【手談への誘い・第51回】江戸商人らが支えた囲碁黄金期(2) 【2008年06月30日(月) 】
最も歴史のある棋戦、本因坊戦は第63期の挑戦手合が佳境に入っています。四連覇のかかる高尾秀紳本因坊に挑戦しているのは、絶好調を謳われた羽根直樹九段。年齢(31歳)が同じ、入段(プロ初段)も同期の二人が大舞台で対戦するのは初めてです。
戦前の予想は接戦ということでしたが、立ち上がりで高尾本因坊が三連勝。防衛にあと1勝と迫っています。早くもカド番に追い込まれた羽根九段は、6月23、24日に三重県四日市市で打たれた第4局で黒番中押し勝ち。三重県出身、日本棋院中部総本部所属の羽根九段は地元でもあり、負けられない碁でした。堂々と自分の碁を打って勝ち、自信を取り戻したことでしょう。次の第5局は7月1、2日に千葉県銚子市で打たれます。千葉県出身の高尾本因坊が地元で防衛を決めるか、無冠返上を目指す羽根九段の反撃が勢いを増すか、注目です。
栄枯盛衰といいます。碁家の中では14世本因坊秀和(1820-1873)がその最たる人でしょう。師の12世本因坊丈和は天保2(1831)年に名人碁所となると、上野車坂下に新しい道場を開きました。本因坊家は新たな発展期を迎え、華やかな時代の中心にあって大成への道を歩んだのが秀和でした。
土屋秀和が18歳(数え年)五段であった天保8年、9歳の安田栄斎(後の本因坊秀策1829-1862)が本因坊道場に入門。部屋住み修業を共にしながら薫陶を受けた兄弟子の秀和を、秀策は「先生」と終生呼びました。
翌天保9年、道場で栄斎の碁を見た丈和は喜び、「これまさに150年来の碁豪にして、我が門風これより大いに揚がらん」と言ったと『囲碁全史 坐隠談叢』(1904)にあります。「150年来」とは碁聖として名高い4世本因坊道策以来という意味。
『坐隠談叢』は疑わしい話や誇張・脚色の多い書ですが、江戸後期以降の記述についてはある程度の信用をおいてもよいのでしょう。著者のジャーナリスト安藤如意が本因坊秀栄(17世、19世、秀和の次男)をはじめ明治時代の棋士から聞いた話に基づいており、かれらの師や先輩は江戸後期をよく知る碁打ちでした。丈和の時代について、安藤如意の筆は弾んでいます。
- この時代は打ち続く太平に馴れて、弓箭は袋に、太刀は黄金を飾りて、大江戸の巷は上下貴賤を問わず春花秋月に酔い、永日長夜を短しとなし、我も人も皆寛濶伊達を競うに至りし趨勢は、益々碁運を隆盛ならしめたり。
実力随一の丈和でしたが、画策の末に名人碁所に就いたことが災いし、天保10年に退隠を余儀なくされたのでした。11世本因坊元丈の実子であり、人格見識に秀でた丈策(37歳)が13世本因坊に就きました。翌年、当主の丈策より実力で優る秀和(21歳)は七段(上手)に昇り、跡目となりました。本因坊道場について『坐隠談叢』「丈策」の項にこう書かれています。
- 跡目秀和と共に車坂下の道場に業を励み、会場には世話役9名を置きて斡旋の衛に当らしめ、また会日には丈策、秀和を始めとして水谷琢順、井上因碩、丈策の弟吐龍宝蓮、宮重芝吉、白木助左衛門(信州の人当時三段)等の俊豪挙って出席し、頗る隆盛を極めたり。
退隠して本所相生町(現両国駅近く)の本因坊家本邸に戻った丈和は、「しばしば車坂下の道場に来り、後進の発達を見て、益々斯道の隆盛なるを喜び」と『坐隠談叢』にあります。
(続く)
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