【手談への誘(いざな)い・第47回】囲碁による「まちづくり」 (2) 【2008年05月01日(木) 】
- 趙南哲さんが、昭和12(1937)年12月に、はるばる京城からやってまいりました。私は次男がお腹にいたので、大きなお腹で駅に迎えに行きました。14歳の少年が、現在のソウルから一人でやってきたのです。
『木谷道場と七十人の子どもたち』(NHK出版 1992)にこうあります。趙南哲は戦後に韓国囲碁界を育てた大棋士(1923-2006 九段 韓国棋戦優勝多数)で、趙治勲25世本因坊の叔父です。「やってきた」ところは平塚にあった木谷道場。その数ヶ月前に、木谷夫妻は幼い長女、長男を連れて(次女は前年病死)平塚へ引越したばかりでした。趙南哲「楽しかった修業時代」という一文が載っています。
- 入門してから昭和18年2月までの内弟子生活中、一番つらかったのは食べ物不足だった。立派な庭園をつぶして畑にした。(中略)マキで風呂をわかしたり、子供のお守をしたり、投網のお供をしたり、丸三年間は私一人だったので、結構忙しい毎日だった。しかし、“若い時の苦労は買ってでもやれ”という諺をわかっていたので、それらが苦労でなく、かえって楽しい思い出として、今でも懐かしいばかりである。
私は1970年、日中韓三国(日中国交回復以前で、当時の中国は台湾)高校対抗戦の代表一員として韓国へ行ったとき、趙南哲先生に会い、声をかけていただきました。心優しい立派な人と感じたことを覚えています。
著者の木谷美春は木谷實(1909-1975 九段)の夫人で碁は打たず、多数の弟子たちから「お母さま」と慕われた立派な女性でした。「実は、神様にお願いしていたことがあります」と書かれています。「もし罰をお与えになるときは、ぜひ私ども家族でお受けさせてくださいますようにと、これは真剣にお祈りしました」と。
美春夫人は「出版にかなり執念を燃やしていた」が、出版予定の半年前、81歳を迎えた平成3(1991)年6月に「蜘蛛膜下出血で不意にこの世を去ってしまった」と、長男の木谷健一さん(医師、元国立長寿医療研究センター長)が同書「あとがきにかえて」で述べておられます。
私は、その「あとがきにかえて」を読んで、忘れられないところがあります。
- けがや病気が起きるなら、どうか自分の子どもの方に当たってくれと神に祈っていたと書いてあるが、これは母の本当に正直なところであると思う。おかげで、私は小学校2年生、13年後には正道(三男)が3年生の時に瀕死の重傷を負ったが、何十人もの弟子たちは、一人も大けが、大病をせずに育った。弟子がすべて家を去ったあとも、これだけは神様が助けてくれたと何回も私に語っていた。
昭和8(1933)年に初めての弟子が入門してから49(1974)年に道場を閉めるまで、40年余の長きにわたって木谷夫妻は多数の弟子を育てました。これまでに棋士になった者は、孫弟子、ひ孫弟子を合わせると百名を超えます。
内弟子たちと一緒に育った木谷の三女・禮子(1939-1996 七段)は棋士となり、小林光一(1952- 九段)との間に生まれた長女・小林泉美(1977- 六段)も棋士となり、張栩(1980- 九段、現名人)と結婚。二人の長女、まだ幼い心澄(こすみ)さんも木谷夫妻の血を受け継いだ立派な棋士になるでしょう。
街おこしに役立てようと囲碁の活用を進めている平塚市は、昭和36(1961)年に四谷へ移るまで同市にあった木谷道場を記念して、「木谷実・星のプラザ」を市民センターに設置しています。また、木谷一門を中心とする多数の棋士が数千人の囲碁ファンと交流する一大イベント「湘南ひらつか囲碁まつり」を毎年開催(今年は10月12日)。呼びものの「囲碁1000面打ち大会」はテレビニュースなどでも報じられます。
(続く)
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