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【手談への誘(いざな)い・第24回】呉・木谷・高川の時代(10) 【2007年05月15日(火) 】

この数十年間に囲碁界は大きく発展しました。それを支えて来たのは数々の棋戦、とりわけプロ棋戦です。日本囲碁界はもとより、韓国、中国の囲碁界も然り。近年は台湾の囲碁界も活況を呈しています。

日本で棋戦創設が相次いだ半世紀前。名人戦がその端緒となりました。
名人戦は他の棋戦と異なり、誕生から難産でした。

最初は昭和27(1952)年。戦前から最大のスポンサーで、日本棋院の大手合を新聞掲載してきた朝日新聞が、囲碁の名人戦を正式に企画しました。
すでに実施されていた将棋界の順位戦と同様の方式により、最高位の名人を決定するという案。この朝日の提案に対する日本棋院棋士の意見は真二つに別れ、最終的に流産となってしまいました。

その最終決断をしたのは高川秀格(当時本因坊、八段 1915−1986)。高川は日本棋院の渉外担当理事でした。詳しくは、高川の回想(『秀格烏鷺うろばなし』日本棋院1982)を次回に引用します。

今日の囲碁界で最高のタイトルは棋聖、次いで名人、本因坊の順です。しかし、当時は本因坊戦がただ一つの大棋戦でした。

本因坊は江戸時代初期に始まる碁家(ごか)の名で、最強の弟子に世襲されて21世本因坊秀哉(しゅうさい 1874−1940)まで続いた家元の名称です。名人のいない時代は少なからずあっても、本因坊の不在が続いたことはありません。

朝日の名人戦(順位戦)案に魅力はあっても、毎年変わるかもしれない棋戦優勝者が本因坊よりいっそう権威ある「名人」の称号を名乗ることに、少なからぬ棋士が反対を表明しました。

最も強硬な反対論者は木谷實九段(当時八段 1909−1975)でした。
「名人は作るものでなく、出来るものである。という信念によるらしい」と中山典之が書いています。(『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店2003)

朝日は名人戦を断念。かわりに、大手合のスポンサーを続けながら大手合の最上位にリーグ戦を設け、最高位戦という棋戦を作りました。昭和30(1955)年春に始まった第1期最高位戦は坂田栄男九段(リーグ戦途中で昇段 1920−)が優勝。前年、病に倒れた木谷八段は第1期最高位戦を欠場しています。

31年に再起した木谷は第2期最高位戦リーグで7勝1敗(リーグ途中で九段に昇段)。挑戦手合は3勝1敗で坂田最高位を破り、「大豪木谷の復活」とマスコミが報じました。

最高位のタイトルを獲得した木谷九段は、碁が終わって人が去ったあと、突然、調子外れな声で、「ここに幸あり、青い空ァ」 と流行歌の一節をうなった。挑戦手合の記録係を務めた中山典之がそう書いています(〃)。

翌年の第3期最高位戦で、木谷は挑戦者の島村利博八段を退けて防衛。

読売の十番碁で無敵の呉清源(1914−)。朝日の最高位を連覇の木谷實。毎日の本因坊を九連覇(昭和27〜35年)した高川秀格。半世紀前(1957)の覇者は呉・木谷・高川でした。

年初から続いたテーマ「呉・木谷・高川の時代」が思いのほか長くなってしまいました。今回で一区切りとし、次回からテーマを名人戦に絞って、もう少し話を続けます。

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