【手談への誘(いざな)い・第16回】呉・木谷・高川の時代(2) 【2007年01月15日(月) 】
日本主催の囲碁世界戦は現在二つあり、1988年に始まった富士通杯世界選手権戦と、第3期の決勝が先日(1/6、8、9)打たれたトヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦。
その世界王座戦の決勝三番勝負は、韓国代表の李世ドル九段(い せどる、23歳)が2期連続の優勝に輝きました。日本代表初の決勝進出を果たした張栩九段(ちょう う、前名人、1/20に27歳、台湾出身)は第1局で白番半目勝ちしたものの、第2局、第3局と李九段が白番中押し(ちゅうおし)勝ち。
昨年は韓国主催の第9回LG杯で世界戦に初優勝した張九段ですが、残念ながら日本主催世界戦の制覇は成りませんでした。
半世紀前、囲碁の水準は日本が断然高く、第一人者は中国出身の呉清源(ご せいげん)九段でした。
誰もがそれを決定的に認めたのは、最後となった「呉清源打ち込み十番碁」。当時の最高タイトル・本因坊を保持していた高川秀格を打ち込んだシリーズです。
打ち込むとは、4勝勝ち越しで、相手を元より一段下の手合割(ハンデ)にすること。
昭和14年に始まった「鎌倉十番碁」で木谷實七段(当時)を先相先(せんあいせん)に打ち込んだ呉清源は、続いて戦中戦後、読売新聞の主催で当時の一流棋士と十番碁を次々に戦い、すべての相手を先相先以下に打ち込みました。
初の実力制九段となった藤沢庫之助(朋斎)は、互先(たがいせん、互角の手合割、コミなしで交互に黒番)から始まった三回の呉清源十番碁すべてに敗れ、定先(じょうせん、二段差の手合割)にまで打ち込まれてしまったほどです。
戦後の新進棋士では実力随一を誇り、後に第一人者となる坂田栄男八段(当時)も打ち込まれ、最後に残った十番碁の相手が本因坊を連覇していた高川秀格八段(当時)でした。
読売新聞が擁していた呉清源九段は戦後、毎日新聞の主催する本因坊戦に参加していません。
一段差でしたが、高川は本因坊であるため互先。呉・高川十番碁は昭和30年(1955)7月に始まりました。
翌年9月28、29日の第8局に呉九段が白番1目勝ち。呉は通算6勝2敗として、高川を先相先に打ち込んだのです。その後の2局(第10局は31年11月26、27日)は高川が意地を見せ、先番(黒)で連勝したものの、呉清源が日本一の棋士(すなわち世界一)であることに疑問の余地がなくなりました。つぎは『中の精神』(呉清源 東京新聞出版局2002)より。
“この十番碁は開催中に、本因坊の防衛戦があり、五カ月間、中断しました。その防衛戦で高川さんは、前人未踏の五連覇を成し遂げています。私が十番碁で打ち込んだ第八局は、まさに高川さんの五連覇直後のことでした。”
第一人者、呉清源。長く続くと思われたその時代は、この十番碁から数年で終わってしまいました。36年8月の不運な交通事故によって。(続く)
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[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
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その世界王座戦の決勝三番勝負は、韓国代表の李世ドル九段(い せどる、23歳)が2期連続の優勝に輝きました。日本代表初の決勝進出を果たした張栩九段(ちょう う、前名人、1/20に27歳、台湾出身)は第1局で白番半目勝ちしたものの、第2局、第3局と李九段が白番中押し(ちゅうおし)勝ち。
昨年は韓国主催の第9回LG杯で世界戦に初優勝した張九段ですが、残念ながら日本主催世界戦の制覇は成りませんでした。
半世紀前、囲碁の水準は日本が断然高く、第一人者は中国出身の呉清源(ご せいげん)九段でした。
誰もがそれを決定的に認めたのは、最後となった「呉清源打ち込み十番碁」。当時の最高タイトル・本因坊を保持していた高川秀格を打ち込んだシリーズです。
打ち込むとは、4勝勝ち越しで、相手を元より一段下の手合割(ハンデ)にすること。
昭和14年に始まった「鎌倉十番碁」で木谷實七段(当時)を先相先(せんあいせん)に打ち込んだ呉清源は、続いて戦中戦後、読売新聞の主催で当時の一流棋士と十番碁を次々に戦い、すべての相手を先相先以下に打ち込みました。
初の実力制九段となった藤沢庫之助(朋斎)は、互先(たがいせん、互角の手合割、コミなしで交互に黒番)から始まった三回の呉清源十番碁すべてに敗れ、定先(じょうせん、二段差の手合割)にまで打ち込まれてしまったほどです。
戦後の新進棋士では実力随一を誇り、後に第一人者となる坂田栄男八段(当時)も打ち込まれ、最後に残った十番碁の相手が本因坊を連覇していた高川秀格八段(当時)でした。
読売新聞が擁していた呉清源九段は戦後、毎日新聞の主催する本因坊戦に参加していません。
一段差でしたが、高川は本因坊であるため互先。呉・高川十番碁は昭和30年(1955)7月に始まりました。
翌年9月28、29日の第8局に呉九段が白番1目勝ち。呉は通算6勝2敗として、高川を先相先に打ち込んだのです。その後の2局(第10局は31年11月26、27日)は高川が意地を見せ、先番(黒)で連勝したものの、呉清源が日本一の棋士(すなわち世界一)であることに疑問の余地がなくなりました。つぎは『中の精神』(呉清源 東京新聞出版局2002)より。
“この十番碁は開催中に、本因坊の防衛戦があり、五カ月間、中断しました。その防衛戦で高川さんは、前人未踏の五連覇を成し遂げています。私が十番碁で打ち込んだ第八局は、まさに高川さんの五連覇直後のことでした。”
第一人者、呉清源。長く続くと思われたその時代は、この十番碁から数年で終わってしまいました。36年8月の不運な交通事故によって。(続く)
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