富士宮市の「大石寺」で宿泊しましたが、キャンプファイヤーを囲んで、先生が火の神になって何かやってくれました。
皆で歌った「遠き山に陽は落ちて」、度胸試しのお墓参り。夜、お風呂に入りました。小学6年生ともなればいわゆる「珍毛」が生えてきます。私と数人は恥ずかしくてパンツをはいて入っていたら、先生に叱られました。今となっては懐かしい思い出です。
あの頃だったらもう一度戻りたいものです。

大石寺 宿泊坊

大石寺 五重の塔

3.4年生の頃、好きな女の子がいました。その子の家は商売をやっていました。時々家に遊びに行きました。
数年前の同窓会で、彼女の死を知らされました。幼い子供を残しての病死でした。

5.6年生のクラスでは、男子よりも女子の方が強かったようです。体操着に着替えるとき脱いだ服を折り目しっかりとたたんでいる私を見て、彼女らは「ひで君は几帳面だね」と冷やかされたものです。その頃の私はズボンも毎日「寝押し」するほど折り目正しい子だったのです。
快活でものをはっきりという女子軍団の中で、ひとり静かな優しい女の子が気がかりでした。快活な女子軍団は私立の中学へ進学していき、以来会う機会はありませんでした。
最近その優しい子と会う機会がありました。彼女は魅力的で積極的な女性になっていました。

塾にいっていました。東京への修学旅行の前の晩、激しい雨の中を自転車で家に帰りました。翌朝修学旅行というのに発熱して起きられませんでした。父が心配して私の額に触れ、「残念だけど旅行は止めた方がいい」と言われました。

一人だけの記念撮影(2009年3月)

元気になって学校へ行くと、友達は「ひでちゃんの家も(家計が)苦しいの?」と聞かれました。その当時、家計が苦しい友達がいて、旅行は欠席したそうです。そういう時代だったのです。その後大学生になって嫌という程東京で下宿生活をしました。


還暦を迎えることなく亡くなった友人は5本の指に入ります。
無念であったことでしょう。今、こうして健康に生きていることに感謝します。

【花かげ 中学生編】へ続く

Posted at 08:40  | この記事のURL
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花かげ【幼稚園編】  [2010年03月06日(土) ]
雨の朝。一雨ごとに暖かくなり春の色が濃くなってくるきょうこの頃です。
38年間勤めた職場も 定年寿退職まであと3週間余り。でも、もう少し居てくれとのこと。
最後のご奉公ですが、年間で一番忙しい時期。安楽にはいきません。
その後は、今まで健康で生きて来られたことを感謝し、恩返しのできるような仕事をしたいと考えています。

さて、前回に引き続き、【「花かげ 幼稚園編】」をご紹介します。
もう55年も前のことです。
最近、郷土出版社から発行された「保存版 ふるさと静岡市」の写真集に懐かしい写真が載っていました。

静岡市へ移った後、昭和30年4月8日、幼稚園に入園しました。その幼稚園の園長先生はお坊さんでした。甘茶を振舞われましたので4月8日の花祭りだったと思います。
でも甘茶であるはずのお茶は苦く、子供にとって到底飲める代物ではありませんでした。どうも砂糖が入っていなかったと思います。
園内にお墓がありました。それが何であるかも知らず、かくれんぼや追っかけっこをしたものです。さぞかしお墓の中の故人はうるさがったことでしょう。

幼稚園までは子供の足で歩いて25分もあったでしょうか。途中東海道線と国道1号線を渡らなければなりませんでした。東海道線には歩道橋があり、蒸気機関車が通るとき橋の上で機関車を待ち、煙を浴びる遊びをしました。あの臭いは今でも憶えています。

正にこの場所でした。

国道1号線にはまだ信号機が無く、お巡りさんが手信号で交通整理をしていました。
この東海道線の開かずの踏切と国道1号線のおかげで、毎朝、大渋滞でした。

時々父がスバル360や三菱クーペで幼稚園の手前まで送ってくれました。
いいえ、おぼっちゃまではないのです。

父は自動車会社に勤めていたので車は会社のものだったと思います。それは納得できますが、母は私を本来入れるべき幼稚園を間違えて遠くの幼稚園に入れてしまったのです。そんなこんなで母は父に「送ってやって」と頼んだのでしょう。
付け加えると、本来入るべき幼稚園は聖母幼稚園ですからカトリックでした。歩いて5分もあればよかったと思います。イエスキリストとお釈迦さんじぁ違いは明白。

こんな環境の中を、時々喧嘩して泣きながら家に帰ってしまい先生が呼び戻しにきました。
翌朝は幼稚園へ行きたくないといって泣き、父にひどく叱られたものです。

学芸会がありました。園長先生はお坊さんでしたので、学芸会の内容も確か一休さんだったと思います。一休さんが泣きながら涙で鼠の絵を描くという物語でした。私は小坊主役でしたが台詞は憶えていません。袴を用意しなければなりませんでしたが、母と私は分からないながらも生地屋さんへ行って生地を買い母は一晩で作ってくれました。

一人の目立つ女の子がいました。服装は洒落ていて髪も染めていたように思います。
私は彼女に少し気があったのかも知れず、何か意地悪をしたような憶えがあります。
これはまだ初恋と言えるものではありませんでした。

帰る頃雨となり、皆お母さんが迎えに来てくれるのを待っていました。他の友だちは次々にお母さんと帰って行くのに、私だけが取り残されました。不安は募るばかりでした。
と、その時、園門から母の姿が見えました。母は「遅れてごめんね」と言い私に合羽を着せてくれました。いつもは一人で帰る道、母と帰る道は短く感じました。


きょうなぜか母の夢をみました。還暦になっても、母は母。
幼児虐待のニュースを聞き、幼くして命を絶たれた子を思うと、胸が痛みます。

【花かげ 小学生編】へ続く

Posted at 08:20  | この記事のURL
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花かげ【望郷編】  [2010年02月27日(土) ]
きょうの暖かさで河津桜は満開となりました。
ソメイヨシノももうじきです。
これは昨年の富士霊園の桜です。

桜は日本人にとっては特別の意味があります。
花より団子。花一時、人一盛り。死んで花実が咲くものか。花発(ひら)きて風雨多し。花に嵐。人の行く裏に道あり花の山。受験生にとっては「サクラサク」。同期の桜。はたまた、桜の下には死体が埋まっている。等々。

あれは桜の頃だったでしょうか。遠い昔、叔母さんがお嫁に行くことになった日、こんなことがあったそうです。
現在中止したままのHPの記事から掲載します。

人生50年も過ぎると幼い頃の郷愁に駆られます。連続性のないあるシーンが脳裏に焼き付いてまざまざと蘇ってきます。子どもを養い、生きていくのに精一杯な今日、時には出発点に戻り生きている自己、生かされている自己を再認識したいと思います。それは明日への活力ともなります。

私の一家は私が幼稚園入園前まで清水市の巴川のほとりに住んで居ました。家の前に畑があり、周りの家とはかなり離れている田舎でした。
巴川では兄たちが作ってくれたいかだに乗って川遊びをし、その川でザリガニをバケツ一杯獲ってきて母にゆでてもらい食べたのを憶えています。そのザリガニのおいしかったこと。おじさんのグルメはここから始まったのでしょうか。

今頃の時期の初夏、夕食が済んでテレビもない時代、夕涼みに外へ出ました。まだきれいな川には蛍が飛び交っていました。
夏は蚊帳が欠かせませんでした。数匹の蛍を一晩蚊帳の中に放ち、蛍と共に親子5人川となって寝ていました。


祖父母・叔母さんも一緒に住んでいましたが、祖母は病の床に就いていました。
私が喧嘩をして泣いて帰り、家に入る前に涙を拭いているのを、祖母は窓越しに見ていたのでしょうか。祖母は母に「わたしが元気なら遊んでやれるのだけれど」と言っていたのだそうです。
ある日、突然、母が「おばあさんが大変だ!!」とあわてていたのを私は何が起こったのかとびっくりして聞いていました。
写真の祖母は上品で端正な美しい人でした
【後に、享年62才、結核と聞きました。】


同居していた3人の叔母さんのひとりがお嫁に行くことになった時、「行かないで」と泣いて困らせたそうです。やさしく慕っていた叔母さんでした。
http://www.geocities.jp/mitsuo1947/hanakage.htm

寒い正月の夜、父と2人の兄、それに私は小さなコタツを囲んで、私の弟になる赤ん坊の誕生を隣の部屋で待っていました。私が5才の時でした。今度は親子6人川になって寝ました。

樽の丸いワイヤを車輪のようにして走り回したり、木で刀を作ってチャンバラごっこをしたり、兄の運転する自転車の後ろに乗って、豆腐やさんの鳴らすラッパのまね音をさせたり、夜中におしっこに起きて、外に便所があるので、家の土間に置かれた小便桶のところに母に連れて行ってもらったり・・・・・・・。
また、犬を飼っていました。私はその犬と大の仲良しだったそうです。ある日、その犬は親戚のおじさんの家に引き取られていきました。理由は今もって分かりませんが、土手を行く愛犬を大泣きしながら見送ったそうです。

私の郷愁 もう55年も前の話です。

幼稚園に入る前、一家は静岡市へ引っ越しました。
トラックの荷台に乗り、荷台から国道1号線に車が走っていたのを憶えています。新しい家はトイレも当たり前ながら中にあり、風呂はタイル張りでした。新しい家の匂いは今でも憶えています。
そのうち、テレビ・掃除機・洗濯機が入ってきました。


「花かげ」、趣味の二胡の音色に遠い彼方の郷愁に誘われます。

Posted at 18:52  | この記事のURL
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春の訪れ  [2010年02月21日(日) ]
近所の小川の側に、河津桜が満開となりました。
きょうは小春日和といった感じの穏やかな日でした。春はもうそこまでやってきています。


昨日、仕事帰りにちょっと足をのばして、「毘沙門天大祭」に行ってきました。
こちらごらんください。
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/1004457005386283b3e33a16142ffab118c63f430/129819018508376621

Posted at 17:27  | この記事のURL
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雪の朝・夕日の富士  [2010年02月18日(木) ]
今朝は雪、でも、寒さのトンネルの中も、先が見えてきました。
花の蕾も来る春をじっと待っていました。

じきに雪も止み、春の日差しが訪れ、夕方には暖かな夕焼け富士が見えました。春はそこまで。

Posted at 22:32  | この記事のURL
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息子の彼女  [2010年02月09日(火) ]
きょうの暖かさは何なんでしょうか。
職場の中より外の方が暖かく、風が心地よかった〜。
昨日から富士山には笠雲が。
ということは、きょうは雨のはずでした。ところが空は晴れの日差しが眩しいほどでした。


話は変わって、一昨日の日曜日、外出先から帰ると、玄関には若い女性のシューズが並んでいました。息子が彼女を連れてきたのであろう。
おばさんに聞いたところ、長男の彼女だという。息子は、今晩は夕飯を一緒にしたいとのこと。

おじさんはびっくり、そわそわ。玄関を片付けたり、居間を片付けたり。
座る位置を考えたり。どんな子かな。可愛いと良いが。
夕飯はしゃぶしゃぶとか。何を話そうか。

ご飯だよ〜〜、とおばさんは2階の二人を呼ぶ。おじさんの胸はときめく。
彼女「今晩は、初めまして。〇〇です。」
おじさん「こんばんは。どうぞ気楽に」
おいおい、それは自分に言う言葉じゃないか。(ああ、いい子で良かった。息子の彼女だぞ)

おばさん「今夜はしゃぶしゃぶだけれど、何か嫌いなものある?」
彼女「茄子はどうも食べられません」
おじさん「ナスはナスでも、ボーナスは好きでしょ?」
照れ隠しに親父ギャグが出てしまった。
おじさんは落ち着かず、何を食べたのかも分からない。
それに比べ、息子は「家で食べればお金がかからなくていいや」とがつがつ食べていた。
おばさん「どんなお店でデートするの?」
彼女「洋食とか和食とか色々です」

皆で鍋をつつき、和気あいあいとしたひと時が流れました。

「ご馳走様でした」二人は部屋へ戻りました。おじさんは、やれやれ。
おばさん「いい子でしょ」
おじさん「うんうん」
息子め、なかなかやるな。さて、結婚も間近か。

Posted at 21:46  | この記事のURL
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きょうの富士山2/5  [2010年02月05日(金) ]
立春も過ぎ、もはや春の装いです。
陽も長くなってきました。午後3時頃だと思ったら5時でした。まだこんなに明るい。儲けた感じがします。
一休みして富士山を見たら、暖かそうな夕焼け富士でした。
それにしても、雪はまだらです。例年3月半ば頃がもっとも化粧の乗りがいい時ですから、これからドカ雪が降るのでしょうか。

Posted at 22:20  | この記事のURL
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2010 富士と梅 岩本山  [2010年01月31日(日) ]
まだ早いかな、と思って、土曜出勤日の昨日、そのまま帰るのは勿体無いと、岩本山へ寄ってみました。
梅は満開ではありませんでしたが、幸運にも富士山と梅の共演に恵まれました。
1月はいろいろな事がありましたので、長かったような、短かったような。
明日からは2月、春の息吹も感じられるようになりました。


その他の画像はこちらから
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/1004457005386283b3e33a16142ffab118c63f430/565127019942984621

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