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【手談への誘い・第51回】江戸商人らが支えた囲碁黄金期(2) 【2008年06月30日(月) 】

最も歴史のある棋戦、本因坊戦は第63期の挑戦手合が佳境に入っています。四連覇のかかる高尾秀紳本因坊に挑戦しているのは、絶好調を謳われた羽根直樹九段。年齢(31歳)が同じ、入段(プロ初段)も同期の二人が大舞台で対戦するのは初めてです。

戦前の予想は接戦ということでしたが、立ち上がりで高尾本因坊が三連勝。防衛にあと1勝と迫っています。早くもカド番に追い込まれた羽根九段は、6月23、24日に三重県四日市市で打たれた第4局で黒番中押し勝ち。三重県出身、日本棋院中部総本部所属の羽根九段は地元でもあり、負けられない碁でした。堂々と自分の碁を打って勝ち、自信を取り戻したことでしょう。次の第5局は7月1、2日に千葉県銚子市で打たれます。千葉県出身の高尾本因坊が地元で防衛を決めるか、無冠返上を目指す羽根九段の反撃が勢いを増すか、注目です。

栄枯盛衰といいます。碁家の中では14世本因坊秀和(1820-1873)がその最たる人でしょう。師の12世本因坊丈和は天保2(1831)年に名人碁所となると、上野車坂下に新しい道場を開きました。本因坊家は新たな発展期を迎え、華やかな時代の中心にあって大成への道を歩んだのが秀和でした。

土屋秀和が18歳(数え年)五段であった天保8年、9歳の安田栄斎(後の本因坊秀策1829-1862)が本因坊道場に入門。部屋住み修業を共にしながら薫陶を受けた兄弟子の秀和を、秀策は「先生」と終生呼びました。

翌天保9年、道場で栄斎の碁を見た丈和は喜び、「これまさに150年来の碁豪にして、我が門風これより大いに揚がらん」と言ったと『囲碁全史 坐隠談叢』(1904)にあります。「150年来」とは碁聖として名高い4世本因坊道策以来という意味。

『坐隠談叢』は疑わしい話や誇張・脚色の多い書ですが、江戸後期以降の記述についてはある程度の信用をおいてもよいのでしょう。著者のジャーナリスト安藤如意が本因坊秀栄(17世、19世、秀和の次男)をはじめ明治時代の棋士から聞いた話に基づいており、かれらの師や先輩は江戸後期をよく知る碁打ちでした。丈和の時代について、安藤如意の筆は弾んでいます。

    この時代は打ち続く太平に馴れて、弓箭は袋に、太刀は黄金を飾りて、大江戸の巷は上下貴賤を問わず春花秋月に酔い、永日長夜を短しとなし、我も人も皆寛濶伊達を競うに至りし趨勢は、益々碁運を隆盛ならしめたり。

実力随一の丈和でしたが、画策の末に名人碁所に就いたことが災いし、天保10年に退隠を余儀なくされたのでした。11世本因坊元丈の実子であり、人格見識に秀でた丈策(37歳)が13世本因坊に就きました。翌年、当主の丈策より実力で優る秀和(21歳)は七段(上手)に昇り、跡目となりました。本因坊道場について『坐隠談叢』「丈策」の項にこう書かれています。

    跡目秀和と共に車坂下の道場に業を励み、会場には世話役9名を置きて斡旋の衛に当らしめ、また会日には丈策、秀和を始めとして水谷琢順、井上因碩、丈策の弟吐龍宝蓮、宮重芝吉、白木助左衛門(信州の人当時三段)等の俊豪挙って出席し、頗る隆盛を極めたり。

退隠して本所相生町(現両国駅近く)の本因坊家本邸に戻った丈和は、「しばしば車坂下の道場に来り、後進の発達を見て、益々斯道の隆盛なるを喜び」と『坐隠談叢』にあります。

(続く)

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【手談への誘い・第50回】江戸商人らが支えた囲碁黄金期(1) 【2008年06月13日(金) 】

徳川家康が優れた碁打ち・将棋指しに扶持を与えたことから、幕末まで、囲碁四家・将棋三家は幕府から家屋敷を拝領し、少ないながら家禄を給わりました。幕府・将軍の権威を背にして、各家は囲碁・将棋の研鑽と普及に努めたのです。

本因坊家をはじめ碁の家元は、弟子から謝礼を得ていました。若い弟子は出身家や実家が支援していたのです。修業中の秀策には三原浅野家から扶持が与えられており、そこから謝金(養成費)が本因坊家に渡っていたでしょう。

平和が続き、社会が豊かになるにしたがって、囲碁を楽しむ人々が増加し、碁家の収入も多くなっていったはず。碁経(棋書)の出版も盛んでした。記録はありませんが、俸禄の他に色々あった碁家の収入の中で大きかったのは、一般の弟子を含めて贔屓から貰うお金です。免状発行による報酬、指導碁を打って得る謝金など。さらに、贔屓筋のお膳立てでプロどうし対戦する催しが時々あり、スポンサーから対局料や賞金を得ました。

秀策(1829-1862本因坊跡目)には22歳も年長の好敵手がいました。安井一門の太田雄蔵(1807-1858七段)です。『碁界黄金の19世紀』(日本棋院2007/監修・福井正明九段)にはつぎのようにあります。

    雄蔵は秀策の才能ばかりでなく、人柄も高く評価していたのだろう。実質的な師匠といっていいほど数多く対局の機会を与えている。秀策の帰郷によって数度の中断はあったが、嘉永2年(1849)まで50局ほど打ち、秀策は互先(*1)に進んだ。

秀策が雄蔵に追いついて4年後、嘉永6(1853)年1月から両者の三十番碁が始まりました。発起人として番碁を取りまとめたのは無役ながら裕福であった武士(旗本)の赤井五郎作であると『坐隠談叢』(安藤如意1904初版)にあります。

三十番碁の第17局まで互先を持ちこたえた太田雄蔵は現在も高く評価されます。先相先(*2)に打ち込まれた(*3)雄蔵ですが、嘉永11年11月の第23局は生涯の名作といわれます。打ち盛りの秀策を相手に、白番でジゴ。それを最後に雄蔵は三十番碁を打たず、3年後に越後の旅宿で客死しました。享年50歳。秀策は痛惜してやまなかったと伝わります。

三十番碁第1局の棋譜に対局場所が書かれています。「麹町平川天神別当所」とあり、「別当」は別館のことでしょうか。この平河天満宮は現在も千代田区平河町にあり、太田道灌が江戸城内に建立。徳川家康が城外に移し、二代秀忠のとき現在地に移ったと伝えられています。

平川天神は赤井五郎作宅の近くでした。しかし第1局の催主は赤井でなく、喜谷となっています。第4局の場所も平川天神で、やはり「喜谷催」とあります。名が記されていないのは武士でなく商人であったからでしょう。

第3局と第6局の棋譜には「田村松齋宅」とあり、田村は豪商といわれます。太田雄蔵自身も商家(糸屋)の子だったそうです。雄蔵が幼くして安井家に入門したのは、裕福であった父親が碁を好んだからでしょう。三十番碁は一石庵と称した雄蔵宅で打たれたこともあり、「どういう事情かわからないが、非常に珍しいことである」と林裕が記しています(*4)

*1 たがいせん 棋力が同格の手合割(てあいわり=対局条件)。現在は黒番有利を調整するためコミ6目半を黒が出す。昭和初期まで正式対局にコミはなく、先(黒)番と白番を交互に打つことから互先と言った。
*2 せんあいせん コミなし碁で一段差の手合割。下手(したて)が先番、先番、白番の3局ワンセット。
*3 打ち込み制の番碁では通常、一方が四番(四勝)勝ち越しで手合直りとした。
*4 日本囲碁大系13『松和・雄蔵』(筑摩書房1975)「人とその時代13 伊藤松和・太田雄蔵」

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第49回】秀策が生きた囲碁黄金時代 【2008年05月30日(金) 】

第63期本因坊戦七番勝負が始まりました。四連覇を目指す高尾秀紳本因坊と挑戦者・羽根直樹九段は同年齢31歳で入段も同期(14歳)。山下敬吾棋聖、張栩名人とともに平成四天王と呼ばれる両者ですが、これまで三大棋戦で対戦がなく、二人による初の番碁ということもあって注目を集めています。

本因坊戦は最も歴史のあるタイトル戦です。21世本因坊秀哉名人が本因坊の名跡を日本棋院に譲り、引退したのが昭和13(1938)年。翌年から本因坊戦の予選が始まり、昭和16年に関山利一が第1期本因坊に就きました。

秀哉の師が17世・19世本因坊秀栄名人。秀栄の師であり実父である14世本因坊秀和八段は秀策の兄弟子、事実上の師匠です。明治維新(1868)の後まで秀策が生きていれば15世本因坊になり、明治以降の囲碁史はまったく違ったものになったでしょう。

NHK「そのとき歴史が動いた」は私の好きな番組です。2006年7月5日に放送された「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」は長く続いている同番組が初めて囲碁史を取り上げたもので、期待をもって見ました。「そのとき」は文久元(1861)年11月17日、本因坊秀策が御城碁19連勝(無敗)を達成したときでした。

囲碁史で語られてきた碁聖秀策の逸話が要領よくまとめられ、碁を知らない人にもわかりやすい内容でした。囲碁・囲碁史に関する教養が広まり、大局的にはよかったと思います。

江戸時代に発達した伝統文化の一つである囲碁。番組ではその修業法もテーマの一つでした。また、明治維新にともなう封建制の崩壊により変わって行く伝統文化の象徴として、200年余り続いた御城碁が最後となった「そのとき」を位置づけていたように思います。

その視点は良いのですが、重大な事実誤認があり、誤った認識に基づいてゲストが解説していたことに驚いた私は、いささか憤りを感じました。それから2年が過ぎましたから、もうよいでしょう。二つの誤認について初めて述べます。

まず一つは「見取り稽古」。本因坊家をはじめ家元における囲碁の修業では「見取り稽古」が重要だったという、ゲスト・木村幸比古氏の解説を聞いて…???

囲碁歴は半世紀になる私ですが、この言葉を一度も聞いたことがありませんでした。しかし、その意味はすぐわかりました。先達の技芸をしっかり見ることを「見取り稽古」と言い、剣道をはじめ武術では重要な修業法です。

囲碁でも「見取り稽古」が大切で、秀策は師の12世本因坊丈和から直接指導を受けるのでなく、丈和が打つ碁を見て、その技を覚えたという主旨でした。たしかに、碁の師匠が弟子を育てる伝統的な方法は直接指導でなく、弟子たちは自分自身で学びました。秀策は先輩棋士の胸を借りて腕を上げました。

事実誤認とは、碁の技術習得に「見取り稽古」は必要ないということです。囲碁で先達の技芸を学ぶ方法は棋譜並べであり、現場でプレイを見る必要はありません。当時の本因坊家には初代本因坊算砂以来、二世紀半にわたる名手の棋譜や打碁集がありました。秀策は師丈和の棋譜のみならず、日本の碁を飛躍的に高めた碁聖道策(4世本因坊)の遺譜や御城碁の古い棋譜も繰り返し碁盤に並べて体得し、研究を深めたのです。

霊山歴史館学芸員で幕末近世思想史が専門というゲスト・木村氏は武術の専門家でもあり、剣道・居合道の大家です。碁はよく知らないのかもしれません。たとえ少し碁を打たれるとしても、囲碁史を知らないのは明らかです。それはつぎの重大な誤認からわかります。

江戸時代の囲碁文化は徳川幕府の権威と保護に支えられた家元制のもとで発展し、囲碁が大衆化したのは明治維新の後であったと、木村氏は語りました。後半部分の認識は決定的に間違っています。

囲碁が民衆に広まったのは中世(鎌倉・室町時代)です。室町時代には、少し裕りある農民の家の多くに碁盤・碁石があったと思われます。中世には「碁遊びの普及」によって「庶民の数観念が錬磨」したと、日本中世史が専門の横井清が記しています。拙著『囲碁の知・入門編』(集英社新書2001)の194ページをご覧ください。

徳川家康が囲碁将棋を好み、優れた碁打ち・将棋指しに扶持を与えたことから、幕府の保護のもとで家元制が確立し、御城碁が恒例となりました。しかし幕府から支給された禄は少なく、それでも碁家の多くは裕福でした。有力な武士や僧侶のほか、商人ら市井の後援者から得る収入が多かったのです。

江戸時代後期は「囲碁黄金期」と呼ばれるほど碁が盛んで、名の知れた碁打ちの人気は高く、中でも秀策はスーパースターでした。

ホントか?
はい、本当です。具体例をあげて、次回にお話ししましょう。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第48回】囲碁による「まちづくり」 (3) 【2008年05月15日(木) 】

2006年に因島市ほかと合併した広島県の新・尾道市は、因島の市技・囲碁を継承し、尾道市のまちづくりに役立てようとしています。この春には因島(外浦町)に本因坊秀策記念館が完成しました。開館は本年秋で、特別展が予定されています。

因の島に生まれた本因坊秀策(しゅうさく 1829-1862)は、歴史上で最もよく知られた棋士です。碁を愛する人で、棋聖(碁聖)と呼ばれる秀策の名を知らない人はいないでしょう。「秀策流」「秀策のコスミ」「耳赤の一手」など、その手がどのようなものか知らなくても、一度ならず耳にしたことがあるはずです。

しかし碁を打たず、碁に関心のない人の多くは、秀策を知らなかったでしょう。2006年7月5日にNHK「そのとき歴史が動いた」で囲碁が取り上げられるまでは。人気番組の第256回は「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」と題し、秀策の御城碁19連勝がテーマでした。

幕末の文久元(1861)年11月17日。芸兄(事実上の師)である14世本因坊秀和(八段)と江戸城に上った本因坊秀策(跡目・七段)は、将軍(14代家茂)の御前で林門入(林家12世・七段)と御城碁・正式手合の一局を並べて見せました(慣例により下打ち済み)。続いて、将軍が早碁を所望し、秀和と門入が2局続けて打ち、打ち分け(1勝1敗)。秀策は林門入の跡目である林有美五段と「常の御好み」(秀策書簡)の碁を打ちました。『日本囲碁大系15・秀策』(執筆・林裕)によるとこれは早碁でなく、「打ち掛けにして下城し、寺社奉行役宅などで打ち継がれた」ようです。

2局はいずれも秀策の白番で、門入に11目勝ち、有美に中押し勝ちと連勝。御好みを含め、御城碁の通算成績を19戦全勝(うち御好み7局)としました。

江戸時代の棋士にとって御城碁は最高の晴舞台。秀策がその成績に執着したのは当然ですが、段位差・実力差のある格下の相手との対戦では、負ける可能性がある二子の手合割(ハンデ)で打つことを避けたという話が伝えられています。碁家を仕切っていた第一人者の本因坊秀和に、そのように頼んでいたというのです。

二百年余も続いた御城碁は、その年が最後となりました。翌文久2年は直前に江戸城火災のため御城碁は中止。文久3年も碁家は御城碁の準備をしていましたが、下打ちのみ(棋譜は残っていない)で行われませんでした。前年の生麦事件に端を発する薩英戦争、文久の政変、攘夷派の浪士がフランス士官を襲った井土ヶ谷事件と続き、政情不安の中で御城碁は自然消滅となりました。

しかし、もし御城碁が続いたとしても、秀策が20局目を打つことはなかったのです。秀策は棋聖道策(1645-1702 4世本因坊)も為し得なかった御城碁不敗という不滅の偉業を残し、15世本因坊を襲名することなく、文久2年8月に伝染病(コレラ)で没しました(34歳、明治維新の6年前)。秀策が跡目のまま没したことを、NHK番組で初めて知った愛棋家もいたことでしょう。

テレビの影響は大きく、この番組のおかげで囲碁・囲碁史と秀策に関心をもつ人が増えたことは、囲碁界にとっても尾道市にとっても喜ばしいことでした。本因坊秀策記念館の建設推進にも寄与したことでしょう。

ただ、この番組を見た私は、解説者が述べた明らかな誤りに驚きました。誤りは二つあり、一つは重要なことです。ケチをつけるつもりはありませんが、放送から2年が過ぎていますから、それを指摘して悪いことはないでしょう。次回、棋聖戦創設の話に戻る前に、そのことを書きます。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第47回】囲碁による「まちづくり」 (2) 【2008年05月01日(木) 】

    趙南哲さんが、昭和12(1937)年12月に、はるばる京城からやってまいりました。私は次男がお腹にいたので、大きなお腹で駅に迎えに行きました。14歳の少年が、現在のソウルから一人でやってきたのです。

『木谷道場と七十人の子どもたち』(NHK出版 1992)にこうあります。趙南哲は戦後に韓国囲碁界を育てた大棋士(1923-2006 九段 韓国棋戦優勝多数)で、趙治勲25世本因坊の叔父です。「やってきた」ところは平塚にあった木谷道場。その数ヶ月前に、木谷夫妻は幼い長女、長男を連れて(次女は前年病死)平塚へ引越したばかりでした。趙南哲「楽しかった修業時代」という一文が載っています。

    入門してから昭和18年2月までの内弟子生活中、一番つらかったのは食べ物不足だった。立派な庭園をつぶして畑にした。(中略)マキで風呂をわかしたり、子供のお守をしたり、投網のお供をしたり、丸三年間は私一人だったので、結構忙しい毎日だった。しかし、“若い時の苦労は買ってでもやれ”という諺をわかっていたので、それらが苦労でなく、かえって楽しい思い出として、今でも懐かしいばかりである。

私は1970年、日中韓三国(日中国交回復以前で、当時の中国は台湾)高校対抗戦の代表一員として韓国へ行ったとき、趙南哲先生に会い、声をかけていただきました。心優しい立派な人と感じたことを覚えています。

著者の木谷美春は木谷實(1909-1975 九段)の夫人で碁は打たず、多数の弟子たちから「お母さま」と慕われた立派な女性でした。「実は、神様にお願いしていたことがあります」と書かれています。「もし罰をお与えになるときは、ぜひ私ども家族でお受けさせてくださいますようにと、これは真剣にお祈りしました」と。

美春夫人は「出版にかなり執念を燃やしていた」が、出版予定の半年前、81歳を迎えた平成3(1991)年6月に「蜘蛛膜下出血で不意にこの世を去ってしまった」と、長男の木谷健一さん(医師、元国立長寿医療研究センター長)が同書「あとがきにかえて」で述べておられます。

私は、その「あとがきにかえて」を読んで、忘れられないところがあります。

    けがや病気が起きるなら、どうか自分の子どもの方に当たってくれと神に祈っていたと書いてあるが、これは母の本当に正直なところであると思う。おかげで、私は小学校2年生、13年後には正道(三男)が3年生の時に瀕死の重傷を負ったが、何十人もの弟子たちは、一人も大けが、大病をせずに育った。弟子がすべて家を去ったあとも、これだけは神様が助けてくれたと何回も私に語っていた。

昭和8(1933)年に初めての弟子が入門してから49(1974)年に道場を閉めるまで、40年余の長きにわたって木谷夫妻は多数の弟子を育てました。これまでに棋士になった者は、孫弟子、ひ孫弟子を合わせると百名を超えます。

内弟子たちと一緒に育った木谷の三女・禮子(1939-1996 七段)は棋士となり、小林光一(1952- 九段)との間に生まれた長女・小林泉美(1977- 六段)も棋士となり、張栩(1980- 九段、現名人)と結婚。二人の長女、まだ幼い心澄(こすみ)さんも木谷夫妻の血を受け継いだ立派な棋士になるでしょう。

街おこしに役立てようと囲碁の活用を進めている平塚市は、昭和36(1961)年に四谷へ移るまで同市にあった木谷道場を記念して、「木谷実・星のプラザ」を市民センターに設置しています。また、木谷一門を中心とする多数の棋士が数千人の囲碁ファンと交流する一大イベント「湘南ひらつか囲碁まつり」を毎年開催(今年は10月12日)。呼びものの「囲碁1000面打ち大会」はテレビニュースなどでも報じられます。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第46回】囲碁による「まちづくり」 (1) 【2008年04月15日(火) 】

第32期棋聖戦七番勝負で惜しくも棋聖復位が成らなかった趙治勲十段(51)は、その翌週、第46期十段戦(産経新聞)第2局で優勢を築きながら、攻めを誤って二連敗。カド番となった五番勝負の第3局は4月3日に長野県大町市で打たれました。挑戦者の高尾紳路本因坊(31)が黒番で中押し勝ち、初の十段位を獲得して二冠に。3年ぶりに無冠となった趙は再び25世本因坊治勲と呼ばれることになりました。

ところで、大町市における十段戦挑戦手合開催は連続15期を数えました。あらゆるタイトル戦の地方開催を通じて、これは過去に例のない記録で、来年以降もさらに延びるでしょう。

続けてきた話、名人戦問題から棋聖戦の創設に至る経緯を一休みして、囲碁による「まちづくり」についてすこし書きましょう。まず、私も何度か訪ねた長野県大町市のこと。

大町市は全国で初めて囲碁による地域振興を目指し、「囲碁に学ぶ・囲碁で学ぶ」を基本的な考えとする「アルプス囲碁村」構想を策定・推進してきました。その契機となったのが平成6年、市制40周年を記念して誘致した第32期十段戦の第3局でした。以来、大町にとって十段戦は北信濃の春を飾る棋戦となりました。

さらに第18回世界アマ選手権戦(1996)、第36回女流アマ囲碁都市対抗戦(1998)、第27期囲碁名人戦第3局(2002)などのビッグイベントや、毎年の「アルプス囲碁村まつり」など数々の企画を実行。そうした活動は大町市と長野県の文化発展にとどまらず、日本全国、そして全世界における囲碁を通じた人々の交流に役立っています。

市内各所のポケットパークには碁盤が彫り込まれた休憩テーブルがあり、車止めに詰碁タイルがはめ込まれています。詰碁ウォークラリーもできるとか。大町市長として「アルプス囲碁村」を推進した腰原愛正さんは現在、長野県副知事(2006年9月就任)です。むろん、日本棋院と日本棋院大町支部が全面的に協力しています。1年前にはアルプス囲碁村会館がオープンし、現市長の牛越徹さんは「囲碁を通じたまちづくりとして、多くの方々が気軽に立ち寄ることができる憩いの場として施設を利用していただきたい」と挨拶しました。

大町市を先駆として、地域振興に囲碁を活用する自治体が各地に生まれています。広島県尾道市、神奈川県平塚市、宮崎県日向市、青森県黒石市、宮城県白石市ほか。これら自治体の参加する「囲碁サミット」を、平塚市が本年10月に計画しています。

本因坊秀策の生誕で知られる瀬戸内海の因島は昔から碁が盛んで、市技を囲碁と定めていました。2006年に因島市を編入した広島県尾道市はそれを引き継ぎ、尾道市のまちづくりに囲碁を役立てて行こうとしています。「尾道市の市技を定める条例」(2006.1.10施行)より。

    本市の代表的伝統文化である囲碁の継承・発展に努め、地域文化の創造と振興に資するため、囲碁を市技に定める。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第45回】棋聖戦 (6) 【2008年04月01日(火) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第6局は静岡県熱海市で3月13、14日に打たれ、白番の挑戦者・趙治勲十段(51)が山下敬吾棋聖(29)に4目半勝ち。「七番勝負の鬼」と呼ばれた趙に往年の迫力を取り戻した感があり、「旅」(趙の言葉)は最終戦まで続くことになりました。

注目の第7局は3月19、20日に静岡県御殿場市の経団連ゲストハウスで行われ、ニギリ直して趙十段の黒番。最終局はこの七番勝負を象徴する激しい碁でした。非勢の挑戦者は持ち時間8時間を使い切り、早くから秒読み。その中で放った勝負手が再び混沌とした局面を招来し、秒読みが苦手という山下棋聖も最後は残り1分に。しかしコウ争いの中で冷静を失わなかった山下は、大石を捨ててフリカワリ、勝勢を確立しました。

「負けました」 万策尽きた挑戦者がはっきり口にして投了。二ヶ月余にわたった激闘が終わりました。山下は4勝3敗で防衛を果たし、棋聖を三連覇(通算4期獲得)。双方が死力を尽くした歴史に残る七番勝負でした。

「闇試合(やみじあい)」とは、一手先も見えない乱闘のことです。盤上の死闘は観る者にとって大歓迎ですが、盤外の闇試合は……。1975(昭和50)年の年明けから名人戦問題はこじれて、まさに闇試合となりました。

山崎祐男が日々書き記した『昭和の囲碁界』から、同年3月17日に開かれた棋士総会の様子を抜粋します。

    有光理事長は午前の理事会に出席していたようだが、棋士総会には出席しないで山科理事が出席し、1月以降の経過説明。 1月13日の理事会の後、朝日新聞社と正式契約を結ぶ予定で、その旨朝日へも連絡してあったが、当日になって有光理事長から(中略)自身の進退をも含めて、交渉の権限一切を田実渉総裁に一任するとの申し入れがある。(中略)結局総裁一任となる。 総裁は岡田顧問(元副理事長)を起用し、それに伴い、岩本杉内が交渉から退き、山科、三輪が岡田の助手となる。

田実総裁、総裁の意を体した山科理事、岡田顧問は外部役員で財界の方々。有光理事長は元文部事務次官です。

    岡田は名人戦は朝日と契約し、新たに名人戦以上の格の棋戦を設けて読売と契約したいと両社に申し入れたが、読売に断られ岡田退陣。

山崎はさらに色々と書き留めており、こんなことも書かれています。

    秀行の発言の中に、大臣の稲葉修が棋院の態度を強く非難しているばかりか、福田赳夫も同じ意向だというのがあった。有光はその方向には弱い筈である。彼は自ら泥をかぶってでも朝日との契約をまとめると語っていたが、棋界の泥は厭わなくとも政界の泥までかぶる気はないであろう。何か関係があるのかもしれない。

秀行とは藤沢秀行九段、それから1年後に始まった読売の棋聖戦で六連覇を遂げ、名誉棋聖を名乗る、いまも健在な「秀行(しゅうこう)先生」です。当時、稲葉さんは法務大臣、福田さんは副総理で、お二人は大の囲碁ファン。

一棋士として批判的に執行部を見ていた山崎八段と、棋士理事のトップとして渦中にあった岩本薫九段では、思いが違います。岩本は回想録『囲碁を世界に』で当時の苦しい心中を語り、「国会で私を吊し上げようという話が出た」こともあったそうです。

名人戦問題から棋聖戦創設に進んだ現代囲碁史の話は重要で、興味深いものがあります。それから30年余が過ぎ去り、今期の棋聖戦が終わって、プロ碁界の関心は十段戦五番勝負、そして本因坊戦七番勝負に。今年も桜が咲き、季節は移り行きますが、この話をいましばらく続けたいと思います。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第44回】棋聖戦 (5) 【2008年03月16日(日) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第5局は、2月27、28日に京都の東本願寺別邸・渉成園で打たれ、黒番の挑戦者・趙治勲十段(51)が山下敬吾棋聖(29)に3目半勝ち。山下棋聖の3勝2敗となって七番勝負の行方はわからなくなりました。

一つの棋戦だけに集中できないのが囲碁棋士のつらいところです。3月6日、趙十段は十段戦五番勝負の第1局を新潟県岩室温泉で打ち、高尾秀紳本因坊に白番中押し負け。山下棋聖は同日、本因坊戦リーグで山田規三生九段と対戦し、黒番2目半負け。それぞれこれも大事な碁に負けた両者ですが、注目の第6局は静岡県熱海市で3月13、14日に打たれます(この稿はその前に書きました)。

日本棋院渉外担当理事であった杉内雅男九段の決断に有光次郎理事長、岩本薫副理事長が賛同した名人戦の移行は、1972年12月12日に朝日新聞と仮契約(年間契約金1億円)をしながら、決着まで1年を要したのでした。寝耳に水の打ち切り通告を受けた読売新聞は強く反発し、名人戦の継続に向けて手を打ち始めました。

名人戦移行に最も強硬に反対した棋士が「読売とは個人的な付き合いのある」藤沢秀行九段であったと、山崎祐男『昭和の囲碁界』に書かれています。この件が初めて棋士に報告された12月20日の棋士総会で、「(藤沢は)原読売副社長の言として、来期1億1千万円、更に過去にさかのぼって若干の補償をすると言っている。だから朝日との契約は中止したらどうかと激しく応酬」とあります。

読売の巻き返しが奏功したのか。有光理事長は年明け早々14日の棋士総会で「棋士の意見を聞いて最後の態度をきめようというところ迄後退」したとあり、さらに、その棋士総会は当日になって中止されたのでした。「この年になってから有光理事長が棋士総会に現れなくなる」と山崎は記しています。

岩本薫九段の回想録『囲碁を世界に』(講談社 1979)を読むと、棋士理事のトップであった岩本が苦しい立場に立たされたことを理解できます。財界の重鎮であった田実渉日本棋院総裁の考えは、棋院が読売と敵対することなく、円満な解決を図るようにということだったのです。有光理事長がそのような総裁の意向を体していると察した岩本は、朝日との本契約を先延ばししました。

やがて、岩本副理事長は変節したのではないかと、杉内理事はじめ朝日派の棋士たちから疑われるようになったのでした。

(続く)

【追記】

1月15日の本欄で福田康夫現首相は「碁を嗜むと聞かれない」と書きましたが、誤りでした。福田赳夫元首相と父子対局の写真が、昨年の首相就任時にメディアへ提供されたことを知らず、お詫びいたします。写真の対局年月日は不明で、勝敗も、康夫氏が何子置いたのかもわかりません。

福田赳夫元首相の碁好きは広く知られ、没するまで日本棋院顧問でした。免状はアマ八段。ただし、実際の棋力を問われると「それは国家機密」とケムに巻いていたということです。日本棋院が福田康夫首相に初段の免状を贈る話があったのかどうか……現首相の実際の棋力は、やっぱり国家機密でしょうね。

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【手談への誘(いざな)い・第43回】棋聖戦 (4) 【2008年02月29日(金) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第4局は2月21、22日に長崎市雲仙市で打たれ、前3局と同様、どちらも妥協を嫌う激しい碁でした。対局態度は静と動。秒読みで奮戦する趙治勲十段(51)に対して、終始冷静を失わなかった山下敬吾棋聖(29)。黒番山下棋聖が中押し勝ちで3勝1敗とし、棋聖三連覇へあと一勝としました。注目の第5局は2月27、28日に、京都の東本願寺別邸・渉成園で打たれます(この稿はその前に書きました)。

大タイトル戦の挑戦手合は全国各地、ときには海外で行われますが、通常の対局は日本棋院本院関西総本部中部総本部)および関西棋院で打たれます。現在は主に木曜、次いで月曜が対局日となっており、最も対局数が多いのは市ヶ谷駅から近い東京本院です。

日本棋院会館(本院)は1971年に落成した8階建てのビル。その5階と6階にプロの対局場があります。5階の特別対局室「幽玄」をはじめ10室ほどある対局室は和室で、数年前に6階の大広間「洗心」だけ洋室に改造されました。

6階の「燦々」は対局日の食事や休憩の場所として用いられ、ベテラン棋士を中心にそこで食事(店屋物)をとる棋士も少なくありません。45分と短い昼食・夕食休憩ですが、若手棋士の多くは外へ出ます。

昭和49(1974)年12月5日の木曜日、藤沢秀行九段が「昼食の時、閉口していた」と山崎祐男が『昭和の囲碁界』に書いています。山崎八段はこの本を自費出版した2000年に80歳で逝去。

謹厳な人柄と風貌から「碁の神様」と呼ばれる杉内雅男九段が日本棋院の渉外担当理事となり、名人戦の契約打ち切りを読売新聞に通告しました。名人戦を朝日に移すと杉内から聞いた藤沢は、「しきりと“神様だから”を連発していた」、「日記には記されていないが、“飲まないから”と途方に暮れたように呟いていたのを記憶している」と山崎は書いています。14年前に渉外担当理事として名人戦を創り、しかも第1期名人になった藤沢秀行は、読売と親しい関係が続いていたのでした。

それから数年後、藤沢秀行は名誉棋聖の資格を得ます(タイトル五連覇以上で名誉タイトル者)。棋聖すなわち「碁の聖(ひじり)」となる人が、「神様は飲まないから」と歎いたのでした。

藤沢はアルコール中毒でしたが、創設された棋聖戦で優勝。棋聖戦七番勝負が近づくと「必死の酒断ち」をしました。つぎは名誉棋聖の夫人・藤沢モト著『勝負師の妻』(角川oneテーマ21)より。

    そんなときにいちばんお世話になったのが、当時、読売新聞社にいらした藤井正義さんです。ホテルのようなところを借りて、監禁状態にして、酒を断ってくれました。本人が何を言おうと、一切、聞かない。体格のいい方なので、暴れても押さえ込めます。ときには縛りつけることもあったようです。
    棋聖戦は第6期、昭和57年まで六連覇しました。その蔭には、こうしたアルコール断ちの闘いがありました。周囲も本人も、必死の思いで碁を打てる身体にして、対局に臨んでいたのです。

最近は品行方正な棋士が多く、無頼派のトップ棋士はいなくなりました。囲碁界としては喜ぶべきでしょうが……。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第42回】棋聖戦 (3) 【2008年02月15日(金) 】

第32期棋聖戦七番勝負は山下棋聖の2勝1敗となり、佳境を迎えています。山下(29)の三連覇か、趙(51)が9年ぶりの最高位に復するか。次の第4局は2月21、22日に長崎市雲仙市で打たれます。

1月30、31日に島根県益田市で打たれた第2局は、挑戦者の趙治勲十段が白番で中押し(ちゅうおし)勝ち。山下の棋聖戦連勝記録は9連勝で止まりました。

第3局は2月7、8日でした。対局場は愛知県田原市、太平洋と三河湾を望む渥美半島の先端、伊良湖(いらご)岬にある伊良湖ガーデンホテル。

碁は難解な新変化で始まり、一日目の打ち掛けまでわずか25手という遅い進行でした。苦境の打開に長考を重ねた趙十段は、二日目の夕方前に早くも秒読み(持時間8時間、残り10分から1分単位の秒読み)。奮闘およばず挑戦者が134手で投了し、山下棋聖の白番中押し勝ちとなりました。

「名人戦問題」が決着し、棋聖戦が誕生するまでの話を続けましょう。私が入段する(プロ初段になる)2年ほど前のことです。棋戦誕生のきっかけ、そこにはいつも財政難がありました。

昭和49(1974)年12月、日本棋院が名人戦の契約打ち切りを読売新聞に通告したのが、「名人戦問題」の始まりでした。名人戦の契約金を10年以上にわたって増額しない読売に不満を募らせた日本棋院は、事前に読売と協議せず朝日新聞への名人戦移行を決め、仮契約したのです。

私の手もとに『昭和の囲碁界』と題された自費出版本があります。著者は山崎祐男(1920−2000)。日本棋院棋士七段の山崎が自身の日記をもとに、長年にわたり山崎が目で見、耳で聞いた日本棋院運営の実態を記した貴重な書です。その15章に名人戦問題の推移が書かれています。

杉内九段が渉外担当理事に就いて、先ず手がけた大仕事は歴代の渉外理事ではどうすることも出来なかった新聞社との契約金の改定であった。先ず最大の棋戦である名人戦の読売新聞社との交渉である。これは杉内氏以前の理事達も増額の申し入れを行ってはきたが、読売側はこれを完全に無視して、この2、3年は無契約状態のまま、棋戦が行われていたのである。これは明らかに理事会の無力と読売の不誠実によるものではあるが、杉内理事は従来の無契約状態を読売側の責任として、契約の打ち切りを読売側に通告した。」

(続く)

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