【手談への誘い・第52回】江戸商人らが支えた囲碁黄金期(3) 【2008年07月15日(火) 】
高尾秀紳本因坊(31)の四連覇がかかる第63期本因坊戦七番勝負は、本因坊三連勝の後、羽根直樹九段(同、前棋聖)が二勝を返し、挑戦者は戦前の好調を取り戻しました。囲碁ファン注目の第6局が7月16、17日に静岡県伊豆市で打たれます。
その伊豆の沖合を、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が通過したのは今から155年前、嘉永6(1853)年の7月初旬(旧暦)でした。4隻の黒い軍艦は三浦半島の浦賀沖まで進み、7月14日ペリーは久里浜に上陸して米大統領の親書を幕府に渡しました。
黒船来航に始まり、明治維新(1867)を経て、西郷隆盛の切腹で西南戦争が終わり(1877)、動乱の時代に幕が下りるまで20数年。この間、日本人は2世紀半ぶり(*1)に社会の激動を経験し、その中で多くの人々が苦難に直面しました。14世本因坊秀和(1820-1873)もその一人でした。
秀和の前半生はまだ太平の世が続き、とりわけ1840年代は囲碁の黄金期でした。優れた技芸と人格を備えた秀和は、秀策という傑出した跡目にも恵まれ、名人碁所への道を順風の中で歩いていました。
「天保、弘化の間、囲碁隆盛の絶頂に達し」と、安藤如意は『囲碁全史 坐隠談叢』(1904)に書きました。家元四家が発行した段位免状の保持者は天保12年に257名。弘化の初めには431名になったとあり、秀和を筆頭に秀策、安井算知、伊藤松和、林門入、太田雄蔵、坂口仙徳、……と高段棋士の名が記されています。
天保12年は1841年、弘化は1844〜47年。『坐隠談叢』を信じれば、わずか4、5年の間に免状を取得した有段者の総数が70%も増えたのですから、囲碁は一大ブームだったのです。
安藤如意の筆は続き、これら棋士は皆「当代屈指の碁伯にして、当時顕家豪商の間には是等の大家を招聘し囲碁会を催すこと一時の流行となり、為に各繁忙を極めたり」と。
日本囲碁大系(筑摩書房)の第14巻『秀和』(1975/解説・杉内雅男)に当時の花形棋士が勢揃いした棋譜が載っています。黒船来航の前年、嘉永5年に打たれた碁で、(白)秀和八段・秀策七段・坂口仙徳七段vs(黒)安井算知七段・伊藤松和七段・太田雄蔵七段。三人ずつのチーム戦で、各々が順に一手交替で打つ連碁(*2)です。黒の3目コミ出し。
当時から昭和初期まで、コミ碁は連碁に限られていました。黒側がコミを出すことによって先番の有利を調整する方法(コミ碁)は古くから知られていたと思われますが、正式な碁とは見なされなかったのです。座興や見せ物として打たれた連碁の古い棋譜や記事が残っていないため、コミについて歴史を遡る考察ができません。
このときの連碁は服部一六段の昇段祝会において催され、2月22日の祝会の席では三手(算知、秀和、松和)のみで打掛け。続きは3月5日に平川天神別当(*3)で打たれました。結果は黒が2目勝ち(盤面5目勝ち)。
勢揃いした「繁忙を極める」トップ棋士が、公式記録に残らない連碁にもかかわらず、日を改めて最後まで真剣に打ったことが棋譜からわかります。ということは、相当な額の懸賞が懸かっていたはず。人気棋士であった服部六段を豪商や旗本の大身が後援していたのでしょう。
当時はとくに連碁が流行っていたのかもしれません。『秀策全集』(1979誠文堂新光社)に2局だけ連碁があり、同じ嘉永5年の2月と4月です。この2局はコミが5目となっています。コミの目数の違い、そして秀和の後半生について次回に。
*1 豊臣秀吉の妄挙であった朝鮮出兵(1592)に始まり、関ヶ原合戦(1600)を経て江戸幕府が成立し(1603)、豊臣氏が滅亡する(1615)まで20年余にわたる戦乱。
*2 「れんご」は碁の楽しみ方の一つで、古くからあったと思われる。義経の従者四名が集まって碁を打ち、助言を咎められた弁慶が別の従者を叩き、「まわし打ちなり」と冗談を言った話が『爛柯堂棋話』(平凡社東洋文庫、原著/林元美)に収められている。「まわし打ち」は連碁のことでしょう。
*3 前々回「江戸商人らが支えた囲碁黄金期(1)」を参照。
(続く)
---------------------------------------[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
●STAGE連載エッセイ『碁で人と文化を知る』を読むにはこちら
●平本弥星の主著『囲碁の知・入門編』の詳細はこちら
Posted
at 23:36
| この記事のURL
コメント(0)
| トラックバック(0)
この記事のURL
http://salon.stage007.com/header1017553/tb_ping/44
