【手談への誘(いざな)い・第13回】風林火山 (2) 【2006年12月05日(火) 】
武将や武士が碁を好んだことは、囲碁ファンでなくても知っている人が多いのではないしょうか。NHKの大河ドラマを見ても、碁を打つ場面が時々ありました。太閤秀吉、徳川家康、大石内蔵助、…。来年の大河ドラマ『風林火山』でも、碁を打つ武田信玄が見られたらいいですね。
信玄が碁を好み、しかも強かったのは事実のようです。囲碁史にも登場するのですが…
武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂弾正昌信)の棋譜が初めて世に出たのは文政12年(1829)の『古棋〈こご〉』で、30部だけ発行された棋譜集。日蓮上人と吉祥丸の師弟対局、真田昌幸と信幸の父子対局、信玄・弾正局、その三つの棋譜のみを刷ったものです。しかし、この三棋譜はいずれも偽作とみられています。
その理由はと言えば。まずもって、日蓮が独自の布教を始めた建長5年(1253)の正月に、その地である鎌倉松葉谷〈まつばがやつ〉の草庵で吉祥丸(日朗)と碁を打ち、しかもその棋譜が書き残されているなんてことがあるとは思えません。日朗が日蓮の弟子になったのは翌建長6年、10歳のときと、日蓮宗年表にあります。その棋譜を見ると、10歳に満たない子供が打った碁とは考えられない、たいへん立派な内容です。勝敗結果は持碁〈じご〉と記載されており、持碁=引き分けは縁起が良いとされることも偽作を裏付けているといえるでしょう。(日蓮・日朗局の序盤棋譜などを集英社新書『囲碁の知・入門編』p188に記載しました。)
『古棋』を発行したのは井上家から二段を許された三神松太郎ですが、後に八段となる林元美(1778−1861)が深くかかわっていたのではないかとみられています。元美はその著『爛柯堂棋話』に「古譜の伝わりしは、この碁を以て第一とすべし」と記しました。以来、日蓮・日朗の棋譜が「日本最古の棋譜」として伝えられてきたのです。
信玄・弾正の碁は、それが実譜なら16世紀半ば、戦国時代のものです。しかしその当時、武将とはいえ碁の素人どうしで、棋譜を書いて残すことがあったとは思えません。それに、たとえもしそういうことがあったとしても、その棋譜が戦乱の世を経て後世に残り、しかも300年近くを経て、はじめて世に出るなどということがあるでしょうか。
そうしたことから、また三棋譜はいずれも高い棋力がなければ作れない内容であることから、いずれも元美による偽作であるとするのが今日の一般的な見方です。
話を戻します。信玄が率いた甲州軍団の軍旗「風林火山」は広く知られ、その字句が兵法書『孫子』に拠るのを知っている人も多いでしょう。
疾〈はや〉きこと風の如く 徐〈しず〉かなること林の如し
侵掠〈しんりゃく〉すること火の如く 動かざること山の如し
「割菱」の紋と「風林火山」は甲州軍団の代名詞です。しかし、これを初めて軍旗に用いたのは信玄でなく、信玄の220年前、室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)だったことをご存知でしょうか。(次回に続く)
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[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
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信玄が碁を好み、しかも強かったのは事実のようです。囲碁史にも登場するのですが…
武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂弾正昌信)の棋譜が初めて世に出たのは文政12年(1829)の『古棋〈こご〉』で、30部だけ発行された棋譜集。日蓮上人と吉祥丸の師弟対局、真田昌幸と信幸の父子対局、信玄・弾正局、その三つの棋譜のみを刷ったものです。しかし、この三棋譜はいずれも偽作とみられています。
その理由はと言えば。まずもって、日蓮が独自の布教を始めた建長5年(1253)の正月に、その地である鎌倉松葉谷〈まつばがやつ〉の草庵で吉祥丸(日朗)と碁を打ち、しかもその棋譜が書き残されているなんてことがあるとは思えません。日朗が日蓮の弟子になったのは翌建長6年、10歳のときと、日蓮宗年表にあります。その棋譜を見ると、10歳に満たない子供が打った碁とは考えられない、たいへん立派な内容です。勝敗結果は持碁〈じご〉と記載されており、持碁=引き分けは縁起が良いとされることも偽作を裏付けているといえるでしょう。(日蓮・日朗局の序盤棋譜などを集英社新書『囲碁の知・入門編』p188に記載しました。)
『古棋』を発行したのは井上家から二段を許された三神松太郎ですが、後に八段となる林元美(1778−1861)が深くかかわっていたのではないかとみられています。元美はその著『爛柯堂棋話』に「古譜の伝わりしは、この碁を以て第一とすべし」と記しました。以来、日蓮・日朗の棋譜が「日本最古の棋譜」として伝えられてきたのです。
信玄・弾正の碁は、それが実譜なら16世紀半ば、戦国時代のものです。しかしその当時、武将とはいえ碁の素人どうしで、棋譜を書いて残すことがあったとは思えません。それに、たとえもしそういうことがあったとしても、その棋譜が戦乱の世を経て後世に残り、しかも300年近くを経て、はじめて世に出るなどということがあるでしょうか。
そうしたことから、また三棋譜はいずれも高い棋力がなければ作れない内容であることから、いずれも元美による偽作であるとするのが今日の一般的な見方です。
話を戻します。信玄が率いた甲州軍団の軍旗「風林火山」は広く知られ、その字句が兵法書『孫子』に拠るのを知っている人も多いでしょう。
疾〈はや〉きこと風の如く 徐〈しず〉かなること林の如し
侵掠〈しんりゃく〉すること火の如く 動かざること山の如し
「割菱」の紋と「風林火山」は甲州軍団の代名詞です。しかし、これを初めて軍旗に用いたのは信玄でなく、信玄の220年前、室町時代初期(南北朝)に「花将軍」と呼ばれた若き公家・武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ 1318-1338)だったことをご存知でしょうか。(次回に続く)
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【手談への誘(いざな)い・第12回】風林火山 (1) 【2006年12月05日(火) 】
「ヤマカン」の語源は山本勘助であるという説があります。山本勘助の軍略は当て推量(ヤマカン)だったと、江戸時代に言われたので
しょうか。
それはさておき…
『信玄がこういう人物だったかという種類のことも、この小説では問題にならない。山本勘助は伝説上の、架空の人物だったかもしれな いのである。そして、それでも構わないのは、これが小説であるからではなくて、古府の信玄の世界はこの通りのものだったと言えると ころまでこの小説は行っている。』
新潮文庫『風林火山』の「解説」に吉田健一(文芸評論家)がこう書いています。
来年のNHK大河ドラマは「風林火山」。その原作は、生誕100年になる井上靖(1907-1991)が昭和30年(1955)に発表した歴史小説『 風林火山』です。
描かれているのは、戦国の名将武田信玄の軍師として知られた山本勘助の生きざま。しかし史実ではありません。
山本勘助が最初に登場する史料は『甲陽軍鑑』。甲州武田家の軍学を記したその書に、山本勘助が軍師として記されています。しかし他 の史料にその名は見えず、『甲陽軍鑑』の記述が創作であることは定説になっているのです。
江戸時代になって、信玄人気の高まりとともに山本勘助にまつわる様々なエピソードが創り出され、浮世絵や浄瑠璃などによって広まり ました。
井上靖はそうしたことを踏まえて、実在しない山本勘助を『風林火山』に書いたのでした。
ところが昭和44年になって、釧路の市川氏が所持する古文書にその名があることが発見されました。敵陣に届けられた晴信(武田信玄) の花押がある書状で、そこには、重要なことは使者の「山本管助」が口頭で伝えると記されています。
これによって、信玄の側近に山本という人物が実在したのは確実であるとわかりました。しかし、『甲陽軍鑑』に書かれた「勘助」のモ デルが市川文書の「管助」とするなら、事実は軍師でなかったことも確かめられたのです。
『甲陽軍鑑』を書いたのは「武田四天王」の一人として知られる高坂(香坂)昌信とされます。
囲碁の歴史でも、武田信玄と高坂昌信は有名です。
江戸時代に書かれた『爛柯堂棋話』に、武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂昌信の幼名)の碁が載っています。明治以降も、その棋譜 は繰り返し紹介されてきました。
( http://www3.lib.pref.yamanashi.jp/cgi-bin/refjirei/refs.cgi?c=yamanashi&n=11 )
しかし、これも創作に違いないというのが定説です。棋譜は『爛柯堂棋話』を執筆した林元美(準名人)による偽作と見られています。 (次回に続く)
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それはさておき…
『信玄がこういう人物だったかという種類のことも、この小説では問題にならない。山本勘助は伝説上の、架空の人物だったかもしれな いのである。そして、それでも構わないのは、これが小説であるからではなくて、古府の信玄の世界はこの通りのものだったと言えると ころまでこの小説は行っている。』
新潮文庫『風林火山』の「解説」に吉田健一(文芸評論家)がこう書いています。
来年のNHK大河ドラマは「風林火山」。その原作は、生誕100年になる井上靖(1907-1991)が昭和30年(1955)に発表した歴史小説『 風林火山』です。
描かれているのは、戦国の名将武田信玄の軍師として知られた山本勘助の生きざま。しかし史実ではありません。
山本勘助が最初に登場する史料は『甲陽軍鑑』。甲州武田家の軍学を記したその書に、山本勘助が軍師として記されています。しかし他 の史料にその名は見えず、『甲陽軍鑑』の記述が創作であることは定説になっているのです。
江戸時代になって、信玄人気の高まりとともに山本勘助にまつわる様々なエピソードが創り出され、浮世絵や浄瑠璃などによって広まり ました。
井上靖はそうしたことを踏まえて、実在しない山本勘助を『風林火山』に書いたのでした。
ところが昭和44年になって、釧路の市川氏が所持する古文書にその名があることが発見されました。敵陣に届けられた晴信(武田信玄) の花押がある書状で、そこには、重要なことは使者の「山本管助」が口頭で伝えると記されています。
これによって、信玄の側近に山本という人物が実在したのは確実であるとわかりました。しかし、『甲陽軍鑑』に書かれた「勘助」のモ デルが市川文書の「管助」とするなら、事実は軍師でなかったことも確かめられたのです。
『甲陽軍鑑』を書いたのは「武田四天王」の一人として知られる高坂(香坂)昌信とされます。
囲碁の歴史でも、武田信玄と高坂昌信は有名です。
江戸時代に書かれた『爛柯堂棋話』に、武田晴信(信玄)と春日源五郎(高坂昌信の幼名)の碁が載っています。明治以降も、その棋譜 は繰り返し紹介されてきました。
( http://www3.lib.pref.yamanashi.jp/cgi-bin/refjirei/refs.cgi?c=yamanashi&n=11 )
しかし、これも創作に違いないというのが定説です。棋譜は『爛柯堂棋話』を執筆した林元美(準名人)による偽作と見られています。 (次回に続く)
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