【手談への誘(いざな)い・第23回】呉・木谷・高川の時代(9) 【2007年05月01日(火) 】
世が世なら名人の候補になったかもしれない藤沢庫之助ですが、同時代に呉清源がいました。中国に生まれ、日本で開花した不世出の天才棋士です。
「藤沢庫之助九段との打ち込み十番碁は、複雑な経緯を経て1951(昭和26)年10月から始まりました。しかもいざ始まるとなると、持ち時間をめぐって再びもめました。」(呉清源『中の精神』東京新聞出版局)
藤沢は持ち時間13時間を主張。それでは一局打つのに三日かかるので、呉は日本棋院の当時の規定に従う10時間を主張。結局は藤沢の主張が通って各13時間に。さらに、藤沢の要望で敗者はリターンマッチを打つことができるとなりました。
「最初からリターンマッチの約束をするというのは、それだけ私に絶対勝ちたかったということなのでしょう。」(同)
今日では、最も長い持ち時間が三大棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦)挑戦手合・七番勝負(二日制)の8時間。国際戦は3時間です。通常の国内棋戦の予選も、3時間になりました。
また、現在の棋戦はすべてコミ碁(黒が6目半のコミを出す)ですが、呉清源打ち込み十番碁はコミなしでした。コミなしの碁は黒番が有利ですから、対局者の力が拮抗していれば、白番はなかなか勝てないはずです。
しかし、人間の勝負は理屈どおりになりません。
呉・藤沢十番碁は第1局から第5局まですべて白番の勝ち。
必勝の形勢だった第5局を落とした藤沢は、そこから敗戦を重ねました。カド番となった第9局。黒番の藤沢は勝勢を築いた後に大きなミスを犯し、ついに四連敗。
碁の内容は好勝負ながら、結果は呉の7勝2敗1ジゴで終わりました。
北海道・登別温泉での第9局に敗れ、先相先(せんあいせん)に打ち込まれた藤沢は、帰京するや直ちに、主催の読売新聞にリターンマッチ(先相先の手合で開始)を申し入れました。
「問題のリターンマッチは、52年秋から行われ、翌年春の第6局で、私が5勝1敗と打ち込み、それで終了しました。その第6局に臨む際に、藤沢さんは私に打ち込まれたら、日本棋院の名誉を汚すというので、辞表を懐にしていたそうです。」(同)
定先(じょうせん、二段差の手合)に打ち込まれた藤沢は日本棋院を脱退し、名を「朋斎(ほうさい)」と改めました。
九段が二人しかいなかった時代。棋士生命を賭けて十番碁を戦った「庫之助」は、呉清源に打ち殺されたのです。
「毎日新聞が同情し、無所属のままで藤沢を本因坊戦に参加させるよう尽力し、昭和32年に高川本因坊への挑戦権を得たが、2対4で敗退。昭和34年に各方面の尽力があって棋院に復帰している。」(中山典之『昭和囲碁風雲録』岩波書店)
昭和28年(1953)に王座戦(日本経済新聞)、翌年に早碁名人戦(産経新聞、十段戦の前身)が誕生しました。
藤沢朋斎九段は33年に王座を獲得。35、36年には早碁名人戦を連覇し、39年に十段戦で優勝しています。
その後、藤沢は日本棋院の運営に携わり、現在の日本棋院会館(市ヶ谷本院、1971年開館)の建設に際しては募金活動で大いに貢献しました。 (続く)
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[ 平本弥星ブログ『手談への誘(いざな)い』は毎月15日・30日ごろ更新します。お楽しみに! ]
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「藤沢庫之助九段との打ち込み十番碁は、複雑な経緯を経て1951(昭和26)年10月から始まりました。しかもいざ始まるとなると、持ち時間をめぐって再びもめました。」(呉清源『中の精神』東京新聞出版局)
藤沢は持ち時間13時間を主張。それでは一局打つのに三日かかるので、呉は日本棋院の当時の規定に従う10時間を主張。結局は藤沢の主張が通って各13時間に。さらに、藤沢の要望で敗者はリターンマッチを打つことができるとなりました。
「最初からリターンマッチの約束をするというのは、それだけ私に絶対勝ちたかったということなのでしょう。」(同)
今日では、最も長い持ち時間が三大棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦)挑戦手合・七番勝負(二日制)の8時間。国際戦は3時間です。通常の国内棋戦の予選も、3時間になりました。
また、現在の棋戦はすべてコミ碁(黒が6目半のコミを出す)ですが、呉清源打ち込み十番碁はコミなしでした。コミなしの碁は黒番が有利ですから、対局者の力が拮抗していれば、白番はなかなか勝てないはずです。
しかし、人間の勝負は理屈どおりになりません。
呉・藤沢十番碁は第1局から第5局まですべて白番の勝ち。
必勝の形勢だった第5局を落とした藤沢は、そこから敗戦を重ねました。カド番となった第9局。黒番の藤沢は勝勢を築いた後に大きなミスを犯し、ついに四連敗。
碁の内容は好勝負ながら、結果は呉の7勝2敗1ジゴで終わりました。
北海道・登別温泉での第9局に敗れ、先相先(せんあいせん)に打ち込まれた藤沢は、帰京するや直ちに、主催の読売新聞にリターンマッチ(先相先の手合で開始)を申し入れました。
「問題のリターンマッチは、52年秋から行われ、翌年春の第6局で、私が5勝1敗と打ち込み、それで終了しました。その第6局に臨む際に、藤沢さんは私に打ち込まれたら、日本棋院の名誉を汚すというので、辞表を懐にしていたそうです。」(同)
定先(じょうせん、二段差の手合)に打ち込まれた藤沢は日本棋院を脱退し、名を「朋斎(ほうさい)」と改めました。
九段が二人しかいなかった時代。棋士生命を賭けて十番碁を戦った「庫之助」は、呉清源に打ち殺されたのです。
「毎日新聞が同情し、無所属のままで藤沢を本因坊戦に参加させるよう尽力し、昭和32年に高川本因坊への挑戦権を得たが、2対4で敗退。昭和34年に各方面の尽力があって棋院に復帰している。」(中山典之『昭和囲碁風雲録』岩波書店)
昭和28年(1953)に王座戦(日本経済新聞)、翌年に早碁名人戦(産経新聞、十段戦の前身)が誕生しました。
藤沢朋斎九段は33年に王座を獲得。35、36年には早碁名人戦を連覇し、39年に十段戦で優勝しています。
その後、藤沢は日本棋院の運営に携わり、現在の日本棋院会館(市ヶ谷本院、1971年開館)の建設に際しては募金活動で大いに貢献しました。 (続く)
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at 09:59
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