【手談への誘(いざな)い・第35回】名人戦 (11)【2007年10月30日(火) 】
第32期名人戦七番勝負の第5局が兵庫県神戸市で10月17、18日に打たれました。激しい戦いのない碁で手数が進み、二日目の朝には早くもヨセの局面。終始手厚く打ち進めた黒番の高尾紳路名人が僅かな優勢を維持して、2目半勝ち。挑戦者の張栩碁聖が持時間を3時間以上残し、午後3時すぎの早い終局でした。
高尾名人の2勝3敗となり、注目の第6局は11月1、2日に山梨県甲府市で行われます。
昭和36(1961)年8月、オートバイに跳ねられた呉清源九段が担ぎ込まれたのは「豊島区雑司ヶ谷にある東大病院の分院であった」。
自伝『以文会友』(白水社1997)に、「医者はたいした怪我ではないと説明」し、数日経って初めてレントゲン検査したものの、事務の誤りで痛くない左足を検査。再検査してようやく、右足と腰骨のズレ、骨折が判明。「処置が後手、後手にまわり、私は二ヶ月の入院生活を送らなければならなかった」とあり、続いてこう書かれています。
- 天下の東大病院が、なぜあのようなずさんな検診ですませたのか、いまだに不可解である。脳波や心電図の検査は最後まで行われなかったが、頭部にも事故の影響があったにちがいない。退院後も頭痛は続き、私はさまざまな後遺症に悩まされて、棋士生活がおびやかされることになったのである。思えば、私の棋士生命を一気に縮めた、運命のオートバイ事故であった。
昭和36年1月に開幕した第1期名人戦(読売新聞主催の旧名人戦)は13名の総当たりリーグ戦。持時間は各10時間の二日制でした。コミは異例の5目。ジゴは白勝ちとしながら、ジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るとした規定が初代名人の行方を左右しました。
リーグ戦の序盤、呉清源は苦戦。宮下秀洋九段と木谷實九段に勝ちましたが、島村俊宏九段と藤沢秀行八段に敗れ、2勝2敗。名人位の獲得に黄信号が点る中で、呉は交通事故に遭いました。
読売新聞と日本棋院の配慮によって名人戦における呉の対局は延期。呉が5局目の半田道玄九段戦を打ったのは、事故から3か月後、11月の末でした。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第34回】名人戦 (10)【2007年10月15日(月) 】
第32期名人戦七番勝負の第4局は静岡県伊豆市で10月10、11日に打たれ、挑戦者の張栩(ちょう う、27歳)碁聖が高尾紳路(たかお しんじ、10月26日に31歳)名人に黒番中押し(ちゅうおし)勝ち。
高尾名人としては珍しく実利で先行し、シノギ勝負の碁に。しかし挑戦者の追求は的確で、上方の白が憤死して名人は投了。3勝1敗とした張九段が名人復位にあと1勝となりました。
張栩碁聖(台湾出身)は林海峰名誉天元(中国生まれ、台湾育ち、65歳)の弟子。林九段は呉清源九段(中国出身、93歳)の弟子なので、張栩は呉清源の孫弟子です。来日時の年齢は呉14歳(飛付三段)、林10歳(12歳入段)、張10歳(14歳入段)。
呉清源九段の自伝『以文会友』(白水社1997)の第7章「名人戦以降」に、「運命のオートバイ事故」のことが書かれています。
また、「私は昭和10年、21歳で紅卍に入信し、その後一貫して紅卍の教えを信じて今日まで来た」と同書にあります。さらに、紅卍の布教の目的は、「他人を救うことは、すなわち自分を救うことであるということを悟り、皆が助け合いながら、地球上から無益な争いを消滅させ、世界平和を実現して、人類が救済されることである」と。
- 昭和36年の8月のことである。豊島区目白にある椿山荘の近くに、紅卍の日本支部設立準備のための事務所があったが、そこで午後1時に理事会が開かれることになっていた。私は1月から始まった第1期名人戦の手合期間中であったが、その日は会議に出席するため小田原から上京し、昼頃に目白の紅卍の事務所に向かっていた。
東京駅からタクシーで向かったが、目白に着く頃には定刻を過ぎてしまったらしい。道路の反対側でタクシーを降り、遅刻するのが嫌いな呉は、横断歩道でない所で目白通りを渡ろうとした。向かって来るバスが呉に気付いてスピードを落としたので思い切って渡り始めたとき、スピードを上げたオートバイがバスを追い越して、「眼の前に急に現れたと思うと、そのまま私に衝突し、私は宙に跳ね上げられた」と『以文会友』にあります。
- そのとき見ていた人の話によると、私は跳ね上げられると再びオートバイの上に落下し、数メートル引きずられて道路に落ちたそうである。
3年前に撮影を終えていた中国映画「呉清源 極みの棋譜」(田壮壮監督)がようやく完成し、11月に日本で公開されます。呉清源九段の実像に迫る内容という前評判で、松坂慶子、柄本明、南果歩ほか日本の俳優に加え、関西の棋士も協力出演しています。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第33回】名人戦 (9)【2007年10月01日(月) 】
第32期名人戦七番勝負の第2局は9月19、20日に長野県松本市で打たれ、挑戦者の張栩(ちょう う、27歳)碁聖が高尾紳路(たかお しんじ、10月26日に31歳)名人に黒番中押し(ちゅうおし)勝ち。
テレビ中継の(NHK・BS2)解説で、終局後に山城宏九段が褒めていました。
「高尾名人の負けっぷりがいい」 「堂々と、何もしないで負けた」 ピッタリの表現でした。
続いて翌週26、27日に仙台市で第3局が打たれました。白番の張挑戦者が趣向し、鏡碁(左右対称形)と呼ばれる珍しい序盤戦。この碁もまた、好対照の棋風どおり、何もしない名人vs機敏に動く挑戦者 という進行で、二人の着手はいつも以上に早かった。
二日目の午後には早くも終盤戦の様相となり、細かい碁、ヨセ勝負。黒がやや厚い半目勝負だったと思いますが、高尾名人は持時間を使い果たして残り1分の秒読み、一手を1分以内に打ち続けなければなりません。
持時間があと2時間長かったら(各10時間だったら)、高尾名人が僅かに残していたでしょう。318手完、挑戦者の1目半勝ち。名人復位へ向けて張栩碁聖が一歩リードしました。
人気もトップの両棋士は、昨年相次いで専門書を出版しました。6月に『正々堂々 高尾の力学』が日本棋院(有段者囲碁選書1)から、7月には『張栩の詰碁−難しい問題を簡単に』が毎日コミュニケーションズから。
『高尾の力学』は、師匠・藤沢秀行名誉棋聖ゆずりの手厚い棋風で知られる高尾本因坊(当時は一冠)初の著書。
『張栩の詰碁』は、詰碁創作でも当代随一・張栩名人(当時)の名作詰碁をアマ向けに紹介した意欲作で、夫人・小林泉美六段の興味深い話など読み物も楽しい好著です。
囲碁界では一流棋士が筆を執り、世に出る文章を自ら書くことはまずありません。多くは、各々の棋士に信頼を得ているライターが、本人の筆であるかのごとく巧みにまとめ、その棋士の著書として出版されています。例外は故高川先生、22世本因坊秀格でした。
近年の棋書には、著者名のほかにライターの名を小さく記してある良書が増えました。
『高尾の力学』には「構成・記述 伊瀬英介」とあり、『張栩の詰碁』では目次の前に小さく「構成・佐野真」と記されています。
「昭和の棋聖」とも呼ばれる呉清源九段の回想録が中日新聞・東京新聞の夕刊に掲載されたのは2001年7月から10月でした。
90回にわたる連載をまとめた『中の精神』が翌年1月に東京新聞出版局から出版されました。
その第8章「交通事故で…」で、つぎのように書かれています。ただし、文中の「第1期名人戦の前に起こった」は誤りです。
- 第1期名人戦の前に起こったオートバイ事故は、私に深刻な後遺症をもたらしました。まず頭痛に悩まされました。足を引きずってもいたので、対局の時は正座できません。仕方なく、椅子を用意してもらいましたが、どうしても畳の上でないと困るという対局相手もいました。それで、私は椅子、相手は台の上に畳を敷いて打つという変わった対局風景になりました。
先立つ1997年に出版された呉清源の自伝『以文会友』(白水社)には正しく書かれています。「運命のオートバイ事故」は、「昭和36年の8月のことである」「1月から始まった第1期名人戦の手合期間中であった」と。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第32回】名人戦 (8)【2007年09月14日(金) 】
第32期名人戦が始まりました。七番勝負の第1局が9月6、7日に広島市で打たれ、名人・高尾紳路(たかお しんじ)が挑戦者・張栩(ちょうう)に黒番4目半勝ち。初防衛に向けて、高尾名人が幸先良い一勝をあげました。
両者の棋風は対照的です。ゆったり手厚い碁を好む高尾名人。実利重視で機敏な張碁聖。第1局は双方の長所がよく現れ、七番勝負の初戦に相応しい好局でした。
高尾はタイトル戦史上6人目の名人本因坊。本因坊を三連覇し、慣例に従って先般、本因坊秀紳(しゅうしん)と号を名乗りました。高尾の師匠は藤沢秀行(ひでゆき)名誉棋聖です。
高尾に本因坊を奪われるまで名人本因坊だった張碁聖は、同郷の大先輩である林海峰(りん かいほう)名誉天元の弟子。林の師は呉清源(ご せいげん)九段なので、張栩は呉清源の孫弟子です。
およそ半世紀前、名人戦が誕生した1961年に話を戻しましょう。
藤沢秀行の『碁打秀行(ごうち しゅうこう)』(角川文庫)につぎのように書かれています。
- 第一期名人戦は昭和36年に開始された。リーグ戦参加棋士は呉清源、木谷実、藤沢朋斎、坂田栄男、高川格、島村俊廣、宮下秀洋、杉内雅男、橋本宇太郎、橋本昌二、半田道玄(以上九段)、岩田正男七段(のちに達明と改名、現九段)、八段で最高位にあった私の計13人。各12局を打ち、第一位が第一期名人になる。翌年からはリーグ戦の第一位が挑戦する。
読売新聞や囲碁雑誌の予想投票では、呉さんと坂田さんを本命に推す声が多かった。私は無印だったが、おもしろくなりそうな予感がしていた。
ここにいう第1期名人戦は、今日でいう旧名人戦です。読売新聞が主催した旧名人戦は昭和50年の第14期で終わり、翌年から朝日新聞主催の(新)名人戦に移行。現在、第32期名人の座を争っているのが、藤沢の弟子・高尾と呉の孫弟子・張栩です。
「最高位」とは、第5期最高位決定戦(朝日新聞、第6期で終了)において坂田最高位を3勝1敗で破り、藤沢秀行が初めて獲得した大タイトルです。
第1期名人戦リーグ参加者13名の内訳は、日本棋院棋士9名、関西棋院3名(両橋本、半田)、そして日本棋院客員棋士の呉清源。そのうち7名は故人となりました。木谷実、藤沢朋斎、高川格(22世本因坊秀格)、島村俊廣、宮下秀洋、橋本宇太郎、半田道玄。
呉清源、坂田栄男(23世本因坊栄寿)、藤沢秀行(九段、名誉棋聖)の3名は引退。
今も現役を続けているのは杉内雅男、岩田達明、橋本昌二です。
大正9(1920)年生まれの杉内九段は現役最高齢棋士。入段(プロ初段になること)以来なんと現役70年を今年迎えた杉内ですが、鍛え抜いた実力は87歳になっても衰えを知りません。この9月6日には王座戦予選Aで若手有望棋士の安斎伸彰四段(22歳)を負かしています。
岩田九段は日本棋院中部総本部の重鎮。大正15(1926=昭和元)年生まれで現在81歳。昨年の成績は16勝11敗と立派なものでした。今年も好調、5月には本因坊戦最終予選で一流棋士の三村智保九段に勝利。同準決勝で若手エースの井山裕太七段(18歳、日本棋院関西総本部)に敗れたものの、63歳差の対戦は、棋譜記録が付く公式戦で史上最大年齢差の対局であろうと話題になりました。
第1期旧名人戦リーグの最年少棋士だったのは関西棋院の橋本(昌)九段で、当時20代半ば。昭和10(1935)年生まれの橋本九段はまだ72歳です。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第31回】名人戦 (7)【2007年08月30日(木) 】
囲碁界の秋は名人戦の季節。高尾紳路名人(本因坊秀紳)に張栩(ちょう・う)挑戦者(碁聖)が挑む注目のシリーズが始まります。
2年前は自身が棋戦史上5人目の名人本因坊であり、当時は最強の棋士と呼ばれた張栩。その後も国際棋戦などで活躍を続ける若き張栩にとって、この第32期名人戦は負けられないリターンマッチです。
一昨年の本因坊戦(1勝4敗)、昨年の名人戦(2勝4敗)と張栩は高尾に敗れ、現在の大タイトルは碁聖(国内棋戦序列七番目)一冠に甘んじています。
第1局は9月6、7日に広島市の広島全日空ホテル。第2局(19、20日)長野県松本市。第3局(26、27日)宮城県仙台市。第4局(10月10、11日)静岡県伊豆市と続き、フルセットになれば第7局は11月8、9日に静岡県熱海市で予定されています。
三大棋戦の挑戦手合七番勝負はいずれも二日制、持時間は各8時間です。残り10分前から1分単位の秒読み。
昭和51(1976)年に棋聖戦が誕生して以来30余年。囲碁の三大棋戦は@棋聖戦(読売新聞) A名人戦(朝日新聞) B本因坊戦(毎日新聞)となっています(棋戦序列は契約金額に拠る)。
山下敬吾九段(棋聖、28)、高尾紳路九段(30)、張栩九段(27)は10代の頃から互いに好敵手で、前棋聖の羽根直樹九段(31)とともに平成四天王と呼ばれています。羽根は日本棋院中部総本部所属で、他の三人は日本棋院東京本院所属。
平成四天王の相互対戦成績は、張栩が山下にやや優位(19勝14敗)で、山下は羽根に大きく勝ち越している(23勝10敗)ことを除けば、ほぼ互角です。
高尾紳路VS張栩の対戦成績は15勝15敗1無勝負。まったく互角ですが、内容は偏っています。七番勝負では高尾が強く(8勝3敗)、他の棋戦(一日制や早碁棋戦)では張栩が優位。じっさい昨年の名人戦で敗れて以降、張栩は高尾と4戦して4勝、負けなしです。(年齢と成績は平成19年8月20日現在)
高尾−張の対戦成績にある無勝負1回は、平成18年3月の竜星戦でのこと。珍しい三劫(コウ)が生じ、「日本囲碁規約」により無勝負となったものです。「日本棋院対局管理規定」に基づく再対局の結果は張栩の勝ち。
日本棋院のデータベースに記録されている過去約50年間の棋士成績において、無勝負は19局あり、約9000局に1回の出来事です。高尾−張戦の後は、今年6月に全日本早碁オープン戦で無勝負が一度あり、河野臨天元と秋山次郎八段の対局で四劫無勝負。
高尾の師はタイトル戦史上初の名人(旧第1期名人)に輝いた藤沢秀行名誉棋聖です。
台湾に生まれた張栩。その師匠は大陸に生を受け、台湾で育った林海峰(りん・かいほう)名誉天元。林も張栩も子供の頃に来日し、日本で囲碁の修行をした日本の棋士です。
林の師は呉清源(ご・せいげん)九段。棋界の第一人者として長く君臨しながら、不運にも名人位に就くことができなかった呉にかわって、弟子の林が名人位を獲得したのは昭和40(1965)年、弱冠23歳のときでした。
次回は第32期名人戦(朝日)の様子も交えながら、第1期名人戦(旧名人戦、読売)について前回の続きをお話ししましょう。
(続く)
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【手談への誘(いざな)い・第30回】名人戦 (6)【2007年08月15日(水) 】
- 何年か前に、朝日新聞社が名人戦を企画したが、日の目を見なかった。しかし、朝日とは大手合開設以来の長い付き合いがあるので、私は筋を通して、まず朝日に声をかけることにした。
つぎは中山典之(六段)『昭和囲碁風雲録(下)』(岩波書店)より。
- しかしながら、(中略)直前まで囲碁に理解があり、話が通じていた朝日の信夫(しのぶ)専務が辞職していたのである。新任の後任者では、ハイ、結構なお話で、と言う訳には行かなくなっていた。
そこで日本棋院は、改めて「事実上の名人戦」「実力名人戦」と号する六強戦を主催している読売に話を持って行ったのである。
契約金2千5百万円(年)は本因坊戦(毎日新聞)の2.5倍。「名人戦を作らなければ棋院の財政が破綻するとあって、評議員会で評決が行われ、賛成29、反対4、白票4という圧倒的多数で名人戦が決まった」(『昭和囲碁風雲録(下)』)
ただ独り、木谷實九段は絶対反対を主張し続けました。
- 木谷先生は「名人は自然に生まれるのを待つべきだ」という持論をつらぬいた。それも立派な見識と思ったが、「ただ待っているだけでは、名人位はタカラのもちぐされになりかねない」という私の主張とは平行線をたどった。(『碁打ち秀行』)
輝く第1期名人の筆頭候補はむろん呉清源九段。その呉が不運な交通事故に遭ったのは、同年の8月でした。入院2か月を経て、3か月後に呉は名人戦リーグ復帰。その間、読売新聞は日程をやりくりして呉が不戦敗にならないように配慮しました。
- 退院はしたものの、まだ正座できる状態ではない。私は椅子に腰かけて対局することになったが、相手の棋士はみな椅子の対局は不慣れである。とくに、名人戦のような重大な手合では、椅子では気合が乗らなくて困るという棋士も多かった。そこで、私は椅子に腰を掛け、相手は台の上に畳を置き、そこに座布団を敷いて座るという対局となった。(『以文会友』呉清源/著、白水社)
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【手談への誘(いざな)い・第29回】名人戦 (5)【2007年07月31日(火) 】
奈良、平安の時代には、朝廷や寺院でおそらく毎日のように碁が打たれていました。
歴史に名を残す人物には、碁を好んだ人が数多くいます。
誰もが知っている名を思いつくままあげれば、聖武天皇、菅原道真、藤原道長、後白河上皇、源頼朝、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、渋沢栄一 などなど(年代順)。
このような人たち、時代を動かした人が碁を愛したことによって、その時代に囲碁が盛んになりました。
家康が碁を好まなければ、−江戸時代を通じた棋道の発展はなかったでしょう。
明治維新の元勲の多くが碁を打ったので、維新後の囲碁界は復興し、技芸の継承と発達が続いたのです。
終戦後には、永野護(揃って政財界で活躍した永野兄弟の長兄)、正力松太郎(社主となって読売新聞を大新聞に育てた)などの協力があって囲碁界は新たな発展を迎えました。
『碁打秀行』(藤沢秀行/角川文庫)につぎのようにあります。昭和35(1960)年のことです。
最後は、正力松太郎社主の英断で、名人戦が誕生した。
契約金2千5百万円。タイトル料3百万円は、当時としては破格の賞金だった。リーグ戦の対局料、1局10万円も本因坊戦挑戦手合の対局料より高かった。 (続く)
【参考】
名人戦創設当時の本因坊戦(毎日新聞)契約金960万円(年)
現在の三大棋戦タイトル料(優勝賞金)
棋聖戦(読売)4200万円 名人戦(朝日)3700万円 本因坊戦(毎日)3200万円
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【手談への誘(いざな)い・第28回】名人戦 (4)【2007年07月15日(日) 】
あ、いや…石川五右衛門の辞世* は「談合」でなく「盗人」でしたね。
囲碁の世界も江戸時代には談合がありました。幕府から扶持を得ていた家元四家(しけ、本因坊・安井・井上・林)の間で互いの利益や立場を守るため、稀に八百長があったと伝わっています。
生身でぶつかり合う激しい競技で、毎日全力のガチンコ勝負をしていては選手の身体がもたず、故障者続出となれば興行も振るわなくなるでしょう。
タタキ合いで消耗し合うのを避けるために談合は必要悪。ときおり目にするそういった議論も、一面においては理解できます。
囲碁も一対一の格闘技ですが、頭脳の勝負。ですから、一週間に1局、2局なら年間を通じて全力で戦い続けても、幸いなことに選手生命が縮まることはありません。
今日、日本碁界・プロ棋戦で談合や八百長はないと断言できます。
しかし、碁盤の上のことでなく、盤外の話となると…
半世紀前はたしかに、囲碁界で談合があったようです。日本棋院は被害者ですが。
『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店2003)に中山典之が書いています。
朝日新聞が大手合に順位戦を導入して名人戦をこしらえようとして、失敗に終わった昭和27(1952)年に、朝日の信夫専務、毎日の渡瀬常務、読売の安田副社長の三人が集まった。
朝日が名人戦の企画に他社の数倍の予算を計上したことが問題視されたのであろう。囲碁と将棋の企画に、これからは競争を極力自粛し、諸経費を増大させないという、いうなれば三大企業の談合である。
碁の分野では、朝日が大手合、毎日が本因坊戦、読売は呉清源をメインとする十番碁とそれぞれの陣地を決め、さらに
A、名人戦の名称は、行事としてはもちろん、新聞社主催の場合も使用しないこと
B、名人位の規定変更は三社の承認を必要とすること
C、大手合、本因坊戦のほかは行わぬこと
D、三社以外の新聞社の企画についても、実施に当りあらかじめ三社の諒解を求めること
などなどの確認を日本棋院に要求した。
よく読んでみれば、相当に乱暴な話であり、(中略)当時の日本棋院は三大紙との契約金が収入の大半を占めていたから受諾せざるを得なかった、とされる。雑誌や単行本の売上高や、免状料などは、まことに微々たるものだった。
名人戦の誕生と変遷。
その歴史を、中山典之、呉清源、高川秀格、藤沢秀行らの著書を参考にしながら辿ってみると、今日の囲碁界・日本棋院がかかえる諸問題の実相も見えてきます。(続く)
* いしかわごえもん(1594年に釜煎りの刑で死亡)…安土桃山時代、京都に出没した盗賊。江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の演題として人気を博し、伝説の大泥棒として知られる。信頼できる史料は乏しく、釜煎りを除けば、有名な辞世の句も含めフィクション。
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【手談への誘(いざな)い・第27回】名人戦 (3)【2007年07月01日(日) 】
しかし、日本棋院の財政基盤は戦争によって失われ、財団と呼べるような基本財産も今日に至るまでありません。
この半世紀あまり、日本のプロ碁界、日本棋院を支えてきた最大の収入源は新聞社を筆頭にスポンサーから得る棋戦契約金です。一時は少なくなかった免状収入や雑誌・新聞(週刊碁)の発行収入も近年激減し、棋戦収入に依存する割合がいっそう増しています。
戦後の復興とともに囲碁界も盛んになり、棋士の数が増え続けました。昇段者も多くなり、棋士に支払う対局料等は増加の一途。半世紀前、昭和30年代前半の日本棋院は、収入の伸びが支出増に追いつかない実態でした。
経営が苦しくても、囲碁の技芸向上と囲碁普及を使命とする日本棋院は次代を担う棋士の採用をストップできません。また、碁を打つほかに生きるすべのない専門棋士をリストラすることもできません。
増収を図るか、支出を減らすか。
かつては増収によって切り抜けてきました。昭和30年代後半、そして50年代前半に。
増収の妙手を見出せず、好手もなかなか打てない昨今は、人件費の削減によって赤字の圧縮を続けています。職員の削減、棋士への支払いカット……寂しい日々です。
昭和36(1961)年に名人戦が誕生。51(1976)年に棋聖戦の創設。いずれも、その背景に日本棋院の財政難がありました。
「昭和35年ごろ、日本棋院は財政的なピンチにあった」
『昭和囲碁風雲録・下』((岩波書店2003)にもそうあります。
最大の収入源である棋戦契約金は、大新聞三社(朝日・毎日・読売)の申し合わせ(三社協定)によって抑えられ、棋士の不満が高まっていました。
同書で、著者の日本棋院六段(現役棋士)中山典之(1932−)はつぎのように書いています。
棋士たちの間には、何か新しく大棋戦が出現して、破格な契約金を出してくれるスポンサーはいないものかという話がヒソヒソ話になり、やがて声高に語られるようになった。(中略)
昭和35年の6月に日本棋院で理事の改選があり、それまで長年に亘って渉外担当理事を担当してきた村島七段が落選。名人戦実現を公約として掲げた藤沢秀行八段が渉外担当理事になった。棋士たちの世論を代弁しての政権交替であり(中略)これまでのやり方を一新しなければ、という若手棋士の声に押されての人事だった。
つぎは日本経済新聞「私の履歴書」に掲載、『碁打ち秀行−私の履歴書』として同社から刊行された後、加筆再構成された同名の角川文庫(藤沢秀行1999)より。
昭和35年の改選では筆頭理事である渉外担当理事に選ばれた。大役とは一にも二にも棋院の財政基盤の改善----より端的にいえば、新聞社との契約金を高くすることにあった。(中略)囲碁界発展のためにも、超大型棋戦を創設すべきである、と考えた。こうなれば名称のもつ重みからいっても、「名人戦」以外には考えられない。
藤沢秀行名誉棋聖(1925−、九段、1998年引退)は「しゅうこう先生」と呼ばれ、その破天荒な生き方で有名な大棋士です。藤沢朋斎九段(旧名庫之助、1919−1993)と親戚で、年下の名誉棋聖が叔父。
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【手談への誘(いざな)い・第26回】名人戦 (2)【2007年06月15日(金) 】
呉清源回想録『以文会友』(白水社1997)で、呉九段はそう語っています。
その4年前に、読売新聞主催の日本最強決定戦(最強戦)が創設されました。名人戦の前身となった棋戦。今からちょうど半世紀前のことです。
その頃、囲碁界の最強者が呉清源九段であるのは、誰の目にも明らかだったでしょう。
とはいえ、日本棋院と袂を分かつ形で読売新聞の呉清源十番碁を打ってきた呉を、日本棋院が名人に推挙することはあり得ないのでした。
(同書より)続に六強戦とも呼ばれ、文字通り最強者を決めようという企画であったが、私としては大いに不満であった。なぜなら、六強戦の出場棋士は、私が打込み十番碁ですべて打込んだ相手である。その打込んだ相手と打込み返されることもなく再び互先に戻って実力を争うというのは、借金を何の理由もなく一方的に破棄することと同じであろう。四百年来の囲碁界のしきたりを無視したことになる。これでは、何のために十五年以上にわたって必死の思いで打込みを賭けた十番碁を打ち続けてきたかわからない。
異議を申し立てた呉に対して、読売新聞は「今後とも呉清源を中心として囲碁の企画を行う」との覚え書きを取り交わし、呉は最強戦に参加したのでした。
にもかかわらず、「私にひとことの相談もなしに」読売新聞は最強戦を名人戦に移行する企画を発表したと、呉は述べています(同書)。
「実力名人を決める」と謳った最強戦は、昭和32(1957)年に始まりました。当時の九段全員5名(呉清源、木谷實、橋本宇太郎、藤沢朋斎、坂田栄男)に、本因坊の高川秀格八段を加えた6人の総当たりリーグ戦です。コミなしで、同一相手と各2回(黒番と白番)対戦、。
第1期は予想に違わず、呉が8勝2敗で優勝し、2位は木谷九段、3位が坂田九段でした。
第2期最強戦は最も若い坂田が8勝1敗1ジゴで優勝しました。2位が木谷、呉は5勝5敗の3位でした。
「偶然にこの年は不調だったとしても、打ち分けにとどまったことは、神格化されていた呉清源もやはり人間だったという印象を他の棋士に与えたことになり、影響する所は甚大だった」と、中山典之が『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店2003)に書いています。
第3期は呉と坂田が同率優勝し、3期で終わった最強戦の通算成績も呉と坂田はまったく互角でした。最盛期をすぎつつあった呉清源に10歳若い坂田栄男の力が追いつこうとしていた時代といえるでしょう。
坂田が頂点に立つのはそれから数年後のこと。昭和36(1961)年、九連覇していた高川本因坊を破って本因坊位に就き、翌年には第2期名人位を獲得して、坂田は実力タイトル制になって初の名人本因坊になりました。
財団法人日本棋院の経営が苦しいのは最近はじまったことでなく、名人戦が昭和36年に誕生した背景には、日本棋院の財政難があったのです。
その当時、本因坊戦(毎日新聞)の契約金は960万円(年)。日本棋院が提示した契約金2500万円(同)を読売新聞は応諾し、名人戦が創設されました。
そうした経緯は中山(上記)が記しています。それを参考に、次回もう少し詳しく話しましょう。
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