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【手談への誘(いざな)い・第46回】囲碁による「まちづくり」 (1) 【2008年04月15日(火) 】

第32期棋聖戦七番勝負で惜しくも棋聖復位が成らなかった趙治勲十段(51)は、その翌週、第46期十段戦(産経新聞)第2局で優勢を築きながら、攻めを誤って二連敗。カド番となった五番勝負の第3局は4月3日に長野県大町市で打たれました。挑戦者の高尾紳路本因坊(31)が黒番で中押し勝ち、初の十段位を獲得して二冠に。3年ぶりに無冠となった趙は再び25世本因坊治勲と呼ばれることになりました。

ところで、大町市における十段戦挑戦手合開催は連続15期を数えました。あらゆるタイトル戦の地方開催を通じて、これは過去に例のない記録で、来年以降もさらに延びるでしょう。

続けてきた話、名人戦問題から棋聖戦の創設に至る経緯を一休みして、囲碁による「まちづくり」についてすこし書きましょう。まず、私も何度か訪ねた長野県大町市のこと。

大町市は全国で初めて囲碁による地域振興を目指し、「囲碁に学ぶ・囲碁で学ぶ」を基本的な考えとする「アルプス囲碁村」構想を策定・推進してきました。その契機となったのが平成6年、市制40周年を記念して誘致した第32期十段戦の第3局でした。以来、大町にとって十段戦は北信濃の春を飾る棋戦となりました。

さらに第18回世界アマ選手権戦(1996)、第36回女流アマ囲碁都市対抗戦(1998)、第27期囲碁名人戦第3局(2002)などのビッグイベントや、毎年の「アルプス囲碁村まつり」など数々の企画を実行。そうした活動は大町市と長野県の文化発展にとどまらず、日本全国、そして全世界における囲碁を通じた人々の交流に役立っています。

市内各所のポケットパークには碁盤が彫り込まれた休憩テーブルがあり、車止めに詰碁タイルがはめ込まれています。詰碁ウォークラリーもできるとか。大町市長として「アルプス囲碁村」を推進した腰原愛正さんは現在、長野県副知事(2006年9月就任)です。むろん、日本棋院と日本棋院大町支部が全面的に協力しています。1年前にはアルプス囲碁村会館がオープンし、現市長の牛越徹さんは「囲碁を通じたまちづくりとして、多くの方々が気軽に立ち寄ることができる憩いの場として施設を利用していただきたい」と挨拶しました。

大町市を先駆として、地域振興に囲碁を活用する自治体が各地に生まれています。広島県尾道市、神奈川県平塚市、宮崎県日向市、青森県黒石市、宮城県白石市ほか。これら自治体の参加する「囲碁サミット」を、平塚市が本年10月に計画しています。

本因坊秀策の生誕で知られる瀬戸内海の因島は昔から碁が盛んで、市技を囲碁と定めていました。2006年に因島市を編入した広島県尾道市はそれを引き継ぎ、尾道市のまちづくりに囲碁を役立てて行こうとしています。「尾道市の市技を定める条例」(2006.1.10施行)より。

    本市の代表的伝統文化である囲碁の継承・発展に努め、地域文化の創造と振興に資するため、囲碁を市技に定める。

(続く)

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[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
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Posted at 19:44 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第45回】棋聖戦 (6) 【2008年04月01日(火) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第6局は静岡県熱海市で3月13、14日に打たれ、白番の挑戦者・趙治勲十段(51)が山下敬吾棋聖(29)に4目半勝ち。「七番勝負の鬼」と呼ばれた趙に往年の迫力を取り戻した感があり、「旅」(趙の言葉)は最終戦まで続くことになりました。

注目の第7局は3月19、20日に静岡県御殿場市の経団連ゲストハウスで行われ、ニギリ直して趙十段の黒番。最終局はこの七番勝負を象徴する激しい碁でした。非勢の挑戦者は持ち時間8時間を使い切り、早くから秒読み。その中で放った勝負手が再び混沌とした局面を招来し、秒読みが苦手という山下棋聖も最後は残り1分に。しかしコウ争いの中で冷静を失わなかった山下は、大石を捨ててフリカワリ、勝勢を確立しました。

「負けました」 万策尽きた挑戦者がはっきり口にして投了。二ヶ月余にわたった激闘が終わりました。山下は4勝3敗で防衛を果たし、棋聖を三連覇(通算4期獲得)。双方が死力を尽くした歴史に残る七番勝負でした。

「闇試合(やみじあい)」とは、一手先も見えない乱闘のことです。盤上の死闘は観る者にとって大歓迎ですが、盤外の闇試合は……。1975(昭和50)年の年明けから名人戦問題はこじれて、まさに闇試合となりました。

山崎祐男が日々書き記した『昭和の囲碁界』から、同年3月17日に開かれた棋士総会の様子を抜粋します。

    有光理事長は午前の理事会に出席していたようだが、棋士総会には出席しないで山科理事が出席し、1月以降の経過説明。 1月13日の理事会の後、朝日新聞社と正式契約を結ぶ予定で、その旨朝日へも連絡してあったが、当日になって有光理事長から(中略)自身の進退をも含めて、交渉の権限一切を田実渉総裁に一任するとの申し入れがある。(中略)結局総裁一任となる。 総裁は岡田顧問(元副理事長)を起用し、それに伴い、岩本杉内が交渉から退き、山科、三輪が岡田の助手となる。

田実総裁、総裁の意を体した山科理事、岡田顧問は外部役員で財界の方々。有光理事長は元文部事務次官です。

    岡田は名人戦は朝日と契約し、新たに名人戦以上の格の棋戦を設けて読売と契約したいと両社に申し入れたが、読売に断られ岡田退陣。

山崎はさらに色々と書き留めており、こんなことも書かれています。

    秀行の発言の中に、大臣の稲葉修が棋院の態度を強く非難しているばかりか、福田赳夫も同じ意向だというのがあった。有光はその方向には弱い筈である。彼は自ら泥をかぶってでも朝日との契約をまとめると語っていたが、棋界の泥は厭わなくとも政界の泥までかぶる気はないであろう。何か関係があるのかもしれない。

秀行とは藤沢秀行九段、それから1年後に始まった読売の棋聖戦で六連覇を遂げ、名誉棋聖を名乗る、いまも健在な「秀行(しゅうこう)先生」です。当時、稲葉さんは法務大臣、福田さんは副総理で、お二人は大の囲碁ファン。

一棋士として批判的に執行部を見ていた山崎八段と、棋士理事のトップとして渦中にあった岩本薫九段では、思いが違います。岩本は回想録『囲碁を世界に』で当時の苦しい心中を語り、「国会で私を吊し上げようという話が出た」こともあったそうです。

名人戦問題から棋聖戦創設に進んだ現代囲碁史の話は重要で、興味深いものがあります。それから30年余が過ぎ去り、今期の棋聖戦が終わって、プロ碁界の関心は十段戦五番勝負、そして本因坊戦七番勝負に。今年も桜が咲き、季節は移り行きますが、この話をいましばらく続けたいと思います。

(続く)

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Posted at 04:22 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第44回】棋聖戦 (5) 【2008年03月16日(日) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第5局は、2月27、28日に京都の東本願寺別邸・渉成園で打たれ、黒番の挑戦者・趙治勲十段(51)が山下敬吾棋聖(29)に3目半勝ち。山下棋聖の3勝2敗となって七番勝負の行方はわからなくなりました。

一つの棋戦だけに集中できないのが囲碁棋士のつらいところです。3月6日、趙十段は十段戦五番勝負の第1局を新潟県岩室温泉で打ち、高尾秀紳本因坊に白番中押し負け。山下棋聖は同日、本因坊戦リーグで山田規三生九段と対戦し、黒番2目半負け。それぞれこれも大事な碁に負けた両者ですが、注目の第6局は静岡県熱海市で3月13、14日に打たれます(この稿はその前に書きました)。

日本棋院渉外担当理事であった杉内雅男九段の決断に有光次郎理事長、岩本薫副理事長が賛同した名人戦の移行は、1972年12月12日に朝日新聞と仮契約(年間契約金1億円)をしながら、決着まで1年を要したのでした。寝耳に水の打ち切り通告を受けた読売新聞は強く反発し、名人戦の継続に向けて手を打ち始めました。

名人戦移行に最も強硬に反対した棋士が「読売とは個人的な付き合いのある」藤沢秀行九段であったと、山崎祐男『昭和の囲碁界』に書かれています。この件が初めて棋士に報告された12月20日の棋士総会で、「(藤沢は)原読売副社長の言として、来期1億1千万円、更に過去にさかのぼって若干の補償をすると言っている。だから朝日との契約は中止したらどうかと激しく応酬」とあります。

読売の巻き返しが奏功したのか。有光理事長は年明け早々14日の棋士総会で「棋士の意見を聞いて最後の態度をきめようというところ迄後退」したとあり、さらに、その棋士総会は当日になって中止されたのでした。「この年になってから有光理事長が棋士総会に現れなくなる」と山崎は記しています。

岩本薫九段の回想録『囲碁を世界に』(講談社 1979)を読むと、棋士理事のトップであった岩本が苦しい立場に立たされたことを理解できます。財界の重鎮であった田実渉日本棋院総裁の考えは、棋院が読売と敵対することなく、円満な解決を図るようにということだったのです。有光理事長がそのような総裁の意向を体していると察した岩本は、朝日との本契約を先延ばししました。

やがて、岩本副理事長は変節したのではないかと、杉内理事はじめ朝日派の棋士たちから疑われるようになったのでした。

(続く)

【追記】

1月15日の本欄で福田康夫現首相は「碁を嗜むと聞かれない」と書きましたが、誤りでした。福田赳夫元首相と父子対局の写真が、昨年の首相就任時にメディアへ提供されたことを知らず、お詫びいたします。写真の対局年月日は不明で、勝敗も、康夫氏が何子置いたのかもわかりません。

福田赳夫元首相の碁好きは広く知られ、没するまで日本棋院顧問でした。免状はアマ八段。ただし、実際の棋力を問われると「それは国家機密」とケムに巻いていたということです。日本棋院が福田康夫首相に初段の免状を贈る話があったのかどうか……現首相の実際の棋力は、やっぱり国家機密でしょうね。

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Posted at 09:43 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第43回】棋聖戦 (4) 【2008年02月29日(金) 】

第32期棋聖戦七番勝負の第4局は2月21、22日に長崎市雲仙市で打たれ、前3局と同様、どちらも妥協を嫌う激しい碁でした。対局態度は静と動。秒読みで奮戦する趙治勲十段(51)に対して、終始冷静を失わなかった山下敬吾棋聖(29)。黒番山下棋聖が中押し勝ちで3勝1敗とし、棋聖三連覇へあと一勝としました。注目の第5局は2月27、28日に、京都の東本願寺別邸・渉成園で打たれます(この稿はその前に書きました)。

大タイトル戦の挑戦手合は全国各地、ときには海外で行われますが、通常の対局は日本棋院本院関西総本部中部総本部)および関西棋院で打たれます。現在は主に木曜、次いで月曜が対局日となっており、最も対局数が多いのは市ヶ谷駅から近い東京本院です。

日本棋院会館(本院)は1971年に落成した8階建てのビル。その5階と6階にプロの対局場があります。5階の特別対局室「幽玄」をはじめ10室ほどある対局室は和室で、数年前に6階の大広間「洗心」だけ洋室に改造されました。

6階の「燦々」は対局日の食事や休憩の場所として用いられ、ベテラン棋士を中心にそこで食事(店屋物)をとる棋士も少なくありません。45分と短い昼食・夕食休憩ですが、若手棋士の多くは外へ出ます。

昭和49(1974)年12月5日の木曜日、藤沢秀行九段が「昼食の時、閉口していた」と山崎祐男が『昭和の囲碁界』に書いています。山崎八段はこの本を自費出版した2000年に80歳で逝去。

謹厳な人柄と風貌から「碁の神様」と呼ばれる杉内雅男九段が日本棋院の渉外担当理事となり、名人戦の契約打ち切りを読売新聞に通告しました。名人戦を朝日に移すと杉内から聞いた藤沢は、「しきりと“神様だから”を連発していた」、「日記には記されていないが、“飲まないから”と途方に暮れたように呟いていたのを記憶している」と山崎は書いています。14年前に渉外担当理事として名人戦を創り、しかも第1期名人になった藤沢秀行は、読売と親しい関係が続いていたのでした。

それから数年後、藤沢秀行は名誉棋聖の資格を得ます(タイトル五連覇以上で名誉タイトル者)。棋聖すなわち「碁の聖(ひじり)」となる人が、「神様は飲まないから」と歎いたのでした。

藤沢はアルコール中毒でしたが、創設された棋聖戦で優勝。棋聖戦七番勝負が近づくと「必死の酒断ち」をしました。つぎは名誉棋聖の夫人・藤沢モト著『勝負師の妻』(角川oneテーマ21)より。

    そんなときにいちばんお世話になったのが、当時、読売新聞社にいらした藤井正義さんです。ホテルのようなところを借りて、監禁状態にして、酒を断ってくれました。本人が何を言おうと、一切、聞かない。体格のいい方なので、暴れても押さえ込めます。ときには縛りつけることもあったようです。
    棋聖戦は第6期、昭和57年まで六連覇しました。その蔭には、こうしたアルコール断ちの闘いがありました。周囲も本人も、必死の思いで碁を打てる身体にして、対局に臨んでいたのです。

最近は品行方正な棋士が多く、無頼派のトップ棋士はいなくなりました。囲碁界としては喜ぶべきでしょうが……。

(続く)

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Posted at 12:18 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第42回】棋聖戦 (3) 【2008年02月15日(金) 】

第32期棋聖戦七番勝負は山下棋聖の2勝1敗となり、佳境を迎えています。山下(29)の三連覇か、趙(51)が9年ぶりの最高位に復するか。次の第4局は2月21、22日に長崎市雲仙市で打たれます。

1月30、31日に島根県益田市で打たれた第2局は、挑戦者の趙治勲十段が白番で中押し(ちゅうおし)勝ち。山下の棋聖戦連勝記録は9連勝で止まりました。

第3局は2月7、8日でした。対局場は愛知県田原市、太平洋と三河湾を望む渥美半島の先端、伊良湖(いらご)岬にある伊良湖ガーデンホテル。

碁は難解な新変化で始まり、一日目の打ち掛けまでわずか25手という遅い進行でした。苦境の打開に長考を重ねた趙十段は、二日目の夕方前に早くも秒読み(持時間8時間、残り10分から1分単位の秒読み)。奮闘およばず挑戦者が134手で投了し、山下棋聖の白番中押し勝ちとなりました。

「名人戦問題」が決着し、棋聖戦が誕生するまでの話を続けましょう。私が入段する(プロ初段になる)2年ほど前のことです。棋戦誕生のきっかけ、そこにはいつも財政難がありました。

昭和49(1974)年12月、日本棋院が名人戦の契約打ち切りを読売新聞に通告したのが、「名人戦問題」の始まりでした。名人戦の契約金を10年以上にわたって増額しない読売に不満を募らせた日本棋院は、事前に読売と協議せず朝日新聞への名人戦移行を決め、仮契約したのです。

私の手もとに『昭和の囲碁界』と題された自費出版本があります。著者は山崎祐男(1920−2000)。日本棋院棋士七段の山崎が自身の日記をもとに、長年にわたり山崎が目で見、耳で聞いた日本棋院運営の実態を記した貴重な書です。その15章に名人戦問題の推移が書かれています。

杉内九段が渉外担当理事に就いて、先ず手がけた大仕事は歴代の渉外理事ではどうすることも出来なかった新聞社との契約金の改定であった。先ず最大の棋戦である名人戦の読売新聞社との交渉である。これは杉内氏以前の理事達も増額の申し入れを行ってはきたが、読売側はこれを完全に無視して、この2、3年は無契約状態のまま、棋戦が行われていたのである。これは明らかに理事会の無力と読売の不誠実によるものではあるが、杉内理事は従来の無契約状態を読売側の責任として、契約の打ち切りを読売側に通告した。」

(続く)

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Posted at 12:11 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第41回】棋聖戦 (2) 【2008年01月30日(水) 】

年が明け、棋聖戦(読売新聞)が始まりました。国内最高棋戦。優勝賞金4200万円(公称)は、4年に1回(オリンピック年、今年は第6回開催予定)台湾主催の応昌期杯(同40万ドル)と並んで、囲碁賞金額の世界最高です。

三連覇を目指す山下敬吾棋聖(29歳)に挑戦している趙治勲十段(51歳)はタイトル戦優勝70回(史上1位)、三大タイトル戦(七番勝負)を37回戦って29勝8敗の驚異的な戦績を誇る「七番勝負の鬼」です。趙十段(九段、25世本因坊、十段は現タイトル)が七番勝負に登場するのは6年ぶり。

第1局は1月12、13日にブラジルのサンパウロで打たれました。日系移民百周年を記念するイベントとして招致され、日本棋院南米本部の関係者をはじめ熱烈な歓迎でした(週刊碁)。

日本棋院の通称岩本基金による南米本部の開設(1989)がなければ、今日の南米囲碁界はなかったでしょう。後半生を国際普及に捧げた岩本薫九段(1902-1999)の回想録「囲碁を世界に」(講談社1979)は貴重な資料です。その第1章「修行時代」の書き出しから。

    私は明治35年2月5日、島根県美濃郡高津町で生まれた。石見の高津は現在は益田市になっている。(中略)4歳のとき両親と朝鮮の釜山へ移住したので、故郷のことはほとんどおぼえていない。釜山へ向かう船の中で大砲の音を聞いたように思う。明治38年だから、日露戦争のときであったが、それが戦争の大砲の音だったのかどうか。

岩本が釜山(プサン)へ渡ったのは1905年。それから51年後の釜山に、囲碁の天才が誕生します。朝鮮戦争の災禍を逃れてソウルから疎開していた趙一家に生まれた治勲です。趙治勲は6歳で来日して木谷實九段の内弟子になり、11歳でプロ初段になりました。

日露戦争に勝った日本が韓国を併合したのは明治43(1910)年です。その翌年、数え年10歳の岩本は碁をおぼえ、釜山の日本人碁会所に通って急速に上達。勧められて広瀬平次郎八段に入門するため、12歳で釜山を離れました。上京する途中で郷里・高津の土を踏み、「送別碁会など催してくれた」と書かれています。

世界遺産に登録された石見銀山。その石見の国(島根県の西半分)と囲碁は縁が深く、四世本因坊道策(1645-1702)の生地でもあります。

「道策の前に道策なし、道策の後に道策なし」と言われ、囲碁史に燦然と輝く棋聖。他に棋聖と呼ばれた棋士は江戸後期の本因坊丈和(1787-1847)と、明治中期になって名声が一段と高まり、棋聖と呼ばれるようになった本因坊跡目秀策(1829-1862)だけです。棋聖戦が誕生するまでは。

南米の囲碁ファンが注目した第32期棋聖戦第1局は、白番の山下棋聖が沈着に打ち進めて中押し勝ち。棋聖戦挑戦手合における連勝記録を9に伸ばしました。

第2局は1月30、31日に岩本九段の郷里、島根県益田市で打たれます。

前回に続く話、「名人戦問題」が決着し、棋聖戦が誕生するまでの経緯は次回以降に。

(続く)

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Posted at 15:25 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第40回】棋聖戦 (1) 【2008年01月15日(火) 】

数ある棋戦の中でどうして、名人戦だけ何度も紛糾するのか。名人という特別な名称が問題を招いてきたのでしょうか。

名人戦の主催をめぐり、新聞二紙共載という話がありました。将棋の名人戦(順位戦)は曲折の末に昨年から、朝日新聞と毎日新聞の共載となっています。

囲碁の名人戦でも読売新聞と朝日新聞が一時的に共載する案がありました。33年前のこと。紛糾が続く名人戦問題の解決策として、田実渉日本棋院総裁(当時)が進めようとした調停案です。昭和50(1975)年7月16日の読売新聞「名人戦問題の経過」より。

    田実総裁は、読売、朝日両者への打診の結果、囲碁という文化財産の発展、普及との大乗的見地から3月1日、(1)15期1年間は両者共同掲載とする。 (2)16期以降については委員会もしくは審議会など特別な機関を設け、その答申をもとめて棋院が決定する――との田実調停案を作成、両社とも「共載」について、大筋として内諾、棋院理事も承認した。

碁界を支援する政財界の有力者は、事の成り行きを心配していました。2月、岩本薫九段は福田赳夫副総理(当時)に会った際に、「君も大変だろうが、田実総裁一任ということになっているのだから、総裁に任せておいたほうがいいよ」というアドバイスがあったと、回想録に記しています。福田元首相は愛棋家で免状はアマ八段。日本棋院の理事、顧問を長く務められました。子息の現総理が碁を嗜むと聞かれないのは残念です。

しかし、田実案は棋士大多数の賛同を得られませんでした。

    理事会はこの結果に基づき、田実案の「一年共載」を骨子とした態度を5月12日正式に決定、両社に通告した。名人戦問題はこれで一応の解決とみられたが、「調停案」に反対する棋士理事数人がこの理事会から退席する事態もあり、6月3日の評議員会は理事会案を否決、有光理事長以下、棋士理事全員が総辞職という事態となり、問題は再び振り出しに戻っていた。

田実渉氏は三菱銀行の頭取から会長を、有光次郎氏は文部省の事務次官を務めた方です。棋院内外の信望を集めた両氏でしたが、名人戦問題の収拾に失敗し、有光氏は20年に及ぶ日本棋院の理事長職を去りました。

名人戦問題が円満解決を見るまで、それから半年(発端から1年)かかりました。有光理事長のもと、棋士のトップは岩本薫副理事長(第3・4期本因坊、当時74歳)でした。田実総裁の意を体し、読売と対立を回避しようとした岩本は、朝日派の理事、棋士から激しい突き上げを喰いました。本因坊薫和回想録『囲碁を世界に』(講談社1979)にこうあります。

    いま考えるに、もし当時、田実総裁や岡田儀一さんの意向を無視して、棋士だけで短兵急に事を決めてしまったら、読売は現在の棋聖戦をやったかどうかわからない。また、国会でも問題になったくらいだから、世間の日本棋院に対する心証を害し、国庫補助をはじめ、政財界の援助も受けにくくなったであろうと思う。大きな問題が解決するには、時の経過が必要だった。

昭和4(1929)年、新進気鋭の岩本薫六段は新妻を連れてブラジルへ旅立ちました。碁を捨てて移民船に乗り、農場経営を夢見た場所がサンパウロでした。2年で帰国した岩本ですが、若き日の思いは囲碁の世界普及への情熱に変わり、60年後(1989)のサンパウロに日本棋院南米本部が開設しました。岩本が私財を日本棋院に寄附して誕生した海外センターの第一号です。

今ごろ(1月10日)山下敬吾棋聖と趙治勲十段(25世本因坊)はブラジルに到着し、身体を休めているはず。第32期棋聖戦七番勝負の第1局(1月12、13日)はサンパウロで打たれます。

そのとききっと、岩本先生(99年に97歳で没)は碁を見ながら、好きなお酒をチビリチビリやっているでしょう。サンパウロの天上で眼を細めて。

(続く)

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Posted at 10:20 | 囲碁 | この記事のURL
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【手談への誘(いざな)い・第39回】名人戦 (15) 【2007年12月29日(土) 】

呉清源九段は1983年に引退し、93歳の今も健在です。映画『呉清源・極みの棋譜』のエピローグは引退式の記念連碁でした。白の呉九段に対して一手ずつ打つために居並ぶ数多くの棋士、名士。最初の一手を打ったのは呉九段の兄弟子、橋本宇太郎九段です。その第一手、黒石が天元!に打たれたところで映画は終わりました。

『橋本宇太郎 囲碁専業五十年』(1972年/至誠堂)という回顧録があり、「呉」と題された章の最後にこうあります。

    呉さんをなぜ新名人制による最初の名人にしなかったのか。後世の人は、呉さんが中国人だったから、昭和の棋士たちは名人にしなかったのだろう、などと言うかも知れない。あるいは、呉清源が打ち盛りを過ぎた時期を見計って、名人戦をはじめたのだ、などという誤解も抱きかねない。
    呉さんを第一期名人にしなかったことは、昭和囲碁史の一汚点になりかねない。同じ時代に生きた一人の棋士として、わたしはそれを残念に思う。

第1期旧名人戦リーグ、全78局の中で唯一のジゴが最後の一局に生じ、ジゴをめぐる異例の規定が名人の行方を左右しました。

最終局で呉清源九段が坂田栄男九段に白番ジゴ勝ち。呉は藤沢秀行八段とともに9勝3敗の成績を上げましたが、ジゴ勝ちは劣るという規定により2位。プレーオフなしで、藤沢が第1期名人のタイトルを獲得することに決まりました。

それが確定したのは深夜、昭和37(1962)年8月7日に日付が変わった直後でした。その頃、早々と橋本昌二九段に敗れた藤沢秀行は紅灯の巷に。どこで飲んでいたのか、本人も覚えていないという。

    そんな事情を知る由もなく、私は飲んでいた。読売の記者は、新名人の所在がつかめずあわてたらしい。私は夜中の1時頃に帰宅した。当然、家内は新聞社から連絡を受けている。そのむね私にも伝えたというのだが、私はしたたかに酔っていたので、まともに耳に入るはずもない。
    そのまま寝てしまったら、ひと眠りもしないうちに、報道陣が押しかけてきた。まさに寝耳に水。私はもうろうとした頭で、初めて自分が名人になったことを知った。(1999年/角川文庫『私の履歴書 碁打秀行』)

囲碁では、ときに誰も予期しないことが起きます。第1期名人戦の最終局も、碁の神様のいたずらだったのでしょうか。呉清源でも坂田栄男(当時本因坊)でもなく、実績も評価も両者に及ばなかった藤沢秀行が初代の名人位を獲得しました。

秀行夫人、藤沢モト著『勝負師の妻』(2003年/角川oneテーマ21)に「転がり込んだ名人位」という一節があります。『碁打秀行』と読み比べると面白いですよ。

    リーグ最終局、藤沢は橋本昌二さんに負けたのです。結果は9勝3敗でした。その後、いつものように飲みに行き、べろべろに酔っ払って朝方に帰ってきました。(中略)
    わたしは夜中に連絡を受けて聞いており、帰ってきた藤沢にそのことを伝えたのですが、正体のないほどに酔っ払っており、まったく聞こえていなかったようです。 翌朝の10時ころ、新聞社の方がインタビューにみえました。まさか優勝インダビューとは思わぬまま、まだ酔いが醒めやらぬ頭で、ステテコ姿で記者の方のところへ出てきた藤沢は、とんちんかんなことばかり言っていました。よほどびっくりしたのでしょう。自分では、そのとき何を話したかまったく覚えていないと思います。
    こののち、新しいタイトルができると真っ先にそれに勝つところから、「初物食いの秀行」などと言われるようになりました。

呉九段は第2期も第3期も名人戦リーグで健闘しますが、いずれも最終戦で挑戦権を逸して しまいました。第2期は坂田九段が挑戦者となって、藤沢名人(八段)から名人位を奪取。第3期は九段に昇段した藤沢が挑戦するも奪還ならず。名人を連覇し、本因坊と合わせて二冠の坂田が一時代を築いたのでした。

交通事故の後遺症で体調が悪化した呉は、第4期の名人戦リーグでなんと全敗。しかし、呉の弟子、台湾出身の林海峰(りんかいほう)が同リーグで優勝しました。

23歳の林八段は名人戦七番勝負で坂田名人に4勝2敗。全盛期の坂田を降して名人位を獲得し、以後三連覇を果たしました(旧、新通算名人位8期)。

呉清源の時代は去り、若き林海峰そして木谷一門の隆盛へ……。

昭和50年、名人戦は朝日新聞に移り、読売新聞は最高棋戦として棋聖戦を創設。その経緯など、新春から「棋聖戦」にテーマを替えてご紹介しましょう。

年が明けると、第32期棋聖戦七番勝負が始まります。三連覇(通算4期)を目指す山下敬吾棋聖に挑戦するのは、「七番勝負の鬼」と呼ばれるベテランの趙治勲十段(25世本因坊)。第1局はブラジル・サンパウロで1月12、13日に。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第38回】名人戦 (14) 【2007年12月15日(土) 】

囲碁の日本ルールは最終的に地の多い方が勝ち。韓国も同じです。中国ルールは一方の石と地の合計が、盤上361の半分より多いか少ないか数えます。計算法が違うだけで、競技法は変わらず、同じ碁です。

日本ルールでは双方の地が同数になることがあり、それをジゴ(持碁)といいます。その場合は引き分けとするのが古来からの慣習です。

碁では先着する黒の方が有利なので、それを調整するためのルールがコミです。昭和14(1939)年に本因坊戦が誕生してから40年代まで、棋戦のコミは4目半(黒が出す)がほとんどでした。

しかし、昭和36(1961)年に生まれた旧名人戦(読売新聞)は異例のコミ5目を採用。ジゴは白勝ちと規定されたので、それならコミ5目半と勝敗結果は同じです。しかし違いがひとつあり、リーグ戦におけるジゴ勝ちは通常の勝ちに劣るという規定が加えられていました。

『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)で中山典之六段はこう書いています。「ジゴ勝ち下位という規定がケチの付き始めで、昭和の碁聖呉清源はついに名人になれなかったのである」と。

その年(37年)の春に入段した(棋士初段になること)ばかりの中山は記録の名手で、名人戦リーグの最終局、呉清源・坂田栄男戦の記録係を務めました。

ここまで、両者とも8勝3敗。9勝2敗でトップの藤沢秀行九段が敗れたときは、呉・坂田の勝者と藤沢でプレーオフになります。ただし、ジゴになった場合を除いて。

    何しろ天下の呉清源怒濤の追い込みである。さすがの坂田も大事を取り、ゆるみ、ついにジゴ一(注、ジゴか1目差かというきわどい局面)の碁になったのである。 夜半11時55分。半コウツギツギとなって碁が終わった。坂田本因坊は負けと思っていたとみる。坂田、 「負けですか?」 と盤側の立会人藤沢朋斎を顧みる。 「サア……」 朋斎九段は煮えきらない。 坂田本因坊は盛んにこぼし出した。あきれた、バカな手を打った、どれくらい損をしたんだ、大分良かったのに……、などと際限もなく。 その間、5分ほど、呉清源九段は黙然と盤上を見つめていたが、 「作ってみましょう」 と落ちついた声で坂田をうながした。 白地30目。黒地35目。5目のコミがあり、果然ジゴである。ジゴ白勝ちである。 「何だ、半目か。半目負けだったのか」 うめく様な坂田の声。規定ではジゴだが、坂田は事実上の負けであるジゴをジゴと思っていない。彼がハッキリと「半目負けだったのか」と叫んだ声を私は聞いている。

その3時間前、秀行九段は橋本昌二九段に敗れていました。しかし、結果がジゴなら第1期名人が決まるわけで、念のため記録係の中山初段が別室の碁盤で棋譜を手に、初手から並べ返して確認。

    間違いがあるはずもなく、ジゴである。 対局室にとってかえした私は、 「ジゴに相違ありません」 と報告した。とたんに坂田本因坊、 「オイ。間違いないだろうな」 と血走った目玉で睨んだが、恐る恐る「ハイ」と返事をした記録係から目をそらし、 「しょうがねぇなァ」 と呟いて天井を仰いだ。藤沢秀行名人が確定した瞬間であり、呉九段の姿はなかった。

(続く)

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【手談への誘(いざな)い・第37回】名人戦 (13) 【2007年11月30日(金) 】

『呉清源・極みの棋譜』(中国/田壮壮監督)を観ました。祝日(11/23)でしたが観客は僅か……、落ち着いて鑑賞できたのは幸いでした。

前評判のとおり、静謐で美しい映像。台湾の人気俳優チャン・チェンは、呉清源の希有な純粋さをよく醸し出していました。しかし、碁を打つ場面が少なく短かったのは残念です。

呉清源自伝『中の精神』(東京新聞出版局)の映像化という面が強いのですが、2時間の映画で波乱の数十年を伝えるのは無理としたものでしょう。事前の知識が豊富でなければ、様々な場面を具体的に理解するのは難しいにちがいありません。

宗教活動に関する話はストーリーを感じます。しかし(私たちにとって)肝腎!な棋士・呉清源の実績とその背景について、心に残るシーンがなかったのは私だけでしょうか。

囲碁の世界の高い精神性、それを体現した呉清源の強さを、碁を知らない人にまで具体的に伝えるのはたしかに困難なことです。それらをもイメージとして、映像の緊張した美しさをもって伝えようと、田監督は考えたのかもしれません。そう思えば完成度は高く、魅力ある映画です。

この映画を観て、囲碁の世界に魅せられ、碁を知りたくなる人がたくさんいてほしい……でも、それは望まないことにしましょう。

話を本題に戻します。

昭和37(1962)年8月6日。呉清源九段は芝明舟町にあった「福田屋」で、旧名人戦(読売新聞)第1期リーグ最終局の二日目を打っていました。ここまで8勝3敗。対する坂田栄男九段も8勝3敗でした。

もう一つの最終局は紀尾井町の「福田屋」で同時に打たれており、藤沢秀行八段が橋本昌二九段に勝てば10勝2敗となって、単独1位。第1期名人が決まります。秀行八段が敗れた場合は9勝3敗になり、呉・坂田戦の勝者と同率。日を改めてプレーオフの一番を打ち、名人を決める規定でした。

中山典之著『昭和囲碁風雲録・下』(岩波書店)にこうあります。

    対局二日目の午後9時少し前、秀行は天井を仰いでから盤上に目を落とし、「おかしかったですねェ」と声を出した。投了にも色々とあるが、これが投了の合図だった。続いて秀行は盤側を顧みて、向うの碁(呉・坂田戦)はどうなっていますか、と聞いた。坂田勝勢と聞いた秀行、「坂田名人がついに出来るか」と呟き、ヨロヨロと立ち上がると部屋を出て行ったという。その後、彼がどこにいたかは誰も知らない。本人さえ泥酔して覚えていなかったのだから……。

    一方の明舟町の福田屋。大ヨセの段階では坂田が10目ほども優勢だったという。しかし坂田にはもう持時間がなかった。

(続く)

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