【手談への誘(いざな)い・第14回】風林火山 (3) 【2006年12月15日(金) 】
「割菱」の紋と「風林火山」は甲州軍団の代名詞。しかし、これを初めて軍旗に用いたのは武田信玄ではありません。
室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)は、建武2年(1335)奥州鎮守府将軍に任ぜられました。後醍醐天皇(1288-1339、即位1318)による「建武の新政」を補佐した父の北畠親房とともに、顕家は陸奥多賀城に下向。東北経営で力を蓄えました。同年、足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-1358)が天皇に反旗を翻し、翌年正月には京を制圧します。
つぎの引用は横山高治(新聞記者、歴史家)『北畠太平記』(創元社1986)から。中略は筆者。
「陸奥の顕家はまだか」悲痛な言葉を残して、天皇はまたも比叡山に逃れた。官軍の挽回を祈り、尊氏調伏の大護摩をたかせた。正月27日、待ちに待った顕家の率いる奥羽の10万の大軍が吹雪をついて入京した。 あわてふためいた尊氏は(中略)逃げ回った末(中略)九州に落ちて行った。
九州で態勢を回復した尊氏は再び東上し、湊川の戦い(1336.5.25)で楠正成(くすのきまさしげ 1294-1336)を打ち破って入京。奥州に戻っていた顕家は、後醍醐の綸旨(りんじ)を受けて翌延元2年8月、精兵を率いて再び京へ向かいました。「割菱」と「風林火山」の旗を掲げて。『北畠太平記』より。
「鎮守府将軍起つ」の知らせに土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍、疾風枯れ葉をまく進撃を続けた。顕家軍の先頭には、北畠氏の定紋「割菱」の旗と、親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗(せいき)が風にはためいていた。
伊勢を経て奈良に入った顕家は楠木正行(まさつら)と初めて会見しただろう。南朝のためにと戦って戦い抜いた北畠、楠木両氏の歴史的な“出会い”だ。横山はそう書いています。
武運尽き、堺で敗れた顕家は腹を切りました。数え21歳の若さでした。
その10年後、楠木正成の嫡男正行(まさつら)は四条畷(しじょうなわて)の戦い(1348)に敗れ、弟の正時と刺し違えました。南朝最後の忠臣となった正行は、まだ数え23歳でした。
死を覚悟して湊川の戦いに向かう父正成と別れたとき、楠木正行は11歳でした。その年に楠木正行は碁を(初めて)打ったとあり、その神童ぶりが伝説になっています。
江戸時代後期の棋士、林元美*1が嘉永2年(1849)にまとめた『爛柯堂棋話』(平凡社東洋文庫)より。中略は筆者。
「楠正行、囲碁の事」
楠判官正成が嫡男、多聞丸正行、年十一の時、近習の青侍ら詰所にて碁を囲み居りけるが、多聞丸来たり給いて暫時観居り給いしが、大いに笑い、「汝等両人、碁に勝たんと欲するかと思いしに互いに敗けん敗けんとするこそおかし」と嘲り給うにぞ、青侍ら心怒り「未だ碁を知ろしめさずして、笑い給うことのおかしさよ」と詰(なじ)りぬ。(中略)
多聞丸、少しも辞する色なく、石を取りて囲み給う。須臾(しゅゆ*2)にして打ち勝ち給いければ、衆人愕然として大いに驚き、「さても、いつの程にやかくは鍛錬し給いけん(中略)」と、舌を揮って賞しぬ。
文中の青侍(あおざむらい)とは、身分の低い若い侍のこと。
伝説の真偽はさておき、「太平記」*3など他の史料を見ると、この当時すでに囲碁は広く知られ、身分の低い武士や若い武士が碁を楽しんでいたのは事実と思われます。
*1 はやしげんび 1778-1861準名人(八段)。水戸藩士の子。本因坊家で修行し、林家11世を継ぐ。博識の棋士で著作は多数。
*2 少しの間。
*3 作者未詳。南北朝の動乱が、史実に基づいて南朝寄りに記されている軍記物語。室町時代初期の14世紀後半に成立。
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室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)は、建武2年(1335)奥州鎮守府将軍に任ぜられました。後醍醐天皇(1288-1339、即位1318)による「建武の新政」を補佐した父の北畠親房とともに、顕家は陸奥多賀城に下向。東北経営で力を蓄えました。同年、足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-1358)が天皇に反旗を翻し、翌年正月には京を制圧します。
つぎの引用は横山高治(新聞記者、歴史家)『北畠太平記』(創元社1986)から。中略は筆者。
「陸奥の顕家はまだか」悲痛な言葉を残して、天皇はまたも比叡山に逃れた。官軍の挽回を祈り、尊氏調伏の大護摩をたかせた。正月27日、待ちに待った顕家の率いる奥羽の10万の大軍が吹雪をついて入京した。 あわてふためいた尊氏は(中略)逃げ回った末(中略)九州に落ちて行った。
九州で態勢を回復した尊氏は再び東上し、湊川の戦い(1336.5.25)で楠正成(くすのきまさしげ 1294-1336)を打ち破って入京。奥州に戻っていた顕家は、後醍醐の綸旨(りんじ)を受けて翌延元2年8月、精兵を率いて再び京へ向かいました。「割菱」と「風林火山」の旗を掲げて。『北畠太平記』より。
「鎮守府将軍起つ」の知らせに土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍、疾風枯れ葉をまく進撃を続けた。顕家軍の先頭には、北畠氏の定紋「割菱」の旗と、親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗(せいき)が風にはためいていた。
伊勢を経て奈良に入った顕家は楠木正行(まさつら)と初めて会見しただろう。南朝のためにと戦って戦い抜いた北畠、楠木両氏の歴史的な“出会い”だ。横山はそう書いています。
武運尽き、堺で敗れた顕家は腹を切りました。数え21歳の若さでした。
その10年後、楠木正成の嫡男正行(まさつら)は四条畷(しじょうなわて)の戦い(1348)に敗れ、弟の正時と刺し違えました。南朝最後の忠臣となった正行は、まだ数え23歳でした。
死を覚悟して湊川の戦いに向かう父正成と別れたとき、楠木正行は11歳でした。その年に楠木正行は碁を(初めて)打ったとあり、その神童ぶりが伝説になっています。
江戸時代後期の棋士、林元美*1が嘉永2年(1849)にまとめた『爛柯堂棋話』(平凡社東洋文庫)より。中略は筆者。
「楠正行、囲碁の事」
楠判官正成が嫡男、多聞丸正行、年十一の時、近習の青侍ら詰所にて碁を囲み居りけるが、多聞丸来たり給いて暫時観居り給いしが、大いに笑い、「汝等両人、碁に勝たんと欲するかと思いしに互いに敗けん敗けんとするこそおかし」と嘲り給うにぞ、青侍ら心怒り「未だ碁を知ろしめさずして、笑い給うことのおかしさよ」と詰(なじ)りぬ。(中略)
多聞丸、少しも辞する色なく、石を取りて囲み給う。須臾(しゅゆ*2)にして打ち勝ち給いければ、衆人愕然として大いに驚き、「さても、いつの程にやかくは鍛錬し給いけん(中略)」と、舌を揮って賞しぬ。
文中の青侍(あおざむらい)とは、身分の低い若い侍のこと。
伝説の真偽はさておき、「太平記」*3など他の史料を見ると、この当時すでに囲碁は広く知られ、身分の低い武士や若い武士が碁を楽しんでいたのは事実と思われます。
*1 はやしげんび 1778-1861準名人(八段)。水戸藩士の子。本因坊家で修行し、林家11世を継ぐ。博識の棋士で著作は多数。
*2 少しの間。
*3 作者未詳。南北朝の動乱が、史実に基づいて南朝寄りに記されている軍記物語。室町時代初期の14世紀後半に成立。
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