【手談への誘(いざな)い・第38回】名人戦 (14)【2007年12月15日(土) 】
囲碁の日本ルールは最終的に地の多い方が勝ち。韓国も同じです。中国ルールは一方の石と地の合計が、盤上361の半分より多いか少ないか数えます。計算法が違うだけで、競技法は変わらず、同じ碁です。
日本ルールでは双方の地が同数になることがあり、それをジゴ(持碁)といいます。その場合は引き分けとするのが古来からの慣習です。
碁では先着する黒の方が有利なので、それを調整するためのルールがコミです。昭和14(1939)年に本因坊戦が誕生してから40年代まで、棋戦のコミは4目半(黒が出す)がほとんどでした。
しかし、昭和36(1961)年に生まれた旧名人戦(読売新聞)は異例のコミ5目を採用。ジゴは白勝ちと規定されたので、それならコミ5目半と勝敗結果は同じです。しかし違いがひとつあり、リーグ戦におけるジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るという規定が加えられていました。
『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)で中山典之六段はこう書いています。「ジゴ勝ち下位という規定がケチの付き始めで、昭和の碁聖呉清源はついに名人になれなかったのである」と。
その年(37年)の春に入段した(棋士初段になること)ばかりの中山は記録の名手で、名人戦リーグの最終局、呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めました。
ここまで、両者とも8勝3敗。9勝2敗でトップの藤沢秀行九段が敗れたときは、呉・坂田の勝者と藤沢でプレーオフになります。ただし、ジゴになった場合を除いて。
- 何しろ天下の呉清源怒濤の追い込みである。さすがの坂田も大事を取り、ゆるみ、ついにジゴ一(注、ジゴか1目差かというきわどい局面)の碁になったのである。 夜半11時55分。半コウツギツギとなって碁が終わった。坂田本因坊は負けと思っていたとみる。坂田、 「負けですか?」 と盤側の立会人藤沢朋斎を顧みる。 「サア……」 朋斎九段は煮えきらない。 坂田本因坊は盛んにこぼし出した。あきれた、バカな手を打った、どれくらい損をしたんだ、大分良かったのに……、などと際限もなく。 その間、5分ほど、呉清源九段は黙然と盤上を見つめていたが、 「作ってみましょう」 と落ちついた声で坂田をうながした。 白地30目。黒地35目。5目のコミがあり、果然ジゴである。ジゴ白勝ちである。 「何だ、半目か。半目負けだったのか」 うめく様な坂田の声。規定ではジゴだが、坂田は事実上の負けであるジゴをジゴと思っていない。彼がハッキリと「半目負けだったのか」と叫んだ声を私は聞いている。
その3時間前、秀行九段は橋本昌二九段に敗れていました。しかし、結果がジゴなら第1期名人が決まるわけで、念のため記録係の中山初段が別室の碁盤で棋譜を手に、初手から並べ返して確認。
- 間違いがあるはずもなく、ジゴである。 対局室にとってかえした私は、 「ジゴに相違ありません」 と報告した。とたんに坂田本因坊、 「オイ。間違いないだろうな」 と血走った目玉で睨んだが、恐る恐る「ハイ」と返事をした記録係から目をそらし、 「しょうがねぇなァ」 と呟いて天井を仰いだ。藤沢秀行名人が確定した瞬間であり、呉九段の姿はなかった。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 10:26
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第37回】名人戦 (13)【2007年11月30日(金) 】
『呉清源・極みの棋譜』(中国/田壮壮監督)を観ました。祝日(11/23)でしたが観客は僅か……、落ち着いて鑑賞できたのは幸いでした。
前評判のとおり、静謐で美しい映像。台湾の人気俳優チャン・チェンは、呉清源の希有な純粋さをよく醸し出していました。しかし、碁を打つ場面が少なく短かったのは残念です。
呉清源自伝『中の精神』(東京新聞出版局)の映像化という面が強いのですが、2時間の映画で波乱の数十年を伝えるのは無理としたものでしょう。事前の知識が豊富でなければ、様々な場面を具体的に理解するのは難しいにちがいありません。
宗教活動に関する話はストーリーを感じます。しかし(私たちにとって)肝腎!な棋士・呉清源の実績とその背景について、心に残るシーンがなかったのは私だけでしょうか。
囲碁の世界の高い精神性、それを体現した呉清源の強さを、碁を知らない人にまで具体的に伝えるのはたしかに困難なことです。それらをもイメージとして、映像の緊張した美しさをもって伝えようと、田監督は考えたのかもしれません。そう思えば完成度は高く、魅力ある映画です。
この映画を観て、囲碁の世界に魅せられ、碁を知りたくなる人がたくさんいてほしい……でも、それは望まないことにしましょう。
話を本題に戻します。
昭和37(1962)年8月6日。呉清源九段は芝明舟町にあった「福田屋」で、旧名人戦(読売新聞)第1期リーグ最終局の二日目を打っていました。ここまで8勝3敗。対する坂田栄男九段も8勝3敗でした。
もう一つの最終局は紀尾井町の「福田屋」で同時に打たれており、藤沢秀行八段が橋本昌二九段に勝てば10勝2敗となって、単独1位。第1期名人が決まります。秀行八段が敗れた場合は9勝3敗になり、呉・坂田戦の勝者と同率。日を改めてプレーオフの一番を打ち、名人を決める規定でした。
中山典之著『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)にこうあります。
- 対局二日目の午後9時少し前、秀行は天井を仰いでから盤上に目を落とし、「おかしかったですねェ」と声を出した。投了にも色々とあるが、これが投了の合図だった。続いて秀行は盤側を顧みて、向うの碁(呉・坂田戦)はどうなっていますか、と聞いた。坂田勝勢と聞いた秀行、「坂田名人がついに出来るか」と呟き、ヨロヨロと立ち上がると部屋を出て行ったという。その後、彼がどこにいたかは誰も知らない。本人さえ泥酔して覚えていなかったのだから……。
一方の明舟町の福田屋。大ヨセの段階では坂田が10目ほども優勢だったという。しかし坂田にはもう持時間がなかった。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 09:58
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第36回】名人戦 (12)【2007年11月15日(木) 】
フルセットの好勝負となった第32期名人戦、9月初めから2か月に及んだ熱戦がようやく決着しました。
10月11、12日の挑戦手合第4局で張栩(ちょう う 27歳)挑戦者が勝ち、3勝1敗。カド番に立たされた高尾紳路(たかお しんじ 31歳)名人でしたが、二日制の七番勝負はとくに強いという評判どおり踏ん張りました。第5局を制した名人は、さらに11月1、2日の第6局(山梨県甲府市)で白番半目勝ち。勝負の決着は最終局に持ち越されたのです。
第7局は11月8日午前9時から静岡県熱海市で打たれ、9日午後5時42分に292手で終局。黒番の挑戦者が2目半勝ち。シリーズ4勝3敗で張栩碁聖が高尾名人を破り、昨年失った名人のタイトルを奪還しました(名人位通算3期)。
「去年より少しは成長した気がする。本当に強い相手で、たくさん教わりました」と張栩碁聖。「(第4局に敗れて)このまま負けるのかなと思ったが、そのあと二つ勝てたので、大きな自信になった」という高尾名人の言葉、そして爽やかな笑顔(談話と写真:asahi.com)。
碁の内容、品格ある両者の態度、どこにも曇り一つない素晴らしい七番勝負でした。
なお日本棋院の規定で、正式に張栩碁聖が名人・碁聖、高尾名人本因坊が高尾本因坊(前名人)と呼ばれるのは対局終了の翌日となっています。
今日の囲碁最高棋戦は棋聖戦(読売新聞)です。次いで序列順に名人戦(朝日新聞)、本因坊戦(毎日新聞)。また、棋聖と碁聖は同じ意味の言葉ですが、碁聖戦(共同通信、地方新聞掲載)は国内棋戦の序列7位です。
昭和36(1961)年から50(1975)年まで、最高棋戦は(旧)名人戦でした。読売から朝日に名人戦が移り、棋聖戦の創設が決まったのは昭和50年12月。新聞紙上を賑わわせた「名人戦騒動」が和解し、碁界に再び春が訪れました。
戦後の囲碁界最初の春は、今からおよそ半世紀の昔。囲碁ファン待望の名人戦が昭和36年1月に始まりました。第1期は13名によるリーグ戦の優勝者が名人に就き、翌期は10名のリーグ戦で、優勝者が名人に挑戦、七番勝負で名人位を争うという規定でした。
第1期名人戦リーグ13名の参加者は、11名の全九段と、最高位のタイトルを持っていた藤沢秀行八段、加えて最強戦(名人戦の前身)の最終第3期に三位(4勝4敗2ジゴ)の好成績を収めていた岩田正男七段(現達明九段)。
「昭和37年8月5日、6日。リーグ戦は最終局を迎えてクライマックスに達していた」と『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)にあります。
リーグ戦開始から1年8か月、総当り全78局のうち76局を終えて優勝はまだ決まらず、初代名人位の行方がかかる最後の2局が同日に別の場所で打たれました。劇的な結末を迎える呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めたのが若き日の中山典之六段(上記著者)でした。
(続く)
【ご案内】
戦前戦後、激動の歴史の中を懸命に生きた呉清源。昭和の棋聖と呼ばれる同九段の人生を描いた秀作(中国映画)『呉清源 極みの棋譜』が11月17日から全国で公開されます。
[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 21:50
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第35回】名人戦 (11)【2007年10月30日(火) 】
第32期名人戦七番勝負の第5局が兵庫県神戸市で10月17、18日に打たれました。激しい戦いのない碁で手数が進み、二日目の朝には早くもヨセの局面。終始手厚く打ち進めた黒番の高尾紳路名人が僅かな優勢を維持して、2目半勝ち。挑戦者の張栩碁聖が持時間を3時間以上残し、午後3時すぎの早い終局でした。
高尾名人の2勝3敗となり、注目の第6局は11月1、2日に山梨県甲府市で行われます。
昭和36(1961)年8月、オートバイに跳ねられた呉清源九段が担ぎ込まれたのは「豊島区雑司ヶ谷にある東大病院の分院であった」。
自伝『以文会友』(白水社1997)に、「医者はたいした怪我ではないと説明」し、数日経って初めてレントゲン検査したものの、事務の誤りで痛くない左足を検査。再検査してようやく、右足と腰骨のズレ、骨折が判明。「処置が後手、後手にまわり、私は二ヶ月の入院生活を送らなければならなかった」とあり、続いてこう書かれています。
- 天下の東大病院が、なぜあのようなずさんな検診ですませたのか、いまだに不可解である。脳波や心電図の検査は最後まで行われなかったが、頭部にも事故の影響があったにちがいない。退院後も頭痛は続き、私はさまざまな後遺症に悩まされて、棋士生活がおびやかされることになったのである。思えば、私の棋士生命を一気に縮めた、運命のオートバイ事故であった。
昭和36年1月に開幕した第1期名人戦(読売新聞主催の旧名人戦)は13名の総当たりリーグ戦。持時間は各10時間の二日制でした。コミは異例の5目。ジゴは白勝ちとしながら、ジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るとした規定が初代名人の行方を左右しました。
リーグ戦の序盤、呉清源は苦戦。宮下秀洋九段と木谷實九段に勝ちましたが、島村俊宏九段と藤沢秀行八段に敗れ、2勝2敗。名人位の獲得に黄信号が点る中で、呉は交通事故に遭いました。
読売新聞と日本棋院の配慮によって名人戦における呉の対局は延期。呉が5局目の半田道玄九段戦を打ったのは、事故から3か月後、11月の末でした。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 13:09
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第34回】名人戦 (10)【2007年10月15日(月) 】
第32期名人戦七番勝負の第4局は静岡県伊豆市で10月10、11日に打たれ、挑戦者の張栩(ちょう う、27歳)碁聖が高尾紳路(たかお しんじ、10月26日に31歳)名人に黒番中押し(ちゅうおし)勝ち。
高尾名人としては珍しく実利で先行し、シノギ勝負の碁に。しかし挑戦者の追求は的確で、上方の白が憤死して名人は投了。3勝1敗とした張九段が名人復位にあと1勝となりました。
張栩碁聖(台湾出身)は林海峰名誉天元(中国生まれ、台湾育ち、65歳)の弟子。林九段は呉清源九段(中国出身、93歳)の弟子なので、張栩は呉清源の孫弟子です。来日時の年齢は呉14歳(飛付三段)、林10歳(12歳入段)、張10歳(14歳入段)。
呉清源九段の自伝『以文会友』(白水社1997)の第7章「名人戦以降」に、「運命のオートバイ事故」のことが書かれています。
また、「私は昭和10年、21歳で紅卍に入信し、その後一貫して紅卍の教えを信じて今日まで来た」と同書にあります。さらに、紅卍の布教の目的は、「他人を救うことは、すなわち自分を救うことであるということを悟り、皆が助け合いながら、地球上から無益な争いを消滅させ、世界平和を実現して、人類が救済されることである」と。
- 昭和36年の8月のことである。豊島区目白にある椿山荘の近くに、紅卍の日本支部設立準備のための事務所があったが、そこで午後1時に理事会が開かれることになっていた。私は1月から始まった第1期名人戦の手合期間中であったが、その日は会議に出席するため小田原から上京し、昼頃に目白の紅卍の事務所に向かっていた。
東京駅からタクシーで向かったが、目白に着く頃には定刻を過ぎてしまったらしい。道路の反対側でタクシーを降り、遅刻するのが嫌いな呉は、横断歩道でない所で目白通りを渡ろうとした。向かって来るバスが呉に気付いてスピードを落としたので思い切って渡り始めたとき、スピードを上げたオートバイがバスを追い越して、「眼の前に急に現れたと思うと、そのまま私に衝突し、私は宙に跳ね上げられた」と『以文会友』にあります。
- そのとき見ていた人の話によると、私は跳ね上げられると再びオートバイの上に落下し、数メートル引きずられて道路に落ちたそうである。
3年前に撮影を終えていた中国映画「呉清源 極みの棋譜」(田壮壮監督)がようやく完成し、11月に日本で公開されます。呉清源九段の実像に迫る内容という前評判で、松坂慶子、柄本明、南果歩ほか日本の俳優に加え、関西の棋士も協力出演しています。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 22:09
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第33回】名人戦 (9)【2007年10月01日(月) 】
第32期名人戦七番勝負の第2局は9月19、20日に長野県松本市で打たれ、挑戦者の張栩(ちょう う、27歳)碁聖が高尾紳路(たかお しんじ、10月26日に31歳)名人に黒番中押し(ちゅうおし)勝ち。
テレビ中継の(NHK・BS2)解説で、終局後に山城宏九段が褒めていました。
「高尾名人の負けっぷりがいい」 「堂々と、何もしないで負けた」 ピッタリの表現でした。
続いて翌週26、27日に仙台市で第3局が打たれました。白番の張挑戦者が趣向し、鏡碁(左右対称形)と呼ばれる珍しい序盤戦。この碁もまた、好対照の棋風どおり、何もしない名人vs機敏に動く挑戦者 という進行で、二人の着手はいつも以上に早かった。
二日目の午後には早くも終盤戦の様相となり、細かい碁、ヨセ勝負。黒がやや厚い半目勝負だったと思いますが、高尾名人は持時間を使い果たして残り1分の秒読み、一手を1分以内に打ち続けなければなりません。
持時間があと2時間長かったら(各10時間だったら)、高尾名人が僅かに残していたでしょう。318手完、挑戦者の1目半勝ち。名人復位へ向けて張栩碁聖が一歩リードしました。
人気もトップの両棋士は、昨年相次いで専門書を出版しました。6月に『正々堂々 高尾の力学』が日本棋院(有段者囲碁選書1)から、7月には『張栩の詰碁−難しい問題を簡単に』が毎日コミュニケーションズから。
『高尾の力学』は、師匠・藤沢秀行名誉棋聖ゆずりの手厚い棋風で知られる高尾本因坊(当時は一冠)初の著書。
『張栩の詰碁』は、詰碁創作でも当代随一・張栩名人(当時)の名作詰碁をアマ向けに紹介した意欲作で、夫人・小林泉美六段の興味深い話など読み物も楽しい好著です。
囲碁界では一流棋士が筆を執り、世に出る文章を自ら書くことはまずありません。多くは、各々の棋士に信頼を得ているライターが、本人の筆であるかのごとく巧みにまとめ、その棋士の著書として出版されています。例外は故高川先生、22世本因坊秀格でした。
近年の棋書には、著者名のほかにライターの名を小さく記してある良書が増えました。
『高尾の力学』には「構成・記述 伊瀬英介」とあり、『張栩の詰碁』では目次の前に小さく「構成・佐野真」と記されています。
「昭和の棋聖」とも呼ばれる呉清源九段の回想録が中日新聞・東京新聞の夕刊に掲載されたのは2001年7月から10月でした。
90回にわたる連載をまとめた『中の精神』が翌年1月に東京新聞出版局から出版されました。
その第8章「交通事故で…」で、つぎのように書かれています。ただし、文中の「第1期名人戦の前に起こった」は誤りです。
- 第1期名人戦の前に起こったオートバイ事故は、私に深刻な後遺症をもたらしました。まず頭痛に悩まされました。足を引きずってもいたので、対局の時は正座できません。仕方なく、椅子を用意してもらいましたが、どうしても畳の上でないと困るという対局相手もいました。それで、私は椅子、相手は台の上に畳を敷いて打つという変わった対局風景になりました。
先立つ1997年に出版された呉清源の自伝『以文会友』(白水社)には正しく書かれています。「運命のオートバイ事故」は、「昭和36年の8月のことである」「1月から始まった第1期名人戦の手合期間中であった」と。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 01:55
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第32回】名人戦 (8)【2007年09月14日(金) 】
第32期名人戦が始まりました。七番勝負の第1局が9月6、7日に広島市で打たれ、名人・高尾紳路(たかお しんじ)が挑戦者・張栩(ちょうう)に黒番4目半勝ち。初防衛に向けて、高尾名人が幸先良い一勝をあげました。
両者の棋風は対照的です。ゆったり手厚い碁を好む高尾名人。実利重視で機敏な張碁聖。第1局は双方の長所がよく現れ、七番勝負の初戦に相応しい好局でした。
高尾はタイトル戦史上6人目の名人本因坊。本因坊を三連覇し、慣例に従って先般、本因坊秀紳(しゅうしん)と号を名乗りました。高尾の師匠は藤沢秀行(ひでゆき)名誉棋聖です。
高尾に本因坊を奪われるまで名人本因坊だった張碁聖は、同郷の大先輩である林海峰(りん かいほう)名誉天元の弟子。林の師は呉清源(ご せいげん)九段なので、張栩は呉清源の孫弟子です。
およそ半世紀前、名人戦が誕生した1961年に話を戻しましょう。
藤沢秀行の『碁打秀行(ごうち しゅうこう)』(角川文庫)につぎのように書かれています。
- 第一期名人戦は昭和36年に開始された。リーグ戦参加棋士は呉清源、木谷実、藤沢朋斎、坂田栄男、高川格、島村俊廣、宮下秀洋、杉内雅男、橋本宇太郎、橋本昌二、半田道玄(以上九段)、岩田正男七段(のちに達明と改名、現九段)、八段で最高位にあった私の計13人。各12局を打ち、第一位が第一期名人になる。翌年からはリーグ戦の第一位が挑戦する。
読売新聞や囲碁雑誌の予想投票では、呉さんと坂田さんを本命に推す声が多かった。私は無印だったが、おもしろくなりそうな予感がしていた。
ここにいう第1期名人戦は、今日でいう旧名人戦です。読売新聞が主催した旧名人戦は昭和50年の第14期で終わり、翌年から朝日新聞主催の(新)名人戦に移行。現在、第32期名人の座を争っているのが、藤沢の弟子・高尾と呉の孫弟子・張栩です。
「最高位」とは、第5期最高位決定戦(朝日新聞、第6期で終了)において坂田最高位を3勝1敗で破り、藤沢秀行が初めて獲得した大タイトルです。
第1期名人戦リーグ参加者13名の内訳は、日本棋院棋士9名、関西棋院3名(両橋本、半田)、そして日本棋院客員棋士の呉清源。そのうち7名は故人となりました。木谷実、藤沢朋斎、高川格(22世本因坊秀格)、島村俊廣、宮下秀洋、橋本宇太郎、半田道玄。
呉清源、坂田栄男(23世本因坊栄寿)、藤沢秀行(九段、名誉棋聖)の3名は引退。
今も現役を続けているのは杉内雅男、岩田達明、橋本昌二です。
大正9(1920)年生まれの杉内九段は現役最高齢棋士。入段(プロ初段になること)以来なんと現役70年を今年迎えた杉内ですが、鍛え抜いた実力は87歳になっても衰えを知りません。この9月6日には王座戦予選Aで若手有望棋士の安斎伸彰四段(22歳)を負かしています。
岩田九段は日本棋院中部総本部の重鎮。大正15(1926=昭和元)年生まれで現在81歳。昨年の成績は16勝11敗と立派なものでした。今年も好調、5月には本因坊戦最終予選で一流棋士の三村智保九段に勝利。同準決勝で若手エースの井山裕太七段(18歳、日本棋院関西総本部)に敗れたものの、63歳差の対戦は、棋譜記録が付く公式戦で史上最大年齢差の対局であろうと話題になりました。
第1期旧名人戦リーグの最年少棋士だったのは関西棋院の橋本(昌)九段で、当時20代半ば。昭和10(1935)年生まれの橋本九段はまだ72歳です。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 18:22
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第31回】名人戦 (7)【2007年08月30日(木) 】
囲碁界の秋は名人戦の季節。高尾紳路名人(本因坊秀紳)に張栩(ちょう・う)挑戦者(碁聖)が挑む注目のシリーズが始まります。
2年前は自身が棋戦史上5人目の名人本因坊であり、当時は最強の棋士と呼ばれた張栩。その後も国際棋戦などで活躍を続ける若き張栩にとって、この第32期名人戦は負けられないリターンマッチです。
一昨年の本因坊戦(1勝4敗)、昨年の名人戦(2勝4敗)と張栩は高尾に敗れ、現在の大タイトルは碁聖(国内棋戦序列七番目)一冠に甘んじています。
第1局は9月6、7日に広島市の広島全日空ホテル。第2局(19、20日)長野県松本市。第3局(26、27日)宮城県仙台市。第4局(10月10、11日)静岡県伊豆市と続き、フルセットになれば第7局は11月8、9日に静岡県熱海市で予定されています。
三大棋戦の挑戦手合七番勝負はいずれも二日制、持時間は各8時間です。残り10分前から1分単位の秒読み。
昭和51(1976)年に棋聖戦が誕生して以来30余年。囲碁の三大棋戦は@棋聖戦(読売新聞) A名人戦(朝日新聞) B本因坊戦(毎日新聞)となっています(棋戦序列は契約金額に拠る)。
山下敬吾九段(棋聖、28)、高尾紳路九段(30)、張栩九段(27)は10代の頃から互いに好敵手で、前棋聖の羽根直樹九段(31)とともに平成四天王と呼ばれています。羽根は日本棋院中部総本部所属で、他の三人は日本棋院東京本院所属。
平成四天王の相互対戦成績は、張栩が山下にやや優位(19勝14敗)で、山下は羽根に大きく勝ち越している(23勝10敗)ことを除けば、ほぼ互角です。
高尾紳路VS張栩の対戦成績は15勝15敗1無勝負。まったく互角ですが、内容は偏っています。七番勝負では高尾が強く(8勝3敗)、他の棋戦(一日制や早碁棋戦)では張栩が優位。じっさい昨年の名人戦で敗れて以降、張栩は高尾と4戦して4勝、負けなしです。(年齢と成績は平成19年8月20日現在)
高尾−張の対戦成績にある無勝負1回は、平成18年3月の竜星戦でのこと。珍しい三劫(コウ)が生じ、「日本囲碁規約」により無勝負となったものです。「日本棋院対局管理規定」に基づく再対局の結果は張栩の勝ち。
日本棋院のデータベースに記録されている過去約50年間の棋士成績において、無勝負は19局あり、約9000局に1回の出来事です。高尾−張戦の後は、今年6月に全日本早碁オープン戦で無勝負が一度あり、河野臨天元と秋山次郎八段の対局で四劫無勝負。
高尾の師はタイトル戦史上初の名人(旧第1期名人)に輝いた藤沢秀行名誉棋聖です。
台湾に生まれた張栩。その師匠は大陸に生を受け、台湾で育った林海峰(りん・かいほう)名誉天元。林も張栩も子供の頃に来日し、日本で囲碁の修行をした日本の棋士です。
林の師は呉清源(ご・せいげん)九段。棋界の第一人者として長く君臨しながら、不運にも名人位に就くことができなかった呉にかわって、弟子の林が名人位を獲得したのは昭和40(1965)年、弱冠23歳のときでした。
次回は第32期名人戦(朝日)の様子も交えながら、第1期名人戦(旧名人戦、読売)について前回の続きをお話ししましょう。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 09:31
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第30回】名人戦 (6)【2007年08月15日(水) 】
- 何年か前に、朝日新聞社が名人戦を企画したが、日の目を見なかった。しかし、朝日とは大手合開設以来の長い付き合いがあるので、私は筋を通して、まず朝日に声をかけることにした。
つぎは中山典之(六段)『昭和囲碁風雲録(下)』(岩波書店)より。
- しかしながら、(中略)直前まで囲碁に理解があり、話が通じていた朝日の信夫(しのぶ)専務が辞職していたのである。新任の後任者では、ハイ、結構なお話で、と言う訳には行かなくなっていた。
そこで日本棋院は、改めて「事実上の名人戦」「実力名人戦」と号する六強戦を主催している読売に話を持って行ったのである。
契約金2千5百万円(年)は本因坊戦(毎日新聞)の2.5倍。「名人戦を作らなければ棋院の財政が破綻するとあって、評議員会で評決が行われ、賛成29、反対4、白票4という圧倒的多数で名人戦が決まった」(『昭和囲碁風雲録(下)』)
ただ独り、木谷實九段は絶対反対を主張し続けました。
- 木谷先生は「名人は自然に生まれるのを待つべきだ」という持論をつらぬいた。それも立派な見識と思ったが、「ただ待っているだけでは、名人位はタカラのもちぐされになりかねない」という私の主張とは平行線をたどった。(『碁打ち秀行』)
輝く第1期名人の筆頭候補はむろん呉清源九段。その呉が不運な交通事故に遭ったのは、同年の8月でした。入院2か月を経て、3か月後に呉は名人戦リーグ復帰。その間、読売新聞は日程をやりくりして呉が不戦敗にならないように配慮しました。
- 退院はしたものの、まだ正座できる状態ではない。私は椅子に腰かけて対局することになったが、相手の棋士はみな椅子の対局は不慣れである。とくに、名人戦のような重大な手合では、椅子では気合が乗らなくて困るという棋士も多かった。そこで、私は椅子に腰を掛け、相手は台の上に畳を置き、そこに座布団を敷いて座るという対局となった。(『以文会友』呉清源/著、白水社)
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 09:39
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
【手談への誘(いざな)い・第29回】名人戦 (5)【2007年07月31日(火) 】
奈良、平安の時代には、朝廷や寺院でおそらく毎日のように碁が打たれていました。
歴史に名を残す人物には、碁を好んだ人が数多くいます。
誰もが知っている名を思いつくままあげれば、聖武天皇、菅原道真、藤原道長、後白河上皇、源頼朝、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、渋沢栄一 などなど(年代順)。
このような人たち、時代を動かした人が碁を愛したことによって、その時代に囲碁が盛んになりました。
家康が碁を好まなければ、−江戸時代を通じた棋道の発展はなかったでしょう。
明治維新の元勲の多くが碁を打ったので、維新後の囲碁界は復興し、技芸の継承と発達が続いたのです。
終戦後には、永野護(揃って政財界で活躍した永野兄弟の長兄)、正力松太郎(社主となって読売新聞を大新聞に育てた)などの協力があって囲碁界は新たな発展を迎えました。
『碁打秀行』(藤沢秀行/角川文庫)につぎのようにあります。昭和35(1960)年のことです。
最後は、正力松太郎社主の英断で、名人戦が誕生した。
契約金2千5百万円。タイトル料3百万円は、当時としては破格の賞金だった。リーグ戦の対局料、1局10万円も本因坊戦挑戦手合の対局料より高かった。 (続く)
【参考】
名人戦創設当時の本因坊戦(毎日新聞)契約金960万円(年)
現在の三大棋戦タイトル料(優勝賞金)
棋聖戦(読売)4200万円 名人戦(朝日)3700万円 本因坊戦(毎日)3200万円
---------------------------------------
[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 13:19
| 囲碁
| この記事のURL
コメント(1)
| トラックバック(0)