【手談への誘(いざな)い】第8回『始皇帝の実の父?』 【2006年09月15日(金) 】
江戸東京博物館で開催中(8/1〜10/9)の「始皇帝と彩色兵馬俑展−司馬遷『史記』の世界」を、見ました。
始皇帝の時代に突如として実物大の兵馬俑が現れ、また一代で消えていく。それは、あたかも始皇帝の帝国がわずか15年で滅んだことの反映でもあるかのようだ。彩色跪射俑(きしゃよう)の展示は、その迫力とともに、いままでの兵馬俑ではうかがえなかった色彩豊かな世界へと誘ってくれる。(「始皇帝と彩色兵馬俑展」図録より)
始皇帝は紀元前259年に生まれ、父は呂不韋ともいわれている(同図録)。
公の記録が事実と異なるのは珍しいことでないかもしれません。しかし、皇帝の出生にかかわる話とあれば、ことは重大。
渡部義通が著した『古代囲碁の世界』(三一書房1977)は古代囲碁史のバイブルと呼ばれる本で、私も同書を読んで囲碁史に対する関心を深めた一人です。その第六章「秦漢棊影」に、つぎのようにあります。
始皇帝は字(あざな)を政といい、荘襄王・子楚の子ということになっているが、実の父は呂不韋という大商人であったらしい。子楚が若年にして趙国へ人質におくられていたころ、呂不韋の愛妾(舞妓)を請いうけて妻にしたが、そのときすでに彼女は不韋の子を懐妊していた、と『史記』(呂不韋列伝)は誌している。不韋は人質王子をいつの日か王位につけんものと、進んでそのパトロンになり、子楚に巨額の金を与えて実力者や名士らと交際させるなど、その声望をひろめるよう深謀遠慮の布石を打っていた。
そのころのことである。呂不韋は趙国の将軍公孫乾と昵懇な仲で、碁敵(ごがたき)でもあったらしく、二人の対局の話が伝えられている。
それは、要約するとつぎのような話です。
呂不韋を数月ぶりに迎えた公孫乾は、「私は飽きるまで食べて、終日心を用いることがなかった。賢弟(不韋)と碁を打って蒙鬱を晴らしたいと思っていたので、喜びにたえない」。二人は碁を打つこと半日、不韋が続けて3局負けた。不韋曰く、私の負けです。後日別荘に賢兄(公孫乾)と子楚を招き、池中の閣内にて酒を飲みましょう。公孫乾曰く、これ正に我が意に合う。不韋は辞して帰った。
続いて、渡部はこう書いています。
呂不韋はこうして、趙の有力な将軍に子楚を紹介する機会としたのであろう。この話は、前三世紀ごろには囲碁が商人層にもひろがり、酒席や交際の具になっていたことを示す注目すべき資料でもある。
右の話は、雑誌『棋友』(大正13年7月創刊)第2巻9号に載せられたものの引用であるが、『史記』(呂不韋列伝)その他には見当たらない。(中略)要するにその出典が私にはまだつかめぬわけだけれども、『棋友』の文章は何か典拠があるだろうから、博識の人の垂教をえたいと思う。(『古代囲碁の世界』)
子楚が秦の王になり、呂不韋は宰相として権勢を誇りました。後世、呂不韋の業績として高く評価されているのは、食客たちに『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』を編纂させたことです。前239年(始皇8年)に完成したこの思想書は、当時の知識や学説を網羅しています。26巻160篇という大著。
「始皇帝と彩色兵馬俑展」に展示されていた竹簡のレプリカを興味深く見ました。漢代にはまだ紙が普及しておらず、書物は竹簡や木簡でした。削り揃えた竹を糸でつなぎ、その細い竹の一本一本に小さな文字がびっしり書かれていました。
『史記』の竹簡は伝わっておらず、130篇52万6500字にのぼったといわれる全文は、宋代になって版木に彫られて印刷されたテキストによっています。
司馬遷が生まれる約百年前に書かれた『呂氏春秋』160篇も、同じような竹簡に書かれていたのでしょう。
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始皇帝の時代に突如として実物大の兵馬俑が現れ、また一代で消えていく。それは、あたかも始皇帝の帝国がわずか15年で滅んだことの反映でもあるかのようだ。彩色跪射俑(きしゃよう)の展示は、その迫力とともに、いままでの兵馬俑ではうかがえなかった色彩豊かな世界へと誘ってくれる。(「始皇帝と彩色兵馬俑展」図録より)
始皇帝は紀元前259年に生まれ、父は呂不韋ともいわれている(同図録)。
公の記録が事実と異なるのは珍しいことでないかもしれません。しかし、皇帝の出生にかかわる話とあれば、ことは重大。
渡部義通が著した『古代囲碁の世界』(三一書房1977)は古代囲碁史のバイブルと呼ばれる本で、私も同書を読んで囲碁史に対する関心を深めた一人です。その第六章「秦漢棊影」に、つぎのようにあります。
始皇帝は字(あざな)を政といい、荘襄王・子楚の子ということになっているが、実の父は呂不韋という大商人であったらしい。子楚が若年にして趙国へ人質におくられていたころ、呂不韋の愛妾(舞妓)を請いうけて妻にしたが、そのときすでに彼女は不韋の子を懐妊していた、と『史記』(呂不韋列伝)は誌している。不韋は人質王子をいつの日か王位につけんものと、進んでそのパトロンになり、子楚に巨額の金を与えて実力者や名士らと交際させるなど、その声望をひろめるよう深謀遠慮の布石を打っていた。
そのころのことである。呂不韋は趙国の将軍公孫乾と昵懇な仲で、碁敵(ごがたき)でもあったらしく、二人の対局の話が伝えられている。
それは、要約するとつぎのような話です。
呂不韋を数月ぶりに迎えた公孫乾は、「私は飽きるまで食べて、終日心を用いることがなかった。賢弟(不韋)と碁を打って蒙鬱を晴らしたいと思っていたので、喜びにたえない」。二人は碁を打つこと半日、不韋が続けて3局負けた。不韋曰く、私の負けです。後日別荘に賢兄(公孫乾)と子楚を招き、池中の閣内にて酒を飲みましょう。公孫乾曰く、これ正に我が意に合う。不韋は辞して帰った。
続いて、渡部はこう書いています。
呂不韋はこうして、趙の有力な将軍に子楚を紹介する機会としたのであろう。この話は、前三世紀ごろには囲碁が商人層にもひろがり、酒席や交際の具になっていたことを示す注目すべき資料でもある。
右の話は、雑誌『棋友』(大正13年7月創刊)第2巻9号に載せられたものの引用であるが、『史記』(呂不韋列伝)その他には見当たらない。(中略)要するにその出典が私にはまだつかめぬわけだけれども、『棋友』の文章は何か典拠があるだろうから、博識の人の垂教をえたいと思う。(『古代囲碁の世界』)
子楚が秦の王になり、呂不韋は宰相として権勢を誇りました。後世、呂不韋の業績として高く評価されているのは、食客たちに『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』を編纂させたことです。前239年(始皇8年)に完成したこの思想書は、当時の知識や学説を網羅しています。26巻160篇という大著。
「始皇帝と彩色兵馬俑展」に展示されていた竹簡のレプリカを興味深く見ました。漢代にはまだ紙が普及しておらず、書物は竹簡や木簡でした。削り揃えた竹を糸でつなぎ、その細い竹の一本一本に小さな文字がびっしり書かれていました。
『史記』の竹簡は伝わっておらず、130篇52万6500字にのぼったといわれる全文は、宋代になって版木に彫られて印刷されたテキストによっています。
司馬遷が生まれる約百年前に書かれた『呂氏春秋』160篇も、同じような竹簡に書かれていたのでしょう。
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