【手談への誘(いざな)い】第9回『囲碁の起源伝説は「史記」にない』 【2006年10月02日(月) 】
囲碁は、古代中国で発祥したと考えられています。では、いつごろ生まれたのでしょうか?
昭和の棋聖と呼ばれる呉清源(ごせいげん)九段は、昭和3年(1928)に14歳で中国から来日。92歳の現在も、碁の研究と後進の指導を続けておられます。『中央公論』昭和13年1月号に、呉九段の随筆『莫愁(もしゅう)』が掲載されました。題名は故国の南京にある莫愁湖からとったもの(呉九段は福建省生まれ、北京で育つ)。莫愁という名の若い嫁が身を投げて死んだという伝説がその湖にあり、随筆には「いま南京は兵火の力に囲まれている」とあります。南京陥落は昭和12年の12月でした。
その『莫愁』で、囲碁の起源に関する呉九段の考えがつぎのように語られています。
碁は神代の時代からあったらしい。神技とは、まことにこのことを言うのであろう。遼遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私等、凡庸の頭からすれば碁は神が創造した、としか考えられないのである。
人によると、碁は堯帝が作ったものであると言うけれど、張継が康煕庚辰(1700)に書いた書物によると、そうではなく堯帝が仙人から学んだものであるとしてある。何れがほんとうの話であるか知れないが、なかなか興味ある話であると思う。
(『呉清源棋話』三一書房1993に所収の「莫愁」より引用)
囲碁の起源伝説は、晉(265-316)の張華(232-300)の撰といわれる『博物誌』に書かれていたと、後の時代の書物によって伝えられています。『博物誌』は現存していません。
日本で最初の百科事典である『倭名類従鈔』(わみょうるいじゅうしょう 934年頃成立)を見ると、「圍碁(いご)」の項目につぎのようにあります。(拙著の集英社新書『囲碁の知・入門編』72ページ、「碁盤は17路であった」をお読みください。)
博物誌いわく、堯が圍碁をつくり、堯と舜はもって愚子を教えた。
この起源伝説について、渡部義通はつぎのように『古代囲碁の世界』(三一書房1977)で述べています。
司馬遷が『史記』を完成したのは漢武帝の征和2年(前91)であった。そのころ囲碁はとうに普及しており、『史記』も何か所かで碁の話をのせている。けれども、堯舜がこれを作ったという話は誌されていない。伝説がまだ生まれていなかったのか、敢えてしりぞけたものか、どちらにしても筆端にすら匂わぬのである。
思うに「囲棋、堯舜以教愚息也」という伝説は、『史記』よりも後に、堯舜譲位の経緯に関する『史記』の記述にからめて出現したものであろう。
江戸東京博物館で10/9まで開催の「始皇帝と彩色兵馬俑展〜司馬遷『史記』の世界〜」では、前8世紀(春秋期)から前1世紀(前漢)の文物が120件あまり展示されています。始皇帝陵から出土した兵馬俑などとともに、前漢・景帝(在位・前157-141)の墓陵・陽陵から出土した着意式兵士俑(裸体俑)や様々な副葬品等も見ることができました。
景帝の陽陵は90年代以降に発掘が進み、9300件あまりの文物が出土。その中の一つに五角形に割れている碁盤があります。現存最古の碁盤。陶製のタイルに刻まれており、17路盤(17×17)と推定されています。当時の碁盤は今日のように19路でなく、古代中国の文献にあるとおり17路であったことの物証と言ってよいかどうか。2000年に出土したのち、さらに詳しい情報が出ないのは残念です。
拙筆、碁で人と文化を知る(10月)「王様のいない世界」も併せてお読みください。そのエッセイを補完する意味で、古代中国の囲碁について思いつくまま、前回に続いて書きました。もうすこし、続きを次回に。
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[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
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昭和の棋聖と呼ばれる呉清源(ごせいげん)九段は、昭和3年(1928)に14歳で中国から来日。92歳の現在も、碁の研究と後進の指導を続けておられます。『中央公論』昭和13年1月号に、呉九段の随筆『莫愁(もしゅう)』が掲載されました。題名は故国の南京にある莫愁湖からとったもの(呉九段は福建省生まれ、北京で育つ)。莫愁という名の若い嫁が身を投げて死んだという伝説がその湖にあり、随筆には「いま南京は兵火の力に囲まれている」とあります。南京陥落は昭和12年の12月でした。
その『莫愁』で、囲碁の起源に関する呉九段の考えがつぎのように語られています。
碁は神代の時代からあったらしい。神技とは、まことにこのことを言うのであろう。遼遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私等、凡庸の頭からすれば碁は神が創造した、としか考えられないのである。
人によると、碁は堯帝が作ったものであると言うけれど、張継が康煕庚辰(1700)に書いた書物によると、そうではなく堯帝が仙人から学んだものであるとしてある。何れがほんとうの話であるか知れないが、なかなか興味ある話であると思う。
(『呉清源棋話』三一書房1993に所収の「莫愁」より引用)
囲碁の起源伝説は、晉(265-316)の張華(232-300)の撰といわれる『博物誌』に書かれていたと、後の時代の書物によって伝えられています。『博物誌』は現存していません。
日本で最初の百科事典である『倭名類従鈔』(わみょうるいじゅうしょう 934年頃成立)を見ると、「圍碁(いご)」の項目につぎのようにあります。(拙著の集英社新書『囲碁の知・入門編』72ページ、「碁盤は17路であった」をお読みください。)
博物誌いわく、堯が圍碁をつくり、堯と舜はもって愚子を教えた。
この起源伝説について、渡部義通はつぎのように『古代囲碁の世界』(三一書房1977)で述べています。
司馬遷が『史記』を完成したのは漢武帝の征和2年(前91)であった。そのころ囲碁はとうに普及しており、『史記』も何か所かで碁の話をのせている。けれども、堯舜がこれを作ったという話は誌されていない。伝説がまだ生まれていなかったのか、敢えてしりぞけたものか、どちらにしても筆端にすら匂わぬのである。
思うに「囲棋、堯舜以教愚息也」という伝説は、『史記』よりも後に、堯舜譲位の経緯に関する『史記』の記述にからめて出現したものであろう。
江戸東京博物館で10/9まで開催の「始皇帝と彩色兵馬俑展〜司馬遷『史記』の世界〜」では、前8世紀(春秋期)から前1世紀(前漢)の文物が120件あまり展示されています。始皇帝陵から出土した兵馬俑などとともに、前漢・景帝(在位・前157-141)の墓陵・陽陵から出土した着意式兵士俑(裸体俑)や様々な副葬品等も見ることができました。
景帝の陽陵は90年代以降に発掘が進み、9300件あまりの文物が出土。その中の一つに五角形に割れている碁盤があります。現存最古の碁盤。陶製のタイルに刻まれており、17路盤(17×17)と推定されています。当時の碁盤は今日のように19路でなく、古代中国の文献にあるとおり17路であったことの物証と言ってよいかどうか。2000年に出土したのち、さらに詳しい情報が出ないのは残念です。
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http://salon.stage007.com/header1017553/tb_ping/24148
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囲碁の起源のお話、とても興味深かったです。楽しいお話をありがとうございます。よくわかりませんが、想像以上に古くからあったようですね。
Posted by:m at 2006年10月03日(火) 00:15
